フロム・ダスク・ティル・ドーン
『フロム・ダスク・ティル・ドーン』 (’96/アメリカ)
監督:ロバート・ロドリゲス
映画をジャンル分けするのは好きじゃないけど、この作品はそれを聞かれると非常に説明しずらい。
この『フロム・ダスク・ティル・ドーン』は製作途中に急に監督の気が変わったか、はたまた制作会社の鬼の指令で、別々に作っていた映画を「大人」の都合で強引にくっつけてみました、って感じのとんでもないバカ丸出しのB級臭満点の作品だ。
脈絡?辻褄?そんなことは気にしない。やりたいことをとりあえず詰め込んでみたような、タランティーノが自分のおもちゃ箱をひっくり返したような『キルビル』に到るまでの通過点のように感じられるる作品。そこにロドリゲスの微妙なB級的エンターテインメントの要素がミックスされて、ある意味誰も予想できない(当たり前!)出来になった。初めて観る時は誰もが唖然とすることだろう、間違いなく。
この作品、脚本はタランティーノ。そして監督は盟友のロバート・ロドリゲスという映画バカの二人。
過去にもタランティーノが草案をして、他者にディレクションを譲った作品はいくつかあった。中でもトニー・スコットによる『トゥルー・ロマンス』は結果的にタランティーノが描きたかったものにとても近いような傑作にに仕上がっていたと思う。
逆に残念な出来になったのが『ナチュラル・ボーン・キラーズ』だろう。とても面白い素材だったけど、監督のオリバー・ストーンの精一杯の頑張りが全く空回りした作品で、MTV的なスタイリッシュな映像を目指したんだろうが、やや演出がしつこく、その割りには肝心の内容はなんだか説教くさいものになってしまった。あの監督が、純粋なエンターテインメント作品を取れるとは思わないが、予想通りというか原作の持ち味が殺された結果となったと思う。
そんなこんなで、気心知れた二人が制作したということで『フロム・ダスク・ティル・ドーン』は結果的には大成功、である。
トレーラーで旅の途中の牧師一家を、銀行強盗をして逃走中の強盗犯ゲッコー兄弟が人質に取り、テキサスから目的地のあるメキシコに向かう。人質にした凶悪な兄弟強盗が国境を越えてメキシコ入りする。だが組織との待ち合わせに使われた怪しげな酒場には恐るべき秘密が隠されていた……。
過去のヴァイオレンス満載のタランティーノ作品が好きな方は必ず満足できる、いつものあの調子で安心してみていられる作りなのは前半部分のみ。彼らの目的地であるメキシコのバー「ティティツイスター」に着いてからの後半は、ジョン・カーペンターもびっくりのB級臭全開のヴァンパイア退治アクションホラーに突然様変わりする。この奇をてらった展開は誰もが開いた口がふさがらないだろうな。
しかも、B級を狙って真剣にB級バカホラーを作っているところがすばらしい。なんでいきなりヴァンパイアなわけ?と深いことはあまり考えないほうがいい。なにしろ意味なんてないんだから。やりたいからやった。ただそれだけだ。
ただ、タランティーノ映画には珍しく、兄弟愛や家族愛、そして信仰に対する想いなどもテイストとして盛り込まれている。もちろんメインテーマにはならないものの、ちらっとでもこういった「照れくさい」部分を観れるのは、彼の他の作品ではないところだろう。
また、タランティーノ作品の見所のひとつはなんといっても登場人物たちのキャラクター描写とキャスティングの際どさ。ジョージ・クルーニーとタランティーノが兄弟役という、ヴィジュアル的に-どう考えても?な兄弟設定はさておき、この対照的な設定はまず面白い。クルーニーはどの映画でもみられるおなじみのクールぶりでいかにも彼ならではの役柄。それに引き換え、タランティーノは素だろ?と思うくらいの妄想サイコ野郎で、完全に頭の重要なネジが外れちゃってるような、何をしでかすかわからない単なるバカだ。
牧師一家はタランティーノごひいきのハーヴェイ・カイテルやジュリエット・ルイス。彼らはいつもどおりの演技なわけだけど、彼ら以外の脇を固めるキャストが相変わらずというかマニアック。
