人生の意味と無意味
こんな記事を書きながら、人生の無意味さに想いを巡らしてます。
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[002] 無意味な人生よ、さようなら!(六日め用)|としべえ2.0β @tosibee #note https://note.com/tosibuu/n/nc9a4b2d5ef9e
人はなぜ文章を書くのでしょうね。
何者かになるために書くのか、
何者かであることを書くのか、
何者でもないものが書くのか。
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[001] いつも「なぜ書くか」を頭の片隅に置いて|としべえ2.0β
https://note.com/tosibuu/n/n9da0e266aeae
阿弥陀さまについて今おもってること
大乗仏教の阿弥陀信仰というものは、長い間あまりピンとこなかったのですが、神話や物語の持つ力を考えると、普通に納得できる話だなと思うようになりました。
逆に言うと、仏教の教えを説いたお釈迦さまと関係ない創作の話に、どういう意味があるのかが、前は分からなかったわけです。
でも事実とか創作とかいって分けて考えるのは、西洋近代の狭い思考の枠組みにすぎないんですよね。
ですから、阿弥陀さまという存在が、我々すべてを救ってくれるという物語に説得力があれば、それでいいんだなと思うようになったわけです。
それで、どうして日頃ダメなことばかりしてるぼくでも阿弥陀さまが救ってくれるかというと、ここから先はぼくの勝手な解釈ですが、どんなダメな人間の中にも必ず仏性というものがあって、十分な時間が経過すれば、その仏性という種から芽が出て、ふくらんで、花が咲いて、悟りという果実が実現するからなんです。
もしも悪行三昧の人生を送っても最期に阿弥陀さまにすがることができれば、それが救いにつながるわけですし、平凡に善と悪のまぜこぜ人生で宗教になんか興味がなかったとしても、その心に仏性がある以上、輪廻を通していつかその種は芽を出すわけです。
今人としてよく生きることの意味に気づいて、それを心がけて生きるならば、仏性の種に水や肥料をやることになり、花開く時期を早めることになります。
とまあそんなことで、輪廻という考えに違和感がない人で、この世界の根本に善なる意志を仮定できるのなら、阿弥陀信仰は魅力ある物語であり、神話だなと、そんなことを考えている今日この頃なのです。
何を書く?
このところ瞑想の練習をだいぶしてきたし、変性意識についても長らく関心があったので、何かその辺のことでまとまったものが書けたらな、と思っていたのですが、ひょっとするともう少し別のところに書きたいものがあるかもしれないな、という思いが浮かんできました。
何がどうなるやら、まだ雲を掴むような話ですが、しばらく発想を寝かせて、発酵が進むのを待つことにします。
noteにやみくもな詩を書きました。
気ままに詩を綴りました。
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[00円: 未常的随想詩] やみくもな時代に薬味としての科学をインドで試奏したら、失踪しかねぬ勢いで前のめりになってしまったこと|としべえ2.0β @tosibee #note https://note.com/tosibuu/n/nb124bf1a8b6d
寒い戦争から夢見のあとまで (流れを遡って 3-5)
3. 寒い食堂の戦争ドラマ
中国・雲南省の辺境の地、香格里拉(シャングリラ) は、言わば芸名です。
もともとは中甸(ツォンディエン)という名前だったのを、2001年に観光客の気を惹くため、ジェームズ・ヒルトンのユートピア小説「失われた地平線」に出てくる理想郷の名前シャングリラに改名したのです。
夕方街に着いたぼくらは、宿に荷物を置くと夕飯を食べに外に出ました。もうすっかり暗くなり、十月ですが標高3,300メートルですから冬の寒さです。質素な食堂を見つけて入りましたが、その建物はの通り側は、扉も壁もなく開け放たれ、暖房もありません。
薄暗い店内で食べたのが、麺類だったか、ご飯と炒め物だったか、記憶にさっぱり残っていませんが、店内に置かれたテレビで太平洋戦争を扱ったドラマがかかっており、日本兵が残虐な悪役・鬼子として映し出されているもので、なんとも気まずい気分だったことはよく憶えています。
宿に戻ると、街外れで風が強い上、窓の建付けが悪く、隙間風で寒いのですが、電気毛布で暖まっていると、どこでもすぐ寝てしまうタイプのぼくは、すぐにぐっすり眠ってしまったのでした。
4. 万物の根源、金色の仏
壁には鮮やかな仏画が描かれ、隙間風で寒い部屋のなか、電気毛布にくるまってぐっすりと寝たときに見たのが、流れを遡る夢でした。
空を飛ぶ夢はときどき見るのですが、いつものように高く舞い上がったり、滑空したりはありません。体感としては泳いでいる感じなのです。けれども水のような感触はないし、息が苦しくなったりもしません。
夢ならではの、飛ぶと泳ぐが混ざり合った体感です。
そしてやがて現れるのは万物の源である金色の仏の首。ぱっと見は金に塗られた仏像そのものですが、金色の肌は柔らかく動き、生き生きと何かを語りかけてきます。
