「お寺に行きました」「修道院に行きました」という作文に始まり、祈りと信仰について書いてきました。

 

シリーズ①で永平寺に行ったこと、

②で修道院に行ったこと、

③では聖フランシスコについて

④では祈りについて考えたので、

⑤は歌について

⑥の今回は、信仰=信じる、について考えてみます。

 

「信じる」とは何か? これを説明することは大変難しいです。そもそも「信じる」とは理屈ではなく実践です。言葉を並べても核心に至りません。

 

じゃあ実践とは? 聖人がするように、癩病患者と一緒にご飯を食べたり、私財を投じて山谷のドヤ街に宿泊施設を作ったりという実践は立派過ぎて真似できません。毎日寝る前に30分お祈りするのでさえ大変です。聖人伝とかを読んでも、「この人たち変なんじゃない?」と言うほどの熱心さでついて行けません。

 

シリーズ④でお話した、「信仰のない私に、信仰を与えてください」と寝る前に3回唱えて祈ることが、信仰を理解するための近道です。

 

これで、お仕舞い。。。。にしても良いのですが、信仰の外堀を埋めるようなことごとを書いてみたいと思います。人類はどうして神を信じるようになったのか? 現代社会での信仰とは? 「神からの御告げを聞いた」というような神秘体験とは何か? といった事々です。

 

そして信仰者の在り方の模範というかケース・スタディとしてパスカルと、シモーヌ・ヴェイユを見てみます。

 

1回では収まりきれないので、3回か4回になると思います。

 

動物の中でも象や猿は仲間を葬ります。でも象や猿には宗教はないようです。ネアンデルタール人は死者を葬ったとも言われますが、宗教があったかは諸説あって良く分かりません。ネアンデルタール人は体が大きく力が強かったので自然界を一人乃至は数人で生きていました。ネアンデルタール人の喉は開けっ放しで、息継ぎが出来なかったそうです。息継ぎが出来ないと息を制御できないので、水泳のクロールと、歌を歌うことはできなかったようです。そして言葉を操るのも苦手だったようです。

私たちサピエンス族は、体が小さいので一人では自然界を生き抜けません。30人ほどの群れを作って生きてきました。群れの人間関係に対処するために知性を発達させ、自意識を持つに至りました。人間関係ほど、脳に刺激を与えるものはありません。

 

キリスト教では、アダムとイブが「リンゴの実」を食べたことが「原罪」の始まりと考えています。原罪とは自己意識だと思います。それまで、人間は自分自身を見つめることは無かった。リンゴを食べて、自分自身を見つめたら、裸であることに気がついた!と言う訳です。これは機会を改めて述べたいと思います。 自己意識こそ知性の始まりであり、人間の不幸のもとです。

 

自然界は不思議に満ちています。でも、人間ほどの不思議はありません。何を仕出かすか分からない。何を考えているのか分からない。全く見当もつきません。とりあえず、私の目の前にいる人間には、統一的な意思を持つ「意識」というものがあららしい。その意識が考えたり、欲しがったり、企んだりしているらしい。一種の陰謀論ですね。

 

他人に「意識」があるんだから、私にだって「意識」があるはずだ。このようにして人間は、意識というものを措定したと、テレビでおなじみの養老先生が言ってました。

 

(他に意識を見出す)→(自分にも意識があるだろうと想定する)という順です。

逆ではないところが面白いです。「意識」を「人格」と置き換えても良いでしょう。

 

私たちは、岩の崖や、木の幹に、人間の顔のような絵柄を見出します。自動車の正面やロボットにも人の顔を見出します。私たちは人格を探しているようです。動物に怯えるのは、得体のしれない獰猛な人格を感じるからでしょう。犬には良い人格を感じるので安心です。自然界で見出した様々な顔が「人格」となり、アニミズム、そして多神教に繋がるのでしょうか。人間とは、自然界や社会に、自分たちを越えた「意識」を想定する習性があるようです。世界は混沌としていますが、「人格」や「意識」を想定すると、少しは整理された気がします。

 

それとは別に、人間(ホモ・サピエンス)の特徴は「因果関係に基づく物語」で世界を理解することです。お腹が痛くなると「昨日のキノコが原因だ」と推測する。洪水や日食、台風等々があれば原因を推測します。群れでの集団生活では、「誰の仕業か?」が重要なテーマです。嫌なこと、素晴らしいことを見ると、「誰がしたんだろう?」と責任を追及します。複雑な世界情勢を見て「ディープ・ステートのせいだ」という陰謀論などは、その延長でしょう。「原因を突き止めた」と安心したいのです。

 