クセのあるキャラクターの中で、ジョージ・クルーニーは特にいつもの他の作品とあまり変わらない優等生ぶりで少し浮いてる気がしないでもないが、花が一人いないとしょうがないし、と納得できるレベル。2、3と続編もあるけどこれらはそれこそ、後半部分のみをフィーチャーしたような完全なるB級作品なのでご注意を。
B級監督とオタクが一緒になって映画を作ったらこんなん出ましたけど、という映画。まぁ、なんだかんだいっても映画は面白けりゃいいと思ってる自分は好きだけど、一粒で二度おいしいと感じるか、中途半端な駄作ととるかは見る人次第だろう。
ちなみにタランティーノ製作総指揮の『フェティッシュ』という作品で、逃走中のゲッコー兄弟がちょろっとTV出演してます。
ビジターQ
『ビジターQ』 (‘00/日本)
監督: 三池崇史
久々に、肩の力を抜いて見れる秀作をご紹介。この作品『ビジターQ』のテーマは早漏と母乳と家族愛だ、と言ってみるがたぶん違う。三池崇史の作品はメジャーものしか観たことがなかったのだが、k53さんが運営されているkrock@555 に魅力的に紹介されていたのでハンカチ片手に鑑賞してみた。
よくわからないタイトルのこの『ビジターQ』。この作品は、家庭内問題のフルコースのような家族が、突然舞い降りた天使のような来訪者(これがビジターQなの?)の影響によっていかにしてお互いを理解し合い、新たな一歩を踏み出すかを描いた感動の家族再生物語。とクソ真面目に言ってみるが、そんな生易しいものでは断じてない。
「パパとしたことある?」といきなりお茶の間不向きなテロップが入り、その後画面に映し出されるのは、ラブホでの父親と娘のからみ。「すんげー気持ちいな すごすぎだよ!」と感動し、しまいには娘に中出ししていいか聞く親父。どうしようもない。しかも娘に早漏と罵られながらも「いくら?」と聞く親父。早漏は10万円だそうです。高いので払えない親父。「残りは、家に帰ってママに預けておくから・・・」やはりどうしようもない。笑っていいのか迷うことはない。こういう映画を見て、大笑いするのが正しい大人というものだ。たぶん。
この親父を筆頭に家族全員がとにかくどうしようもない。親父は、取材中に若者にアナルを犯され、すっかり落ちぶれた元キャスター。再起を狙ってハンディカメラ片手に特ダネを追いかける毎日を送ってる。息子は学校ではトップクラスのいじめられっこで、家に帰れば布団たたき片手に母親をフルスイングで散々殴り倒しストレス解消。で、母親はというと、アザだらけの体で足を引きずりながら、これまた熟女援助交際して、体で稼いだ金で、シャブやって現実逃避してるような女。娘ももちろんで、ろくに家に帰らず援助交際でテクを磨く日々をすごしている。
ネタを追いかける親父はある日気づく。なんだ、一番身近においしいネタあんじゃん、と。そんなわけで、前述のとおり援助交際してる娘に突撃レポート、というか単にやっちゃう。外でいじめられてる息子を見つけるや、カメラを回し「いい、いいね。」と特ダネゲットに喜ぶ。このどうしようもない家族に突如として(というか、勝手に)転がり込んでくる男がたぶんビジターQなんだろうけど、よくわからん。まぁ、たぶんキーパーソン。
特に見所はなんといっても何かの主演男優賞をあげてもいいくらいの気持ちのいいほどのぶっ飛びぶりを見せてくれる親父役の遠藤憲一。その、役を選り好みしないスタンスと、何をしでかすか全く予測不能な狂気じみた演技が光る、怒らせないほうがよさそうなタイプのヤツ。そして、同じくなんかの助演女優賞級の授乳っプリを見せた内田春菊も圧倒的だ。何が圧倒的かというと、演技云々ではなく、単にその母乳にだ。悶えながら部屋一面母乳まみれにする熟しきった女。それはもう出るわでるわ。このシーンはこの映画の重要な見所のひとつ。しかし予備知識はあったけどやっぱりこれはみててキツかった。リアルすぎて笑っていいものかどうかさすがに悩む。
