マレーナ
『マレーナ』 (‘00/イタリア・アメリカ)
監督: ジュゼッペ・トルナトーレ
イタリア映画といって、誰もが真っ先に名前を挙げるのが名作『ニュー・シネマ・パラダイス』だろう。
その監督ジュゼッペ・トルナトーレがモニカ・ベルッチを主演に撮ったのがこの『マレーナ』だ。
『ニュー・シネマ・パラダイス』は彼が抱いている、映画というすばらしい文化を愛する強い想いが切なくも
温かく綴られた感動作だった。
この『マレーナ』も彼らしく、美しい風景を舞台にしたストーリーではあるが、過去の彼の作品とは多少嗜好が違う作品になっている。
舞台は1940年、第二次世界大戦下のイタリア、シチリア島。
夫が戦地に出兵しているため一人で家を守り暮らす町一番の美しい女性マレーナ。
彼は町中の男たちの好奇の的であり、また、女たちの嫉妬の対象でもあった。
12歳の少年レナートは、一目マレーナを見て憧れにも似た恋心を持つようになり、抑えきれない彼女への
想いを抱き、マレーナを追い求める日々を送っていくようになる。
男性であれば、一度はこういう想いを持ったことは多いはず。
ちょうど少年から青年になる時期、体も少しずつ大人になり始めて、隣の家の大人びたお姉さんが
急に魅力的に見えたり、いつも一緒に遊んでいた女の子を急に意識し始める思春期のころ。
青臭い性の目覚めの時期は、もうそうなると頭の中はいろんな妄想で溢れそうになったりするもの。
単純に言うと、頭の中はもう女性の体のことでいっぱいなわけだ。
男性としては今となっては遠い昔の、そんな懐かしくも恥ずかしいあの頃の淡い少年時代を思い出すような感じにもなる。
このレナート、いつも考えることはマレーナのことばかり。
男性であれば、自身を振り返れば誰しも必ず一度は妄想するような、頭の中でマレーナが自分の
思い通りに好き放題して、寝てもさめても彼女のことばかりな万華鏡絵巻でいっぱい。
劇中に幾度となく登場する彼の妄想シーンは、もうまんま青臭い中学生そのものとといった感じで描かれる。
いつも彼女を追いかけ、壁をよじ登って家の窓から彼女を覗き見したりしてるけど、町ですれ違っても
話しかけることすらできないレナート。いつしかそんな性的なだけの憧れは、愛する女性を守りたいといった少年の想いから大人の男性の持つ愛にも似た気持ちに変わっていく。
それは、半ズボンとおさらばして長ズボンに始めて足を通す時のあのなんともいえない感覚だろう。
だけど決して顔を合わせ挨拶することはできない。だってあまりにも自分がまだ子供だから。
ただ、遠くから美しい彼女を見守ることしかできないんだ。
この映画は少年が誰しも持つような、単なる思春期特有の女性への妄想だけを描いている作品ではない。
彼がマレーナを通して成長していくことと並行して、時代の波に翻弄された一人の女性の過酷さも描かれている。
多くのセリフを語らないマレーナを画面から追うだけでは彼女の感情の奥まではみえてこない。
ただ、いつも彼女を見守っているレナートの視点を通して、マレーナが今おかれている状況の変化を観客も
一緒に目にしているようになる。
夫が戦死したという知らせを受けたマレーナは一気に転落し、だが女性の武器を使い必死に生きていこうとする。
こうすることでしか生きていけない時代、彼女の心の奥底にある悲しさを垣間見るのはやはりレナートの視点だ。
町の男たちがマレーナの体をむさぼる内、町の女性にとっては男たちを手玉に取った淫売女として、
スケープゴートのごとく憎むべき対象となっていくマレーナ。
町の皆が見守る中で女性たちから殴り蹴られ、服を脱がされツバを吐きかけられる集団リンチは壮絶だった。
女性の嫉妬心がなせる行為なんだろうか。烏合の衆で微妙な均衡を保っている町の女性たち。
誰もが近所の噂話をし合って、仲間から外れることを極端に恐れる表面的な友好関係を築く。