夢の中のぼくは、流れを受けながら風に逆らう海鳥のように一箇所にとどまって、その金色の首を、畏敬の念で見つめているのでした。
5. 夢見のあとで
遡り続けるその奔流が、この宇宙を成り立たしめるエネルギーの流れであり、その源泉に神々しい存在が鎮座していることは普通に納得できました。
あとにも先にもこんなに神がかった夢を見たことはこれ以外ありません。
けれども、なぜ金色の、しかも首だけの仏なのか、というのがそのときは疑問に思われました。
あとになってタイを旅しているときに、「あ、これか」と思いました。タイでは金色の仏像が多いのですが、それを絵に描くときに首だけ描くことも多いのです。
黒い背景に金色の仏の首。夢を見たときには忘れていましたが、以前にタイを旅したときの記憶が無意識に思い起こされていたのでしょう。
そして金色の仏から力強く噴出するエネルギーの流れですが、この流れは仏の善なる側面だけではなく、人間が抱える諸々の欲望をも含むものに違いないと、瞑想の練習を続けるうちに思うようになりました。
ぼくたちは気をつけていなければ、その時その時の欲求や衝動に流されて、ついつい愚かな振る舞いに及んでしまうものです。
この世界を成り立たせている力の流れに、ただ逆らうだけでは身が持ちませんが、ときにはその流れの源にまで立ち返り、善も悪も超越した宇宙の根本原理とでもいうべきものに想いを巡らせることも大切なことに違いありません。
夢に見た金色の首の仏は、阿弥陀さんだったのか、観音さんだったのか、それとも弥勒さんだったのでしょうか。
それがどなたであったにせよ、この世界の神秘を、漆黒の闇のなか金色に照らし出す類まれな存在が、ぼくの意識という幻灯機によって映し出されることになった、稀有の体験だったのであります。
(終わり)
中国・雲南省の辺境の地、香格里拉(シャングリラ) は、言わば芸名です。
もともとは中甸(ツォンディエン)という名前だったのを、2001年に観光客の気を惹くため、ジェームズ・ヒルトンのユートピア小説「失われた地平線」に出てくる理想郷の名前シャングリラに改名したのです。
夕方街に着いたぼくらは、宿に荷物を置くと夕飯を食べに外に出ました。もうすっかり暗くなり、十月ですが標高3,300メートルですから冬の寒さです。質素な食堂を見つけて入りましたが、その建物はの通り側は、扉も壁もなく開け放たれ、暖房もありません。
薄暗い店内で食べたのが、麺類だったか、ご飯と炒め物だったか、記憶にさっぱり残っていませんが、店内に置かれたテレビで太平洋戦争を扱ったドラマがかかっており、日本兵が残虐な悪役・鬼子として映し出されているもので、なんとも気まずい気分だったことはよく憶えています。
宿に戻ると、街外れで風が強い上、窓の建付けが悪く、隙間風で寒いのですが、電気毛布で暖まっていると、どこでもすぐ寝てしまうタイプのぼくは、すぐにぐっすり眠ってしまったのでした。
4. 万物の根源、金色の仏
壁には鮮やかな仏画が描かれ、隙間風で寒い部屋のなか、電気毛布にくるまってぐっすりと寝たときに見たのが、流れを遡る夢でした。
空を飛ぶ夢はときどき見るのですが、いつものように高く舞い上がったり、滑空したりはありません。体感としては泳いでいる感じなのです。けれども水のような感触はないし、息が苦しくなったりもしません。
夢ならではの、飛ぶと泳ぐが混ざり合った体感です。
そしてやがて現れるのは万物の源である金色の仏の首。ぱっと見は金に塗られた仏像そのものですが、金色の肌は柔らかく動き、生き生きと何かを語りかけてきます。
夢の中のぼくは、流れを受けながら風に逆らう海鳥のように一箇所にとどまって、その金色の首を、畏敬の念で見つめているのでした。
5. 夢見のあとで
遡り続けるその奔流が、この宇宙を成り立たしめるエネルギーの流れであり、その源泉に神々しい存在が鎮座していることは普通に納得できました。
あとにも先にもこんなに神がかった夢を見たことはこれ以外ありません。
けれども、なぜ金色の、しかも首だけの仏なのか、というのがそのときは疑問に思われました。
あとになってタイを旅しているときに、「あ、これか」と思いました。タイでは金色の仏像が多いのですが、それを絵に描くときに首だけ描くことも多いのです。
黒い背景に金色の仏の首。夢を見たときには忘れていましたが、以前にタイを旅したときの記憶が無意識に思い起こされていたのでしょう。
そして金色の仏から力強く噴出するエネルギーの流れですが、この流れは仏の善なる側面だけではなく、人間が抱える諸々の欲望をも含むものに違いないと、瞑想の練習を続けるうちに思うようになりました。
ぼくたちは気をつけていなければ、その時その時の欲求や衝動に流されて、ついつい愚かな振る舞いに及んでしまうものです。
この世界を成り立たせている力の流れに、ただ逆らうだけでは身が持ちませんが、ときにはその流れの源にまで立ち返り、善も悪も超越した宇宙の根本原理とでもいうべきものに想いを巡らせることも大切なことに違いありません。
夢に見た金色の首の仏は、阿弥陀さんだったのか、観音さんだったのか、それとも弥勒さんだったのでしょうか。
それがどなたであったにせよ、この世界の神秘を、漆黒の闇のなか金色に照らし出す類まれな存在が、ぼくの意識という幻灯機によって映し出されることになった、稀有の体験だったのであります。
(終わり)