監督:是枝裕和

キャスト

 安藤サクラ(麦野早織)

 永山瑛太(保利道敏)

 黒川想矢(麦野湊)

 柊木陽太(星川依里)

 田中裕子(伏見真木子)

 

**************************************

「万引き家族」でカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した是枝裕和監督が,映画「花束みたいな恋をした」やテレビドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」などで人気の脚本家・坂元裕二によるオリジナル脚本で描くヒューマンドラマ。音楽は,「ラストエンペラー」で日本人初のアカデミー作曲賞を受賞し,2023年3月に他界した作曲家・坂本龍一が手がけた。

 

大きな湖のある郊外の町。息子を愛するシングルマザー,生徒思いの学校教師,そして無邪気な子どもたちが平穏な日常を送っている。そんなある日,学校でケンカが起きる。それはよくある子ども同士のケンカのように見えたが,当人たちの主張は食い違い,それが次第に社会やメディアをも巻き込んだ大事へと発展していく。そしてある嵐の朝,子どもたちがこつ然と姿を消してしまう。

 

「怪物」とは何か,登場人物それぞれの視線を通した「怪物」探しの果てに訪れる結末を,是枝裕和×坂元裕二×坂本龍一という日本を代表するクリエイターのコラボレーションで描く。中心となる2人の少年を演じる黒川想矢と柊木陽太のほか,安藤サクラ,永山瑛太,黒川想矢,柊木陽太,高畑充希,角田晃広,中村獅童,田中裕子ら豪華実力派キャストがそろった。2023年・第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され脚本賞を受賞。また,LGBTやクィアを扱った映画を対象に贈られるクィア・パルム賞も受賞している。(「映画.com」より)

**************************************

 

 是枝監督のメッセージがとても分かりやすい映画であった。映画の中で時折聞こえる「怪物,だ~れだ」ということだ。タイトルから考えればそんなことは当然ではないかと思われるが,では,「だれが怪物なのか」というと,全員が「怪物」なのだ。いや,正確に言うと,「全員が自分の中に怪物を抱え込んでいるのだ」。映画は「では,その怪物の正体は何か?」を問う。

 

 映画は三部構成から成っている。(便宜的にそれを第一部,第二部,第三部と表記する)ある小学校で起こった出来事をめぐって,第一部ではシングルマザーである麦野早織が一人息子の湊が担任の保利道敏から理不尽な暴力を受けたということで学校側と談判する様子が描かれる。第二部ではその出来事が保利の視点で描かれる。保利は生徒に暴力を振るうような教師ではなく,教室で湊が暴れているところに遭遇して止めようとしたときに自分の手が湊に当たったのだ。つまり,保利の視点から早織の主張が誤解に基づくものであることが観客に明かされるのである。しかし,第三部では湊と星川依里という二人の小学生の視点からこの出来事を描くことによって,保利の視点も短絡的なものであることが明かされる。映画はこのように第一部→第二部→第三部と進むにつれて「真実」に近づいていくが,そもそも,早織や保利の視点が何に基づいていたのかと言えば,それは彼らの中にある「固定観念」なのだ。早織の主張の根拠は子供から聞き取った話だけである。そこには「子供は嘘をつかない」という固定観念が存在する。事実,湊は嘘をついていたのである。保利の視点で描かれているのは,彼がたまたま自分が見たことに疑いを持たなかったということである。そこには前後の脈絡を無視して自分が見たことは絶対に正しいという固定観念が存在する。

 

 たしかに映画はこのように固定観念がもつ危うさを描いてはいるのだが,この映画を複雑にしているのは湊と依里という二人の子供の存在である。

 「あいつの脳は豚の脳だ」依里の父親が自分の息子について語った言葉だが,湊も「自分の脳が豚の脳ではないか」という疑いを持っている。もちろんこれは比喩的な言い方ではあるが,要するに湊は「自分は普通ではないのではないか」ということで悩んでおり,依里の父親も自分の息子を普通ではないと思っているのである。では,「普通」とはいったい何か?…これがこの映画のテーマであり,まさに「普通」こそが私たちの中にある「怪物」なのだ。早織や保利はなぜ固定観念に基づいた発言をしたのか。「固定観念=普通」だからだ。湊の学校の校長が「幸せとは何か」について言う。「誰かにしか手に入らないものを幸せとは言わない。誰もが手に入るものを幸せって言うのよ」。「誰もが手に入るもの」=「普通」であり,「普通」の観念を共有することが「幸福」だと言っているのだ。逆に言えば「普通」でないことは不幸なことなのだ。ずいぶんと息苦しくないだろうか。湊と依里は自分たちが「普通」でないことに気づき,またそれに悩みながらも「普通でない」自分たちだけの世界を構築しようとした。嵐の中,その世界は崩壊したのか?「普通」から解放された二人のエンディングの幸せそうなシーンはそれに答えている。「普通」の世界でびしょ濡れになっている依里の父親,校長,保利,湊の母親とは対照的に…。

