牛込柳町鉛中毒事件
1970年に、東京都新宿区の牛込柳町交差点付近に住む住民の血中から、高濃度の鉛が検出されたことで、自動車排気ガス汚染の深刻化が指摘された事件。
柳町鉛害事件とも称される。
その後の調査によると、当初報道された水準の汚染は確認されなかったが、日本における有鉛ガソリンに対する規制強化のきっかけとなった事件である。
報道を受け、警視庁は交差点の交通量軽減を図るため、大型車の交通規制と、交差点に滞留する自動車を減らすための信号の増設を行った。
前後に増設する信号を、本交差点の信号と連動させ、交差点より手前に停止させることで、交差点への長時間の滞留を防ぐ措置であった。
これは「ノンストップ作戦」「柳町方式」と呼ばれ、同じく汚染の激しかった都内9か所の交差点でも導入が検討された。
1970年6月5日には、ハイオクガソリンに対する加鉛量の半減が、通産省より通達された。
それによると、アンチノック剤として1ガロンあたり2.2ccまで認められていた加鉛を、7月1日までに1.1ccに減じ、レギュラーガソリンについても加鉛量を減らしていくこととされた。
また、5年をめどに完全な無鉛化を実施することが決定された。
その後、ガソリンに添加される鉛の無鉛化は段階的に進められ、1975年にはレギュラーガソリンの、1983年にはハイオクガソリンの無鉛化を達成した。
これは世界において最も早い達成となったが、牛込柳町鉛中毒事件が交通公害として大きく報道されたことは、無鉛化が推進された要因のひとつである。
普通の女の子
1978年、「普通の女の子に戻りたい!」と言って解散したキャンディーズを見て、山口百恵いわく
「私たちが普通の女の子に戻るなんて、それはできないことだと思う。」
伊藤蘭は解散後交通事故でひき逃げにあったり、スタッフと青森恐山に旅行したりしたというが、普通の女の子生活だったのかな?
やがて三人とも芸能界に復帰するんですけどね。
山口百恵は1979年10月20日、大阪厚生年金会館でのコンサート中に三浦友和との交際宣言後、翌年、マイクを舞台に置き引退。
三浦友和と結婚後は「普通の主婦」に徹していた。
もっともマスコミはなかなかそうはさせなかったが。
山口百恵というとデビュー時の左ひざのあざ。
それ故にミニスカートがはけなかったというが、ほどなくして消
えてたそうだ。