とにかくこの『ビジターQ』、街中で思わず避けて通りたい人物が、こちらのことなどお構いなしに近寄ってくるような、見ちゃいけないものを見てしまったような感覚の映画だ。「おれ、この映画好きなんだ」などと職場や学校では口が裂けてもいえない類だが、自分は好きです。ええ。
そして極めつけの感動のラストは死姦ですわ。「娘に」早漏と罵られ、自信がなくなってたのに、死姦のお陰で早漏を克服。「まだまだ!おれ、イケんじゃん!!」と大喜びで失いかけた男の自信を取り戻す。サイコーです。母親も胸を揉みしだかれ、ありえないほどの母乳を噴射し、なぜか女に目覚めてしまう。もううつむきビクビクしていた今までの彼女じゃない。生まれ変わったんだ。よかったねぇ。子供達もなぜか目覚め、新たに出発しようとする。
なんやかんやあって、よくわからないうちにどうやら家族の問題は丸く収まったようだ。めでたしめでたし。
前張りも辞さないエンケンのど根性と妥協を許さない三池の引き出しの多さを感じさせる秀作だ。『着信アリ』を観て三池に興味を持ち出した気になるあの子を誘って一緒にビデオ鑑賞してもいいけど、その結果がどうであれ自己責任です。
RENT
『RENT』 (‘05/アメリカ)
監督: クリス・コロンバス
こうみえて(どうみえて?)も実は結構ミュージカル好きだったりする。
親の影響でよく見ていたのは、『フラッシュダンス』や『コーラスライン』、『ストリート・オブ・ファイヤー』や
『ダーティ・ダンシング』などの80年代のミュージカル映画が多かった。
そんなわけで、今も相変わらず好きなのだが、『シカゴ』を観て久々にミュージカル熱が再発してからというもの、過去の作品も改めて観だしていて、そんなマイブームの中傑作『マンマ・ミーア!』も思わず観に行った。
※近々映画化するようだがどうなんだろう。
クリス・コロンバスといえば、ぼくが子供の頃夢中になって観ていた『グーニーズ』や『グレムリン』などの脚本をしたお方。それ以外も、ハートウォーミングなファミリー向けのコメディを得意としているけど、最近は『ハリー・ポッター』シリーズでもその才能を発揮している。
元々はブロードウェイの大ヒットミュージカルであるこの『RENT』だけど、実は観る前はストーリーはまったく知らなかった。ただクリス・コロンバスが手がけるということで、恐らくサクセスストーリー的な夢と希望に溢れた、ただハッピーなだけのものだと思っていたが、蓋を開けてみるとかなり重いテーマを扱っている作品だった。
このミュージカル『RENT』はドラッグやエイズ、同性愛というモチーフを持ちつつ、
必死に生き、夢を追いかける若者達の苦悩とその中での喜びを描く、とても感動的でポジティブな印象を与える作品だった。
ブロードウェイと同じキャストも出演し、さながら舞台をスクリーンに移して、更に映画ならではの自由さを与えた躍動感に溢れたものになっている。
この作品、舞台は現代ではなくて今から少し前の時代、1989年のクリスマス・イブ~1990年のクリスマス・イブまでの1年間の出来事を描いてる。ちょうどこの頃は、ヘロインなどの注射針併用や同性愛などの理由で、世界的にエイズ患者が増大し広く世間が知ることになったのがこの頃だ。
そんな、死と隣り合わせの若者達が、だけど皆それぞれの夢に向かって懸命に走り続けていく。家賃も払えないほどの現実や友人の死など、辛いことも乗り越えてそれでも懸命に生きる。
この作品の主人公達は、辛い中でも一筋の希望を見出そうとする姿がとても楽しそうに生き生きと描かれている。
ミュージカルにとってキーとなるのはやはり主題歌だろうと思う。
『コーラスライン』の「ONE」、『シカゴ』の「All That Jazz」などなどメインタイトルのすばらしさが作品の良し悪しを決める要となっているといっても言いすぎじゃないと思う。
この『RENT』では作品を包むのはロックミュージカル的なテンポの良い楽曲が多いが、中でもメインタイトル「Seasons of Love」が鳥肌が立つほどにすばらしく良い。曲自体も印象的だが詩がとても心に残る。
「 1年は525,600分
あなたは1年を何で数えますか?