 

監督:石川慶

キャスト

 妻夫木聡(城戸章良)

 安藤サクラ(谷口里枝)

 窪田正孝(谷口大祐)

 真木よう子(城戸香織)

 柄本明(小見浦憲男)

 

**************************************

 芥川賞作家・平野啓一郎の同名ベストセラーを「蜜蜂と遠雷」「愚行録」の石川慶監督が映画化し,妻夫木聡,安藤サクラ,窪田正孝が共演したヒューマンミステリー。

 

 弁護士の城戸は,かつての依頼者・里枝から,亡くなった夫・大祐の身元調査をして欲しいという奇妙な相談を受ける。里枝は離婚を経験後に子どもを連れて故郷へ帰り,やがて出会った大祐と再婚,新たに生まれた子どもと4人で幸せな家庭を築いていたが,大祐は不慮の事故で帰らぬ人となった。ところが,長年疎遠になっていた大祐の兄が,遺影に写っているのは大祐ではないと話したことから,愛したはずの夫が全くの別人だったことが判明したのだ。城戸は男の正体を追う中で様々な人物と出会い,驚くべき真実に近づいていく。

 

 弁護士・城戸を妻夫木,依頼者・里枝を安藤,里枝の亡き夫・大祐を窪田が演じた。第46回日本アカデミー賞では最優秀作品賞を含む同年度最多の8部門(ほか最優秀監督賞,最優秀脚本賞,最優秀主演男優賞,最優秀助演男優賞,最優秀助演女優賞,最優秀録音賞,最優秀編集賞)を受賞した。(「映画.com」より)

**************************************

 

(ネタバレを含む感想です。)

 宮崎県の田舎町で文房具店を営む里枝の前に谷口大祐が現れたのが4年前のこと。二人は恋仲になり結婚する。二人の間には女の子が生まれ,里枝の前夫との間の息子・悠人とも大祐はとても仲良しである。しかし,ある日不慮の事故で大祐が亡くなる。大祐は群馬の実家とは長年疎遠になっており,日頃から万が一の時は家族には連絡しないで欲しいと言っていたため里枝はこの言葉を守っていたが,やはり一周忌には家族に連絡をすることにする。群馬からやってきた大祐の兄は遺影の人物を見て,写っているのは大祐ではないと言い出す。このあたりから映画はミステリー色を帯び,里枝の依頼を受けた弁護士の城戸が大祐の素性を探るという展開になる。ネタバレを承知で言うと,谷口大祐と名乗っていた男は原誠という人物で,原の父親は一家三人を殺害して死刑判決を受けて処刑されており,大祐(原誠)が里枝の前に現れたときには原は2度の戸籍交換をして「谷口大祐」になっていたのである。

 上で私は「このあたりから映画はミステリー色を帯びる」ことになると述べたが,この映画は「ミステリー色を帯びて」はいるが,これをミステリーとして観ると,ある意味拍子抜けすることになるだろう。もしこの映画が本格的なミステリーを意図しているのであれば,原誠の戸籍交換の部分について,戸籍交換を仲介した小見浦,原が一度目に戸籍交換をした相手の「曾根崎義彦」,さらには本物の谷口大祐との出会いの経緯や彼らの実像をもっと丹念に描くべきであろうが,この作品はその辺りはじつにあっさりと描いているだけなのだ。そして,それでよいのである。映画の核心はそこにはないのだから。

 私たちはよく「アイデンティティ」という言葉を耳にする。私自身にとってのアイデンティティって何なのだろうか。「自分探し」という言葉を耳にすることもよくある。自分のアイデンティティを探すということなのだろうが,「自分探し」をした人でアイデンティティが見つかった人っているのだろうか。そもそもどのようなことをするのが「自分探し」なのだろうか。おそらくそんなものがあるはずはないのだ。

 

