昼の熱夕べに燃やし夾竹桃

 

「方円」2004年9月号雑詠掲載。

夾竹桃は夏の季語。6月から9月にかけて花を咲かせる。私たちが普段よく見かける花は赤か白。それも夏の暑い盛りに鮮やかに咲く。特に印象的な色は赤。「病人に夾竹桃の赤きこと(虚子)」という例句もあるほど、強烈な印象を見る人に与える。我が家の近所の線路沿いに、紅白2本の夾竹桃がある。すぐ近くにはアスファルトの歩道。夏になるとまさに灼熱の世界になる。そんな中で強烈な赤を見せつける夾竹桃の花。夕方になり、幾分か照り返しが緩んだ頃に、夾竹桃の赤は、薄暗い中でさらに強烈な印象を与える。まさに昼の熱を燃やし続けているように感じて詠んだ句。

この句を詠んだのは20年前。30代前半の句。以前も書いたが、亡母が「夾竹桃は原爆投下直後に広島に真っ先に咲いた。そんなイメージ」と話しており、その印象が植え付けられたばかりの頃。それがこういう句を詠ませたのかもしれない。確かに夾竹桃は悪環境でも立派に咲く。そんなイメージがある。それが、若い私にとっては「力強く生きる花」というイメージに繋がっているのかもしれない。最近の私の句帖で「夾竹桃」を検索してみると、花の色そのものを詠んだ句が多い。昔の強烈な印象は残ってはいるが、それを無理に表現しようとしていないという事だろう。そうしようとしても、使っている単語の節々に、まだそういう一面が残っている。一度ついたイメージは、なかなか拭えない。今後はそれを自分自身に置き換えて、行動を律しなければならない。

 

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋~

 

俳句を始めませんか?

俳句結社「雲の峰」

 

 

人気ブログランキングでフォロー

夏蝶の乗るべき風の未だあらず

 

「方円」2003年9月号雑詠掲載。

夏の代表的な蝶と言えばクロアゲハだろう。大きな羽根をゆっくり広げて、悠然と飛ぶ姿は美しい。しかしこの時見た蝶は飛ばなかった。「風死す」という季語があるが、夏の暑い盛りの凪の状態。あまりの暑さに息苦しくなってくる時がある。そんな時、美しいクロアゲハは、風に乗って飛んでいくという事が出来ないようだ。そんないかにも盛夏という雰囲気を詠んだ句。

現在所属している俳句結社「雲の峰」では、言葉の使い方、文法について、細かくチェックが入る。俳句を20数年やってきたが、未だに言葉の用法について知らない事が多く、大変勉強になる。殊に指摘されるのは「の」の用法だ。例えば今回紹介した句。「夏蝶乗るべき風」ならば、名詞同士の接続(蝶と風)として使われているが、これが正しい用法。後の「風未だあらず」は名詞と助動詞(風とない)なので、避けるべき用法という事になる。古語にこういう用法があったような気がするし、例句にも多用されているが、本来は違うのだという。なので、最近はこの「の」については慎重に使うようにしている。そう考えると、今回の句は「夏蝶の乗るべき風はあらはれず」とするべきか。日々良い表現を勉強せねばならない。

 

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋~

 

俳句を始めませんか?

俳句結社「雲の峰」

 

 

人気ブログランキングでフォロー

暮れてなほ薄紅解かぬ百日紅

 

「雲の峰」2023年9月号青葉集掲載。

百日紅は夏の季語。7月から9月に開花する。一般的によく知られているのは薄紅の花。花期が長いのでこの字があてられたとされている。この句を詠んだ当時、左腕の上腕部が荒れてかぶれていて、夏でも長袖の作業服を着ていた。職場の近くに病院があり、皮膚科もあると聞いて、仕事帰りに寄ってみた。残念ながらその日は皮膚科の先生がいなかったので、すごすごと帰った。病院の周りには立派な家が並び、庭には軒並み百日紅が咲いていた。それも揃って薄紅の百日紅。徐々に日が暮れだしたが、百日紅は薄紅のまま。当たり前の話なのだが、それが妙に印象に残って詠んだ句。