その中では、出る杭はやはり打たれるのだろうし、その美貌ゆえ町の男性の注目を一手に集め、女性たちとコミュニケーションもとらずに、「私はあなたたちと違って特別なのよ」とも感じさせるマレーナはやはり女性たちにとってはおもしろくない。気に入らない、忌むべき対象でしかなくなるのだろう。
後半に描かれるこの壮絶なリンチシーンは、そんな女性の嫉妬心の持つ醜さを感じさせる恐ろしいものだった。
だけど、男たちはハイエナのごとくにマレーナの体を求めているわけなので、醜さでいえば男女ともに町の人間たちみながそういう描かれ方かもしれないが。
どんなに辛い状況を描いても、ラストはとても感動的に仕上げるのはこの監督の手腕だろうか。
ラストに初めて出会うレナートとマレーナ。今までずっと想ってきた彼女と交わすのはたった一言だけ。
男性の視点から見ればレナートに感情移入しているところもあり、映画冒頭よりも少し大人びた彼を見ると、
少年時代とともに淡い恋との決別をし、大人になっていくことで置いていかなくてはいけない
純粋な何かを思い出させてくれるようなとても切なくも感動的なシーンだった。
トルナトーレ監督の中ではほかの作品とは毛色の違う映画ではあるので、
『ニュー・シネマ・パラダイス』のようなものを期待すると見る人によっては評価が落ちるかもしれない。
男性であれば、遠い昔の「あの頃」をきっと思い出すだろうし、そして女性であれば、レナートの行動そのも
のに共感はできなくても、あの時代を一人で生きていくことを余儀なくされた女性の立場の辛さや悲しさを感じることができるかもしれない。主役はマレーナでありレナートでもあるこの映画は、そういう意味で男性と女性それぞれの視点で感じ方は違うだろう。
しかしマレーナを演じたモニカ・ベルッチの美しさもさることながら、やっぱりトルナトーレが描く画とエンニオ・モリコーネが奏でる音は、いつもすばらしく美しい。
スターシップ・トゥルーパーズ
『スターシップ・トゥルーパーズ』 (‘97/アメリカ)
監督: ポール・ヴァーホーヴェン
ポール・ヴァーホーベンの映画はどれも徹底したバイオレンス描写が見所のひとつだ。
あの『ロボコップ』の有名なマーフィーがショットガンで蜂の巣にされる処刑シーンも凄まじかったし、
『氷の微笑』ではシャロン・ストーンの性描写に注目が集まったが、アイスピックで滅多刺しにする
あのシーンもかなり彼らしくリアルで残酷なものだった。
そんなポール・ヴァーホーヴェンの集大成とも言える作品がこの傑作『スターシップ・トゥルーパーズ』だ。
原作はSF作家ロバート・A・ハインラインが1959年に書き上げた『宇宙の戦士』。
だけど、この映画は別物としてみたほうがいいだろう。
アカデミーなんかの賞レースにはおそらく今後も顔を出すはずもないだろう。
とにかくヴァーホーヴェンはお世辞にも巨匠とは呼べない、何を作ってもどういうわけかB級臭がプンプンする監督。
作品自体はどの作品も一定のクオリティを保ってるし、撮ればそこそこヒットはする監督なんだが、
いわゆるハリウッドの一線で活躍するような表舞台に立つことは決してない、悪趣味な嗜好性を感じるしいい意味でバカさ加減が溢れている。
そのいい例が、1995年のラジー賞を総なめにした『ショーガール』。
ヴァーホーヴェン自ら授賞式に登場する一幕があったそう。本人がラジー賞にでてくるなんて
前代未聞なわけで、大喝采の中余裕の笑みを浮かべたこのオヤジ。ただもんじゃない。
軍に入隊すれば市民権が得られる近未来。
ジョニー・リコは両親の反対を押し切って軍隊に入る事を決意する。
その頃、地球は巨大な昆虫型生物(バグズ)の襲撃を受けていた。
機動歩兵隊に配属され、過酷な訓練を経て戦争に参加する彼がそこで見た物はバグズの圧倒的戦力の前に次々と壊滅していく地球軍の悲惨な姿だった。
簡単にいってしまえば、『ビバリーヒルズ高校白書』のようなくだらない青春ストーリーを散りばめた、