夜明けの数? 日暮れの数? 深夜のコーヒーカップの数? 想い出の数? 笑い声の数?
525,600分という時間
あなたは1年を何で数えますか?」
あなたは1年をどんなものさしで測りますか?
メインタイトルにふさわしい、メッセージを含んだこの歌詞はまさに、このミュージカルのストーリーそのものを表しているよう。1分1秒がとてもかけがえのないもの。だらだらするなんてもったいない。楽しいことも悲しいこともすべて受け止めて、限られた命を精一杯生きよう。口にするのは少し恥ずかしいくらい前向きなテーマだけど、そこはミュージカル。歌って踊れば不思議とすんなり心に響く。
この作品にはただうつむいてる人は出てこない。
みんな何かに傷つき、それでも前を向いて生きていこうという美しいキャラクターばかりだ。
メッセージ性や重いテーマを扱ったミュージカルというのはあまり観たことがなかったが、鑑賞後はとてもポジティブで幸せな気分になれる作品だった。
最近ちょっと落ち込み気味、そんな方はこういう映画を観ると気持ちをリセットできるかもしれない。
非日常的だからこそ、ミュージカルにはエンターテインメントの醍醐味がたくさん詰まっていると思う。
この『RENT』もそんな作品だが、ストーリーもさることながら、メインタイトルの「Seasons of Love」を聴くだけでもかなりの価値あり。とにかくこうした心から感動できる作品に出会えることは映画ファンにとっては
心から幸せなことです。
サマリア
『サマリア』 (‘04/韓国)
監督: キム・ギドク
とても安っぽい言い方になってしまうけど、すばらしい映画だった。
人間の根源的な罪を描いた作品ではあるが、なぜか鑑賞後は切ないけれど温かい気持ちにさせてくれる。キム・ギドクの作品は、残酷な描写の裏にある人間が持ち合わせる内面の醜さと罪深さの描き方が観念的で、観客によって様々な解釈が出来る映画が多いように感じる。発表する作品が常に賛否両論となるのはまさにこういった作風によるものだろう。
そんな彼の作品にあって、この『サマリア』はわりと直接的な描かれ方をしていてある意味わかりやすい。わかりやすいがためにこれも色々な捉え方ができる作品だと思う。ただ、何を言わんとしているのかどうかは観客の受け止め方次第だ。映画はそもそも製作され公開された時点で観客にすべてを委ねられているものだと信じているから。100人見れば100通りの解釈があっていいんじゃないか。逆にそういった映画のほうがおもしろい。
女子高生のヨジンは刑事をしている父ヨンギと2人暮らし。親友のチェヨンとヨジンは2人でヨーロッパ旅行に行くため、手っ取り早く金を稼ぐ目的から 援助交際をするようになっていた。何の罪の意識もなく男に身体を売るチェヨンを嫌々ながらもそばで見守り続け稼いだ金を管理しているヨジン。そんな時、ホテルに警官の取締りが入り、それを逃れようとしたチェヨンはホテルの窓から飛び降り命を絶ってしまう。チェヨンの死に大きく失望したヨジンは、彼女への罪滅ぼしのためにあることを思いつく。
この作品は3つの章により構成されていて、それぞれの章には「バスミルダ」、「サマリア」、「ソナタ」というタイトルが付けられている。
この『サマリア』、コピーなどから想像すると女子高生の援助交際の実態を赤裸々に綴る、という話と思っていたがそんなありきたりなストーリーではなかった。今となってはひとつの文化のようにもなってしまった「援助交際」という甘ったるい言い方をされるこの行為は、当たり前だが単なる売春行為であり、そこには双方に罪が存在している。この作品は、罪を背負った少女がとった行動、そして、その娘の罪を一手に引き受け、新たな道に歩ませようとする父親、その親子の話である。
