大木毅『独ソ戦』(岩波新書 2019年)

 

 本書は2020年の「新書大賞」第1位に輝いた書物で,今回が再読になるが,何度も読み返すだけの価値のある書物だと言ってよいだろう。

 

 

 1941年6月22日,ナチス・ドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻し,1945年5月まで続いた「独ソ戦」は民間人も含めて数千万におよぶ死者を出した大惨禍で,第二次世界大戦の中でも最も悲惨な戦いであったが,著者の大木毅によれば,研究者を除く多くの人々にとっては必ずしもその実象が正確に伝えられてきたとは言えないものである。それは戦後におけるソ連,ドイツ両国のこの戦争に対する解釈がいろいろな事情のせいで歪められたためであり,その点を是正することが著者による本書執筆の主要な動機だということだ。したがって,著者の目的は「独ソ戦」に関して「史実として確定していることは何か,定説とされている解釈はどのようなものか,どこに議論の余地があるのかを伝える,いわば独ソ戦研究の現状報告を行うこと」(本書「はじめに」より)にある。

 

 戦後,ソ連はこの戦争を「大祖国戦争」と名付け,ソ連邦を構成する諸国民がファシストの侵略を撃退し,輝かしい勝利によって共産主義イデオロギーに基づく体制の優位を示したものとし,そのことによって「対独戦の正当性」 (p.117)を主張した。しかし,著者によれば,そのような正当化によって「対独戦は,通常の戦争ではなく,イデオロギーに規定された,交渉による妥協など考えられぬものとなって」(pp.117-118)いったのであり,「捕虜に対する対応も,決して戦時国際法にかなう人道的なものではなかった。」(p.119)ということになる。

 一方,戦後の西ドイツでは,ナチ犯罪・戦争犯罪という面でも,対ソ戦の責任はヒトラー一人に押しつけられ,国防軍の関与はなかったという歪められた独ソ戦像が描かれてきた。これについて,著者はナチズム運動がヒトラーの「プログラム」に沿って行われたとする「プログラム学派」を取り上げ,「それによれば,ナチズムの現実は,ただ一人の男の恣意と妄想の産物に帰せられてしまう」(p.83)としてこれを批判する。

 ヒトラーは東方植民地帝国の建設を戦争目的に据えてはいたが,その実現のためには,官僚や国防軍の幹部,さらにはさまざまな専門家による政策立案が必要なことも確かであり,本書は戦争のいろいろな局面で彼らがどのような提言をし,またその役割を果たしたかということが史料に基づいて具体的に述べられていて著者の主張を裏付けている。要するに,著者の主張は「ヒトラーの『プログラム』だけでは,ナチズム体制を完全に説明することはできず,その社会的機能も分析しなければならない」(p.84)ということである。しかしながら,その一方で著者は「ヒトラーの理念を無視して,ただ機能的な面から,ナチス・ドイツの歴史を理解することも不可能である」(p.84)とも述べており,「ヒトラーの理念」についても多くのページ数を割いている。その理念こそがナチス・ドイツにとっての「独ソ戦」の性格を明らかにするものだからである。

 著者によれば,ナチス・ドイツにとってはこの戦争は「通常戦争」,「収奪戦争」,「世界観戦争」という3つの側面から成り立っている。「通常戦争」とは,「軍事的合理性にもとづき,対手の継戦意志をくじくことによって,戦争終結をみちびこうとする」(p.78)性格の戦争であり,また,「捕虜取扱における戦時国際法の遵守や非戦闘員の保護」(p.89)に違反しない戦争である。「収奪戦争」とは,東方植民地帝国の建設という構想の実現のための「東部総合計画」と並んでソ連占領地域からの食料の収奪を目的とする戦争である。(pp.90-98) 「世界観戦争」とは,「絶滅戦争」であり,「軍事的勝利のみならず,彼らが敵とみなした者の絶滅を追求する戦争」(p.99)である。

