小さな悟りを求めて -21ページ目

「正しい瞑想の方法」はあるのか?

「正しい瞑想の方法」について書きました。 

ハリドワル、曇天


昨日までは晴れて暑かったけど、今日は曇天で涼しいハリドワル、朝から露天のチャイ屋にて。

怒りと無我・無常について、はてなに記事を書きました。 https://dimofsoul.mit

怒りと無我・無常について、はてなに記事を書きました。
https://dimofsoul.mitona.org/entry/ikari

デタラメな出だしですが、仏教の話を少し。

一見デタラメなだけでなく、実際にもデタラメな文章を、今ここに書いている、とは必ずしも限らないのだけれど、久しぶりにバッグの中から取り出した、usb接続のキーボードをandroid電話につなげて、特別何か書きたいことがあるわけではなく、心の赴くまま、といえば何となく聞こえはよいが、実のところそれはただ反射的・自動的な言葉の垂れ流しでしかないとも言えるわけで、しかもこの調子でだらだらとすらすらと一つの文で区切れもないままつづけていくと、せっかく読んでくださっているみなさんも大変でしょうから、この辺で一旦句点を打つことにいたしましょう。

自己同一視のことを少し書いたあと、自己正当化の話を書きかけていたんだけれど、それの続きに取り掛からないまま、これを書いていて、それはまとまった文章を書くことがめんどくさいから、と言ってしまっては身も蓋もありませんが、そうです、ぼくの人生は身も蓋もない、空虚で幻想的なアサリのごとき人生です。

人間の脳には後部帯状回と呼ばれる部分があって、特にすることもなくぼんやりとしてるときなどは、そこが活発に活動しているそうで、その活動が「自分」という錯覚的現象の創造に大いに関わっているようです。

無我あるいは自己同一視の話は、後部帯状回にブレーキをかけることが瞑想の大きな目的の一つであることを書こうと思って、その下準備的に書いたものなのですが、途中に自己正当化の話が紛れ込んだ挙句、そちらの話も書き終えることがないまま、多分この先も書き終えようとせぬまま、いつものように宙ぶらりんにこの人生は続いていくのだろうなと、漠然と投げやりに流れのままに思っています。

そういえばこの間、若いババジに連れられて、道なき道を川伝いにスクーターに二人乗りで遡って、こんな原野にこんな立派なお寺があるのか、というようなところに行ったのですが、そこのお堂で座っているとき、ふと思ったんですね。

「あー、おれはそのうち悟ることもあるかもしれないけど、その悟りは全然大したことのない平凡な悟りになるだろうなぁ」って。

仏教では悟りを開いた人のことを一般にアラハンと呼びます。最高の悟りを開いたブッダとは区別するんですね。

これって、ある個人にとっては最高度の自己実現(というか自己超越)である悟りにしても、その人の器の大きさによって実現されるものが違ってくることだろうな、と。

というわけで、間違って運良く悟れたとしても、自分がゴータマさんのようになれるわけじゃない、という当たり前の事実に気がついたということで。

同時に、今ぼくが理解している範囲でも、仏教の世界観というものを、現代の合理主義的枠組みの範囲できちんと記述することができれば、それなりに意味のある作文ができるはずだな、という確信はやっぱりあるので、畑の土作りから始めて、種を蒔いて、手入れをして、いつかよい実りのときを迎えられたらなと、ものぐさで、めんどくさがりで、口ばかりで実行がともなわない私は、このようにダレた文章を書いて心を落ち着かせ、少しばかりの草取りを試みているのでした。

仏教から、輪廻と涅槃と仏陀を取り除いて、そしたらそれはもう仏教とは呼べないかもしれませんが、そんな合理主義的な世界観を、いつかきちんと書いてみたいと、とにかく思っているのです。

てなことでみなさん、ナマステジーっ♬

はてなに無我の記事。

「無我」について、はてなに記事を書きました。
https://dimofsoul.mitona.org/entry/muga

☆ゆるく揺れ動く心の振り子について

ゆるく、ひたすらゆるく書いてみます。

ウ・ジョーティカさんの "snow in the summer" がおもしろいので、瞑想と悟り、そして幸せについていろいろ考えが巡ります。

ぼくの中には「いつか大きな悟りをものにしてやるぞ」というような、無謀な想いがやはりあるようです。

同時に「そんなのムリムリ、無茶な努力はやめて、気楽に生きたほうがいいさ」というゆるい、あるいはテケトーな感覚も確かにあります。

心の振り子が、この二つの間で揺れ動くバランスが、ぼくなりにはもっともらしい動的な釣り合いを保っているようで、「熱心にやればいいってもんじゃない」と思いつつも、ふと弾みで深みにまで潜れたときには、それに応じた「気づき≒理解」が得られるようです。

ウ・ジョーティカさんは、ビルマのお坊さんですが、大学に行って西洋の哲学や心理学を学んだ人なので、アジアの文化にどっぷり浸かったお坊さんや、西洋からアジアに来て僧侶になったお坊さんとは、仏教に対する理解がひと味違います。

"snow in the summer" では、ユングやニーチェが引用される点も新鮮ですし、西洋の個別的な思想に基づくのでしょう、既存の仏教における画一的な修行法に関しての疑問も提示されています。

そうした斬新な切り口を提供してくれると同時に、「悟りを得ることが人間にとって最高の目標」という仏教のセントラル・ドグマはやはりそこに存在します。

ぼくは道教的というのか、日本的というべきなのか、根っからのテケトー主義者ですので、「大きな悟りは確かに素晴らしいだろうけど、誰もが得られるものじゃないし、そこにこだわりすぎないほうが、幸せに生きられるんじゃないの?」という気持ちがやはり強いのです。

