映画まみれR -6ページ目

メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬

『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』 (‘05/アメリカ・フランス)
監督: トミー・リー・ジョーンズ


THE THREE BURIALS OF MELQUIADES ESTRADA



『アモーレス・ペロス』はひとつの交通事故を起点におき、加害者・被害者・目撃者というストーリーの中心で、それぞれ出会うことは決してなかった3人が、その事故を契機にどう人生が変わっていくか、それを3人をとりまく多くの人間関係を絡み合わせ、でタイトルの示す犬のような人間の愛を描いた傑作。

『21g』もある交通事故をきっかけに、事故で生命を奪ってしまった加害者、事故により愛する夫と2人の娘の生命を失った被害者、そして事故による心臓移植によって失いかけた生命を得ることができた男、この3人の人生の歯車がくるってしまった人間たちを描きつつ、人の「生命」の重さを問うストーリーだった。

この2作品ともまったくユーモアはなく、人生の辛辣さや罪と罰、そして堕落と再生を描いたとても重苦しい作品だった。



名優トミー・リー・ジョーンズがこの2作を脚本したギジェルモ・アリアガと共に制作したのがこの『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』だ。この舌をかみそうな不思議なタイトルが意味するところはその実とても奥深い。この作品は、前2作のように苦しくなるほど重いだけの話かというとそうではなく、テーマこそ共通している部分はあるものの随所に余裕すら感じさせるユーモアを交えつつ、前2作にはない温かい気持ちにさせてくれるすばらしいヒューマンドラマの傑作に仕上がっている。ギジェルモ・アリアガは共通する対象を中心にストーリーに絡む人々の人生の許しと再生、厳しさと孤独を描くのがとてもうまい。


THE THREE BURIALS OF MELQUIADES ESTRADA



アメリカ、テキサス州。メキシコ人カウボーイ メルキアデス・エストラーダの死体が見つかる。

純朴なメルキアデスを心から愛していた友人ピートは、深い悲しみに襲われながらもある約束を思いだす。
「俺が死んだら、離れた妻に会い、そして美しい故郷ヒメネスに埋めてくれ」と。小さな町でのこと。

彼を殺した者を見つけることは簡単だった。メルキアデスが国境警備隊員のマイクに殺されたことを知ったピートは、マイクを拉致しメルキアデスの死体と共にヒメネスへ向けメキシコヘの旅に出発する。



この映画はギジェルモ・アリアガが得意とするパズルのように時間軸を交差させる手法をとりつつ、生前のメルキアデスとピートの友情、退屈なテキサスの片田舎に住むマイクと妻や周りの人々、をメルキアデスの死というひとつの起点を中心に語られるのがストーリーの前半部分と、そして、メルキアデスとの約束を果たすためマイクをつれ、ヒメネスに向かうロードムービー的な後半部分との大きく分けて二つの構成になっている。



後半に語られるのは約束を果たす旅、そしてマイクにとっては贖罪の旅である。孤独な男が知り合った、おなじく孤独で流れ者のメルキアデスと固い友情を作っていくのはごく自然だろう。年齢こそ違えど、同じような境遇にあるメルキアデスにピートは若かりし頃の自分をみていたのかもしれない。そんな彼との約束は、人生をかけてでも果たさなければいけないほどピートにとっては大きなものに違いない。3度の埋葬というのは、メルキアデスが望む形で安息の地を与えるための道程である。目的を果たすことよりも、メルキアデスの意思を想い心から弔ってあげることが真の友情の証なのだろう。いったいどんな想いでメルキアデスは自分にこの約束をさせたのか。男の友情というのは、あまり多くは語らないものかもしれない。あえて言葉にしなくても通じ合える、そんな感情がお互いにあったんだと感じる。


THE THREE BURIALS OF MELQUIADES ESTRADA



そして望まざる旅に同行する、罪に苛まれ続けるマイク。彼もまた最初は逃げ出そうとするも、徐々に気持ちに変化が現れてくる。許しを乞うにはすべてをさらけ出さなければいけない。ピートがマイクを旅に連れて行くのも自らの罪と向き合わせるためだろう。目的に向かって必死に前に進もうとするピート自身を見せることはそれだけで重要な意味がある。今までの人生を一変させるような経験をするマイクは許しを得た以上に、人生において大切な何かを学んだのかもしれない。