 著者によれば,フランスやイギリスとの戦争,さらには対ソ戦の初期には上の3つが並行する形で進められたが,ドイツにとって戦局が悪化するにつれて,「収奪戦争」と「絶滅戦争」の色彩が濃厚になり,「通常戦争」の基本にあった軍事的合理性が希薄になっていったのである。この点を典型的に表しているのが戦争末期におけるヒトラーと陸軍参謀総長ツァイツラーや南方軍集団司令官マンシュタインとの対立である。ツァイツラーやマンシュタインが軍事的合理性にしたがって敵に空間を差し出すことで体制立て直しや反攻準備のための時間をかせぎ,妥協による講和を導くために退却を進言したのに対し,ヒトラーは「世界観戦争」,「収奪戦争」を優先して断固それを拒否したのである。つまり,「ヒトラーは,敗北直前になってもなお,対ソ戦を交渉によって解決可能な通常戦争に…引き戻す努力をするつもりなどなかった。『世界観戦争』を妥協なく貫徹するというその企図は,まったく動揺していなかったのである。」(p.210)

 さらに著者は戦局がこのような絶望的な状況になっているにもかかわらずドイツ国民がなぜ抗戦を続けたのかについて,ナチスが収奪戦争によって「高い生活水準の保証と社会的勢威の上昇の可能性」(p.211)を与えていたからだ,つまり,ドイツ国民はナチスの「共犯者」だったからであるとしている。これは従来の連合国による無条件降伏の要求に対する屈辱やナチスの秘密警察による統制がその理由であるとする理解を否定するものであるが,さらなる検証の余地があるのではないだろうか。

 

 今回のレビューではあまり触れなかったが,本書は,軍事的な展開の叙述にもかなりのスペースを割いており戦局の推移も非常に分かりやすく説明されていて,新書の体裁を取ってはいるものの非常にレベルの高い論考なので,未曾有の惨禍をもたらしたこの戦争について考えるには恰好の書物であるとともに,現在進行しているウクライナ戦争について考えるための一つの手がかりをも与えてくれるのではないかという気もする。本書によると,ナチス・ドイツが開戦を決意したのは1940年12月18日である。もちろん,東方植民地帝国の建設という構想が背景にあったものの,直接の動機はソ連がフィンランドに侵攻してカレリア地方を割譲させたことであり,「ソ連が国境を西に動かそうと努めていたことは明白であった」(p.16)。つまり,ドイツにとってソ連が侵攻してくるのではないかという危機意識がソ連侵攻につながったと言えるだろう。一方のソ連はどうかと言えばスターリンの大粛清によって軍隊が弱体化していてドイツに侵攻する可能性は低く,スターリンが各国に潜伏させておいたスパイたちからの無数の警告にもかかわらずドイツの侵攻を信用しなかったために,開戦当初,ドイツが採用した「電撃戦」により驚異的な進撃を許す結果になった。もしこのことがロシアにとってのトラウマとして残り,プーチンがソ連崩壊後のNATO加盟国の拡大をドイツの侵攻に重ね合わせたことが国際法に照らして絶対に許されないウクライナ侵攻の一つの要因であったとすれば,歴史に学ぶことがいかに重要であるかを痛感せざるを得ないのである。

 2024年の「新書大賞」が発表された。

 主催者の発表によると,「2022年12月~2023年11月に刊行された1200点以上の新書を対象に,有識者,書店員,各社新書編集部,新聞記者など新書に造詣の深い方々107人が投票した結果」であり,第1位に輝いたのは今井むつみ / 秋田喜美『言語の本質』(中公新書)である。

 この本は2023年5月25日に初版が発行されたのであるが,私がこの本の存在を知ったのは今年になってからで,10日ほど前に紀伊國屋書店梅田本店で購入したばかりである。未読なのだが,近日中に読んでみたい。

 

 ところで,合わせて発表される2位~20位は以下のようである。

2位 東浩紀『訂正する力』(朝日新書)

3位 村上靖彦『客観性の落とし穴』(ちくまプリマー新書)

4位 三牧聖子『Z世代のアメリカ』(NHK出版新書)

5位 鈴木大介『ネット右翼になった父』(講談社現代新書)

5位 周司あきら / 高井ゆと里『トランスジェンダー入門』(集英社新書)

7位 辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書)

8位 小泉 悠『ウクライナ戦争』(ちくま新書)

9位 三浦まり『さらば,男性政治』(岩波新書)

10位 千葉 聡『ダーウィンの呪い』(講談社現代新書)

11位 佐藤俊樹『社会学の新地平』(岩波新書)

12位 國分功一郎『目的への抵抗』(新潮新書)

13位 間 永次郎『ガンディーの真実』(ちくま新書)

