百分の十九の休止符
短い間でしたが、毎日おつき合いいただきありがとうございました。
案外書けるもんだな、と思うと同時に、書くのはやっぱり大変だな、と振り返っています。
何かが書きたいという欲はあるのですが、はてさてこれから先、何が書けますやら。
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連続投稿、休止。19/100でおわっちゃった。
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[019] 北インド、ハリドワル。外出制限の日々。|としべえ2.0β @tosibee #note https://note.com/tosibuu/n/n1e6fe5d39b82
連続投稿そろそろ終わり?
[018] 日本語を使いこなす豆知識。あるいは、辞書と誤用と確信犯。
※先行公開です。
☆18日め
みなさん、日本語は使いこなしてますか?
日本で生まれ、日本で育った方なら、最低限の読み書き能力はあるでしょうから、「noteで何か表現をしようか」と思ったら、まずはエッセイ的なものから入るのが、多くの方にはやりやすいはずです。
今日は文章の書き方ではありませんが、文章を書く上での豆知識的に、日本語の「誤用」と「言葉の変化」について、ちょっと考えてみることにします。
* * *
確信犯という言葉があります。
例えば、あなたの友だちウソコちゃんは、いつも平然と嘘をつく人だとしましょう。別の友だちと話をしているとき、ウソコちゃんの嘘の話になりました。
そこであなたはもう一人の友だちに、
「あの子が嘘つくのは、確信犯だからなぁ」
とぼやきます。
このように確信犯を「悪いと分かっていて何かをすること、あるいはする人」として使うのは、今ではまったく普通のことですが、これは元々は誤用だったんです。
知ってましたか?
※以下引用は、文化庁のこちらのページより。
https://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2012_05/series_10/series_10.html
確信犯というのは元は法律用語で、「日本国語大辞典 第2版」では次のように説明されています。
確信犯 [名] ①法律で,政治的,道義的,思想的,宗教的な確信に基づく義務感または使命感によって行われる犯行。政治犯,思想犯などと呼ばれるものがこれに当たる。
②俗に,トラブルなどをひきおこす結果になるとわかっていて,何事かを行うこと。また,その人。
1番めに法律用語としての説明があり、2番目に一般的な用法が説明されています。この説明では、「単に悪いと知っていてする」のであって、本人がそれを「正しいと思っているかどうか」は問題になったいません。ですから、意味的に異なるものに同じ言葉を使っているので、「誤用」と考えることもできるでしょう。
これに対して「明鏡 第2版」では、
→①と同様,その背後には最終的に自らが正しいという確信がある。
2番目に対してこのような注釈がついています。
この場合は、①の法律用語に対して、②はその一般化ないし、比喩的用法ということになります。(犯罪ではないことなのに軽く「犯」という言葉を使っているわけです。社長でない人に「よっ、社長!」と呼びかけるのと似た使い方ですね)
そして「岩波国語辞典 第7版 新版」では
→1990年ごろから,悪いとは知りつつ(気軽く)ついしてしまう行為の意に使うのは,全くの誤用。
という説明があります。
これは「悪いと知りつつ犯罪を行なう」のは法律上は「故意犯」と呼ぶべきな上に、「悪いと知りつつ、気軽にする」というレベルの行為を「犯」というような強い言葉を使うのはおかしい、ということなのでしょう。
しかしながら、ぼくの感覚では、岩波のように「まったくの誤用」とするのは、ずいぶん頭のかたい学者さんだなぁ、という気がします。
一般の人は、「確信犯」と「故意犯」の違いなど、普通知りませんから、それを誤用と厳密に言ったからといって、普及してしまった言い方がなくなるわけはありません。
そして何よりも、言葉は生き物。
自分の知ってる意味と違う使い方をしているのを見ると、なんだかもわーっとした気持ちも湧いてきますが、生きて変化する言葉のダイナミズムを味わってこそ、文章を書くおもしろさも増していくというものです。
「この使い方が正しい」とか「この使い方は間違ってる」とか、あまりかたく考えすぎず、「この言葉をこんなふうに使うのか!」とびっくりしながらも、楽しんでしまうことをおすすめする次第です。
* * *