ともすれば憎しみや復讐といったネガティブなだけのテーマになりがちな話だが、そこにユーモアを加えることですばらしく深みのある人間ドラマになっている。男の友情というと女性には敬遠されがちなテーマではあるかもしれないが、そこに映る人間が見せる心の機微はきっと温かさすら感じさせるものであるだろう。


しかし、トミー・リー・ジョーンズ はこんなにもいい役者だったとは知らなかった。汗とホコリにまみれた、男臭さすぎるカウボーイの役柄は、孤独に生きてきた男の哀愁すら感じさせる。額に刻まれた年輪のようなしわの数だけ多くの人生を歩んできた、経験を積んできたからこそ語ることのできる上質な作品だろう。『メン・イン・ブラック』しか知らない方は本当にもったいない。

リリイ・シュシュのすべて

『リリイ・シュシュのすべて』 (‘01/日本)
監督: 岩井俊二


All About Lily Chou-Chou



「翼をください」という曲はまさに思春期の子供たちの感情を表しているようだ。


もう数十年前にもなるんだけど、人生で一番多感な時期ってやっぱり中学生だったあの頃なんじゃないかと思う。
初めて制服に袖を通して少しだけ大人になったような気分。
体も少しずつ大人に近づいていく。だけど気持ちがそれにまだついていかずに妙な違和感を覚えてくる。
男女を意識し始め、性的な欲求が出てくるのもこの頃。少し悪ぶった連中は、少しずつ「初体験」を済ませ始めるし、そうじゃない連中は相変わらずゲームやらアニメやらの話に華を咲かせる。


この『リリイ・シュシュのすべて』はそんな中学生たちが主人公だ。
ここで綴られるストーリーは今の子供たちの現実を必ずしも映してはいないと思うが、
あの頃の何もかも手探りで、ガラスのようにもろい純真無垢な感情がとても痛々しく描かれている。
監督の岩井俊二が「遺作にしたい」と発表当時語っていた通り、彼のどの作品よりも好きな作品だ。
過去の作品は、どちらかというとファンタジー色を強く感じてたけどこの映画を観て印象はがらりと変わった。


All About Lily Chou-Chou



中学生に入学した蓮見雄一は同じクラスの星野修介と親しくなり部活も共にしていた。
夏休みには数人の友達と西表島へ旅行に行くが、星野は危うく命を落としそうになる出来事に見舞われる。
夏休みが明け新学期になるとすっかり別人のようになった星野は、力で生徒たちを支配していくようになり
蓮見は中心的ないじめの対象となっていく。

そんな彼の唯一の心のよりどころが劇中に登場する架空のアーティスト「リリイ・シュシュ」。
蓮見はその彼女のファンサイトを運営し、BBSで同じファン達と語り合うことで心のバランスを何とか保っていた。



はっきりいって学校のクラスなんてものは、まったく知らない連中同士が学校側の便宜上囲われただけの
もので大した意味なんてない。そんな数十人の男女が限られた中でやることっていったら恋愛ごっこかイジメくらいなものだ。ほかにやることないでしょ。
女子は特にグループがいろいろあって、ちょっと可愛くて大人びたグループや地味でまじめなグループだとか。

どこにも属さない子はだいたい何かしらの標的にされる。だから、大して気の合わない子達のグループでも、一応「形だけ」片足突っ込んで安心感を得る。
男子は授業なんてろくに聴かないで適当に好き勝手時間が過ぎるのをただ待ってる。

もちろん最近の中学生がどんな感じなのかは正直わからない。あくまでも、自分の経験だけがもう中学生のイメージになってしまうんだけど、多少の違いはあれどやってることなんて大して変わらないんじゃないかと思う。


