小さな悟りを求めて -16ページ目

ティク・ナット・ハンと華厳思想

ティク・ナット・ハンと華厳思想についての記事を、久しぶりにはてなに書きました。

今日の祈り

重たい気持ちがやってきても、それに圧倒されないでいられますように。 
そして、圧倒されたならされたで、その事実を受け止めさえすればいいことを、忘れないでいられますように。 

……以上が今日の祈りの言葉です。

ハリドワル、おかゆ便り

日本はだいぶ寒くなったでしょうか。

こちら北インドのハリドワルは、昼間の日差しは強いものの、朝晩は半袖では肌寒いくらいになりました。

先日の写真のおかゆですが、ポア(rice flake)というものに、少しばかりオーツを混ぜた即席の野菜がゆです。

ポアというのは、炊いたお米を潰して干したもので、インドの人は、さっと水で戻してから、炒めた野菜に合わせて火を加え、チャーハン的に調理して食べるのですが、ぼくは野菜スープに入れて、即席のおかゆにしているのです。

ゴーヤ、トマト、玉ねぎ、しょうがをお湯で茹でて、そこにターメリックとマサラ(インド風スパイスミックス)と塩を入れて味つけし、火を落としてからポアとオーツを入れます。ポアだけだとあっさりしすぎなので、オーツのとろみと風味を加えています。

という具合で、外食はあまりせず、宿で作る食事はこんな簡単なもので済ませているのでした。

ちなみにインドの人も冷めたご飯にさらさらの豆カレーなどを合わせて温めて、おかゆ風にして食べることは普通にしてますね。
冷めたままでも気にせず食べるのも一般的ですけど。

今朝のおかゆ

今朝は電気鍋でおかゆを作りました。


パラタの話

インドの平らなパンにはいろいろな種類がありますが、ナンは半発酵、チャパティは無発酵で、どちらも焼くときには油は使いません。

これに対し、写真のパラタは焼くときに油を使います。

そしてパラタは、具が入れてあるのが特徴です。

ぼくが食べたのは一番ポピュラーなじゃがいものパラタで、茹でて潰したじゃがいもにピリ辛の味が軽くつけられています。

具はじゃがいもの他には、カリフラワー、玉ねぎ、パニール(インド風チーズ)などが使われます。

一緒に出てきたカレーは、サブジ(野菜の意味)と呼ばれるじゃがいものカレーと、ダル(豆の意味)と呼ばれる豆のカレーで、どちらもインドの定食にはかかせないカレーです。

(今日はこの記事を投稿する以外はネットをお休みします)


数日前のお昼

先日投稿しそこなったお昼の写真。
気が向いたら解説を書くかも。


無為に生きるもまた善し

何か役に立つことをしなくちゃとか、人に認められるようなことをしなくちゃとか、そういう考え方はスパッと捨てちゃっていいんだなと、今日はそんな気づきを得ました。
少しずつですが、もういらなくなった古い思考パタンが剥がれ落ちてゆく気持ちよさを味わっています。

学歴コンプレックスの解消

ツイッターでやりとりをしている若い(と思われる)お医者さんが二人いて、おふた方ともヴィパッサナーをやっている。
その二人がアメリカのオンラインの瞑想コースに参加しているもので、何となく自分もやりたいような気になって、どんな感じだろうとホームページをチェックした。
肝心の参加費に辿り着く前に、こういうアカデミックなのはもういいや、という気になって、そこで自分の中に学歴コンプレックスのたぐいがあることを改めて確認した。

最近は見ないが、大学を出てから十年以上経っても単位が足りなくて卒業できない夢を見ていた。そういう夢を見るたびに、何かやり残しがあるんだなという気はしていた。

けれども現実問題として、もう「学校」で窮屈な勉強をする気はない。瞑想センターですら、学校的にスケジュールが決まり、大勢の人と足並み揃えて行動するのに辟易しているのに、わざわざ大金を払って学校に通ってまで勉強するという選択肢は、(絶対とは言い切れないけれど)基本的にない。

