ピアニスト
『ピアニスト』 (‘01/フランス・オーストリア)
監督: ミヒャエル・ハネケ
この作品も観客によって感じ方は実に様々だと思う。
ただの不快な映画と映るか、滑稽な話ととるかは賛否が分かれるだろう。
2001年のカンヌ映画祭でいくつかの賞を受賞したこの『ピアニスト』。
タイトルに騙されてはいけない。間違っても愛と感動に打ちひしがれるような映画では決してない。
なぜなら監督はあのミヒャエル・ハネケである。一筋縄のストーリーなわけがない。
人間が誰しも持っているが決して誰にも打ち明けられないような妄想や感情。そして昨日の出来事を忘れたかの
ように笑みを浮かべ、また今日も偽りの手を差し伸べてくるかのような偽善的な人間たち。
そんなことを嘲笑うかのように観客に見せ付ける作品だ。結局のところこの映画で描かれる人物は誰一人満たされることはない。
どいつもこいつも結局は異常な連中だ、ノーマルとアブノーマルの境界線なんてとても低いものだし、
別にたいした意味なんてないだろ?とでも言われているかのようだ。
実際、誰一人まともそうな人間がこの映画には描かれてはいないように感じる。
オーストリアのウィーン。子供の頃から母親の監視下に置かれるかのように育てられてきたピアノ教師のエリカ。
まともな恋愛の経験などない40歳を過ぎた彼女の前に、彼女のレッスンを熱望する青年ワルターが現れる。
いつしかエリカの体を求め始めるワルターを前に、今までリミットを掛けてきた彼女の性欲の箍が外れかけていく。
生徒と教師という、禁じられた愛を描くにはよくある定番のテーマだ。だが、この作品の主はそこにはあまりない。
普段は偽りの仮面をつけて生活する女。その仮面が剥がされたことがはたして幸か不幸かが滑稽に描かれる。
一歩間違えれば、誰でも簸た隠しにしていたものが剥がされ、素っ裸にされその辺に転がされるんだ。
生徒の前では厳格で気丈なピアノ教師であるエリカだが、今まで性欲の捌け口を見出せず、妄想に取り付かれて一人ビデオボックスで男がオナニーをした後の使用済みティッシュを鼻に当てポルノビデオを見るような中年女。
世間的にみて、あまりにもみっともなく哀れで滑稽だ。情けない女。でも異常かというとそうとも思えない。
人間なんて皆、周りが知る外面とは間逆の何かを持っているだろう。それが彼女に関しては性的な欲求であったというだけだ。
ピアニストという美しい旋律を奏でる職業だが、その実はひどく倒錯した醜い妄想に取り付かれている。
美しい調べと醜い妄想。対照的に描かれる人間の外面と内面。
ただ、倒錯しているかどうかは自身では恐らくわからない。それは周囲の人間が判断するものなのかもしれない。
妄想は彼女の頭の中でどんどんエスカレートしていく。
そしてワルターに出会い、捌け口がようやく現れたかと思いきや、彼女の妄想は既に「普通の人」のそれを逸していて相手にもされない。
盛りの過ぎた変態女だとゴミのように蔑んだ目で見られるだけだ。
愛するものからの突然の性の注文。ノーマルの性癖の持ち主(そもそもノーマルという概念自体が良くわからないものだが)であればアブノーマルととれるそれを目の前に出されたとき、人はいったいどうするだろう。
頭がどうかしているサイコ、はたまたただの変態と、突然態度を変え蔑み罵るのではないだろうか。
またこの女も、初めて他人に打ち明けた自分の性癖がいかに常識を超えたアブノーマルなものであるかを
相手の反応を見ることではじめて知るのである。そして、心の底から絶望するのだ。
強引にワルターにフェラチオをするエリカはその最中吐いてしまい、彼から口がくさいので近寄るなと罵られる。
なんて哀れな女だろう。もはや何をしたところで、繋ぎとめておくことすらできない。
パゾリーニが撮った忌々しい作品『ソドムの市』では、倒錯した性の究極のエクスタシー(快楽)が死であると最終的に導くが、ようやく見つけた捌け口を見失ったエリカは、最終的に自分を痛み傷つけることでバランスをとろうとしたのだろうか。