ちなみにこの話題は、ちくわ【どんぐり】さんのこちらの投稿を受けて書いています。
https://note.com/heso/n/n83fcf36cc155
ちくわさんとコメント欄でやり取りをしていて気づいたのですが、実はぼくも「確信犯」と「故意犯」の区別がつかないままに、
「単に比喩的な用法をわざわざ『誤用』というのはヘン」
と思ってました。
つまりウソコちゃんが「自分が嘘をつくのは正しい」と思ってるかどうか、までは考えてなかったわけです。
とまあ、ぼくのようなそそっかしい人間は、分かってるつもりで分かってない場合もあるので、何か発言する前には、きちんと調べることが大切です。
みなさんの場合は、そんなことはないでしょうけれども、「あれ、この言葉、この使い方でよかったかな」と思ったら、めんどくさがらずにぱっと調べてみるのがいいですよね。
思わぬ発見があって、「へー、そうだったのかぁ」と思うことも多々あるものですから。
てなことで、それではみなさんナマステジーっ♬
[017] 人生の目標は、あくまでも高く。でも、低く飛ぶ人生も悪くない。
☆17日め
どうせ生きているのだから、毎日を楽しくすごしたい。
誰だってそう思うことでしょう。
でも人によって人生はそれぞれ。
なかなか思った通りの人生を送れるわけではありません。
ぼくはどういうわけか、世間というものに合わせて生きるのが苦手で、ついでに働くのも嫌いなものですから、なんとなく世界の片隅で、好き勝手な人生を送ってきました。
もうじき五十六になりますが、変わった人生ではあるものの、取り立てて人に話すほどの人生ではありません。
結婚は二回して、今は二人めの奥さんと、喧嘩しつつも端から見れば仲の良い夫婦に見られるはずの、二人三脚の旅行きです。
周りの人を見ていると、元気な人が目立ちますから、「あんなふうに、いろいろなことができたらな」と羨ましく思うことも多々あるのですが、自分にはそういうエネルギーはないことを、事実としてしっかり受け止めて初めて、次の動きが見えてくるはずだなと、自分の今を見つめています。
つまりです、高いところを飛ぶ人がもてはやされる世の中で、自分もあんなふうに高いところを飛びたいと思っても、低いところしか飛べなくて、けれども低いなら低いなりに、自分の飛び方を身につけることができるなら、それを否定する必要なんかないし、むしろ自分で自分を褒めてやればいいのです。
あっ、おれってけっこう上手に低空飛行してるじゃん、ってね。
これを読んでくださっている皆さんも、毎日をそれぞれに精一杯生きていることでしょう。
必ずしも充実した人生とは思えないかもしれないし、あんなふうに生きられればと、夢を見ながら生きているのかもしれない。
でもですね、平凡な毎日になんだか納得いかないとしても、その現実を冷静に見て、きちんと評価することができれば、それは絶対的に価値のある、あなただけにしか生きられない、かけがえのない人生だってことが分かるはずなんです。
ぼく自身が、自分の人生に十分納得できてない以上、こんなことを言っても、負け犬の遠吠えにしか聞こえないかもしれない。
でもそれはそれでいいんです。
そういう外野の声を気にしていたら、どこにも行けなくなっちゃうんですから。
仮に今の現実に納得がいかなくても、その現実には十分すぎる価値があり、その毎日を生きていること自体が奇跡なんだと、まずは信じるところから始めてみましょう。
現在を否定するのではなく、絶対的に肯定すること。それができれば、あなたの人生はそこを出発点にして、徐々に輝きを増していくことでしょう。
以上、日の当たる舞台に立つことはないかもしれないけれど、日陰の涼しさの中で、最大限低空飛行を楽しむすべを模索中のぼくから、今の自分に納得できない皆さんへのエールのつもりで書きました。
てなことで、それではみなさんナマステジーっ♬
[016] 動物の癒やす力。あるいは、ヒトはケモノとともに人間となった。
※先行公開です。
☆16日め
子どもの頃は猫と接点がなかった。
弟が犬をほしがり、名古屋にいる親戚がブリーダーをやっていたので、毛の短いヨークシャテリアをもらって飼っていたから、犬には縁があったのだが。
といっても、特にその犬を可愛がったりはいなかったし、もちろん可愛いなとは思ったし、少しばかりは遊んだけれども、面倒を見ることもしなかった。
そんなことで、犬には馴染みがあったが、猫というものはぼくにとって、どこか遠い存在だった。
人の飼い犬なら、たまたま出くわしたときに、尻尾を振ってきたりすることもあるが、猫はそういう社会的な行動は取らないわけで。
猫との距離が変わったのは、南伊豆に住んたときのことだ。
