秋高し旧監獄の煉瓦塀

「雲の峰」2023年11月号青葉集掲載。

今日は秋分の日という事で、いかにも秋という季語を使った句を取り上げる。2018年7月に行われたJRハイキング「奈良朝の天皇の御陵を巡る」に、亡父が参加した。そのコースを2023年9月に辿ってみる。コースはJR平城山駅→元正天皇陵→元明天皇陵→奈良少年刑務所→聖武天皇陵→光明皇后陵→奈良女子大→JR奈良駅。途中般若寺に寄り、コスモスを愛でた際は、いかにも「秋高し」という空模様だったが、奈良少年刑務所に着いたときは生憎の曇り空。この場所は2017年の廃庁まで100年以上、刑務所としての役割を全うし、現在は史跡として威厳ある姿を残している。煉瓦造りの正門と高塀には、秋晴れが良く似合う。残念ながら曇っていたが、美しいフォルムと堂々とした姿に感銘を受けて詠んだ句。

このところ、朝食を済ませ、Eテレのテレビ体操で体を動かし、早朝周辺を30分ほど散歩して、身支度をしてから出勤というルーティーンが出来上がっている。歩いていると、少しずつ季節の移ろいを感じる。昨日は今年初めて彼岸花を見た。稲田も黄金色に染まり始め、暑さも漸く影を潜めた。そんな日常のなんでもない風景を、思いついたまま句にする。飾りっ気のない、素直な句が出来上がる。あまり考えすぎるのは良くないのかもしれない。今年の俳句甲子園の秀句を見ると、高校生とは思えないものもあった。そうした句は、「詠んでやろう」という気負いがなく、実に素直な句。結局、見たまま、感じたままを自分の感性として磨いた方が、肩肘張らない作品が出来るようだ。秋はそんな感性を豊かにする季節。季節の移ろいを敏感に感じ取りたい。

 

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋~

 

俳句を始めませんか?

俳句結社「雲の峰」

 

ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!

糸瓜忌や床より望む庭の景

 

「雲の峰」2023年11月号青葉集掲載。

9月19日は俳人・正岡子規の忌日。絶筆の句「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」から、こう呼ばれている。また子規が「獺祭書屋俳話」で俳句の独立を説いたことから「獺祭忌」とも呼ばれる。「病床六尺」という作品名からわかるように、長く病床にいた。今回紹介する句は、そこまで深刻なものではなく、朝目覚めて、2階の寝室から庭を眺めた。カレンダーを見ると9月19日。ちょうどその日は子規忌だったという、ただそれだけの事なのだが、「糸瓜忌」という季語を使う事によって、日常のなんでもない風景に重みを持たせた句。

2021年9月19日、母死去。今年で5回忌だが、偶然にもその日が糸瓜忌だったと知った。母は短歌を嗜んでおり、詩歌には多少興味があるようだった。単純に日付が一致しただけなのだが、何となく誇らしげに感じてしまう。これも何かの縁かもしれない。子規のように病床で紡ぎだす言葉には到底及ばないが、いつでもどこでも、言葉というものを磨いていかねばと、改めて決意した。

 

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋

 

俳句を始めませんか?

俳句結社「雲の峰」

 

ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!

蜩や朝倉墓所は仄暗く

「雲の峰」2024年11月号課題俳句「蜩」佳作作品。

2024年9月、越前大野を訪れる。メインの目的地は大野城だったが、そこからレンタサイクルを借りて、周辺を走り回った。何の予備知識もなく走っていたら、目についたのが「朝倉義景墓所」の案内標識。1573(天正元)年、近江に侵攻した織田軍に対抗するため出陣した朝倉義景だったが、奇襲を受け撤退。その道中で見方が次々と討ち取られ、壊滅状態となった朝倉軍は、一乗谷へ戻っても戦力なく、大野郡司だった一族の筆頭格、朝倉景鏡に大野郡への撤退を進言され、やむなく大野郡の六坊賢松寺へ逃れる。しかし実は景鏡は織田方に通じており、六坊賢松寺を手勢200で攻撃。義景はここで自刃する。朝倉義景墓所は、義景最期の場所に建てられ、今は朝倉公園として整備されている。大きな木に囲まれ、どことなく仄暗い場所に建っていた。そこで、課題俳句の兼題が「蜩」だったという事。お墓の周りには蜻蛉が飛び、蜩が鳴いている。義景の無念さを、彼らが演出しているように見えて詠んだ句。

