小さな悟りを求めて -14ページ目

護摩法要で瞑想の練習

北インド農村部の寺で、54日連続で行なわれる護摩法要に使う炉は、1メートル以上の深さ。午前午後それぞれ2時間ずつ以上参加させてもらってるいるので、瞑想のとてもいい練習になる。かなり体は疲れるが、6日めにもなって、供物を投げ入れる動作もだいぶこなれてきた。


人生相談的な試み

みなさん、社会に対する疑問とか、人生上の悩みとかありますか。 

人生相談的なやり取りを試みてみますので、オープンな場で問題のない質問、疑問などあれば、コメントでお願いします。 

質問の内容によっては時間がかかることもありえますが、一緒に考え、丁寧に答えたいと思いますので、よろしく!

しばらく投稿お休みか?

ハリドワルを離れ、バグパットという街の近郊の農村部のお寺に滞在中です。
プライベートな時間が取りにくいため、しばらくこちらへの投稿はお休みになるかもしれません。
てなことでまたー。


[菩提樹の下、夜に瞑想しました]

インドの護摩法要

インドの護摩法要のビデオをfacebookに載せたので、お暇なときにでもどうぞ。

https://www.facebook.com/100001018083738/posts/3696506653726568/

ハリドワルの宿を無事出発

ハリドワルをバスで出発。 

……したいのだが、乗るバスが見つからない。
で、写真を撮ってたら、何かの職務を執行中の男性(警察官? それともバスターミナルの職員?[写真中央左の人])に名前と電話番号を聞かれる。
その人が親切にバスを探してくれたが、まだバスが来てないことが分かって待機中。 

今日の目的地バグパットに着くのは、いつになるやら。

明日ハリドワルをひとり離れる

みなさま、新コロ騒ぎで何かとストレスフルな日々を送っていらっしゃいはしませんでしょうか。

ぼくのほうは、気分は上々なれど奥さんとの関係の緊張度が高まっていて、昨日今日とちとくたびれました。

明日にはひとりハリドワルを離れ、バグパットという街のお寺にしばらく行くことになったので、お互いしばらく距離を取って、落ち着いた時間を過ごせたらよいなと思っております。

今回の突き抜け

今回の突き抜けは、かなり大きいです。
って、今までも何回そう思ったことか。
まあ、そうやって段々深まっていくと。


[朝のハリドワル、北インド・ウッタラカンド州]

生き物というのは、踊る結晶で。

生き物というのは踊る結晶で、ヒトの意識というものが、ある純度にまで高まって静まって、そのとき生成維持される動的結晶の平衡状態を、悟りと呼ぶのだなと思いました。

慈悲の繭(メッター・シールド)の力

両手を前後左右と上に伸ばしたくらいの大きさの、かすかに白く輝く繭に自分が包まれているところを想像してみてください。

この繭は素敵なフィルターの役割を果たします。
外からの悪い気は中に入れず、内側の悪い気は浄化してから外に捨てます。
すると繭の内側はよい気に満たされ、慈愛の気持ちで自分をいたわることができるようになります。
同時に外側の人が仮に悪い気を投げつけてきたとしても、自分は繭に守られていますから傷つくことなく、不快な気持ちになることなく、相手に対してもいたわりの気持ちで接することができるようになります。

すぐに思った通りにはならないかもしれませんが、こうしたイメージの練習をすることで、ただ頭で考えているよりは、仏教で大切なものとされる「慈悲」の力を身につけることがスムーズにできるはずですので、どうぞ試してみてください。

このやり方が今日、うちの奥さんとの関係でとてもうまくいったので、みなさんにも共有をはかる次第です。

言葉以前の理解

認識も理解も、言葉以前の脳の働きとして「起こる」現象なんですよね。 

でも、普段ぼくらは言葉を通して初めてそれを「意識」するので、言葉以前の「認識」や「理解」を想像もできない。

カスタネダのドンファン本で、「言葉なしの理解」ということを初めて知ったときは「そんなことってありうるだろうか?」と思ったものですが、ヴィパッサナーを認識も理解も言葉以前の脳の働きとして「起こる」現象なんですよね。 

でも、普段ぼくらは言葉を通して初めてそれを「意識」するので、言葉以前の「認識」や「理解」を想像もできない。
カスタネダのドンファン本で、「言葉なしと理解」ということを初めて知ったときは「そんなことってありうるだろうか?」と思ったものですが、ヴィパッサナーをかれこれ十年近く練習してきた結果、言葉は意思疎通のためには必要だけれど、認識や理解のためには必ずしも必要でないことが、かなり実感として分かるようになってきました。