石垣に猫の居座る四温かな

「雲の峰」2025年3月号誌上句会主宰推薦句。

冬、寒い日が3日ほど続くと、次に暖かい日が4日ほど続くと言われている。これを「三寒四温」と呼ぶ。春へと季節が一進一退と誤解されがちだが、そうではない。また「三寒」と「四温」を分けて使う場合もある。この句は和歌山城を訪れた時の一コマ。天守へと続く石垣の中腹に、猫が座ってじっとこちらを見ている。目が合っても逃げるでもなく、ただそこにじっと居座っている。そこで冬日の温かさを噛み締めているようにも見えて詠んだ句。

猫は人間よりも身軽で、高いところに容易に上ることが出来る。なので、石垣の中腹にも軽々登り、そこでじっと日光浴などをする。人はそれほど身軽ではなく、きちんとした道を歩くことしかできない。天守の最上段も絶景だが、猫がいる石垣の中腹から城下を眺めれば、また違った景色が見られるに違いない。山も頂上と中腹では景色が違う。景色が違うと感じることも違う。俳句や詩歌に於いて、そうした視線の違いは、言葉のチョイスも変える。一度あの視点から周囲を見渡し、普段とは違う感覚を持ちたいものだ。

 

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋~

 

俳句を始めませんか?

俳句結社「雲の峰」

 

ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!

微風には微動で応ふ冬芒

「方円」2023年2月号円象集掲載。

芒は秋の季語。しかし「冬芒」「枯れ芒」「枯尾花」と、「冬」や「枯」を付けることにより、冬の枯れた芒を表し、冬の季語となる。花穂を付けたばかりの秋の花芒も絵になるが、この時期の裏寂れた感じの芒も、また趣がある。冬の良く晴れた日、道端に芒が生えている。寒風が吹けば勢いよく、人が通って微風を起こせば微風に従いゆっくりと揺れる。風の強さによって反応を変える芒。自然に抗わずにそこにいる姿に感銘を覚えて詠んだ句。

ほかの植物も、強風が吹けば強く揺れ、微風が吹けばゆっくり揺れる。至極当然の事。何故芒にだけ目が向いたのか。そこに群れになって生えていたという事もあるが、やはりその背の高さかもしれない。セイタカアワダチソウも背が高いが、芒は秋の七草に挙げられるなど、昔から日本人に親しまれてきた。なので、数ある冬の植物の中でも、日本人は芒に目を向けがちなのかもしれない。それはつまり「印象」の世界。人間でも、目立つ行動や言動を行った人は、それだけ注目される。そしてその人の一挙手一投足が注目される。慎重な行動を取ろうとしても、イメージが先行して、「この人ならこんなことを考えるだろう」「こんな風に動くだろう」と、実際に行っていないことまで想像されてしまう。とりわけ注目されているわけではない人も、どんなタイミングでそうなるかわからない。それを考えて、慎重に行動せねばならないと、最近特に思う。

(絵はAIによる創作です)

 

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋~

 

俳句を始めませんか?

俳句結社「雲の峰」

 

ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!

木枯しや親の見守る通学路

 

「方円」2006年2月号雑詠掲載。

本格的な冬の到来。近所の小学校では、そんな寒い中でも集団登校が行われている。かつては児童だけで集まって、児童だけで学校へ向かっていたが、最近悲しい事件が多く発生している事から、集合場所には親御さんが見守るようになった。元気に学校へ行く子どもの姿を、親御さんは木枯らしが吹く寒さの中、じっと見守っている。心の中で、「どうかご無事で」と願っている事だろう。そんな朝のひと時を詠んだ句。

この句は30代後半に詠んだ句。中七の「親の見守る」という表現はあまり感心できないが、見たままを素直に詠んではいる。この頃はまだ両親は健在だったが、ひとりになった今、この句の情景が身に沁みる。5年も独り暮らしをしていれば、さすがに慣れてくる。しかし、帰宅しても家に明かりがついていない光景を見るたび、時々寂しくなる。また、自分はこれからどうなるのだろうという不安も頭をよぎる。だからこそ、月1回の月例句会にも顔を出すし、週1回の吹奏楽団の練習にも顔を出す。それは本能的に、仲間を欲しているという事。こうした人との繋がりを大切に生きていきたい。

(絵はAIによる創作です)

 

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋~

 

俳句を始めませんか?

俳句結社「雲の峰」

 

ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!

今咲きし山茶花風に攻めらるる

春耕かきもり句会2024年12月出句作品。

いつも歩くJRの線路際の散歩道に、街路樹が植えられている。夏は夾竹桃。冬は枇杷の花と山茶花が楽しめる。寒くなり、そろそろ山茶花の咲くころ。朝この道を通ると、赤い花が沢山咲いていた。その一方で、風に吹かれてすでに散っている花びらが、根元に落ちていた。山茶花の花は一木に一斉に咲くイメージがあるが、少しずつタイミングをずらして咲いているのかもしれない。鮮やかに咲く花の傍らで、すでに散っている花。生命の営みの慌ただしさを感じて詠んだ句。

今年もこの道に山茶花が咲き始めた。そして早くも散り始めた。気が付けばもうすぐ12月。年々季節の移ろいが早く感じるのは、年齢を重ねたせいか。そして、あっという間に年の瀬を迎え、「あれもしておけばよかった」「これもしておけばよかった」と後悔するというのが、例年の流れになってきた。今年に限って言えば、自分としては思い切った決断を続けたのではないかと思っている。かの本田宗一郎は、「チャレンジして失敗を恐れるよりも、何もしないことを恐れろ」という名言を遺した。今年ほど、その言葉が身に染みたことはない。まだ人生は長いので、後悔しない行動を続けていければ、この先明るいと信じている。

 

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋~

 

俳句を始めませんか?

俳句結社「雲の峰」

 

ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!

惜しむものなし真直ぐに葉の落ちる

「方円」2007年1月号 新春精鋭八人集特別作品「眺望」10句のうちの1句。
「紅葉」は秋の季語だが、「木の葉」そのものは「落葉」「枯葉」と同じく冬の季語とされている。亡くなった句友が「今紅を差せしばかりの葉を落とす」という句を詠んだが、「葉」を「落とす」事によって冬の季語とする使い方もある。木の葉は様々な落ち方をする。風に揺られ、ふわふわ舞いながらゆっくり地面に着くもの。自分の重さに耐えられず、すとんと落ちるもの。様々だ。前者は何となく別れを惜しみながら落ちているような雰囲気なのに対して、後者は実にあっさりと、すっと落ちる。そんな別れ際もある。そんな様子に、「やり切った感」を感じて詠んだ句。

人には様々な主義主張がある。木の葉の落ち方ひとつ取ってみても、「ひらひら落ちた方が風情がある。すっと落ちるのは味気ない。」という考え方もあれば、「すっと落ちるのも潔くていい。それはそれで絵になる。」という説もある。はたまた「落ち葉は単なるごみ」と切り捨ててしまう意見も当然ある。誰が正しいか誤っているか、それはわからない。いずれも一理あるからだ。かつて家電量販店に勤務していた時、ある商品をお勧めする際、頭ごなしにお客様の求めているものを否定してはいけない。「これいいですよね。こちらはもっとこんなことが出来ますよ」というアプローチもあると教えて貰った。大事なのは、巷に散らばっている様々な声の全てを拾い上げ、良い点悪い点を全て知った上で、自ら取捨選択することだ。

(絵はAIによる創作です)

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋~

 

俳句を始めませんか?

俳句結社「雲の峰」

 

ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!