13位 牧野百恵『ジェンダー格差』(中公新書)

13位 森部 豊『唐―東ユーラシアの大帝国』(中公新書)

16位 宇野重規『実験の民主主義』(中公新書)

17位 斎藤幸平『ゼロからの「資本論」』(NHK出版新書)

18位 友田健太郎『自称詞〈僕〉の歴史』(河出新書)

19位 湯澤規子『「おふくろの味」幻想』(光文社新書)

19位 井奥陽子『近代美学入門』(ちくま新書)

 

 投票者数が107人と少ないため5位,13位,19位が同点だったようだが,なんと,読んだことのある本が一冊もない!タイトルや短文での本の紹介を読んで興味を持てそうな書物としては,3位 村上靖彦『客観性の落とし穴』,5位 鈴木大介『ネット右翼になった父』,8位 小泉 悠『ウクライナ戦争』,10位 千葉 聡『ダーウィンの呪い』,11位 佐藤俊樹『社会学の新地平』,19位 湯澤規子『「おふくろの味」幻想』といったところか。

 

 ここに挙げられている20人のなかで,その人が書いた他の著作を読んだことのある著者は鈴木大介,國分功一郎,宇野重規,斎藤幸平の4人である。

 鈴木大介の著作は以前『最貧困女子』(幻冬舎新書)を読んだことがある。この本は,家族・地域・制度(社会保障制度)という3つの縁をなくし,セックスワークの中でも最下層に埋没して日銭を稼ぐしかない「最貧困女子」の苦しみや痛みを可視化することで一定の解決の方向を提示している渾身のルポである。

 國分功一郎の著作では『暇と退屈の倫理学』(太田出版)について当ブログで書評を書いたことがある。

 宇野重規の著作は『民主主義とは何か』(講談社現代新書)を読んだことがある。古代ギリシアから始まって民主主義についてのいろいろな考え方を論じた書物であり,「理念としての民主主義」を学ぶには恰好の書物である。ただ,現実政治のなかで民主主義をどのように実現できるかということについてはあまり論及がなく,その点では物足りなさが残った。『実験の民主主義』ではその辺りが取り扱われているのだろうか。

 斎藤幸平の著作はベストセラーになった『人新世の「資本論」』(集英社新書)を読んだことがある。著者の地球環境問題の取り上げ方については理解はできるが,『資本論』の解釈はかなり牽強付会で『資本論』を読んだことのない読者をミスリードしかねないのではないかと思われる。

第68回有馬記念(中山競馬場 芝2500m)

 

 馬券を買うのはダービーと有馬記念の年に2回だけなのだが,今年のダービーはマグレで的中したので,どシロウトが調子にのって本日の有馬記念も予想してみた。

 イクイノックスが引退したおかげで,単勝一ケタ台の馬が7頭と大混戦の有馬記念になった。13時30分現在,単勝1番人気は⑩ジャスティンパレスの3.8倍。以下⑤ドウデュース(5.1),⑮スルーセブンシーズ(6.9),④タイトルホルダー(4.2),①ソールオリエンス(7.5)と続く。

 

まず,過去のレース回顧から。

 

●過去のレース回顧(数字は左から着順,1着馬との着差,コーナー通過順位である)

★宝塚記念 2200m 17頭

スルーセブンシーズ 2着 0.0  17-17-16-12    凱旋門賞4着

ジャスティンパレス 3着 0.2  12-13-11-9     天皇賞(春)1着 宝塚記念3着

ディープボンド       5着 0.4  7-7-8-6

ブラタリア     6着 0.4  11-10-11-12

  5F 58.9のややHペース。スルーセブンシーズは道中最後方でイクイノックスをピタリとマーク。4コーナー過ぎで一瞬前が詰まる不利。追い出してからの切れ味を見ると,あの不利がなければイクイノックスに勝っていたかもしれない。その後の凱旋門賞4着を含めてこの馬は相当強いと思われる。ジャスティンパレスは後方から4~5頭目を追走。4コーナー過ぎでスルーセブンシーズに少し寄りかかるシーンもあったが追い出してからはいい足を使っている。この馬もかなり強い。ディープボンドは中団追走でよく粘ってはいるがスルーセブンシーズ,ジャスティンパレスに比べると見劣りはする。

 