「バスミルダ」と「サマリア」の2章で彼女達の行為とそこにある少女ならではの友情とそして死、絶望と罪滅ぼしが描かれる。親友が命を絶ってしまったのは、自分のせいだと、彼女に対しての贖罪のために彼女が客として会ってきた男たちに体をゆだね、稼いだ金を一人ずつ返していくヨジン。そうして罪滅ぼしという名目で、少しずつ自分が気づかずうちに罪を背負っていくヨジン。体を売ることになんの罪の意識を持たない彼女がなんとも皮肉に描かれる。
彼女の中には、それが考え付く唯一の罪滅ぼしの方法だったのだろう。あまりにも幼い子供の考えだ。罪滅ぼしとはいえ、自らの体で罪を清算していくという考え。体の汚れは洗えば落ちる、だが一人ひとり男に抱かれるたび、彼女は魂を削っているのだ。
そんな光景を目撃してしまった父親の苦悩はやはり計り知れない。手塩に掛けて、男手一人で育ててきた娘が、誰とも知らない男たちに体を預けている。
だが、父親は彼女がどういう目的で、体を張っているのかを知らない。知ったところでなにが変わるということはないかもしれないが、話し合うことすらしない。ただ、影でその様を見守り続け、男たちにその罪の大きさを力でわからせようとするだけだ。彼のやり方とても冷酷だ。相手に対して一切の赦しを与えず彼なりの方法で罰を与える。自宅に押し入り、自分の娘よりも年下の娘の体を弄んだ男に家族全員が見守る中で、罪の大きさを思い知れといわんばかりに罵り彼を殴る。
最終章「ソナタ」では前2章を紡ぐ形で、罪を背負ったままの娘と、彼女の罪を自ら背負い新たに歩かせようとする父との、罪の購いの旅が描かれる。
彼女に対して、してきた行いに対して一切問い詰めることなどしない。
ただ、やさしい視線で見つめるだけだ。娘は、父親に殺される夢を見る。口には出さずとも、彼女も自分が犯した罪の大きさを感じ、苦悩し続けている。お互い口には出さずとも、お互いが背負った罪と対峙するかのような旅。
旅の途中、車の運転を河原でやさしく教える父親。最初は付いていく彼だが、ここから先は一人で行くように告げる。自分はもう見守ってやれない。これからは自分の足で道を切り開き生きていきなさい、という父の言葉にこめられたメッセージ。
この作品は、「援助交際」という題材を用いてはいるが紛れもなく親子の愛を描いた作品だろう。この父親の男たちへの行動は、彼女の罪をすべて自分が被るというためにあえて徹底的に残忍で冷酷だ。その裏には、娘への愛だけがあるのだろう。その父の愛を果たして彼女は受け止め、理解することが出来たのだろうか。
とても不思議だが、なぜか心に残るこの『サマリア』というタイトルには敬虔なクリスチャンであるキム・ギドクらしい宗教的な意味合いが込められている。
「サマリア」とは新約聖書ヨハネ第四章に登場する、名もなきサマリア人の女性のことだそうだ。
罪の意識のために隠れるように生きてきたが、イエスと出会い罪を意識することで生まれ変わったように信心深く生きた人物とのこと。
この映画で描かれる主人公ヨジンそのものだと感じる。自分の罪を多くを語らない父親によって意識し始めた彼女。彼女はこれから車の運転を覚えるように、改めて一から自らの人生の舵を取ろうとする。
『サマリア』はこの親子の愛をモチーフに罪から生まれる絶望と孤独、そして再生が描かれた作品だ。
キム・ギドクの作品の中ではある種異質であるだろうが、彼の作品の中では特に好きな一本になった。
なかったこと
今年(2006年)になってようやく公開された『ホテル・ルワンダ』は、日本でのヒットが今ひとつ見込めない理由から