後半、自分を傷つけるエリカはとてつもなく怖い。自分を受け入れないワルターを、そして受け入れられない性癖を持ってしまっている自分自身を呪うかのようなあの表情。
苦痛と快楽、ノーマルとアブノーマル。一見対極にあるものだが、そんな垣根はビックリするくらい低い。
そもそも人が人を普通か異常かなどと判断すること自体が、おこがましく滑稽なのかもしれない。
持ち合わせているものは誰しも大して変わらないし、当たり前だと信じ込んでいた一線を越えることなど誰にでも起こりうるのだから。
この『ピアニスト』にはそんな人間の狂気と孤独が容赦なく冷たい目でまざまざと描かれている。
悪い男
『悪い男』 (‘01/韓国)
監督: キム・ギドク
最近の韓国ブームにのって、今までは見ることのなかったような多くの韓国映画が日本でも見られるようになった。安っぽいお涙頂戴のいわゆる韓流ドラマというのは個人的に全く興味はない。
ただ、そのブームの恩恵で多く見られるようになった韓国の映画を観る度に日本映画が失ってしまった勢いというものを強く感じるようになった。
日本映画の失墜に比例して、様々なジャンルで質の高い傑作を生み出している韓国映画には、
南北分断というお決まりのテーマには既に頼ってはいない作品の幅がみられる。
この作品、『悪い男』もそんな今の韓国が産み落とした秀作の内のひとつだ。
しかしこの残酷なストーリーの発想はいったいどこから生まれるのだろうか。
キム・ギドクという男の頭の中を、この作品で描かれるようにマジックミラー越しに覗いてみたくなる。
この作品はラブストーリーではある。しかも徹底的にサディスティックな愛を描いている。
もちろん観る者によってはそれは愛とはとても呼べない代物であるかもしれないが。
売春街を仕切るヤクザのハンギは、ある日街中で偶然に出会った女子大生ソナに心奪われる。
そして、感情を抑えることなく街中で彼女に強引にキスをする。そんな彼を蔑む目で睨みツバを吐き付けるソナ。
激しい屈辱を受けたハンギは、報復をするかのように金銭的な罠を張りソナを売春宿へと売り飛ばしてしまう。
そしてハンギは毎晩、宿部屋でのソナと男たちとの様子をマジックミラー越しに覗き見守り続けていた。
簡単に言えば、好きな女の子にいつもちょっかいを出していじめてるようなそれと近いかもしれない。
力の世界で生きてきた男にとって、世間一般の生ぬるい女性へのアプローチなどはできない。
欲しいものは力ずくで奪うというのが、彼にとっては唯一の正攻法なんだ。
女性を暴力という最低な方法で力ずくでものにする。
男なら誰しもが持っているような厭らしい妄想や願望を具現化したかのような話だ。
ただそんな邪な思いを実際に行動に移す人間はまずいない。そんな願望をキム・ギドクはこの作品で映画として撮ってみせた。
運命を変える事は日常にいくらでも転がっている。
女を徹底的に奈落のそこに突き落とし、その様をじっと見守る男。次第に、現実を受け止めていく女。
SMの世界のような、傷つけるものと傷つけられるものが残酷に描かれる。
それは男の倒錯した愛情表現と、女の絶望と憎しみから始まる不思議な赤い糸でつながったラブストーリーだと感じられる。
例えていうなら、女性を無理やりクスリ漬けにし、自分なしでは生きられないようにする、
もしくは自分がいなければ、水も食べ物も与えられないペットのようなものか。
果たしてそれを愛と呼べるのかどうかは分からない。
ただ男は、女に対してどんな方法であれ自分なくしては生きていけないようにする。
そして女性はそんな男をいつしか頼れるものとしてみ、逆に自分から男を強く求めるようになるのだ。
冤罪ではあるが同じヤクザの人間を殺した罪で刑務所で一人死刑を待つハンギに、ソナは勝手に一人で死ぬなんて許さないと言う。
