小さな悟りを求めて -18ページ目

人生の分岐点

21年前の今日、江戸川区の精神福祉関係の集まりで、今の奥さんと初めて会いました。 今おもえば、この日がぼくの人生の大きな分岐点でした。

そうして、出会ってひと月ちょっとで婚姻届を出して、けじめもはっきりつけないまま結婚生活に突入。 

以降、危機的な状況も何度かありましたし、今も決して仲のよい夫婦とは言い切れない状態が続いています。 

ぼくのだらしない生活態度で、奥さんには迷惑をかけっ放しですが、人間そう簡単には変われないものですし、いい意味で開き直って、これからも無理なくできる範囲で、二人の人生が充実したものになるよう、心がけたいと思っています。 

もっともらしく書いてはいますが、以上、五十六歳無為少食男の今日の抱負であります。

午後のガンガー散歩




今日は五十六歳の誕生日です。ネット上では1/19と偽ってますが(笑)。
いつもと変わらぬ静かな一日です。
(何度か奥さんにわーわー文句を言われてるのもいつも通り、笑)

素焼きの器のチャイでした



昨日の夜のチャイは、ハリドワルには珍しく素焼きの器で出てきました。

慈悲と喜捨もて五蘊に対す

五蘊というのは色と受想行識、物質と四種の精神作用のことで、仏教では人はこの世界を五蘊として捉えていると考えます。

慈悲喜捨は四無量心といって、他者を慈しみ、その苦しみは共に悲しみ、また良いことがあれば共に喜び、けれども落ち着きを忘れないという、人生に対する正しい心のあり方を言います。

この二つを合わせるとき、他者も自分も五蘊の集まりでしかなく、自然な法則に則って踊りを続ける現象にすぎないと理解し、それに腹を立てたり、選り好みしたりすることをやめ、いつも慈悲喜捨の心で対することができれば、はい、これが覚者の誕生となるわけです。

以上、今日は簡単な仏教入門講座でございました。

一休さんの悟りに捧ぐ戯れ歌

あ゛ーあ゛ーあ゛ー音に鼓膜が波打ちて 我を真如に導く鴉

(臨済禅の僧、一休宗純和尚は、夜半に鴉の鳴く声を聞いて悟りを開いたのだそうです)

空劫歴程

一たび寒山に住みて 万事休す
更に雑念の心頭に掛かることなし
閑(しず)かに石壁に於いて詩句を題し
任運なること還(ま)た 繋がざる舟に同じ
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以上、「寒山詩」より。(中国のお坊さん寒山が書いたと伝えられる)

3月末にハリドワルで外出・移動制限が始まって以来、いろいろなことが休止状態になっています。

頭の中には折々雑念が浮いてくるままですが、インドの喧騒の影で送る瞑想的日々に、境地の深まりを感じないでもありません。

静かに虚空に落書きをしながら、糸の切れた凧のごとく、風に吹かれる運命を楽しみたいものです。



※こちらは伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)による寒山と拾得の絵。

かまってちゃんのひとりごと

複雑すぎて人に説明するのが難しく、がんばって説明したとしても、十分理解してもらえる保証もなく、だからぼくは説明をあきらめ続けてきたのだが、もうそれをあきらめる必要もなくなった。決して理解されることなどなくても、精一杯説明することにこそ意味があるのを今は知っているから。生きるということは、そうした表現の積み重ねにすぎないことが、ついに分かったから。

……と書いて facebook に投稿したときは、誰かがこれに反応してくれるかとか、まったく気にならない気持ちだったのだけれど、しばらく時間が経ったらやっぱり反応を期待している自分がいるのに気がついて、「そりゃそうだよな、そんなに簡単に『悟り』が開けるわけないもんな」と思いつつ、でも案外簡単なことかもしれない、ともしぶとく考えているわたしです。

今日はユングの言葉

私たちの心の背景で浮遊している形態の、そのものから直接知れることではなく、それが秘かに暗示しているものこそが、生きるに値する深みを人生に与えてくれるのだと、私には思えるのです。-- c. g. ユング (Carl Jung, Letters Vol. II, Pages 396-397より)

無意識が暗示するものこそが人生に意味を与えてくれる。まったく同感です。

この世は夢か幻か

この世は泡のごとし。この世は幻のごとし。世界をそのように見る者は、死王にもまみえることがない。
 

勝手訳パーリ仏典「ダンマパダ(法句経)」より。 

 One should see it as a bubble, one should see it as a mirage,
looking on the world in this way the King of Death does not see one.

今は不熱心でも、次の瞬間に熱心になれれば。

真実の道に不熱心であった者でも、心を改めて熱心に道を求めるならば、その者はこの世を明るく照らす。雲を離れた月のように。

勝手訳パーリ仏典「ダンマパダ(法句経)」より。 

 Whoever was heedless before, but later is not heedless,
that one shines brightly on this world like the moon released from a cloud.