★菊花賞 3000m 17頭

タスティエーラ       2着   0.6  9-11-9-8    皐月賞2着 ダービー1着

ソールオリエンス    3着   0.9  11-12-12-8   皐月賞1着 ダービー2着

 5F 60.4のややHペース。タスティエーラは好位から競馬を進める。ロングスパートのほうがよいので,早めに仕掛けることができれば有力候補。ソールオリエンスだが,4コーナーではタスティエーラとほぼ同じ位置だが追い出しが遅れる。ゴール前はいい足を使ったが届かず。外を回しすぎ。距離にやや疑問? 3歳馬2頭の比較では,タスティエーラ>ソールオリエンス。

 

★天皇賞(秋)2000m 11頭

ジャスティンパレス 2着   0.4  10-10-10  天皇賞・春1着 宝塚記念3着

ドウデュース    7着   0.9  4-4-4

 5F 57.7のHペース。ジャスティンパレスは後方から2番手で進み,上がり33.7秒の脚で伸びるが,勝ったイクノイックスが強すぎた。今回有利な枠順だけに,やはり有力馬の1頭。ドウデュースは休み明けで体調がイマイチだったかも。

 

★JC 2400m 18頭

スターズオンアース 3着   0.8  4-4-4-4

ドウデュース          4着   1.1  6-6-6-6

タイトルホルダー    5着   1.5  2-2-2-2  オールカマー2着

ディープボンド       10着 1.8  6-6-6-6

 スターズオンアースは残り400mぐらいから追い出す。仕掛けてから加速まで少し時間がかかるが,加速すればいい脚を長く使える。今回,早めに仕掛けることができるかどうかがカギ。ドウデュースはスターズオンアースと同時に追い出すが通過順位の差が縮まらず。しかし,前走の「天皇賞」の時よりははるかによくなった。タイトルホルダーだが,逃げ馬が5F 57.6で大逃げを打ったため大きく離れた2番手を追走。この馬は61秒台か。東京より小回りのきく中山向きの馬のようである。

 

 以上より,馬の能力の一番手グループには⑩ジャスティンパレス,⑮スルーセブンシーズ,⑬タスティエーラ,⑯スターズオンアースを挙げたい。二番手グループには①ソールオリエンス,⑤ドウデュース,④タイトルホルダーを挙げておく。

 

●枠,展開

 有力馬として挙げた4頭のうち,⑮スルーセブンシーズ,⑯スターズオンアースは外枠に入った。中山2500mはスタートしてすぐにカーブに入り,そのまま4コーナーに差し掛かるため,外枠の馬は4コーナーで大きく外に振られる可能性があるため外枠は不利なコース形態になっている。その分,⑮,⑯は割り引いて考える必要があるだろう。逆に⑩ジャスティンパレスは絶好の枠を引き当てたと言える。⑬タスティエーラは微妙だが,それほど大きく割り引く必要はないだろう。

 展開であるが,逃げるのは④タイトルホルダーだろうが,⑦アイアンバローズの出方が気になるところ。⑦がステーヤーズSの時のように大逃げを打った場合,④はJCの時のように2番手に控える可能性が高いが,⑦と先行争いになった場合は④にとってはキビシイ競馬になりそうだ。ここをどう読むかでペース,展開が変わってくるが,無難に⑦はそれほど競りかけることはしないで④が逃げ,⑦が2番手追走か,⑦が大逃げを打ち④が離れた2番手追走と考えたい。有力馬の動向だが,⑮,⑯は外に振られるのを嫌ってスタート直後,無難に後方に控えるだろう。⑩ジャスティンパレスは前走の「天皇賞」こそ後方からの競馬になったが,本来は好位で競馬を進める馬なので,枠の有利さを活かして5~8番手からの競馬になるだろう。⑬タスティエーラは前方集団の前,4~5番手からの競馬で早めに仕掛けることになるだろう。⑦は3~4コーナーで失速すると思われるので,4コーナーでは逃げる④に⑬タスティエーラ,⑩ジャスティンパレスが迫り,⑮,⑯が外を回って上がってくるだろう。直線では⑬,⑩が④を交わして抜け出したところに⑮,⑯が迫ってきたところがゴールになるだろう。