自分をどん底に叩き落したハンギなくしては、もはや自身の存在意義すら見出せず生きていく術すらわからない。そして、自由を得られたにも関わらずに元の売春宿へと戻る彼女の心境はきっかけはどうであれ愛情のそれと変わらないのだろうか。
図らずも自分の居場所を見つけ、自分だけを見てくれる男性に出会ってしまったソナ。
この場所を離れてしまっても、もう彼女にとって他の居場所は考え付かないのだろう。
そしてある意味思惑通りに意中の女性を自分のものにしたハンギ。ただ彼は彼女に指一本触れようとはしない。他の男に抱かれる様をただ傍でじっと見守り続けるだけだ。
男性からの視線一辺倒に感じられるこの映画が女性蔑視といわれてもさして不思議ではないだろう。
どうしても手に入れたければ女なんて暴力で強引に犯してしまえばいいんだ、そんな傲慢な行動に強い不快感を覚えるかもしれない。そのことに関しては否定も肯定もできないだろう。
売春婦という設定、社会の底辺で生きる女性を描くというただその点だけみても蔑視と捉えることができるだろうが、ただハンギもまた同じく底辺に生きるヤクザである。社会の底辺という、人間のもっとも
根源的な場所に生きる男女を描くことで、言い換えればただ純粋無垢な愛の形を描いているともとれる。
女を自分と同じ社会の底辺にに無理やり落とし込む男。
決して体だけを求めようとはせず、ただ影でいつも守り続ける男。そんな男にいつしかすべてを委ねていく女。
結果だけをみて恋愛を判断するのであれば、この作品で語られるそれはまさしく純愛そのものではある。
まったく口を開こうとはしないハンギと泣き叫びわめき散らすソナ。
対照的な二人だが、ラストは彼女も多くを語ろうとはせず、黙ってハンギの背中についてくる。
ある意味で屈折した男性の理想とする恋愛がそこに描かれているのかもしれない。
四の五の文句を言わず、黙って自分の思い通りになる女。その女が体で稼いだ金で生活を続ける男。
社会的には蔑む対象となるヒモのようなものかもしれないが、最終的に互いが求め合うのであればこれも一つの愛なのだろう。
どんな人間であれ、人には言えない愛の経験があるだろう。誰もがそういった屈折したものを内に秘めている。
愛の形ははたからみれば様々だ。ただ、結局のところ周りの目などどうでもいいのだ。
誰もが納得するような恋愛自体が存在しないのと同じように。
悪魔のいけにえ
『悪魔のいけにえ』(‘74/アメリカ)
監督: トビー・フーパー
日本の作品のいくつかもリメイクされているがアメリカではここ最近、往年のホラー映画のリメイクがちょっとしたブームになっている。
『ドーン・オブ・ザ・デッド』や『蝋人形の館』、『悪魔の棲む家』、『オーメン』などが次々とリメイクされている。
その中で、2003年に『テキサス・チェーンソー』という邦題で発表されたリメイク作の元ネタがこの1974年に
製作された傑作『悪魔のいけにえ』だ。
70年、80年代はいわゆるホラーブームがここ日本でも起こり、多くの傑作からごみのような駄作までがボウフラの様に沸いてきた。邦題はきまって「死霊の~」やら「悪魔の~」やらバカの一つ覚えで次々と腐るほど登場した。
ただ、ホラーというのはなかなか元祖を超えるのは難しく幾多の失敗作を乗り越えて傑作が生まれるということは実はあまりない。いろいろな要素があいまって、奇跡的に生み出されるものの中に傑作が多い。
なんとなく作ってて、ふたを開けたらすばらしい作品ができちゃったよ、みたいな感じだ。
この『悪魔のいけにえ』もそんな風にまさに奇跡的に産み落とされた作品の内の一つだ。
原題は「THE TEXAS CHAINSAW MASSACRE」。直訳するとテキサスチェーンソー大量虐殺というタイトル。
バンでの旅の最中、テキサスの田舎町に立ち寄った5人の若者達。
ガソリンを補給するうちにふと立ち寄ったある家で若者達が次々と惨劇に見舞われていく。
この作品以降ホラー映画の定番となったプロットだ。
若者達が旅の途中にとある田舎町にたどり着く。車はガス欠寸前。ガソリンスタンドに立ち寄るが、