ぼくは二度結婚をしているが、一人めの奥さんと結婚して三年めに、東京を離れて伊豆半島の南端近く、子浦という漁村に住み着くという無謀な行動に出た。
そこには一年半住んで、その間ぼくは働きもせずに、無為の夏休みを過ごした。
奥さんはそんなぼくにつき合い切れず、別れて別々に東京に戻ったのだった。
そんな奥さんが、猫好きだったから、知らない田舎で普段話す友だちもいない中で、野良猫に餌をやって友だちになった。
それでぼくも、猫という動物の面白さを知ったのだ。
猫は犬と違って、気ままな動物である。
犬のように尻尾を振ったり、ぺろぺろと舐めてきたりはしない。
けれども、猫は猫なりの距離の取り方で、こちらに対する好意を示してくれるし、こちらの愛情を受け取ってくれる。
犬に舐められたり、「かまって、かまって!」と言われたりするのが苦手なぼくには、猫との距離感は気持ちのよいものだった。
そのとき餌をやっていた猫の一匹、たましっぽのことはこちらの記事に書いた。
https://note.com/tosibuu/n/n40925e049ec0
それで今日は、人間と動物のつき合いについて簡単に書きたい。
動物が嫌いな人は仕方がないが、そうでないなら、普段の生活の中で動物と触れ合う機会がない人は、気が向いたら、ぜひ機会を作ってみてほしいと思うのだ。
新型コロナの時代ということもあり、また日本では文化的に人間同士の接触を避けがちなこともあり、「肌を触れ合う」という経験が不足しがちになる。
「肌の触れ合い」というものが、人の心の安定には、大きな役割を持っているにも関わらず。
そうはいっても誰カレかまわず、人間同士で触れ合うわけにはいかないから、動物にお付き合いを願うわけだ。
野良猫と友だちになってもいいし、知り合いの飼っている犬や猫に助けを借りてもいいだろう。
今どきは猫カフェも犬カフェもある。
動物のふわふわした毛に触れるときの気持ちよさは、たぶんぼくらがまだこの体に毛皮をまとっていた頃の遺伝的な記憶に違いない。
動物たちは無垢の存在だ。野生の残酷さや餌をねだることはあっても、彼らの行動に打算はない。
現代の忙しい社会にどっぷり浸かって暮らしていると、人間だけしか相手にしないことにもなってしまうけれど、人間が人間でいられるのは、もともとの動物たちとのつき合いもあってこそだ。
ネズミを猫に退治してもらい、犬には番犬として働いてもらい、馬や牛には重労働を肩代わりしてもらう。
そうやって動物に助けられながら、動物とのつき合いを通して、この人間社会は発達を遂げてきた。
そんな動物たちに感謝の気持ちを伝えるためにも、そしてまた新たな元気をもらうためにも、時間を作って彼らに会いに行く。
そうすれば、あなたの経験の厚みは増し、人生の幅も広がるはずです。
なお、野良猫と友だちになる場合は、相手を見極めた上で、じっくりとつき合うことが必要です。
中にはすぐ撫でさせてくれる猫もいないわけではありませんが、最初から人に近づかない猫もいるし、そうでなくても、初めは警戒心が強いので、できるだけ姿勢を低くし、急な動きは避け、ゆっくり手を伸ばして、相手から匂いを嗅ぎにくるなどの行動を引き出すのがポイント。
下手に手を出すと、ひっかかれたり、かじられたりするばあいもあるのでご注意を。
それではみなさんの検討を祈ります。
てなことでみなさん、ナマステジーっ♬
今日の収穫
[15] 幻想を捨てて、等身大の自分を知る。そこから、すべてが始まる。
※先行公開です。
☆15日め
「汝自身を知れ」という古代ギリシアの格言があります。
自分のことって、知ってるようで、案外知らないこと、気づかないことが多い。
端から見てる他人のほうがよく分かってる、なんてこともしばしばです。
毎日を楽しく生き、クリエイティブな人生を送るためにも、自分をよく知ることはとても大切です。
* * *
今回でこの100日連続投稿の記事も15日めになりますが、「毎日書く」ということが、ぼくにとっては割と難しいことなので、なるべくハードルを下げる方向で、「書きやすいものを書く」ことを一つの基準にしてきました。
基本的には、思いついたものを、なるべく考えずにすらすらと書く、という「半自動書記」的な手法で、まずまず継続できるし、閲覧数も決して悪くないなと、自分では納得のいく結果です。
興味深かったのは、一番きちんと「自動書記」で書いたこちらの投稿が、閲覧数は低めなんたけど、閲覧数に対するスキのパーセンテージが、唯一10%を超えたことです。
https://note.com/tosibuu/n/nffe84146bb2a
