監督:石川慶

キャスト

 妻夫木聡(城戸章良)

 安藤サクラ(谷口里枝)

 窪田正孝(谷口大祐)

 真木よう子(城戸香織)

 柄本明(小見浦憲男)

 

**************************************

 芥川賞作家・平野啓一郎の同名ベストセラーを「蜜蜂と遠雷」「愚行録」の石川慶監督が映画化し,妻夫木聡,安藤サクラ,窪田正孝が共演したヒューマンミステリー。

 

 弁護士の城戸は,かつての依頼者・里枝から,亡くなった夫・大祐の身元調査をして欲しいという奇妙な相談を受ける。里枝は離婚を経験後に子どもを連れて故郷へ帰り,やがて出会った大祐と再婚,新たに生まれた子どもと4人で幸せな家庭を築いていたが,大祐は不慮の事故で帰らぬ人となった。ところが,長年疎遠になっていた大祐の兄が,遺影に写っているのは大祐ではないと話したことから,愛したはずの夫が全くの別人だったことが判明したのだ。城戸は男の正体を追う中で様々な人物と出会い,驚くべき真実に近づいていく。

 

 弁護士・城戸を妻夫木,依頼者・里枝を安藤,里枝の亡き夫・大祐を窪田が演じた。第46回日本アカデミー賞では最優秀作品賞を含む同年度最多の8部門(ほか最優秀監督賞,最優秀脚本賞,最優秀主演男優賞,最優秀助演男優賞,最優秀助演女優賞,最優秀録音賞,最優秀編集賞)を受賞した。(「映画.com」より)

**************************************

 

(ネタバレを含む感想です。)

 宮崎県の田舎町で文房具店を営む里枝の前に谷口大祐が現れたのが4年前のこと。二人は恋仲になり結婚する。二人の間には女の子が生まれ,里枝の前夫との間の息子・悠人とも大祐はとても仲良しである。しかし,ある日不慮の事故で大祐が亡くなる。大祐は群馬の実家とは長年疎遠になっており,日頃から万が一の時は家族には連絡しないで欲しいと言っていたため里枝はこの言葉を守っていたが,やはり一周忌には家族に連絡をすることにする。群馬からやってきた大祐の兄は遺影の人物を見て,写っているのは大祐ではないと言い出す。このあたりから映画はミステリー色を帯び,里枝の依頼を受けた弁護士の城戸が大祐の素性を探るという展開になる。ネタバレを承知で言うと,谷口大祐と名乗っていた男は原誠という人物で,原の父親は一家三人を殺害して死刑判決を受けて処刑されており,大祐(原誠)が里枝の前に現れたときには原は2度の戸籍交換をして「谷口大祐」になっていたのである。

 上で私は「このあたりから映画はミステリー色を帯びる」ことになると述べたが,この映画は「ミステリー色を帯びて」はいるが,これをミステリーとして観ると,ある意味拍子抜けすることになるだろう。もしこの映画が本格的なミステリーを意図しているのであれば,原誠の戸籍交換の部分について,戸籍交換を仲介した小見浦,原が一度目に戸籍交換をした相手の「曾根崎義彦」,さらには本物の谷口大祐との出会いの経緯や彼らの実像をもっと丹念に描くべきであろうが,この作品はその辺りはじつにあっさりと描いているだけなのだ。そして,それでよいのである。映画の核心はそこにはないのだから。

 私たちはよく「アイデンティティ」という言葉を耳にする。私自身にとってのアイデンティティって何なのだろうか。「自分探し」という言葉を耳にすることもよくある。自分のアイデンティティを探すということなのだろうが,「自分探し」をした人でアイデンティティが見つかった人っているのだろうか。そもそもどのようなことをするのが「自分探し」なのだろうか。おそらくそんなものがあるはずはないのだ。

 

 さて,この映画の核心について触れてみることにする。ひと言で言うと,この映画は「アイデンティティ」に苦しむ人間とそれからの解放を描いた作品なのだ。原誠は父親が凶悪な殺人犯であり,その血が自分に流れていることに苦しむ。おそらく彼はそこに自分の「アイデンティティ」を見ていたのだろう。ボクシングを始めたのも殴られることによって自分を罰していたのだ。しかし,それでその苦しみから逃れることはできなかった。そして行き着いた先が戸籍交換によって別人になることだった。「谷口大祐」になってからの彼は里枝との幸せな生活の中で落ち着いた人格になることができたのだ。

 映画の中で「アイデンティティ」に苦しんでいるのは原誠だけではない。原の素性を探る弁護士の城戸もそうなのだ。城戸は社会の中では富裕な部類に属し,愛する妻と子供とともに幸せな生活を営んでいるが,日本国籍を取ってはいるものの在日三世なのだ。社会的にはエリートでありながら,時折差別的な言辞に触れることで自分の「アイデンティティ」を揺さぶられるのだ。妻の父親,TVニュースで放映されるヘイトスピーチ,刑務所の面会室での小見浦の言葉…。世間は在日三世であるということを城戸にとってのアイデンティティとして偏見と差別の目で見て彼を苦しめる。原にとっても城戸にとっても,彼らを苦しめている「アイデンティティ」とは「血」だ。家族という「血」。民族という「血」。

 私たちは一人ひとりいろいろな属性を持っているし,その時々によっていろいろな振る舞い―その中には矛盾していることもあるだろう―をする。その中の一つを取ってそれが自分のアイデンティティだと決めつけるのはとても窮屈だし,不幸を招くこともあるのではないか。一人の人間にいろいろな側面があるのであれば,それを極端にまで推し進めていって別人になることもありうるのではないか。それが「アイデンティティ」からの解放であれば…。原誠は「谷口大祐」になることによって自分を苦しめた「アイデンティティ」から解放され,幸せを感じることができた。そのような原の人生を辿ることによって城戸も自分の「アイデンティティ」を相対化することができた。この映画は私にそのように語りかけてきたのである。

 

 印象的なシーンを紹介しよう。

 すべてが分かったあと,里枝と悠人が庭で話をするシーン。そこで感じられるのは谷口大祐(原誠)と暮らした4年間であり,優しかった大祐のことだ。それが彼らにとって大祐のすべてなのだ。そして,ラスト。城戸がバーのカウンターでウイスキーを飲みながら横に座った見知らぬ客と話している。彼は原誠が里枝と知り合ってからの事柄を自分のこととして話している。客との別れ際,彼が自分の名前を名乗ろうとするところがThe End。彼は何と名乗ったのだろうか。城戸?原?谷口?私の想像は「谷口」だ。だって,彼が自分の「アイデンティティ」なるものから解放されたのは「原誠」ではなく「谷口大祐」を通じてなのだから…。