けれどもこれは、大きな悟りを諦めてるわけではなくて、「間違って到達できたら儲けもん」という、根拠はないけど希望は捨てない、ぼくなりの蝶楽観主義にもとづくわけです。

とまあそんなわけで、「悟れたらいいよな、でも無理だろうな、けど、ダメでもともとで、一応目指してもいいんだよな」と揺れ動く振り子を注意深く観察しながら、八月のハリドワルの生ぬるい空気に混ざるヒマラヤの一筋の冷気を感覚しつつ、今日という良き一日を無事に送れたことを感謝して、この小文を閉じようと思います。

てなわけでみなさん、ナマステジーっ♬

昨日のtwitter、ごく私的なこれから、そして小さな悟りの話

※facebookの投稿と同文です。

まず昨日のtwitterに書いたのがこれです。

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「マインドフルネスの練習とは、五感と心に起きるすべてのことを、いつも意識することです。座っているときだけ意識するのではなく、朝起きた瞬間から、夜眠りにつく直前まで、途切れることなく意識し続けるのです」
-- ビルマの僧侶ウ・ジョーティカ師の言葉 ("snow in the summer" より私訳)

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こちらはウ・ジョーティカ師によるヴィパッサナー瞑想のマニュアルです。
中級者以上向けの詳細な記述ですが、意欲的な初心者の方にもおすすめします。

『自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義 』(2016 新潮社)
https://amzn.to/3k3Gvox

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twitterで見てくれた人が本を買ってくれたら嬉しいな、と思ってアマゾンのアフィリエイトのアドレスを貼ってみたのですが、ぼくのようにその場の思いつきで散発的にやっても大した効果はありません。

そんな余計なことを考えてる暇があったら、きちんと「今を意識する」ほうがいいのですが、この「余計なこと」とか「〜のほうがいい」とかいうのが、実はくせ者です。

「これはいらない」とか「こうするのがいい」とかいうのも、仏教的にはみんな執着になり、苦しみの原因になります。(極端な解釈ではありますが)

理想的には、
「これはいらない」といって切り捨てようとするのではなく、
「今『これはいらない』という考えが浮かんだ」というように、
「この身に起きていること」をきちんと意識するのが大切なわけです。

それで、この話はどこにつながるかというと、ぼくがネットに言葉を放っていることの一つの意味は「お金が稼げたらいいな」ということで、それを無念に、そしてマインドフルにできれば、それでいいわけですが、なかなかそうもいかない。

ですから、そういうのは一旦すっぱり切ってみようかな、と。

実際にどうするかは分かりませんが、そんなことを考えてます。

それからもう一つは、ゴエンカさんもウ・ジョーティカさんも、「座ってるときだけでなく、いつも注意深く意識しなさい」というわけなのですが、この言葉も「いつも意識してなければダメだ」と思ってしまったら執着になってしまいます。

「意識し続けなくちゃ」と思って、取り憑かれたように意識を集中していたら、エネルギーを消耗するし、下手をすれば精神のバランスを崩します。

幸いぼくはそっちのほうに転ぶタイプではないけれど、「意識し続ける努力をしない自分はダメだ」というたぐいの自己否定には簡単に引っかかる人間です。

それで、この辺りのことに想いを巡らせていて分かった気がするのは、
「ゴータマさんがいうような大きな悟りを目指す必要はまったくないし、むしろ小さな悟りをきちんと意識することこそ、万人向けの瞑想法になりうる」
ということの「正しさ」です。

小さな悟りというのは、今この瞬間に体の感覚として味わうことのできる「幸せな気持ち」のことで、少しの時間を取り、心身から力を抜けば、誰でも味わうことのできるものです。(人によっては少し時間がかかる場合もありますが)

心身の力を抜き、意識を体の隅々まで広げることができれば、心地よい緊張感とともに、幸せな気持ちが全身に広がるはずです。

これをきちんと言語化するのは荷が重いので、とりあえず今はこのくらいにしておきます。

とまあ、つらつら書いてきましたが、こんなところがぼくの人生の到達点かな、という気もしていて、あとは暮らしが回る程度に働いて、静かに余生を過ごせたらいいかな、みたいな、かなり隠遁的気分に入ってます。

しかしこれも気の変わりやすいぼくのことですから、二、三日たったらどうなってるか分かりません。

でも、とにかく物を書いて表現するのは、少しお休みかな。

何もしないでいい、生きてるだけで意味がある、というのを、いくらかでも徹底して練習する感じで。

今日は蒸し暑い一日でしたが、そろそろ夜七時、まだまた明るいのですが、ガンガーべりはヒマラヤから降りてきた冷気で涼しく快適です。

てなわけでみなさん、ナマステジーっ♬

今の幸せな気持ち

夜のガンガーべりで一人ネット遊びをしながら、「おれって結構幸せだな」って思えてしまいました。
ひょっとして、この幸せな気持ちが、みなさんにいくらかでも伝わったら幸いです。

今日のひと言、あるいはぼくの小さな悟り

心身に大きなストレスがかかっていなければ、おおむね機嫌よくいられるようになってきました。

もともと低空飛行で、「よい刺激」がないとうつ的気分になりやすいぼくにとっては、これは大きな成果です。

座る瞑想をまずまず熱心にやった結果、そこにこだわりが生まれてしまっていたことに気づき、それを捨てることにして、体をほぐすことで、心身の不愉快さを取り除く術を心得つつあることが、よい結果につながっているようです。

幸せの練習、メモ。

下記のページ、慢性の痛みにどう対応したらいいか、という脳神経的リハビリの話なのですが、不安・不快・怒りなどなど、幸せな気持ちを損なうさまざまな負の感情にも適応できると思われるので、メモがてらリンクを載せておきます。

 

https://kintaroo.site/2018/03/20/post-86/