宇宙を舞台にした一大昆虫駆除ムービー。『虫退治高校白書in宇宙』って感じ。
キャストはテレビドラマのようなまったく派手さもスター性もない連中ばかり。
実際、『天才少年ドギー・ハウザー』で主役を演じてたニール・パトリック・ハリスなんて
レアな役者も出てたしな。唯一パッとするのはデニス・リチャーズくらいのものだ。
なにしろ相手は巨大な虫なんで、とにかく殺せ!といわんばかりの戦争が繰り広げられる。
そこには微塵も良心の呵責のようなものは生まれないので遠慮はいらない。
よくある過去の戦争映画のように対人間ではない戦争を描いているので、その描写にもブレーキがかからず、
これでもかと徹底したバイオレンス描写のオンパレードだ。首は飛ぶは、手足はもぎ取られるわ、
内臓は引き裂かれるわで、爽快な気分さえ与えてくれる気持ちのいい殺されっぷりは
ヴァーホーヴェンの描きたかった過激なグロ描写がこれでもかと描かれる。
もうそれは、有名な『プライベート・ライアン』冒頭のノルマンディ上陸の壮絶なシーンがてんこ盛りといった感じ。
戦争映画というのは、往々にして「反戦」というのがひとつのテーマになるものだ。
戦争によって疲弊する人間の心理を描き、愚かな結末を批判するものが多い。
ベトナム戦争の映画が大量生産されていた頃には描き方こそ違えど、根底のテーマはいつもそういったものだった。
この映画もテーマは反戦ともとれるだろうし、監督自体もそのことを多少なりとも意図しているのかもしれないが、
個人的にはまったくそのテーマを見出せない。というより、それを見出す意味がない。
ただ単に、残酷な殺し合いを作りたかった、そのためには人間同士だと、どうしても小難しいテーマという
大義名分が必要になるけど、相手が虫なんで徹底的にやっちゃっても別にいいだろ、位のスタンスなんだと感じる。
近未来が舞台で宇宙で繰り広げられる戦争というと、『スターウォーズ』的なものも想像できるけど、
戦闘スタイルはすごく地味。レーザー砲のようなSFチックなものは訓練シーンでは多少でてくるが、実戦
では普通に歩兵部隊が、マシンガンかなんかで巨大なバグズに応戦してる。
映像自体も、バグズとの死闘はそれこそかなり本気で作っているが、そうでないとこはかなり手抜きしてる。
要は、メインはバグズとの戦争であって、それ以外の学校やら宇宙船内やらのシーンには
金をかけたってしょうがないじゃん、という監督の気負いが感じられる。
しかし金をかけたとこと手抜きしたとこがこれほど目で見てわかるSF映画も珍しい(ほめ言葉だが)。
虫相手の戦争で、人間が虫けらのように次々と死んでいく様は、だんだん見てる観客も死への
感覚が麻痺してくるほど。仕舞いには戦争に志願する若者がいなくなって、子供たちまで
軍隊に入隊してくるのは確かに戦争に対する皮肉ともとれるブラックジョークだ。
戦争がいかにバカバカしいかを描いている点など、難しく考えればおそらくいくらでもテーマ性は見出せると思うが、この映画でそれを考えるのはもったいない。
頭をからっぽにして、単純にこの残酷描写が満載な虫退治を楽しんだほうが何倍も面白いだろう。
もともとそんなお祭り映画だし、テーマなんてものは後付でいくらでもこじつけることが出来るからな。
悪趣味な監督は色々いるが、ただの変態のパゾリーニというよりもセンスのあるバカということでジョン・ウォーターズ作品に近い感覚の作品。
ただ、スプラッター映画並に血と肉片が画面中に所狭しと飛び散るので、その手の描写が苦手な人は気分を害するだろうが。
クラッシュ
『クラッシュ』 (‘04/アメリカ)
監督: ポール・ハギス
傑作『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本を手がけたポール・ハギスが脚本に加えて、自ら初めてメガホンを取った作品。