All About Lily Chou-Chou



そんな生活の中で、夏休みというのは特に中高生にとってはかごの中の鳥状態の学校を飛び出した子供たちが、
それこそ自由に開放的になるとき。夏という季節そのものもそうだが、学期中一番長いこの休みは
いろんな初体験をする時期だ。2学期がはじまる9月に急に雰囲気が変わって登校してくる子は結構多いし。
そんな夏休みのいろんな経験は、実は学校以上にこの年の子達の感情に影響を与えるのかもしれない。


『リリイ・シュシュのすべて』で描かれるのはイジメや援助交際、レイプ、自殺などそれぞれが徹底的に残酷。
周りの人間は誰も止めない、イジメをしていても誰かが止めることはない。
それは、それこそ死んでしまうまでやり続けるんじゃないかと感じられるほどだ。

大人と違い、この頃の子供は本当に感受性が強くて純粋。純粋がゆえに何をするにも歯止めが利かない。
殴られる痛みを知らないから、徹底的に相手を傷つける。
加減を知り、人に与える痛みを知っているのが「大人」だとしたら、ここに描かれる「子供」たちは、相手に対するそういった感情がとても希薄。

だからいじめも徹底的。大人が躊躇する「一線」を子供たちは簡単に飛び越える。


All About Lily Chou-Chou



この作品に登場する主人公たちはリアルでは互いを傷つけあってはいるが、リリイというひとつのキーワードでは皆つながっている。
度々劇中に現れる、ファンサイトのBBS上でのチャットのようなやりとりが本当の彼らの心の叫び声のよう。
リアルでは感情を吐露できない彼らが唯一、本当の気持ちをさらけ出し救いを求める場所、それがこの映画ではこのファンサイトであり、彼らの気持ちを代弁する「リリイ・シュシュ」というアーティストなんだ。


とても苦しくて辛いストーリーだが、目に映る画はとても綺麗だ。
田園風景の緑やどこまでも広く澄んだ青い空、沖縄の美しい海や山々。

これらの美しい映像をバックに、この残酷なストーリーを中和するかのように流れるリリイ・シュシュの曲は、

逆に子供たちの孤独や苦痛をより際立たせる。
※タランティーノは彼女の曲を『キル・ビル』のなかで使用していたがこれもシーンに合っていて良かった。


バイオレンス描写のみが先行した学芸会のような『バトルロワイアル』と比べると遥かに衝撃的。
なんともいえないやりきれない感覚に襲われ、胸が苦しくなる。
観るものの気持ちごと完全に持っていかれるようなラストはエンドロールがすべて流れ終わるまで、

恐らく画面からは目がそらさせないだろう。

答えも結末もないこの作品。どこかの子供たちのある1シーンを切り取ったかのような作風は、
ガス・ヴァン・サントの『エレファント』にも感覚的に近いかもしれない。
無垢すぎるがゆえに残酷。痛みに耐える子供たちの無言の叫び声が美しい田園の中に聞こえてくるようだ。


八仙飯店之人肉饅頭

『八仙飯店之人肉饅頭』 (‘93/香港)
監督: ハーマン・ヤオ


THE UNTOLD STORY



この作品を観ないで、アジアのスプラッターホラーは語れないほどのマスターピースな映画、といってみる。
タイトルを見れば一目瞭然だ。「八仙飯店」の「人肉饅頭」。タブーな言葉が入ってますね。
そう、「人肉」なんですよ、これ。間違ってもグルメ映画ではないから。


この大ヒットした本作以降、2、3と続編も作られて、『香港人肉厨房』やら『人肉天婦羅』やらの亜流作品も

登場し、香港でちょっとした「人肉」ブームが起こったのがちょうどこの頃だ。
1986年、マカオで実際に起こった事件を元に製作されたというこの作品。え?本当に実話なのか?
日本だったら絶対に製作なんかされないだろうし、ましてや公開なんかに踏み切ったらどうなることやら。
ただ、香港は違うわ。気合が違うというか単なるバカというか。とにかく儲かるならなんでもいいから
やっちまえ、的な商魂には恐れ入るよ。