この理由は、今回のシリーズの場合、スキをくれる人はフォロワーさんではなくて、イチゲンさんが多く、タイトルの「言葉が湧き出す+自動書記+無意識」という構成を見て、わざわざ見てくれる人は少なめだけど、見てくれた知的な方には、あまり知られていない「自動書記と無意識的表現の可能性」という話題がおもしろがっていただけたのかな、と想像しています。
* * *
そして「書きやすい」ということと同時に、「どうせ書くなら多くの人に読んでもらいたい」という想いから、書いたものの閲覧数やスキの数を確認しつつ、「こういう方向で書いてみよう」という工夫も試みました。
「どんなものが読まれやすいか」については、やっぱり「前向き・メジャー・分かりやすい」が、ぼくにとっては王道です。
逆にいうと、「暗め・マイナー・分かりにくい」のは人気が低いですねぇ、自分では気に入っていても。
ただしこれはあくまでも原則的な話ですから、「ポジティブ系」でも、エネルギーの低いのは閲覧数が出ないですし、「ネガティブ系」でもこちらなどは、心情を吐露したことで共感をいただけたので、まずまずの人気でしたし、サポートもいただくことができました。
https://note.com/tosibuu/n/ne1b23c477b87
「書いててよかったなー」としみじみ思う瞬間です。
* * *
さて、こんな感じでこのシリーズを書いていて、自分について改めて分かったことがあります。
それは「自分はもっとできる人間じゃなきゃいけない、成果を出せる存在じゃなきゃいけない」という勝手な思い込みにしばられてるんだな、ということです。
断続的な利用ではありますが、note歴は5年近いので400名以上の方々にフォローしていただいてますし、こうやってひと月近く毎日書いていると、月間の閲覧数も12,000を超えます。
その上サポートまでいただけるのですから、独自にブログをやることと比較すれば、「こんなに読んでもらって、楽しんでもらえて、本当にありがたい!」と思わなければならないところです。
ああ、それなのに、それなのに、「もっと読まれたい、もっとスキがほしい、もっとコメントがあってもいいんじゃないか」みたいな愚かな欲求が心の中に潜んでいると、せっかくの成果が台なしになってしまうではありませんか!
自分の器の大きさというものを知らずに、身の程知らずの期待をしても、それがかなわないのは当たり前のことです。
頭ではそのことを分かっていても、心の底で肥大したエゴが「みんなオレをもっと見てくれ、オレにもっと愛情をくれ」と叫んでいるのですから、目が当てられません。
でもまあ仕方がない、それが現実のぼくなんです。
五十を過ぎても三歳児並みのわがままな心情で、ほしいものが手に入らないといって、胸の奥には悲しさと寂しさがいつも詰まっているのです。
というわけで、結果なんか期待せずに、淡々と自分の書きたいこと、書けることを書いていけば一番なんですが、ついつい受け狙い、反応狙いで、これからもぼくは書いていくのでしょう。
そんな中から、読者の皆さんの心に響くものが、少しばかりでも出てきたらいいなと願って、この記事を終えることにしましょう。
てなことで、それではみなさんナマステジーっ♬
[0014] 毎日気持ちよく生きてますか?あるいは、不安と楽観のバランスを考えてみよう。
☆14日め
みなさん、毎日気持ちよく過ごしてらっしゃいますか?
朝はすっきり目が覚めるでしょうか?
忙しい毎日、緊張が多い生活、逆にだらけきって張りのない暮らし、そんなこんなの人生だと、すっきり目覚めて、「今日も一日いい日になりそうだ!」というふうに、なかなかいかないかもしれません。
忙しすぎて余裕がないにしろ、だらけ切って気合が入らないにしろ、そこから抜け出すためには、ちょっとした気分の転換が必要です。
ここではまず不安について考えてみましょう。
何かしなくてはならないことがあるとき、それが苦手なことだったり、やりたくないことだったりすると、「うまくいかないんじゃないか」と不安になって後回しにしてしまうことがあります。
ぼくの場合、今この文章を書き出そうとして、そんな気分になりました。
「うまく書けないかも」という気持ちが心の中にあると、エディタを開いて文章を書いたほうがいいと分かっているても、ついnoteやfacebookを開いて、人の投稿の海に溺れてしまったりしがちです(笑)。
そんなときは、気分を切り替えるために、考え方自体をシフトさせる手があります。
「うまくいかなかったらどうしよう」と思っているところを、「うまくいかなくたっていいじゃないか」と切り替えてしまうのです。
「うまくいかなかったら困るんじゃないか」って?