こう聞くだけで多くの映画ファンは期待をしてしまうけど、それに応えるだけの秀作に仕上がっている。
2004年度のアカデミー賞で多くの受賞を獲得した『ミリオンダラーベイビー』に引き続き、
2005年度に作品賞、脚本賞、編集賞を受賞した作品が『クラッシュ』だ。
この『クラッシュ』はクリスマスを間近に控えたロサンゼルスを舞台に、ある車同士の衝突(クラッシュ)事故を
モチーフにLAに生きるさまざまな人種間の人間模様を厳しくも暖かく描いた群像劇だ。
とはいっても事故自体が重要な意味を持っているわけではなく、人間同士のぶつかり合い(クラッシュ)の喩えとしていて、事故は深みのあるストーリーの象徴として視覚的に表現されたものである。
観る前の印象とはかなり違った感想を持った。ただただ人種間の争いを取り上げ、未だ繰り返される命題を
改めて突きつけるようなただ重いだけの映画ではない。
日本人にはやはりなじみは薄い人種差別という問題を取り上げてはいるが、それを今更取り上げてまた一から
なんやかんやと問題提起をしている、というものではなく、あくまでも存在する人種差別というものを内包して、
それを踏まえたうえでの人間同士のぶつかり合い(クラッシュ)によって生まれる人間の感情-怒りや憎しみ、愛情-を描いたものだ。
「町に出れば、誰かと体がぶつかったりする。でも心がぶつかることはない。みんな心を隠しているから。」
劇中語られるこの言葉がまさにポール・ハギスが言わんとしているこの作品のテーマだと思う。
心を隠させているのはこの映画の中では人種の違い、ということだろうか。
実はそれってすごくうすっぺらいもので、その箍が外れればみんな一緒の人間なんだ。
人を憎んだり傷つけたりするのは簡単だ。でも、相手と互いに気持ちごとぶつかって理解しあうこと、そして人を愛することは簡単なことじゃない。
ましてや人種という大きな壁がある場合はなおさら。でも、いくらでもチャンスは転がってるし心の奥底では
みんな心が分かりあえることを望んでいるんだ。
そんな世界で生きている、憎しみも愛もすべてを内包した世界で。そこに生まれる物語は、
時には御伽噺のようなものでもあるし、相変わらず繰り返される厳しい世情を浮き彫りにするものかもしれない。
「透明なマント」のようなとても心温まるエピソードもあれば、それでもやはり拭い去ることが出来ない偏見と
いうものの厳しい現実も描かれる。
ただ、そんな厳しさの中にだって、少し踏み込めば実は救いはあるし、ぶつかり合うことで得るものは失うものより遥かに大きい、そんなことを感じさせてくれた。
観終わった後もう一度ゆっくり見直したくなるような、人間の卑しさと誰もが持ってる優しさを人種が交差する
アメリカ独特の視点で描いた、ポール・ハギスの今後にさらに期待が高まる作品となっていた。
トーク・トゥ・ハー
『トーク・トゥ・ハー』 (‘02/スペイン)
監督: ペドロ・アルモドバル
いろいろと賛否が分かれる作品だと思う。
ハリウッド映画によくあるような生ぬるいラブストーリーではなく、ある意味タブーな愛の形を描いた作品。
男性と女性で見方がとても変わってくると思うけど、男のぼくが見る限りこの映画は男性の視点から描かれた
極端に倒錯したラブストーリーに感じられた。
交通事故により4年間一度も意識が戻らないまま昏睡状態が続いているアリシア。
そんな彼女を看護師のベニグノは4年の間献身的に介護している。
また、女闘牛士のリディアも競技中の事故で昏睡状態になり、同じクリニックに入院してくる。
彼女の恋人マルコは見舞いには行くものの、いつ覚めるかもわからない彼女を見て悲嘆にくれている日々。
そんななか、ベニグノとマルコは顔をあわせるうち互いに友情を深めていくようになっていく。
母親以外の女性とまともに接したことがなく、何年間もずっと母親の看病をし続けたベニグノ。