THE UNTOLD STORY1



もともと「八仙飯店」の一従業員だったウォンは店主チュンが賭けマージャンの負け金を払わないことにぶち切れ(というか、イカサマで巻き上げたんだが)。
店主とその妻そして幼児5人の一家全員を殺害し店を乗っとった。
この一家の死体は手馴れた手つきでバラバラにし、ミンチにして肉まんの具にして店で売っていた。
肉まんがうまいと評判になる「八仙飯店」はそこそこ儲かるようになるのだが、短絡的な犯行はすぐに警察の目に留まり捜査がウォンに及んでいく。


犯人のウォンはぶっ飛んでて、突発的にすぐ切れるやつ。
もちろん計画性なんかまったくなく思い立ったらすぐぶっ殺しちゃういわゆる大バカで、
誰が見てもすぐばれるような証拠隠滅しかできない子供並みのオツムの持ち主だ。

犯人もバカなら警察もバカばかりで、まったく仕事にやる気がなくそもそもどう捜査したらいいのかの
基本を持ち合わせていないご様子。


前半こそ、このバカ警察連中のコント的なやりとりがコメディタッチでほのぼのムードで描かれる。
ただしまったく面白くない。B級映画に良くある、くだらないやりとりは単なる場つなぎ程度の弱さだ。
特にいつも愛人同伴で出署してくる署長には何の意味もない。
この連中がある失踪事件を追ううちにこの八仙飯店にたどり着くんだけど、
この映画は決して刑事ドラマでもなんでもないわけで、その捜査のいきさつをサスペンスタッチで
緊張感たっぷりに見せる、なんて大層なものではない。ひたすらぬるく犯人を特定していく。


ただ、そんなぬるま湯ムードの中でも、ウォンは相変わらずバカで従業員に腹を立てれば、
相変わらずぶっ殺して、また肉まんの具にしちゃってる。
拳銃で撃ち殺す、なんてことはしません。だって中華料理屋ですから、その辺にあるもので殺しちゃうわけだ。
女の股に割り箸の束をぶち込んだり、伝票刺しで目玉をぶっ刺す。痛いシーンが続出だ。
そんな感じで肉まんの具には事欠かず店はそこそこ繁盛。うん、肉まんの需要と供給・・・

こんな勢いで中盤以降は、目も当てられないほどの残酷シーンのオンパレード。
これに比べれば、ただ殺人シーンだけを見せるために作られた日本の『ギニーピック』シリーズなんて

昼ドラ並みの甘い香りと口当たりですよ。


中でも、圧巻なのが警察に捕まり、自供の中で回想として語られるチュン一家の惨殺シーンだ。
夫婦二人の殺害シーンはまだいい。とにかくトラウマになるのが、子供たちの連続首切断シーンだ。
こんなのよく撮ったよ、しかし。泣き叫ぶ子供達にもまったく容赦する気ゼロなんだから。
心臓の弱い方は絶対に観ない方がいいでしょう。ショックが大きすぎますから。ほんとすごいよ、ウォンいや香港。

このウォンの犯行シーンもさることながら、自白させるために執拗に繰り返される警察の拷問シーンもこれまたすごい。
殴る蹴るはデフォルトで覚せい剤打ったり水注射打ったりと、人権という言葉をすっかり忘れてしまう数々にも唖然とさせられた。

スプラッターホラーというのは、アメリカやイタリアなんかでゾンビ絡みも含めて星の数ほどあるけど、
これほど嫌なインパクトのあるホラーはそうそうないし、オレは観たことがない。


THE UNTOLD STORY2



そもそも、実話を元にしたという映画ではあるがそこには一切のメッセージ性はないわけで、単純に娯楽作としてこれだけのモノを作ってしまうこと自体が後にも先にもないだろう。