 さて,この映画の核心について触れてみることにする。ひと言で言うと,この映画は「アイデンティティ」に苦しむ人間とそれからの解放を描いた作品なのだ。原誠は父親が凶悪な殺人犯であり,その血が自分に流れていることに苦しむ。おそらく彼はそこに自分の「アイデンティティ」を見ていたのだろう。ボクシングを始めたのも殴られることによって自分を罰していたのだ。しかし,それでその苦しみから逃れることはできなかった。そして行き着いた先が戸籍交換によって別人になることだった。「谷口大祐」になってからの彼は里枝との幸せな生活の中で落ち着いた人格になることができたのだ。

 映画の中で「アイデンティティ」に苦しんでいるのは原誠だけではない。原の素性を探る弁護士の城戸もそうなのだ。城戸は社会の中では富裕な部類に属し,愛する妻と子供とともに幸せな生活を営んでいるが,日本国籍を取ってはいるものの在日三世なのだ。社会的にはエリートでありながら,時折差別的な言辞に触れることで自分の「アイデンティティ」を揺さぶられるのだ。妻の父親,TVニュースで放映されるヘイトスピーチ,刑務所の面会室での小見浦の言葉…。世間は在日三世であるということを城戸にとってのアイデンティティとして偏見と差別の目で見て彼を苦しめる。原にとっても城戸にとっても,彼らを苦しめている「アイデンティティ」とは「血」だ。家族という「血」。民族という「血」。

 私たちは一人ひとりいろいろな属性を持っているし,その時々によっていろいろな振る舞い―その中には矛盾していることもあるだろう―をする。その中の一つを取ってそれが自分のアイデンティティだと決めつけるのはとても窮屈だし,不幸を招くこともあるのではないか。一人の人間にいろいろな側面があるのであれば,それを極端にまで推し進めていって別人になることもありうるのではないか。それが「アイデンティティ」からの解放であれば…。原誠は「谷口大祐」になることによって自分を苦しめた「アイデンティティ」から解放され,幸せを感じることができた。そのような原の人生を辿ることによって城戸も自分の「アイデンティティ」を相対化することができた。この映画は私にそのように語りかけてきたのである。

 

 印象的なシーンを紹介しよう。

 すべてが分かったあと,里枝と悠人が庭で話をするシーン。そこで感じられるのは谷口大祐(原誠)と暮らした4年間であり,優しかった大祐のことだ。それが彼らにとって大祐のすべてなのだ。そして,ラスト。城戸がバーのカウンターでウイスキーを飲みながら横に座った見知らぬ客と話している。彼は原誠が里枝と知り合ってからの事柄を自分のこととして話している。客との別れ際,彼が自分の名前を名乗ろうとするところがThe End。彼は何と名乗ったのだろうか。城戸?原?谷口?私の想像は「谷口」だ。だって,彼が自分の「アイデンティティ」なるものから解放されたのは「原誠」ではなく「谷口大祐」を通じてなのだから…。

村上靖彦『客観性の落とし穴』(ちくまプリマー新書 2023年)

 

 

 「先生の言っていることに客観的な妥当性はあるのですか?」

 これは著者が医療現場や貧困地区の子育て支援の現場で行ってきたインタビューを題材に用いて行っている大学1,2年生向けの授業で受けることのある質問だそうだ。著者は自分の授業で用いる題材には数値による証拠づけがないので,学生が客観性に欠けると感じるのも自然なことだとしながらも次のような思いに駆られる。「数値に過大な価値を見いだしていくと,社会はどうなっていくだろうか。客観性だけに価値をおいたときには,一人ひとりの経験が顧みられなくなるのではないか」(p.8)。これが著者の本書執筆の動機である。

 

 著者はまず客観性こそが真理であるという通念が生まれた歴史的経緯について言及する。それはこの200年ほどの間の出来事であり,まず自然科学の分野において自然を人間から切り離して正確に認識しようという意志のもとに機械による測定や記録された図像の正確さを追求するという機械的客観性として現れ,さらにそれは法則性を追求することを通じて自然はそのままの姿で現れることをやめ数値と式に置き換えられることになった。しかし,この客観性の追求は自然科学にとどまらず,社会をモノとして捉え,統計によるデータによって数値化して客観的に捉えることができるという社会学を生み出し,さらには心理学においても,「心」とは刺激に対して反応するデータとして客観的に捉えられるものであるとされることになり,それによって人間同士の生き生きとしたコミュニケーションは視野から消えることになった。このような客観性と対をなす数値化は統計学の支配という形をとり,統計が世界の法則そのものであると考えられるようになったのだが,その結果,人間は数字によって序列化され,競争主義の中に置かれ,能力による差別が生み出されることになる。つまり,人間は生産性によって切り分けられ,組織や国家にとって役に立つかどうかということだけで評価されることになる。その最終的な帰結が優生思想であり,劣ると判断された人間が差別され,排除されることになる。