確かにその場合は、困ることも出てくるかもしれません。
でも心配したからといって「うまくいく確率」が上がるわけじゃないし、不安を抱えたまま時間を過ごしていると、心のエネルギーを消耗して、かえって結果が悪化しかねません。
また、不安をごまかして、snsにうつつを抜かすのも、時間を無駄にするだけで、解決につながりません。
ですから「うまくいかなかったら、いかなかったで、そのとき考えればいいんだから、とにかく手をつけよう」というのが、結果オーライにつながる妙手ということになるのです。
自分の実力というのは、不安があるときには十分発揮することができません。
不安を感じることに余計なエネルギーを消耗して、肝心の仕事に投入できるエネルギーが減ってしまうからです。
個人が持っている精神的エネルギーも、肉体的エネルギーも限られているわけですから、その無駄遣いを避けることが、結局は気持ちのよい生活につながるのです。
「ダメでもともと」、「失敗しても大丈夫」、そういう考え方でいたほうが、無駄なエネルギーを使わずに済んで、結果も上々なものになるのです。
ただし、あなたがあまりに楽観的すぎて、失敗を怖れずにどんどん失敗して、しかもその失敗から何も学ばないタイプの人だったとしたら、その場合は逆向きの注意も必要です。
つまり、何かを始める前に、「これでいいかな?」、「準備は万端かな?」と考えることも大切です。
結局は何ごとも、バランスが重要ですから、自分はどんなタイプの人間かを知った上で、「不安が多い人間だから、もう少し気楽にいこう」とか、「楽観的すぎるから、もう少し慎重にやろう」とか、修正する方向を考える必要があるわけです。
ぼくの場合は、不安も強いけど、場合によっては考えが足りずに無謀なことを平気でしちゃったりもするので、自分が今不安モードにあるのか、楽観モードにあるのか、よく見極めた上で、行動を修正する必要がありそうです。
というわけで、不安が強いあなたも、楽観的すぎるあなたも、どうぞ自分なりのバランスの取り方を試して、気持ちよく生きられるように工夫してみてください。
バランスよく、気楽に毎日過ごせれば、文章も気持ちよく書けるようになるはずです。
てなことで、それではみなさんナマステジーっ♬
[0013] 今ここで幸せになる。あるいは「5分間の幸せ」実現法。
☆13日め
5分ほどの空き時間があれば、誰でもすぐに幸せになれる。
そんなことを言われたら、あなたどう思います?
「そんなの不可能」、「自分には無理」って否定しちゃいますか?
「5分で誰でも幸せになれる」といっても、すべての人が今すぐ5分で、というわけには残念ながらいきません。
でも、毎日5分練習したら、
・早い人なら、今すぐにでも、
・遅い人でも、多分ひと月もすれば、
「5分間の幸せ」が味わえるようになるはずです。
(当社独自調査です♪)
というわけで、具体的には何を練習するか、なんですが、
1. できるだけ静かなところで、楽な姿勢で座る。(座禅風に足を組んでも、椅子に腰かけても、どちらでもかまいません)
2. 三回鼻から呼吸をします。ゆっくり吸って、長ーく吐きます。
3. そのあとは呼吸に意識を向けながら、「この5分間は、何もしなくていいし、何も考えなくていい、自分の幸せのための時間」だということを頭の片隅においておきます。
(呼吸に意識を向けるポイントは、自分のやりやすいものなら何でもいいのですが、鼻を通る空気の流れを感じてもいいですし、胸やお腹が膨らんだり、へこんだりするのを感じるのもいいでしょう)
このとき、5分間という短い時間ではあっても、ずっと意識を呼吸に向け続けることは、とても難しいことです。
しばらくは呼吸の感覚を感じていても、気がつくと何か考えごとをしている。あるいは、足が痛いなとか、鼻がかゆいなとか思ってる。
それに気づいたら、そのことを「ダメだ」と否定する必要はなく、ただまた呼吸に意識を向け直します。
体はなるべく動かさないほうがいいのですが、無理に我慢する必要はなく、痛かったり、かゆかったりしたら、ゆっくりと体を動かして、よく感覚を味わいながら対処してください。
こんなことして、本当に幸せな気持ちになれるのかって?