なぜかガソリンがない。そこでガソリンを探し回るうち、
奇怪な連中に襲われて・・・のようなものはそれこそ星の数ほどでてきた。
個人的に映画をきちっとジャンル分けするのはあまり好きではない。
そもそも見た人の感じ方ひとつでどうにでも変わってしまう映画はたくさんあるわけで、
それを無理やりひとつの枠に収めてしまうのは、逆に言えばジャンル分けしたがゆえにせっかくの傑作を見逃してしまう方も出てくるかもしれない。
ただ、そんなことをいっておきながらであるがジャンルで言うならこの『悪魔のいけにえ』はホラー映画なんだろう。
ただ、ホラーの枠に無理やり収めなくてもこの作品は紛れもなく傑作だ。
『13日の金曜日』やら『エルム街の悪夢』シリーズなどのように、いわゆるモンスターや不死身の殺人鬼なんかは一切出てこない。この作品に登場するのはある意味生身の人間のみ。ただ、こちらの常識というものが全く通用しない相手ではあるが。
また過剰なスプラッター描写はほとんどない。血の量は極めて少なく、残酷な描写も極力控えられている。
だがとてつもなく怖い。全編を包む気味の悪い嫌な雰囲気。
ドキュメンタリー作品でも観ているかのような、過剰なBGMなど一切廃し、砂っぽくざらついた画で撮られたこの作品の鑑賞後は「いったい何が起こったのか」としばらく茫然自失になるだろう。
そんな視覚的よりも感覚的に恐怖を与えられる部類の作品だ。
ホラー映画やサスペンスなどある程度観ている今となっては、残酷描写などはそれなりの免疫がついてはいるが、ただどうしてもこの感覚に訴える恐ろしさというのはそうそう慣れるものじゃない。
不死身のモンスターであれば、こちらの常識が通じないのも納得できる。
ただ、相手が同じ人間の場合はどうだろうか。とにかく理由がわからない。なぜ殺されなければいけないのか。
どうして追いかけられるのか。こいつらはいったい何者で何が目的なのかを。
どうしても避けて通りたいある種の人間というのは確かにいる。若者達がたどり着くこの一家の連中はまさしくその部類の人間だ。
こちらのいわゆる常識が全く通用しない相手ほど怖いものはない。
『ファニーゲーム』
の記事でも同じようなことを書いてはいるが、そんな連中に与えられる理由がない暴力ほど怖いものは人間にとってはないだろうと思う。
さっきまで笑い会っていた者が次々となんの理由もなく殺される。懇願など聞き入れられる余地はない。
この映画には人物描写というものはまったくの皆無で、ただただ恐怖だけが映し出されていく。
中盤以降、若者達がある家にたどり着いてからがこの作品の核だ。
一人ずつ行方がわからなくなり、徐々に不安な感覚が起こってくる。
殺人鬼の姿はなかなか現れず、突如現れては若者をハンマーで殴りつけ殺す。
ただ、殺人の描写は現れない。やはり視覚的なものは極力抑えられて描かれる。
そして、マリリン・バーンズ扮する主人公ジェリーがこの一家に捕まってからの、物語終盤の十数分間は
その後製作されたホラー映画のすべての手本となっているといっても言い過ぎじゃないだろう。
後半はけたたましいチェーンソーの爆音と、笑っているとも発狂しているともとれる主人公の悲鳴しか聞こえない。
そしてラスト、画面を覆いつくすこの嫌な音はなんの前触れもなく唐突に幕を下ろし、一転画面は無音になる。
静寂がこれほど心地いいと感じられることはない。ただその後には先ほどまで画面に映し出されていた
恐ろしい光景がフラッシュバックのようにしばらく脳裏に焼きつくだろう。
この後半の狂気に満ちたシーンと、なんの結論も出さずに突然終了するラストの展開は傑作としか言いようがないほどのすばらしさだ。
監督のトビー・フーパーはこの作品で一躍有名になった。
そしてその十数年後に続編を監督したが、彼自身が作り出した傑作『悪魔のいけにえ』を超えることは出来ず、実質これが最初で最後のピークとなっている。