●結論

 今の中山はなぜか馬場状態が非常によいらしく,前を行く馬が止まらない可能性が高いので,それを考えると⑬,⑩での決着の可能性が最も高い。この2頭に割り込むとすれば高速馬場で33秒台で上がることもできる⑮,⑯のどちらかだと思われるが,⑮,⑯で決着することはないだろう。大混戦だが,ほぼこの4頭での決着と見た。①ソールオリエンスの取扱が難しいが,現状ではタスティエーラとの勝負付けは終わっていると思われるので,来ても3着止まりと見る。現在2番人気の⑤ドウデュースだが,ピンとくるものがないのでカットする。あと,馬場状態を考えて④の粘り込みがあるかもしれないとは思うが…。

馬券はすべて馬連で。

大本線 ⑩-⑬ 10.7

本線  ⑩-⑮  14.1

本線  ⑩-⑯  22.6

本線  ⑬-⑮  22.8

本線  ⑬-⑯  22.8

押さえ ④-⑩  19.1

押さえ ④-⑬  35.7

 

 ど素人のこの予想に乗って馬券を買う人はいないと思いますが,馬券購入はくれぐれも自己責任でよ   ろしく。

 

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「有馬記念」レース回顧

 

着順は以下の通り。

1  ドウデュース             

2  スターズオンアース

3   タイトルホルダー

4   ジャスティンパレス

5   シャフリヤール

6   タスティエーラ

7   ウインマリリン

8   ソールオリエンス

9   ハーパー

10  ホウオウエミーズ

11  アイアンバローズ

12  スルーセブンシーズ

13  ライラック

14  プラダリア

15  ディープボンド

16  ヒートオンビート

 

 予想で「ピンとくるものがない」としてカットした⑤ドウデュースが1着。全く完敗の予想になってしまった。馬の状態がよかったこともあるだろうが,馬場状態を考慮して3~4コーナーで進出して早めに仕掛けた武豊の勝利であった。

 予想での本命⑩ジャスティンパレス,⑬タスティエーラについて。⑩ジャスティンパレスはスタートが最悪だったことが大きな敗因であろう。他馬に包まれる形で最後方からの競馬になってしまったことに加え,早めに進出できなかったことが響いた。最後は追い込んできたが,それほど切れる脚があるわけではないので4着止まり。⑬タスティエーラは馬体重が前走よりプラス18kgで体調がイマイチだったと思われる。道中も中団やや後方で行きっぷりが本当に悪かった。

 他の⑮スルーセブンシーズ,⑯スターズオンアースの2頭について。⑯スターズオンアースはスタート直後2番手につけて終始前での競馬。さすがはルメール騎手といったところだ。⑮スルーセブンシーズの凡走については原因がよく分からないが,海外競馬帰りで調整が難しかったのかもしれない。④タイトルホルダーはマイペースでの逃げ。馬場状態にも助けられて3着に粘りこんだ。

 

 

 この数十年間の時代の変化とともに街から消えたものと言えば,街の電気屋さん,街の本屋さん,街の写真屋さんが代表的なものだろう。家電の量販店,大型店舗の書店,スマホのカメラ機能がそれらに代替したのだが,何と言ってもネット通販によって凌駕されてしまったことが最大の原因だろう。やむを得ないことではある。家電製品は量販店で買う方が安価だし,町の本屋さんの本の取りそろえは大型店舗の書店の足下にも及ばない。ネット通販の便利さは言うまでもないが,再生中に止まってしまったDVDやページが剥がれていた古本など過去何度かイヤな目に遭ったことのある私としては,コロナ禍になって以来あまり外出しなくなったこともあり,あらためて街の電気屋さんや本屋さんの良さを再確認したのである。最大のメリットは直のコミュニケーションだと思うのだが,この数年来必要な本を取り寄せてもらったり店頭で購入してきた近所の本屋さんがとうとう最近閉店してしまって,とても寂しい思いをしている。

 この本屋さんには過去6,7年間『キネマ旬報』を取り置きして貰っていたこともあるのだが,2年ほど前に『キネマ旬報』は「まあいいか」ということで定期購読をやめてしまった。しかし,その後も新書や文庫から少々値段の張る浩瀚な書物まで,店に在庫のない本はいろいろと取り寄せて貰ったのだが,今年取り寄せて貰った本の中で浩瀚な書物と言えば以下の3冊だ。

 

①    カール・ポラニー『大転換』(野口建彦・栖原学訳 東洋経済新報社)