遺族の方々が・・・ とかそんなことはまったく構わない姿勢。やっぱり物凄い商魂だわ。


主演のイカれ男ウォンを演じるのはアンソニー・ウォン。この作品で香港アカデミーの主演賞を受賞した彼は、
その後もB級映画界をまっしぐらかと思いきや、最近では傑作『インファナル・アフェア』シリーズや
『頭文字D THE MOVIE』などメジャー作品で自信満々の貫禄の演技を見せている。
演技派と呼ばれる連中のルーツを辿ってみるとこういうケースはぜんぜんレアじゃないけど、
この『人肉饅頭』での鬼畜っぷり全開な演技を知ってると、
すっかり更正したような彼が『インファナル・アフェア』でスーツ着てデカやってるのを観た時は笑えた。


『スーパーサイズ・ミー』を観ながらビックマックは食えるけど、さすがにこの『人肉饅頭』を観ながら
肉まんを頬張れるやつは物凄く腰の据わったヤツか単なるバカだと断言するよ。

とにかく後味の悪さとトラウマ指数は折り紙つき、間違っても気になるあの子とは観ないことをおススメします。


この映画、タランティーノは絶対観てるはず。しかもかなり好きなはずだ。


カルネ

『カルネ』(‘91/フランス)
監督: ギャスパー・ノエ



映画まみれR-Carne



フランスの奇才ギャスパー・ノエが1991年に発表した、たった40分の作品『カルネ』。
この短い時間の傑作の中には、彼独自の陰鬱な世界観とヴィジュアルが詰まっている。


カルネというのは、色とその安さからフランス人から軽蔑の意味でつけられた馬肉のことを指している。
映画冒頭に、「注意!感受性を傷つける危険な部分があります。」とのメッセージの後に画面に映るのは
馬の凄惨な屠殺映像。このシーンだけ見て、この映画がただならぬ作品なんだと観客にイメージを植えつけさせ、これから語られるこの男の話から絶対に目をそらすな、と叩きつけられるような感じだ。


CARNE 1



舞台はフランスのパリ郊外。そこで小さな馬肉屋を営んでいる男(名前は語られない)。
幼い頃から男手ひとつで育て上げた娘と二人で暮らしている。
今までまったく口を開かない娘をこの男は何よりも溺愛していた。


馬肉屋を営んでいる彼は、馬肉と同じく周りの人間からも小馬鹿にされているような描かれ方をされている。
そして、いわゆる知恵遅れでまったく口を聴かない娘。体も女性らしくなってきた娘を未だに風呂に入れてやり、下着まで履かせる男。
観客は恐らく、この男が「あること」をしないかととても嫌な予感を感じながら観ることになる。

その予感はこの作品でこそ的中はしないが、娘への愛が親が子を想うそれとは明らかに違うことは十分感じられるだろう。ギャスパー・ノエはぼくらの安っぽいモラルやタブーをことごとくぶち壊す。

「本当はこういうのがみたいんだろ?」と言わんばかりに。

この『カルネ』の中で、度々現れる銃声のような音の後に観客に向けられるメッセージ、血を連想させる画面を覆う赤色、そして、劇中映し出されるテレビの画面からも、不穏な感情を掻き立てるような気味の悪い映像が流れる。
語り部となるこの男の心理を反映するかのようなこれらの演出は、見る者によっては胸が圧迫されるような嫌な息苦しさを覚えさせる。


CARNE 2



まったくユーモアのかけらもなく、絶妙な編集で見せる息が詰まりそうな映像のリアルさ
は、この手の作品を見たことがない人にとっては「二度と観たくない」「気持ち悪い」
といったネガティブな感想を持つと思う。それでいいんだ。そもそもノエは
誰もが愛してくれるような映画を作ろうとは、これっぽっちも思ってないだろうし、
少しでもネガティブな印象を受けたのであれば、それはもう彼にとっては成功なんだろう。


この作品はいわば、続編である『カノン』のイントロのようなものだ。
少なからずのモラルさえが崩壊し、娘からの愛ただそれだけを望む男が人生のどん底において、
どんどんネガティブな感情をエスカレートさせていく。


テーマを見出すのであれば、それはもちろん愛だろう。娘に対して子以上の愛を持ってしまった男。
ただ、彼女との会話はない。言葉のコミュニケーションがない娘は、果たして自分のことを父として
そして男として愛してくれているのか。そんな屈折した想いが爆発するのが『カノン』である。