……と頭では考えているのに、とこかに未練があるから、「英語でやる本格的な瞑想オンラインコース」などというものに幻惑され、いややっぱこれは違う、などと金もないのにウインドウショッピングに明け暮れるようなアホウな真似をしていたわけです、はい。

学歴もそうだし、無為少食の身分もそうで、「社会的なイキモノである人間として、こんなんでいいのか、もっとやることやったほうがいいんじゃないの?」という刷り込まれた価値観が薄っすらと圧迫して、じんわりと焦燥する。

……などと書いていると本当に緊張がやってくるので、人間なかなか難しいものだなと、改めて思うのですが、さっき夕方買い物がてら外に出て、ツーストの三輪オートがうるさいインドの埃っぽい通りを歩いてたときは、実にすっきりとした気持ちだったのね。

あー、もう学歴なんて気にしないでいいんだ、住所不定無職で、貯金もなんにもないけど、ヴィパッサナーで小さな悟りを決めたから、ただこの明日をも知れぬ我が人生を、めくるめく幻想劇場として、観劇し、演じ、歌い、踊っていれば、それだけで生きるに値するんだって、説明すれば、まあ、おおよそそんなようなことになる話を、全身リラックスして、ふらふら歩きながら、体感してたってことでして。

というようなわけで、特別なオチもありませんけれど、この世に存在することを絶対肯定する脱力的幸福感が、みなさまに少しばかりでも伝わったとしたら、それに勝る喜びはありません。

てなことでみなさん、ナマステジーっ♬

いつも正しく心がけて生きる

いつも正しく心がけて生きる。

仏教の教えは、これに尽きるな、と思いました。

正しい心がけの内容は、一生を通して深めていくことになるのですが、たとえば、できるだけいつも気づきを保つということです。

過去や未来のあれこれに心を迷わせず、今ここで起きていることに意識を向け、あらゆる物事は移ろいゆくものなのだから、何であれ選り好みしたり、毛嫌いしたりを減らしてゆく。

そうして自分を大切にし、周りの人も大切にすることができるようになっていけば、自ずと人生も幸せなものになっていくという話なのでした。

アニマの夢

二十歳の頃に好きだった女の子の夢を見ました。 

子どものころ母親に十分気持ちを受け止めてもらえなかったぼくは、女性に対して恋人の役割だけでなく、母親的存在を期待してしまうところが大きいようで、ぼくが知っている女性の中では、その彼女が一番母性を感じられる人だったのだろうなと、その夢を振り返ってみて思いました。 

ユングのいう「アニマ≒男性にとっての理想的女性の元型」の象徴に一番当てはまる女性といってもいいでしょう。
 

彼女とは男女のつき合いがあったわけではなく、少し離れたところから、憧れてみるような、その距離感が彼女の存在を理想化しやすくしているのだとは思います。 

初めて会ったときから、十数年は友だちとして、ある程度のつき合いがあり、何度か二人のデートを楽しんだこともありましたが、この二十年以上会っていませんし、これからも多分会うことはないでしょう。 

ヴィパッサナー瞑想を初めてそろそろ十年が経ちますが、その間いろいろな心の整理を、ゆっくりと時間をかけて続けてくることになりました。
 

初めての恋人との失恋の傷、一人めの奥さんへ残してしまっていた想い、今の奥さんとの関係性のもつれ、そしてその大元にある母へのこんがらがった感情……。 

この人生で出会う女性は、すべてアニマの現れだと、今にして思うのですが、その元型を象徴する人の夢を見、その人の暖かさに改めて触れたことが、ぼくの中の何かを変えてくれたように思います。 

ゴータマ・シッダルタがスジャータに乳がゆをもらったことがその悟りにつながったように、今日のこの夢がこの身に新しい扉を開いてくれることを願って、この小文を終えることにします。
 

それではみなさん、ナマステジーっ♬
[2020.09.30 mer]