 

 

 1944年に書かれた書物で1975年に翻訳が出ており,かなり話題になった書物だが,当時私は経済学を専攻する大学院生であったにもかかわらず,不勉強のせいで1ページも読むことのなかった書物である。今回購入したのは2009年出版の新訳である。「訳者あとがき」も含めると549ページにも及ぶ浩瀚な書物だがなんとか読んでみた。簡単にまとめると以下のようなことが述べられている。

 

 ポラニーによれば,経済とは本来社会のしきたりや文化,法,制度などと同様社会の中に埋め込まれていたものである。いわば社会のone of themであったのだが19世紀に「悪魔の挽き臼」(ポラニーの言葉)とも言うべき「自己調整的市場」が成立し,そのことによって経済が社会の基底的なものになった。「自己調整的市場」が成立するためには人間(労働),自然(土地),貨幣の三者が擬制的に商品化される必要があるのだが,この三者は本来商品化されるものではないので,社会は商品擬制からこれらを守らなければならず,そのためには工場法や社会立法(労働),土地立法や農業関税(土地),中央銀行制度(貨幣)などを必要とした。そのような意味で19世紀は「自己調整的市場」と「社会」とのせめぎ合いの時代であり,それが一定のバランスを保っていたのだが,20世紀になると金本位制の崩壊から「自己調整的市場」が崩壊し,「社会」は自己防衛の形としてファシズム,社会主義,ニューディールを生み出した。しかし,この体制,特にファシズムは生産領域と政治領域における民主的制度の破壊という代価を支払うことで達成される市場経済の改革であり,文明の滅亡につながるものであった。したがって,「社会」による「自己調整的市場」からの防衛は別の形を取るべきであるが,そのためには「自由」の問題が最も重要になる。

 簡単にまとめると以上のような内容になる。今日では経済学と言えば新古典派の流れをくむ新自由主義的な市場理論に基づく考え方が主流で,ポラニーがこの書物を著してから80年近く経つが,我々の社会は未だ「自己調整的市場」を克服する術を見いだしていないようだ。

 

② 平野啓一郎『三島由紀夫論』(新潮社)

 

 

 670ページにも及ぶ書物で2カ月ほど前に取り寄せて貰ったがまだ1ページも読んでいない。ツンドクの崖っぷちに立たされている本なのだが,崖から落ちないように年明けから読み出すことにしたい。

 

③    デヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明』(酒井隆史訳 光文社) 

 

 

 ②の本を1ページも読んでいないというのに「人類史を根本からくつがえす」などというキャッチコピーにつられて,近所の本屋さんの閉店記念(?)に取り寄せて貰った。2段組643ページの書物。分厚い本なのにソフトカバーだったのには少しビックリしたが,机の上で開いてもパタンと閉じないので読みやすそうだ。

 

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 そう言えば,しばらく前のことだが,林健太郎『ワイマル共和国』(中公新書)を読もうと思って当の本屋さんに電話で在庫があるかどうかをたずねたときのこと,アルバイトの若い女性が出て―

私「もしもし,林健太郎の『ワイマル共和国』の在庫があるかどうか調べて頂けませんか。出版社は中公新書です。」

店員「はい,お待ちください。調べてまいります。」

 しばらくして―

店員「お調べしましたが,あいにく『アニマル共和国』は在庫がありませんでした。」

私「は?いえ,『アニマル共和国』ではなくて『ワ・イ・マ・ル共和国』です。」

店員「すみません。失礼いたしました。もう一度調べてまいります。」

 私の滑舌が悪いのか彼女の耳が遠いのか…,たぶん前者だろう。まあ,在庫があったので無事に取り置きして貰うことができて,よかったのだが…。

 

 ワイマル共和国が成立後わずか14年で消滅し,その中からナチスが台頭してきた政治史を扱った書物。1963年初版の本だが,今でも非常に興味深く読むことのできる書物である。私はブリューニングに対する著者の評価が特に印象的だった。

 

監督:フー・ボー

キャスト

 チャン・ユー(ユー・チェン)

 パン・ユーチャン(ウェイ・ブー)

 ワン・ユーウェン(ファン・リン)

 リー・ツォンシー(ワン・ジン)

 

 久しぶりに映画を観た。いや,映画は観ている。もっぱらDVDと配信を通じてだが,毎月7~8本は観ている。正確に言おう。本物の映画を観たということだ。

 