十二人の怒れる男

『十二人の怒れる男』 (‘57/アメリカ)
監督: シドニー・ルメット


十二人の怒れる男



おそらくこのブログを見ていただいてるほとんどの方が生まれる前の作品だろう。
たとえば、1950年代の映画というとどういうものがあるだろうか。
有名なところでいうと、かのアルフレッド・ヒッチコックの『裏窓』や『めまい』などの名作もこの頃、
オードリー・ヘプバーンが『ローマの休日』や『麗しのサブリナ』などに出演したのもこの50年代だ。


とても古い映画ではあるけど、派手な演出が踊っている最近の映画にはない、
地味ではあるけど新鮮な印象を受ける作品がこの『十二人の怒れる男』だ。
監督は、アル・パチーノ主演の傑作『セルピコ』、『狼たちの午後』の社会派で知られるシドニー・ルメット。

今となっては、CGなどの技術も当時では想像もできないほど進歩しているし、
役者がそれほど演技をしなくても、一応映画として成立してしまうことも少なくない。
ただ、50年も前の映画であるこの作品からは、役者がそれこそ身一つで演技をしているさまを観ることができる。


この作品、タイトルのとおり12人の男たちがアツくぶつかり合う密室劇だ。
キャストのメインはこの12人のみ。びっくりすることにこの映画、女性は一人も出てこない。

密室で描かれるこの作品は、この12人の陪審員が裁判について議論し、決を採るまでの90分を描く。
事件は18歳の少年が父親をナイフで刺して殺してしまったというもの。
有罪であれば、情状酌量の余地はなく死刑となる。さぁ、どうする。

この決をめぐってこの男たちが、エアコンも効かない夏の暑い部屋で、汗をにじませながら、

文字通りむさ苦しいほど熱く議論を重ねていく。

誰もが、有罪だと判断していたが、議論を重ねるうちに話の流れは2点3点し、結論がどんどん変わっていく。
陪審員制とは陪審員が全員一致の結論を導くまでは続けられるため、一人でも異を唱えるものがあれば、
何度も決を採り続けなければならないんだ。


12人の男たちは様々で、さっさと終わらせて帰りたい人、しっかりした理由もなく偏見から死刑を求めるもの、

人一人の命の大きさを説き議論を重ねようとするもの、特に持論もなく流されるだけの人、
一人ひとりが実に個性的で、その一人が発するたった一言で議論の流れが大きく変わっていく。
とにかく人物設定が実にわかりやすくすばらしい。個々の性格や育ってきた環境も違うこの男たちは
それぞれがとても個性的なキャラクターに描かれていて、それが議論にも影響していくんだ。


12 ANGRY MEN12



こうしたやりとりが90分もの間、狭い密室で繰り広げられる。
とにかく会話のみでストーリーが展開していくため、観客も一字一句聞き漏らせないほど集中
することを強いられるだろう。

事件自体のシーンは登場しない。議論の中での会話のみで、いったいどんな事件なのか、
加害者や被害者はどんな人物で、どういった環境で育ってきたのか、などが劇中で描かれる。

まったく無駄のない脚本、セリフの数々は舞台をみているようなライブ感すら感じさせてくれる。


密室劇ではまぎれもなく傑作だろう。これほど場面を変えずに派手な演出もなく、
おそらく今の映画の制作費とは比較にならないほど安く作られたこの作品には、
いい脚本といい役者、これだけ揃えばすばらしい映画を作るには十分なんだと思わせる。


三谷幸喜が『12人の優しい日本人』という舞台劇でリメイクもしたこの『十二人の怒れる男』。
50年も昔の映画ではあるけど、過剰な演出に食傷気味な方にとっては、逆に新鮮に映るだろう。

陪審員制度とは似て非なるものだが、日本でも裁判員制度が2009年までにスタートする。
観客も一緒になって十三人目の陪審員としてこの映画の中で議論に参加してみるのもおもしろい。