 

 西欧近代の学問が追究した客観性と数値が支配する社会において失われたのは「個別経験の生々しさ」(p.82)である。著者が追求するのはその「経験の生々しさ」の復権であり,そのための方法として挙げられるのは「語り」,特に「即興の語り」である。長年,いわゆる社会的弱者や彼らをサポートする人たちにインタビューをしてきた著者が相手の経験を明らかにするのに重要だと考えていることは「語られた言葉をそのまま記録」(p.85)し,それによって「一人ひとりの語りのディテールを尊重しながら多様な話題間の連関を考える」(p.84)ことである。そうすることで,「本人も気づいていない経験の隠れた意味を浮かび上がらせることもできる」(p.85)のである。

 本書を通じて著者は自分が行ったインタビューをいろいろと紹介しているが,一例を挙げれば,いわゆるヤングケアラーとして精神疾患をもち薬物依存の母親をサポートしていたショウタさんの語りの分析である。その分析を通じて伝わってくるのは「『ヤングケアラー』とか『ネグレクト』といった客観的な概念では捉えきれない,個別的で生き生きとした姿」(p.97)である。著者はさらに進んでこのような経験の生々しさを「偶然性」と「リズム」という観点から考察する。

 乳がんになった哲学者の宮野真生子の語り(書簡)を分析しながら著者は「偶然は生命と関わる。法則から逸脱し,奔放な結果を選ぶ。そのような遊びのなかに経験の生命感すなわち生々しさは宿る」(p.110)と述べる。実際,著者が引用している 宮野真生子の語り(書簡)を読むと,著者の言葉に頷かざるをえないのだ。興味深いのは統計学がこの偶然の問題をどのように合理的に理解しているかということだ。著者の言葉を引用すると,「統計学とは,世の中が偶然の出来事で満ちていることを認めた上で『偶然を飼いならす』ための学問だ」(p.113)ということになる。

 語りはまた,語り手の中で交わらないリズムを生み出すことがあり,その交わらないリズムを取り出したとき語り手が抱える複雑な状況が生々しく浮かび上がる。さらに,語り手がガン患者を専門にケアする看護師Cさんの場合のように,Cさんが関わった患者の状況を語るとき,語り手であるCさんのリズムだけではなく患者の経験のリズムまでがダイナミックに浮かび上がるのだ。「客観性と対置されるのは主観性ではなく,共同的な経験のダイナミズムなのである」(p.123)。

 見られるように著者は個人の語りに直接寄り添うことによって経験の生々しさを浮かび上がらせることができ,経験の生々しさは偶然性やリズムに現れると述べる。そこで,経験の生々しさを捉えるためにはどのような方法を取るべきかが問題になる。もちろん,それは客観とは異なる視点,つまり経験の内側に視点を取る思考法であるが,「経験の内側に視点を取る思考法」と言っても分析者の「主観」ということではない。というのは,「経験の内側に視点を取る思考法」は自分自身だけではなく,他者の経験についてもその人の内側から個別的に記述していくからであり,また,それは対人関係や社会,歴史のからみ合いの広がりを描き出すことでもあるからだ。著者はこのような方法をフッサールとはやや異なった意味での「現象学」と名付ける。

 社会科学は他者についての学問であり,いわゆる弱者と言われる人たち(マイノリティ)が研究のテーマであることもある。その場合,強者(マジョリティ)である研究者がその人たちに学問において「客観的」とされている概念を外部からレッテル貼りをすることは当事者一人ひとりの経験をゆがめることになる。著者はそれを避ける方法を示した上で,一人ひとりの経験は質的に異なるので比較の仕様がなく,したがって序列による縛りからも解放されるのであると述べる。概念とは個別性を追求したはての極限に存在するものなのだ。

 一人ひとりの声を尊重するということを社会的に広げて考えたとき,取り残される人が誰もいない社会の形を考えることができる。そこでは人々はお互いにケアをしあうことになり,ケアを軸としたコミュニティを作ることが可能となる。そのようなコミュニティ作りの一つの例として著者は著者自身が関わってきた大阪市西成区北部という日本有数の貧困地域における社会的実践のあり方を高く評価する。しかし,言うまでもないが,そういった草の根の活動だけで問題が解決するわけではない。最後に著者は国家という大文字の政治の必要性にも言及し,現在の制度の改善点を指摘して筆を置く。