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時代の流れとともに炭鉱業が廃れた中国の小さな田舎町。少年ブーは友達をかばい,不良の同級生をあやまって階段から突き落としてしまう。不良の兄は町で幅を利かせているチェンだった。チェン達に追われ町を出ようとするブーは,友達のリン,近所の老人ジンをも巻き込んでいく。親友を自殺に追い込んでしまい自責の念にかられているチェン,家に居場所がなく教師と関係を持つことで拠り所をみつけるリン,娘夫婦に邪険にされながらも老人ホーム行きを拒むジン。それぞれに事情を抱えながらも,遠く2300km先の果て満州里にいる,一日中ただ座り続けているという奇妙な象の存在にわずかな希望を抱き4人は歩き出す――。(オフィシャルサイト「イントロダクション」より)

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(ネタバレの可能性あり)

 沿岸部の繁栄とは裏腹な現代中国の廃れた田舎町に住む4人のある1日の出来事をほぼ4時間に及ぶ長尺で描いた作品。その全編を通じて20代の若き才能,フー・ボー監督は「現実を映し取っていない映画など映画と言えるのか?」とでも言っているかのごとくに観客に迫ってくるのだ。

 

 この廃れた田舎町で人々は自分のことで精一杯,他人には無関心,エゴイズムむき出しで誰も他人を助けようとしないし,自分の不幸を他人の所為にして,家族の喧嘩も絶えない。この町から出て行く術も知らず,未来への希望も持てない人々が住む町で明るい笑顔を見せた人物は誰もいなかった。あるのは嘲笑の笑いと自己憐憫の笑いだけだ。

 ブー,チェン,リン,ジンもそれぞれ個人的な事情から絶望を抱えて生きている。彼らはそろって無口で無表情だ。大声で叫ぶこともほとんどない。泣きわめくこともない。それはそれぞれの絶望の大きさでもあるのだろう。フー・ボー監督の視線は,自然光での撮影と長回しのカメラワークで彼らの閉塞感を捉える。全ての根源にあるのは貧困だ。チェンの自嘲気味の口癖は「オレはクズだ。人生なんてゴミだ」

 映画には死の臭いも漂う。チェンの親友の自殺。原因はチェンがその親友の妻と不倫をしたことだ。チェンの不良の弟でブーに誤って階段から突き落とされた若者の転落死。ブーの友人のピストル自殺。出口は死しかないのか。それとも,どこかに希望はあるのか。これは4人それぞれの問いかけだ。カメラはその問いかけに寄り添うようにして進む。それはまたフー・ボー監督の自分自身に向けられた問いかけのようにも見える。

 4人の人生はそれぞれの身に降りかかったトラブルによって交錯し,ブー,リン,ジンの3人とジンの孫娘は導かれるように2300km先の満州里にいる,一日中ただ座り続けているという噂の奇妙な象の存在に「希望」を託す。なぜ?理由などない。何かに希望を託さなければ生きていくことなどできないのだ。

 満州里行きの夜行列車が運休になり,諦めるジン。それでもバスを乗り継いで行こうとするブーに向けてジンが言う。「人は行ける。どこにでもな。そして分かる。どこも同じだと。その繰り返しだ。だから行く前に自分を欺すのだ。今度こそ違うと。…一番いい方法はここにいて向こう側を見ることだ。そこがよりよい場所だと思え。だが行くな。行かないからここで生きることを学ぶ。」帰りかけるジンを追いかけていくブー。そして言う。「行こう」4人はバスに乗る。そして…,終点の満州里でバスを降りた4人の耳をつんざいて夜空に響き渡る象の鳴き声。それは希望なのか,それとも死への出口なのか…。

 

 人生に予定調和などあるはずはない。それがあるなどと思わせるのはヌルい映画の中だけだ。フー・ボー監督はそれを峻拒し,現代中国の,いや現代世界の現実を見事に切り取って見せた。この映画を見た多くの人たちは彼のその才能に期待を寄せ次回作を待ち望んだであろう。しかし,自身のデビュー作であるこの映画が完成した直後,彼は29歳の若さで自死を選んだ。もちろんその理由など私には分からないが,この映画はヌルい映画を撮り続けている映画人への彼の遺言なのかもしれない。(合掌)