そんな奇跡的な産物である本作だが、これを超えるほど強烈な恐怖を与えてくれる作品は、他の手によってしてもその後中々現れない。
カノン
『カルネ』以上に好き嫌いが分かれるだろうが、この『カノン』は間違いなく傑作だ。
ギャスパー・ノエは本当に恐ろしい映画を創る監督だ。
彼の作品には負の感情が洪水のように押し寄せ、不穏な空気が全編に溢れている。
ノエは観客に一かけらの救いも与えようとはしない。
徹底的にどん底に叩き落し、二度と這い上がれないようなトラウマを食い込ませる。
そう、それが人生だろ、とでも言われているかのように。
たった40分間ではあるが、作品を覆うネガティブで陰鬱な印象を観るものに植えつけさせた『カルネ』から
4年が経ち、続編として制作されたのがこの『カノン』である。
続編といっても、前作はあくまでもイントロダクションのようなものであるため、
この作品が本編といってもいいだろう。
前作を踏襲した撮影スタイルと相変わらず画面を覆う馬肉と血を連想させる赤、鳴り響く銃声のような
不快な音。そしてその音と共に画面に現れる根源的なメッセージ。
すべてにおいて、観客に嫌な緊張感と息苦しさを強いさせる。
この『カノン』はモラルとは、正義とは、そして愛とはなにかを模索する男の話だ。
『カルネ』のラスト、最愛の娘を施設に残し、刑務所を出所して愛人と共にパリを去り新たな人生を歩もうとした男。この作品では、その後が語られる。「チーズと腰抜けの国、フランス」でのある元馬肉屋の男と娘。
映画冒頭、バーで語り合う3人の男たち。画面には、「モラル」そして「正義」の文字。
モラルとは、正義とはを問う男は、手に銃を持ちこれが俺のモラルだと言う。
モラルなんてものは金持ちや権力者が勝手な都合で決めたものだ。力を持っている者だけがモラルを決める権利がある。
銃を手にした男は、力を手に入れ同時に何がモラルなのかを決定する権利を得る。
つまり、暴力、力こそが正義なんだと説く。この『カノン』のテーマとするところの一つがそれらである。
流れ着いた愛人の故郷での生活すべてに嫌気が差す男。愛人とその母親のクソのような人間達に対して
憎しみを露にする。我慢の限界を超えた男は歯止めが利かず、何をしでかすかわからない、
そんな狂気の持つ恐ろしさを観客は感じる。ノエが描く作品はいつもそうだ。
電車や車から車窓越しに見えるかのような、日常にひしめく暴力。
そんな人間の突発的な行動の恐ろしさを、ノエは常に僕らに見せ付ける。
限界を超えた男は、臨月を迎える妊娠中の愛人(醜悪な人間の象徴!)の腹を力いっぱい何度も殴る。
腹の中の子供も生まれてこないほうが幸せだろうと、彼のモラルがそうさせる。
この強烈にタブーなシーンを見て観客は、何をするのも構わないこの男の行動に恐怖を覚える。
そして一人パリに戻ってきた男。
フラストレーションの塊で全くの孤独になってしまった彼には失うものなど何もない。ただ一人最愛の娘を除いて。
相も変わらずだが、この映画を観る際は、モラルがどうだとかそういった常識のフィルターを外したほうがいい。
四の五の常識を語る方は観ないほうがいいだろう。なぜ人を殺してはいけないのか、なぜ物を盗んではいけないのか、なぜ子供を犯してはいけないのか、なぜ自殺してはいけないのか。
ノエは観客に問いかける。そういった常識とされていることに本質的に答えを出せるものなどいるだろうか、と。
『カノン』に登場する人は誰一人として笑顔を見せない。他人を思いやる余裕などないし、余裕があっても
誰も他人のために何かをしようとはしない。自分さえ良ければいいという、最も根源的な人間の姿が描かれる。
この『カノン』では、全編に渡ってこの男の心の葛藤につき合わされることになる。独り言ともとれるそれらは
彼が感情を吐露する場所が、この映画を観ている僕ら観客に向けられているのではないかと錯覚を覚えるほど。