そして、話しかけても決して反応のないアリシアを4年もの間、毎日体を隅々まで拭いてあげ、
時には生理の処理までし看病し続ける彼は、彼女に対して抱いていた愛情をどんどん膨らませていくようになる。
とても厭らしいことだけど、男からすると前半のベニグノの彼女を看病する -美しい彼女の体中を愛撫
するかのようにケアしている- シーンは、男性としてやはり性的に見てしまう部分はある。
一線を越えるかどうかは、実はものすごく紙一重だろう。ただそれを行動に移すかどうかは個々が持ってるモラルによるのかもしれない。人としてタブーとされていること、その一線を越えさせない個々のモラルは、
恋愛において言うなら、今までの周りとの関わりや実経験によってそれが身に付き形成されていくものだと思う。
ただベニグノは10年以上母親の看病のみをしており、外部との接点もなければ恋愛の経験もない。
自分がなにもかも世話をする。きれいだった母親をずっと保たせているのは自分、自分なしでは母親は
生きられない、といったような独占的で一方的な形こそがベニグノにとっての愛し方なんだ。
その愛し方を母親以外の初めての女性であるアリシアにももちろんしていく。
だってこれが彼にとってはいたってノーマルな愛の方法だから。
人間ではあるが、決して反応のない彼女を偶像化し一方的にアリシアを愛する彼を見ているうち、
江戸川乱歩の「人でなしの恋」にも通じるような物体を愛しているような感覚さえ覚えてしまった。
ただ、これが異常かどうかはわからない。まともに女性と話したことのない男にとって、
恋愛の形はどんどん妄想化されて行くものかもしれないし、文字通り一途な愛なのかもしれない。
ベニグノ対して、マルコはいわゆるノーマルな恋愛をしてきた人。
といっても、ノーマルではあるけれど一途になり過ぎで、過去の恋愛からずっと抜け出せなず
苦しみ続けているとても繊細な男だ。
この二人は愛し方こそ対照的に違うけど、愛に一途という点では共通するのだろう。
人を愛することは本当にすばらしいことだ。ただ、目には見えないある一歩を踏み越えてしまう愛は、
一方的で自分勝手な愛になってしまうかもしれない。
そもそも「愛」とはそれぞれがお互いを意識するもので成り立つものではないか。
マルコはその点ノーマルで、アリシアと結婚したいと言うベニグノに対して
「彼女は愛を受け入れることすら出来ないじゃないか」と非難する。
そういう意味ではマルコは「こちら側」の人間で、愛とは双方認め合うものだと信じている。
だからマルコは、昏睡に陥ったリディアに指一本触れることも話しかけることもできないんだ。
とにかく、人が人を愛するという行為はとても狂気と裏腹なものだ。
好きでしょうがなくて殺しちゃう人だっているし、中には体の一部を食べてしまった人までいる。
こういう衝動は、愛する人とひとつになりたい、常に自分の傍にいたいという独占欲がエスカレートしてしまった故の行動なんだろうか。
劇中に挿入されるサイレント映画の結末。ベニグノがしてしまった行為を後押ししたというその映画は、
薬を飲んでどんどん小さくなっていく男がやがて愛する彼女の「中」に入り一つになるというものだ。
ベニグノがアリシアにしてしまった行為は、人として絶対に超えてはいけない一線すら越えてしまったもの。
どうあがいても報われない愛を意味のあるものにするためにとった彼のその行為は、
あまりにも相手を尊重しない一方的で無責任な行為ではあるが、ともすれば
二人が愛した証を形に残したいと考え子供を作る、普通の愛情と変わらないのかもしれない。
ただ、なんでも「愛」の一言で片付けてしまうのは簡単だけど、愛するが故の彼のとった行為に対しては
一ミリも共感はできない。気持ちはわかるが、あまりにも相手に対する思いやりがなさすぎる。
マルコのいうとおりお互いが認め合い敬ってこそ、そこに愛が生まれるんだろうと思う。