配給会社の買い手がつかずに、日の目を見ない可能性があった映画だ。
そんなこの映画が公開にこぎつけたのは、多くの映画ファンによるネット上での公開を求める署名運動
がきっかけだったのは有名な話ですな。オイラも一票入れましたよ。
こうして、公開される映画もあれば、その逆に多くの反対運動を受け公開中止の憂き目をみた作品が少し前に日本にあった。1989年に東京の足立区で起こったあの「女子高生コンクリート詰め殺人事件」を元に2004年に制作された『コンクリート』がそれだ。
少年達が、帰宅途中の女子高生を拉致監禁し、恥辱の限りを尽くした上で殺害しドラム缶にコンクリートを流し込み遺棄したという残虐極まりない事件だ。
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2ちゃんねるを中心に、当初公開を予定していた劇場「銀座シネパトス」や製作者などにFAXや電話などの抗議が殺到。その結果、劇場公開を中止に追い込まれた曰くつきの映画だ。
ビデオスルーでの発表を余儀なくされるが、日の目をみることへのあまりにも多い抗議の声に押されてAmazonは当初扱っていたもののその後取り扱い自体を中止、TSUTAYAなど大手販売店も扱うことすら取りやめ、事実上「なかったこと」にされた。
この件をどうみるか。反対意見は次々と増え始めたようだが、その殆どが2ちゃんねるのいわゆる「祭り」に
便乗しただけのなんの持論も持たない連中だったのではないか。
どんな意見があったかというと、「この事実を映画化するのであれば、遺族のことを配慮し、プロットを練りに練って、キャストにも力を入れ、ゆるぎないテーマ性を持たせ真摯に製作されてしかるべきだ」という誰でも言えるような当たり前の意見がほとんどだ。
オイラは未見なのでなにも言えないが、興味が無いとはいえない。
そう、観てもいないので何も言うことすらできないんだ。
また、カンヌなど海外で高い評価を得ていたにもかかわらず、その題材自体を「なかったこと」にしたい日本社会の圧力によってまったく公開のめどが立っていなかった映画『バッシング』が今年の夏にようやく日本で公開される。
この作品は2004年にイラクで起こった日本人人質事件をヒントに、帰国後に社会から激しい非難を浴びた女性を描いた作品だ。
流行語にもなりそうだった「自己責任」という言葉がマスコミを覆い、国民も政府すらもバッシングを行った。
日本人誰もが、できれば蒸し返したくはない出来事、蓋をしておきたいあの騒動を描いたものだ。
それが、海外での高い評価を受けてある意味逆輸入という形で日本で公開されるのはなんとも皮肉なものだ。
←『バッシング』 監督:小林政広 オフィシャルサイトはこちら
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この二つの作品は、作品の質もテーマもキャストも並べて語ることすら恥ずかしいほど出来は違うだろうが、
どんな映画であれ製作をした限り日の目を見る権利はあるのではないか、とオイラは考えるが皆さんはどう思いますか?ひどい内容かどうかは各人が「観た上」で判断されるべきであって、周りの意見とその作品が扱う題材のみで「観るべきではない、公開されるべきではない」と判断してしまうのは映画ファンにとってはとても悲しいもののように感じる。
そうはいっても、『コンクリート』はやはり擁護されるべき作品ではないように感じるけどどうなんだろうな・・・
そんなわけで今回はめずらしく真面目に語っちゃいました。