同じ夏の赤い花として挙げられるのが夾竹桃。濃い赤の花を咲かせて、大変目立つ。一方の百日紅の赤はあくまで薄紅。どちらも好きな花。好きな季題だ。夾竹桃の「どうだ」と言わんばかりの赤。百日紅の控えめな、しかし決然とした赤。これはこれで絵になる。今年も夾竹桃の濃い赤、百日紅の薄紅の競演が、我が家の近所で始まっている。それぞれの特色をしっかりと文字に残すような句を作りたいものだ。

 

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋~

 

俳句を始めませんか?

俳句結社「雲の峰」

 

 

人気ブログランキングでフォロー

端居して庭師の重き腰眺む

 

「雲の峰」2023年9月号青葉集掲載。

「端居」は夏の季語。室内の暑さを避けるため、縁先や風通しの良い端近に座って涼をとることを指す。この句は大原三千院を訪れた際の一コマ。御殿門をくぐってすぐ客殿。そこに広がる庭園が池泉鑑賞式の聚碧園。緑に囲まれていて、まことに涼しげな景色が広がる。暫しその場に座って庭園を眺める。灯篭付近で、庭師さんが黙々と落葉や枯れ枝などを拾っている。立ったりしゃがんだり動いたり、見た目以上に重労働。それを私たちはただ眺めるだけ。しかし心の中では、この庭園を綺麗に保ってくれてありがとう。そんな思いをみんな持っているはずだ。そう信じて、彼らの仕事ぶりを眺めながら詠んだ句。

信念をもって仕事をしている人は強い。庭師の方々は、お客さんに楽しんでもらうため、そして長い伝統をもつこの設備を入念に整備し、後世に伝えたいという思いもあるだろう。その思いが重い腰を動かし続ける。対する私はどうだろう。いち歯車として、何も考えることなく日々暮らしてはいないか。そう考えると、なんだか恥ずかしくなってきた。どんな仕事も、他人に役立つ面があるはず。それを今まで、あまり意識したことがなかったのではないか。月並みな表現だが、まずは自分の仕事に誇りを持って臨まねば、精神が崩れてしまう。頑張らねば。

 

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋~

 

俳句を始めませんか?

俳句結社「雲の峰」

 

 

人気ブログランキングでフォロー

蟻の道護摩焼く灰に遮られ

 

「方円」2012年9月号清象集掲載。

蟻は夏の季語。行列を為して進む事を「蟻の列」「蟻の道」と言い、歳時記でも蟻の傍題として挙げられている。蟻の道を作るのは働き蟻。生殖腺の退化した雌で、女王蟻に餌を運ぶための労働を受け持つ。そんな蟻の道の先に、先程火が消えたばかりの灰。人間が願いを叶えるために焚いた護摩の火。行く手を遮られた蟻たちは、それでも目的地に向かって列を為す。女王蟻を中心とした蟻のコロニー全体の繁栄のため、何があっても列を為す健気さを感じて詠んだ句。

人はよく言い訳をする。今、この7月に新たに配属された人と一緒に、OJTという形で仕事をやっている。しかし、8月に社内で大きな改装工事があり、その準備に取り掛からなくてはならない。普通なら綿密に段取りを組んで、OJTと並行しながら準備の時間も作るものだが、私は段取りが苦手。そんな時に「教えていたから出来ませんでした」という言い訳は最もしてはいけないもの。理解しつつ、頭の中でその台詞が浮かんでしまう。さらに、突発的な仕事が入ったら、それだけでパニックになってしまう。そんな自分がつくづく情けなくなる。最近はそういう流れだ。しかし、何があろうと黙々と進まなければならない。蟻のように、それが生活に直結しているなら尚の事だ。まずは、至極当たり前の事が、至極当たり前に出来るようにせねばならない。

 

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋~

 

俳句を始めませんか?

俳句結社「雲の峰」

 

人気ブログランキングでフォロー