 

 本書は2024年新書大賞第3位に選ばれた著作で,タイトルに惹かれて読んでみた。述べられていることの半分はほぼタイトルから予想していた内容であったが,あとの半分は予想とは大きく違っていた。実はその大きく違っていた部分こそ本書の真骨頂であり,私自身大いに刺激を受けた点である。ところが,今,自分が書いた本書の紹介文を読むと実に難しくて分かりづらい。その主な原因は私の文章の未熟さにあるが,もう一つ,本書の結論部分のみを紹介したということにもあるだろう。実は,本書を読めば分かるが,本書には結論を引き出すために著者がインタビューをした相手の語りがそのまま掲載されており,著者がその語りを分析した上で結論が述べられているので,とても分かりやすい内容になっている。私はこの本はできるだけ多くの人に読んでいただきたいという想いを持っているので,私の紹介文を読んで「難しそうな本だなあ~」という感想を持たれた方たちはぜひこの本を手にとってもらいたい。著者の村上靖彦氏の丁寧な文章を読めばきっとその主張は容易に理解できるはずである。

 最後に一点だけ付記しておきたいことがある。それは,私の紹介文を読むと著者はあたかも近代科学を全否定しているかのように見えてしまうが,決してそうではないということである。その点について著者の考えを述べている部分を引用しておくことにする。

 「数字による束縛から脱出する道筋を本書は探してきたが,それは数字や客観性を捨てるということではない。繰り返すが,問題は客観性だけを真理として信仰するときに,経験の価値が切り詰められること,さらには経験を数字へとすり替えたときに生の大事な要素である偶然性やダイナミズムが失われてしまうことだ。」(pp.134-135) 

 ★引用文中の赤字部分は書籍では傍点がふってある。

 

監督:中江裕司

キャスト

 沢田研二(ツトム)

 松たか子(真知子)

 火野正平(大工)

 奈良岡朋子(チエ)

 

 自然豊かな信州の山荘で日々一人暮らしをしながら,畑で野菜を育て,山菜を収穫して四季折々の日本の食を楽しむツトム。作家である彼には担当編集者である歳の離れた恋人・真知子がいる。彼女は時折東京から訪ねてくる。

 

 「好きな人と一緒に食べるメシが美味しい」。東京からやってきた真知子と食べる旬のタケノコ。映像を通じておいしさが伝わってくる。「献立は畑と相談するべし」なのだ。静謐な映像の中に四季折々の食材によってツトムが作る料理とそれを食べる姿が描かれる。その根底に流れているのは「生きること」,そして「死ぬこと」だ。

 

 映画の序盤。春。満開の桜。西行の歌のナレーション。

 「願わくは花の下にて春死なん その如月の望月の頃」

西行のことはよく知らないが,桜を愛した西行の「理想の死」ということなのだろうか…。

 

 「食べることは生きること」。映画の前半は「生きること」が描かれる。「生きること」=「土を喰らうこと」であり,好きな人と一緒にいることなのだ。ツトムは真知子に言う。「一緒に暮らさないか」

 

 ツトムの亡き妻の母。彼女はツトムの家の近くで一人暮らしをしていたが,ある日亡くなる。「死」は必ずやってくるのだ。そして,ツトムもある日心筋梗塞で倒れる。奇跡的に一命を取り留めるが,病院に運ばれる救急車の中で何度も「死にたくない」と言っていたそうだ。ツトムは原稿用紙に書く。「死を克服する方法」,「死と友だち」,そして,「死神と仲よくつきあう」…。だから,一度死んでみることにした。布団に入る。「お休みなさい」ではない。「みなさん,さようなら」と言ってみる…。やはり,「死」は恐い。「救いがたい生命力」…?

 

 「明日もあさってもと思うから生きるのが面倒になる。今日一日暮らせればそれでいい」

 真知子が言う。「一緒に暮らそうと思う」。ツトムが言う。「所詮,人は単独旅行者。一人で生まれて一人で死んでいく。」「身勝手な男」となじる真知子。亡き妻の遺灰を湖に撒くツトム。死ぬときは一人なのだ。

 

 心の落ち着く映画だった。劇中,ツトムと真知子が梅酒を飲むシーンがある。観ているうちに無性に飲みたくなった。2年前に漬けこんだ梅酒が残っているはずだ。20ccほど飲んだ。美味い。それ以上は1年ほど前からお世話になっている医者に叱られるので…。

 

 

 