あなたが「こんなことで幸せになれるはずがない」と思い込んでいたら、さすがに無理だと思います。
でも、「ひょっとして?」と思うのなら、試してみる価値は大きいです。
人により向き不向きはあるし、どのくらいの時間で効果が出てくるかも違いますが、例えば「毎日朝起きたらすぐ」のように時間を決めてやることにすれば、5分程度の時間は案外簡単に取れるものです。
そして、1週間、ひと月、半年と続けていくうちには、必ず自分の中に変化が起きるのを感じるはずです。
ぼくらは毎日、アタマを使いすぎてるんですよね。
そして、眠るだけではうまくリセットできない部分がどうしても出てきます。
それを意図的にリセットするのが、マインドフルネスや瞑想と呼ばれるものなのです。
「あれもしなきゃ、これもしなかゃ、さっさとしなきゃ、上手にしなきゃ」
というような生活を送っていると、アタマも心も休む時間がなくなってしまいます。
あなたの心身にお休みの時間を取ってあげて、幸せが感じられるように、是非ねぎらってあげてください。
毎朝「5分間の幸せ」の時間を過ごすことで、その日1日が元気に気持ちよく過ごせるようになるはずです。
てなことで、それではみなさんナマステジーっ♬
[012 瞑想詩] 泉から湧き出す言葉。あるいは、自動書記で無意識を解き放つ。
☆12日め
自動書記と言いましてね、シュールレアリズムの手法なんですが、意識で何かを書くのではなく、無意識からやってくる言葉を書き記してみようって方法があるんですよ。
そんなことできるんだろうかって、昔は思ったもんですが、意識なんてものは実のところ、人間存在の氷山の一角にすぎないってことが分かってくると、やり方次第ではできるはずだなって、思うようになりました。
今こうして書いているのは、完全に自動書記ってわけじゃないけど、「自動書記」という言葉を種とした蒔いて、あとはただ流れに任せてしまっているので、こ考えないままでこるが続いていけば、半自動書記くらいの感じになりますかな。
人間の心の中には、表現されないままに、表現されることを待っているたくさんの思いがあるわけですから、それを手当たり次第引っ張り出すことで、普段の意識を超えた表現ができるはずです。
それがどこまで普段を超えていけるかは、その時点で無意識が準備できている範囲になってはしまうわけですが、その範囲というものが意識されて無意識にフィードバックされれば、超えて超えて超えてゆく、今までは知らなかった、まだ見ぬ宇宙の果へと向かって、確かに進んでいくことができるわけです。
進んで進んで進むことに、何か意味があるのかと言えば、この世界自体の無意味性に立ち返れば、そこには何の意味もないのは当たり前だし、意味のないものがあふれ返っているということから言えば、そこにはどんな意味でも乗せることができるということにもなる。
だから、月面の豊穣の海という名の静謐な窪地を歩き続けるように、ぼくたちはやっぱり歩き続けるわけですよね、苦しくても、つらくても、悲しくても、憂鬱でも。
だって、たまにはいいこともあるし、楽しい時間がないわけじゃないし、すべてを忘れてぐっすり眠ることだって、可能性としてはいつだって開かれてるんですから。
最悪の事態が続いて、どうしても耐えきれなくなれば、そのときは最後の手段もあるわけですが、最後の手段を取るだけの勇気や衝動や絶望があるのなら、今までの自分の枠組みをぶち壊して、ちっぽけで、干からびて、凝り固まって、凍えたエゴを叩き潰して、粉々に砕いて、ポイと放り投げちまうことだってできるんですから、どこからともなくやってきて、世界を覆い尽くしてしまった没落感覚なんてものは、鼻で笑って、鼻息で吹き飛ばして、まあとりあえずは水で顔でも洗って出直すことにして、この変幻自在の気分とかいうものに、少しは潤いを与えてやろうじゃないですか。
とまあ、そんな次第ですので、神々の棲むヒマラヤの山から降りてくる、ときには澄み渡り、ときには泥で濁る、莫大な水量の川の流れのようには、あなたの心を洗い浄めるわけにいきませんが、意識的な作用を極力はなれて、少しばかり自由度を高めた、無意識の泉から湧き出す小さな小さなこの奔流が、あなたの心のどこか片隅とでも響き合う僥倖を少しでも願った上で、この小文の幕を閉じることにしましょうか。
てなことで、それではみなさんナマステジーっ♬
#コラム #エッセイ #茫洋流浪 #文章力 #文章術 #書くこと #文章力養成100日コース
[みなさまの暖かいスキ・シェア・サポートが、巡りめぐって世界を豊かにしてゆくことを、いつも祈っております]
☆この記事は、ヤヤナギさんがこちら
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