それほどこの負の洪水は、終わりが見えないほど終始語られる。ポジティブな発想など一切ないこの男の頭の中はいったいどうなっているのか?ただ、そこにいるのは目の前にあるすべての不満に対して怒りを露にする男だ。
人間には、ネガティブな感情を持つ場面は誰にでもあることだが、その感情のみでは生きていけない生き物だ。
いくら怒りやすい人間とはいえ、日がなその感情が持続することも決してない。
喜怒哀楽という言葉があるとおり、人間には怒りや哀しみの感情がある代わりに喜び楽しむ感情が必ずあるもの。
ただ、この男は徹底して怒りと憎しみを露にする。オレの人生はくそのようなものだ、とひたすら語り続ける。
そして、その矛先となるのが娘なのだ。追い詰められ世の中に見捨てられた男が、親が子を思う以上の屈折した愛情を抱き娘に会いにいく。
ラスト数分、画面には「ATTENTION」の文字と共にアラームが鳴る。アラームが終了すると共に娘を前に今まで抑えてきた感情を爆発させる男。
すべてのモラルが崩壊し、新たな彼らだけのモラルを構築するかのような映像が映る。
ただ普遍的なのは人を想う愛だけなのだということか。
モラルさえ超越した屈折した愛情。愛とは残酷で冷たく、だからこそ儚く美しい。
パッヘルベルの名曲カノンをバックに最後に見せる彼の行動は決してタブーなどではなく、人が執る最も純粋な行為なのかもしれない。
ヨーロッパ映画というのは、アメリカ映画などに比べてとても陰鬱で人間の厭らしさをさらけ出す作品が多い。
その中でも群を抜いて人の本質を叩きつけ、綺麗事では決して片付けようとはしないギャスパー・ノエは
やはり天才だろうと思う。
彼の最新作は『8』という、8つのテーマを8人の監督達が制作したものを集めた短編映画集の中の一作『Combat HIV AIDS』。盟友塚本晋也やジェーン・カンピオンらが連ねる中での作品のようだ。
タイトルの示すとおり、HIVをテーマにしたものだろうが相変わらず取り上げる題材が彼らしい。
『8』 ← オフィシャルサイト
いま、再入学します。
近頃いろいろありまして、このブログの更新をサボリ気味でした。まぁ、9割方いいわけですが。
・・・ ううっ、ごめんなさい!だからおいてかないで。。。(泣
そんな情けないオイラに男らしくしろ!とだれかの声が聞こえてきそうだ。
そんなオリジナルチキン(意味不明)なオイラの耳に、ある漢(おとこ)の言葉がなんの前触れもなしに飛び込んできた。
「男はジャッキーを一度卒業する。でも卒業した大人は再入学しろ、今現在ファンなら留年しろ、
クソガキはすぐ入学しろ!」
男なら必ず通過するのがジャッキー・チェンだろう。
男はジャッキーから多くのことを学んできた。
「負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じぬくこと。ダメになりそうな時、それが一番大事」
こういった学校では教えてくれない、男として最も重要なことはいつだって「彼」が身を持って教えてくれた。
漢の中の漢、ジャッキー。何度も死にかけ、しかもその事故風景をエンドロールでみせてしまう肝の据わった漢、ジャッキー。もう何十年もの間第一線で活躍する50を過ぎたアクションヒーロー、それがジャッキーだ。
しかし、なんという有難く、的を得た言葉だろうか。↑の言葉はジャッキーの主演作『香港国際警察/NEW POLICE STORY 』(『ポリスアカデミー』ではない!)の公開当時、スポーツ紙での宣伝のために武術指導家の谷垣健治氏が語った言葉だ。まさしく漢、である。酸いも甘いも噛み分けた者にしか出てこない言葉である。
真の男を改めるため、オレは近々ジャッキーを再入学することになりそうだ。希望者にはいつでも門戸を開くジャッキー。その海のような懐の広さに財布の紐も緩んでしまう。
そんなわけで、今まで散々コケにしていた『いま、会いにゆきます。』をテレビで観て思わず泣いてしまった(しかも一度や二度ではない!)最近のオイラですが、今後ともよろしくお願いします。