結果的にアリシアに奇跡を起こしたベニグノの愛だが、それを彼女が知る由もないのがなんとも皮肉だ。
この映画を観て、ジャン=ジャック・ベネックスの『ベティ・ブルー』という映画を思い出した。
過激なSEXシーンが話題になった作品だが、気が狂うほど人を愛してしまった女の悲しい結末を描いた作品だった。
愛は時として狂気にもなるし殺意にもなるんだろうか。きっと答えなんてどこにもないんだろう。
人間にとって永遠のテーマである「愛」を語る映画が星の数ほどあるのが、その象徴なのかもしれない。
女性が観るととても不愉快に感じられる映画かもしれないがどうだろうか。
リアリズムの宿
『リアリズムの宿』 (‘03/日本)
監督: 山下敦弘
邦画のなかでは、特に心底惚れてる作品のひとつ。
『どんてん生活』と『ばかのハコ船』はココロから笑える愛すべき秀作だった。
ストーリーはきわめて地味、役者も舞台も地味。でも、すごくあったかくてほのぼのとしてて
爆笑するというよりも、終始吹き出してしまうようなそんな映画を包むまったりとしたムードがたまらなかった。
その監督、山下敦弘の真骨頂ともいえる作品がこの『リアリズムの宿』。
つげ義春の原作「リアリズムの宿」と「会津の釣り宿」を微妙な語り口で現代風にアレンジした作品だ。
音楽は、『ジョゼと虎と魚たち』でもすばらしい曲を提供したくるりが、これまたこの映画にぴったりの
楽曲を提供している。
駆け出しの映画監督・木下俊弘と脚本家・坪井小助は顔見知りではあるが、友人と呼べるほどの仲ではない。
共通の知人である俳優・船木テツヲに誘われ、東京から旅に出たが、当日船木は寝坊し、
来られなくなったため、とりあえずと仕方なくふたりは宿を探しに鳥取のひなびた温泉街に向かうことになる。
街中とかでばったり遭遇して一番気まずいのが、ちょっと顔を知ってはいるけどお互い挨拶を交わしたり
二人っきりで話しこむほどの中じゃない人。
声をかけていいのか、それともそっと身を隠して気づかぬ振りをするほうがいいのか、迷うところだ。
この作品でひょんなことから一緒に旅をする羽目になるのが正にそんな二人なわけで、
のっけからひじょうに気まずいスタートのこの絶妙な設定がまず可笑しい。
ロードムービーなわけだけど、特に目的があるわけでもない。しかもまったく見知らぬ鳥取という土地に
たいして面識もない二人、という設定だけでもうすでにオナカいっぱいなわけだ。鳥取、というところがツボですよ。
旅を続ける中で遭遇する微妙な人たちとのやりとりと、だんだん打ち解けあう二人の
アドリブかのようなやりとりがほどよくブレンドされてなんともいえないオフビートな笑いが溢れてくる。
旅の道中で出会う人々もみんな一見普通だけど、普通じゃない曲者ぞろいで二人の旅に笑いを添えてくれる。
また、何しろいいのが配役。山下敦弘作品の常連、山本浩司。
個人的には、日本の役者では今後かなり期待大な人だ。なにがいいかって、まったく花のない反則ともいえる
その顔立ちと非常に頼りない雰囲気、セリフの絶妙な間といいすべてにおいてとぼけた演技が最高なわけだ。
そしてもう一人は、長塚圭史。劇団「阿佐ヶ谷スパイダース」主宰として活躍している彼もまた、
山本浩司に負けず劣らず、頼りがいがありそうだけど実はそうでもない演技を普通に演じてくれる。
気取ったセリフも、心に残るいい言葉も特にはないが、
なんとなく情けない二人のセリフのやりとりはとっても素で、電車などでとなりの会話に耳を傾けるような
そんなスタンスだ。この微妙なやり取りが情けない中にもほのぼのとした笑いを誘ってくれる。
なんとなく幸せな気持ちになるけど、大笑いするほどでもない不思議な感覚にさせてくれる傑作だ。
最近は、また違った作風の『リンダ リンダ リンダ』を撮った山下監督だが、またこの『リアリズムの宿』の
ような淡々としたユーモア溢れる作品も期待したい。もちろん主演は山本浩司で。