価値観が剥がれ落ちる
3月末以来の外出制限で、お籠もりとネットの日々、世間的な価値観が剥がれ落ちかけている。
とはいえ、奥さんとの関係は壊したくないし、そろそろ何らかの形で生活の糧を稼がなければとの思いもある。
五十六歳を目前に始終まどい続けるとしちゃんの、明日はどっちだ!?
とはいえ、奥さんとの関係は壊したくないし、そろそろ何らかの形で生活の糧を稼がなければとの思いもある。
五十六歳を目前に始終まどい続けるとしちゃんの、明日はどっちだ!?
感覚と反応、ヴィパッサナー瞑想の話
ゴエンカさん方式のヴィパッサナー瞑想の基本は、「呼吸と体の感覚に意識を向ける」だけという単純明快なもの。
けれども、ぼくにはこれが難しくて、なかなか長く続けられない。
最近気づいたのは、体の感覚に意識を向けるだけではなく、体の感覚に関連して起きてくる「反応」にも同時に注意を払うと、気づきを持続させやすいということ。
例えば「体の重さ」を感じたとき、それに反応して「何もしたくないな」というような思いが湧いてくる。あ るいは外を歩いていて車にクラクションを鳴らされると、「音の感覚」が生じるとすぐに腰に緊張の「反応」が起こったりする。
この一次的な「体の感覚」と、それに連鎖して起こる二次的な「反応」の、両方に意識を向けるのが、ぼくの場合はいいようだ。
ヴィパッサナー瞑想では、こうした「反応」が、自動的に起こっていることに気づき、苦しみにつながる「反応」が起こらないように学習していくことが大切なので、自分としては、うまいポイントに気づけたなと思っている。
けれども、ぼくにはこれが難しくて、なかなか長く続けられない。
最近気づいたのは、体の感覚に意識を向けるだけではなく、体の感覚に関連して起きてくる「反応」にも同時に注意を払うと、気づきを持続させやすいということ。
例えば「体の重さ」を感じたとき、それに反応して「何もしたくないな」というような思いが湧いてくる。あ るいは外を歩いていて車にクラクションを鳴らされると、「音の感覚」が生じるとすぐに腰に緊張の「反応」が起こったりする。
この一次的な「体の感覚」と、それに連鎖して起こる二次的な「反応」の、両方に意識を向けるのが、ぼくの場合はいいようだ。
ヴィパッサナー瞑想では、こうした「反応」が、自動的に起こっていることに気づき、苦しみにつながる「反応」が起こらないように学習していくことが大切なので、自分としては、うまいポイントに気づけたなと思っている。
努力が嫌いなわたしです。
仏教の世界観はおおむね好きなのだが、「努め、励め!」という努力主義的な言い方だけは趣味に合わない。(←はい、ただの執着です、笑)
努力なんていうと肩が凝るので、深呼吸して、心身の力を抜いて、ただただ今を味わっていきたいと思います。
努力なんていうと肩が凝るので、深呼吸して、心身の力を抜いて、ただただ今を味わっていきたいと思います。
〈悟り〉について
〈悟り〉というものを、理想的な状態であって、この世では実現できないものと定義します。
そのとき普通「悟り」と呼ばれるものは、〈悟り〉に向かって限りなく近づいていく、ある「生命体の状態」を示す言葉として考えられるな、と思いました。
インド時間18:44、今日も何かが来た。
昨日と似た感じで、だらだらとネット遊びをしながら、「だらだ らとネット遊びをしてるな」と意識しつつ、それを否定も肯定もしないでいたところ、ある瞬間スイッチが入り、「理由のない気分の高揚」がやってきました。
今日はそのしばらく前に「世界はつまらない!」という否定的な思考もやってきて、それが事実ではなく想念でしかないことに気づくこともできていたし、
「否定的思考」
→「否定も肯定もせず、だらだら過ごす」
→「気分の高揚」
というパタンが2日連続でやって来たことになります。
これがどう展開するのか、しないのか、もう少し見守ってみましょう。
なぜぼくは抹香臭い文章を書くのか
[facebookの投稿と同文です]
なんというか気真面目な文章で、「ぼく」は別にそういう文章が書きたいわけではありません。
どちらかといえば、おふざけのどうでもいいような文章を書いていたいような気持ちが強いくらいです。
ところが実際に書き出してみると、なぜかそういう文章になってしまいます。
たぶんこれは「ぼく」というものの精神構造が、あまり統合されておらず、分裂気味の人格を持っているため、「考えるぼく」と「書くぼく」の間に齟齬があって、「考えるぼく」が思ってもいない文章が潜在意識の層で用意されて、「書くぼく」はそれを言葉として並べていくからなのかもしれません。
仏教については、科学的に検証不可能な概念を取り払って、モダンで合理主義的な形に再構成した形を提示したい、という大風呂敷が頭の中に広がっているので、それの準備のような気持ちもあり、ぼちぼち書いたりもしているのですが、Owen Flanagan というアメリカの人が buddhism naturalized という呼び方ですでにそういう内容の本を出しているのが分かり、まあ、ぼくが考えるくらいのことは、ほかのひとがすでに実現してても当然だよな、という話なのですが、「輪廻転生と涅槃を抜いた合理主義的仏教」というのを、自分の実践として生きていくというのか、今後の人生の宿題ということかもしれません。
以上、心の中からなんとなく湧いてきたものをつづってみました。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
周期の短い波打ち心理
2-3時間前は、「悟りなんて何の意味もないな」とそこそこ過激な気づきの状態にいたのが、その後、ものを食べたり、ネット遊びをしたりしていたら、つい5分ほど前に何か結ぼれがほどけて、「意味もなく楽しい気分」がやってきています。
普通に考えると「不安定な精神状態」とも言えるのですが、この何日かで意識の組み換えが起こっていて、もうしばらくすれば安定した状態になりそうな予感です。
facebookの 自記事紹介のコメントに書いた曹洞宗系の指導者の方の書いている内容にこちらの意識状態が共鳴した感じで、ネットから入ってくるいろいろなものが、いい塩梅に響き合っているなぁと思っています。
とまあ、なんとはなしのひとり言であります。