元句:過去帳に帝の名ある残暑なる
校正後:過去帳に帝の名ある残暑かな
「雲の峰」2024年10月号青葉集掲載。
2024年お盆休み、京都・木津川市は海住山寺へ吟行に出掛ける。帰り道、思い立って我が町京田辺市の観音寺と酬恩庵一休寺へ寄る。私にとっては最も身近な古刹。特にお気に入りが、方丈庭園。このアングルを好んで写真に収める。行くたびに庭ばかり写しているが、たまには方丈の中もじっくり見ようと振り返ると、過去帳が置いてあった。その中に、天皇と思われる戒名を見つける。今まできちんと見ていなかったので、これは全く知らなかった。流石に禅の高僧のお寺ともなれば、それなりの方が眠っているのかと、感心して詠んだ句。
この句は、「雲の峰」掲載時に朝妻力主宰の校正が入った。元句は「なり」の連体形である「なる」で終わっているのに対して、校正後は切れ字である「かな」で終わっている。確かに、「かな」で終われば「残暑」がフォーカスされ、「過去帳に帝の名」は「残暑の中で見つけた光景」であるという事がよくわかる。対して、「なる」で終われば、「過去帳に帝の名」と「残暑」が完全に一つの文脈になってしまい、何故残暑であるべきなのかというのがはっきりしない。言葉を一つ変えるだけで、言いたいことが明確になるといういい例だろう。
あまり言いたくなかったが、最近特定の団体を明確に揶揄する書き込みが、SNSで溢れ返っている。そのどれもが、主語も述語もはっきりと文字として残っている。言いたいことをはっきり言うのは結構だが、それを悲しい目で見ている人がいるという事もお忘れなく。
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