私は、出来るだけ句の中に地名や史跡名を出さないようにしている。出してしまうと、詠んだ場所がそこだと限定されて、読み手の想像力を奪ってしまうような気がするから。しかし、どうしても「この場所のこの風景を見た」という事をはっきりさせなければならない場合は、横に添え書きを入れる場合がある。その手法も頻繁に使う訳にもいかず、いつも付けるべきかやめるべきか迷う。この句の場合は、「朝倉墓所」と、若干史跡名をぼかすことによって、読み手の想像力を確保したつもりだった。「わかる人にはどこかわかるだろう」と考えての事だ。そんなに深く考えすぎなくても、そこでそういう景色を見たのなら、素直にそう書けばいいのだろうが、何せ17文字しか使えない世界。今でも表現方法は迷いっぱなしだ。

 

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋~

 

俳句を始めませんか?

俳句結社「雲の峰」

ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!

落ちてなほ純白芙蓉ならんとす

「方円」2022年11月号円象集掲載。

奈良・宇陀市、道の駅うだ周辺のハイキングコースを訪れた際の一コマ。まだまだ残暑厳しい9月。真白な芙蓉の花が咲いていた。芙蓉は朝開いて夕方しぼむ花。咲いている足元には散った芙蓉の花の残骸が落ちていたが、落ちて間もない花は鮮やかな白が残っていた。最後の最後まで、己を誇る姿。その健気さに感動して詠んだ句。

「この人は落ち着いてやれば出来るのに、テンパってしまう」と言われている人がいた。かつて私も言われた言葉。焦って自分を見失い、大きな失敗をして落ち込んでしまう。そして、「自分はできない人間」と思い込んで、さらに落ち込んでしまう。私の場合、それは障害特性によるものだと知ったとき、気持ちが軽くなった。しかし、世の中そんな人ばかりではない。「自分はできるはずなのに」と焦ってしまって、理想の自分と実際の自分が乖離してしまう。それが我慢できなくて、余計に自分を見失うという人が多いだろう。至極単純なことを言わせてもらえるなら、一度深呼吸をして、決して自分を見失わない事。自分に自信を持つこと。これが大切だろう。わかってはいるのだが、なかなかそうは行かないかもしれないが、まずは落ち着くことにしよう。

 

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋~

 

俳句を始めませんか?

俳句結社「雲の峰」

 

ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!

太刀魚に峰打ちを受けさざれ波

「方円」2010年11月号雑詠掲載。

9月9日は長陽の節句。ここから派生して、健康長寿を祝い、食べ物を大切にするという願いを込めて、「食べものを大切にする日」とされている。それにちなんで、今回は海の幸の話。恥ずかしながら、私は太刀魚が泳いでいる姿を見たことがない。それ以前に、切り身でしか見たことがない。そんな中、当時の方円ネット句会の兼題として、この太刀魚が出された。困り果てて、想像するしかなかった。「太刀」魚というぐらいだから、恐らく長くて立派な魚なのだろう。調べてみたら、確かに「太刀」と呼ばれるだけの事はある。姿が太刀ならば、水揚げされる太刀魚は元気いっぱい跳ね回り、釣り人に峰打ちの一つも浴びせるのだろう。ひとしきり落ち着いたら、波も穏やかになる。そんな風に想像を膨らませて詠んだ句。

我が家では、昔よく太刀魚の塩焼きが食卓に出された。淡白で美味しいのだが、私は嫌いだった。理由は、小骨を取るのが面倒だから。たったそれだけの理由で、今でもスーパーで売っていても、積極的に手を伸ばさない。決して食べられないという訳ではなく、ただ積極的に食べないだけ。食べ物を大切にするという事は、粗末にせず、なんでも食べなさいという語りかけに繋がる。ただ面倒というだけで食べないのは、釣られて命を落とした太刀魚たちに対して、失礼極まりない。ぜいたくを言わずに、積極的にその命を頂くとしよう。

(絵はAIによる創作です)

 

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋~

 

俳句を始めませんか?

俳句結社「雲の峰」

 

毎日の食事に感謝を伝えよう!

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう

 
ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!