監督:チャールズ・チャップリン

キャスト

 チャールズ・チャップリン(浮浪者)

 バージニア・チェリル(盲目の花売り娘)

 フローレンス・リー(花売り娘の祖母)

 ハリー・マイアーズ(大金持ちの男)

 

**************************************

喜劇王チャールズ・チャップリンが監督・脚本・主演を務め,目の不自由な花売り娘に恋をした男の奮闘を,ユーモアとペーソスを織り交ぜながら描いた不朽の名作。トーキー化の波に逆らい,あえてセリフ無しのサウンド版で製作された。

 

家も仕事もない放浪者チャーリーは,街角で花を売る盲目の娘に恋をする。その娘に金持ちの紳士だと勘違いされたチャーリーは,清掃員として働いたりボクシングの試合に出たりして金を稼ごうとするが,なかなか上手くいかない。そんな中,酔っ払いの富豪の男と親しくなったチャーリーは,彼から大金を譲り受けるが…。(「映画.com」より)

**************************************

 

 実はチャップリンの映画の中でも最高傑作との評判の高いこの映画を観るのは今回が初めてである。なぜ今まで観なかったのかと言われても特に理由はないのだが,今回観てみようという気になったのにははっきりとした理由がある。ただ,それを書き出すと長くなるので,あえてその部分は書かないでおく。

 

 鑑賞して最も印象に残ったのは映画の全編を通じて流れている独特な「毒」である。批判しているのではない。逆だ。私にはスラプスティック・コメディというスタイルの中にさりげなく隠されているその「毒」の故にこの映画は不朽の名作となったのではないかと思われるのである。それは人間と時代状況に対するチャップリンの観察の鋭さから生まれたものだと言ってよいだろう。映画の冒頭とラストを取り上げてその点について考えてみた。

 

 冒頭のシーン。大勢の人が見守る中「平和と繁栄の記念碑」の除幕式が行われている。幕が取られると一人の浮浪者が記念碑の像の膝の上で寝ており,そこからその男が像から降りるシーンがスラプスティックに描かれるのだが,これが実に面白い。特に,その浮浪者のズボンに像の剣が刺さっているところでアメリカ国歌が流れたりして,思わず笑ってしまうのだ。

 しかし,このシーンにはしっかりとチャップリン流の「毒」が仕込まれていて,当時のアメリカの平和と繁栄がいかにウソっぽいものであるかを象徴しているように思われるのだ。また,冒頭で主催者の男と来賓の女が挨拶をするシーンがあるのだが,まるで雑音であるかのように何をしゃべっているのかがさっぱり分からないという演出が施されているのである。そもそも,「平和と繁栄の記念碑」の像に浮浪者が寝ているなんて痛烈な皮肉ではないか。

 

 物語はチャップリン演じる浮浪者と盲目の花売り娘の交流を中心に展開されるのだが,そのラストシーン。ここにもチャップリンの「毒」がそっと忍び込むのだ。浮浪者が用立てたお金のおかげで手術を受けて目が見えるようになった花売り娘が花屋で働いているところに偶然その浮浪者が通りがかる。そして,花売り娘は自分をじっと見ているみすぼらしい姿のその男が自分を支えてくれていた人物だということを知る。それは自分が思い描いていた人物像とはかけ離れた姿の男だった。花売り娘は明らかに落胆の表情を見せ,You?「あなたでしたの?」と問い,そして思い直したように握っていた浮浪者の手をさらに強く握りしめたところでカメラは浮浪者の表情をアップで映しThe Endとなるのである。

 このシーンについてはいろいろな解釈が可能であろうが,私には花売り娘は目の前にいる人物に感謝の気持ちはあるものの,自分を救ってくれた人物のあまりのみすぼらしさに失望感のほうが勝ったのだと思われた。私にはそれはチャップリンがこの映画に忍ばせた「毒」のように思われたのである。凡庸な作品であれば花売り娘は目の前の男に感謝の言葉を述べハッピーエンドとなったであろうが,チャップリンはそうはしなかった。おそらくチャップリンは,娘の中に浮浪者に対する感謝の気持ちが湧いてくるのはもっと後になってからだと言いたかったのではないだろうか。それが自然な心情というものだろう。その点に私はこの映画の優れた一面を見たのである。

 

 ところで,この映画の展開を貫いているスラプスティック・コメディというスタイルだが,特にボクシングのシーンなど実に巧みで大いに笑わせてもらった。実は私はスラプスティック・コメディはあまり好みではなかったのだが,「食わず嫌い」であったことを認識した次第である。