人格という観念なしに人間関係を乗り切るのは大変です。因果関係という観念なしに世界を理解するのも同じく大変です。

 

因果関係の果て、原因の原因、その遥か彼方にある究極の原因=何かの結果ではないものを、アリストテレスは「不動の動者」と呼び、それこそが神であると考えました。

 

「神は人智を、自然をも超えた超越者である」というのは、神には因果関係が適用されない、という意味でしょう。神は無限なので、どこまで行っても神の原因はないということになります。

 

これって、私には、ただのネーミングに見えます。「原因の原因のその先は良く分からないから、神という名前の、何か良く分からないものを置いておこう」というのと同じではないでしょうか? このアリストテレスの考えは後世に多大の影響を与えているので、私ごときが安易に否定できるものではないのですが。。。

 

ちなみに、ソクラテスも、プラトンも、アリストテレスも神を信じていました。しっかりと信じていました。日本人にありがちな、「良く分からないから信じない」という態度ではありません。

 

余談ですが、東日本大震災のとき、仙台に住む9歳の少女が「どうして、こんなことが起きるのでしょうか?」とローマ教皇に手紙を書いたそうです。この少女は、地震を起こした原因がある筈だ、そして、その原因は人格、意図を持っているはずだ。教皇なら教えてくれるかもしれない、と考えたのでしょう。 

 

ベネディクト16世の返事は「私も『なぜ』と自問しています。いつの日かその理由が分かり、神があなたを愛し、そばにいることを知るでしょう。私たちは苦しんでいる全ての日本の子供たちと共にあり、祈ります」というものでした。

 

デルフォイの神託は、分からないことを「分からない」と言えるのが賢者である、とソクラテスに教えたそうです。「私も『なぜ』と自問しています。」と言ったベネディクト16世も、分からないことを「分からない」と言える賢者のようです。神秘とは「人智では計り知れない」ということです。人間には分らなくても、「神は知っている」と考えるのが信仰です。

 

これまでを纏めると、

①「人格」を求める私たちの習性。

② 因果関係による説明を求める私たちの習性。

③ 限りある人智の彼方にいる神を求める習性。

 

この三点が信仰を産んだといえそうです。もちろん、ほかにも要因はあるでしょう。

 

話題を替えて、

 

社会の在り方を見ると、人間社会は「信じる」ことなしには成立しないと思います。

 

現代人が大好きなお金。ただの紙切れです。紙切れには何の価値もないのに、価値があると信じています。共同幻想です。「金なんて幻想だから要らない」という人を見たことありません。人間がお金の価値を信じることを止めたら、社会は成り立ちません。お金という「紙」への信仰が必要なのです。

 

金の亡者が集うウォール・ストリートにも信仰があります。「立派な人間は、際限なく金を欲しがるべきだ」という信仰です。日本の会社の社長のように、たった1億円の給料で満足している奴は人間失格です。「金への限りない欲望を持たない人間が、一生懸命働く筈がない。」「もっと高い給料を欲しがるインド人を連れてくれば一生懸命働くだろう」というのがハゲタカ・ファンドの信仰です。

 

世界の平和は核兵器により守られています。この理論は、「金正恩もプーチンもトランプも、死ぬのは嫌なはずだ」「核攻撃を行えば、核による反撃を受けて自分も死んでしまう。誰でも死ぬのは嫌だから、核は持っても先には使わないはずだ」という信仰です。プーチンやトランプは自己愛が強そうです。この二人の間では核抑止理論が働くでしょう。プーチンから見れば、「平和を保てる程度の武器があれば良い」と言っている日本などは、国家として失格です。ウクライナと同じで踏み潰して良いのです。アメリカの核の傘があるから遠慮しているだけです。

 

2022年12月9日にインド・中国の国境で両軍が衝突しました。双方とも核保有国なので核を使ったら共に皆殺しになります。そこで近代兵器は使わず、石を投げ、こん棒で叩いて20人が死にました。こっちの方が痛そうです。ここでは、核抑止理論が見事に機能したわけです。核抑止理論への信仰は1945年から80年間は有効に機能しています。この信仰がなければ、世界にはもっと多くの戦争が起きていたでしょう。

 

お金も核抑止理論も、人間の欲望と信仰が創り出したナラティヴです。80億の人々が生きている世界が、機能不全や綻びを生じながらも機能しているのは、ナラティヴを「信じる心」があるからだと思います。

 

ユヴァル・ノア・ハラリが「サピエンス全史」でいうように、宗教、貨幣、国家、人権、法律、正義、イデオロギー、果ては自然科学もすべて虚構のナラティヴです。お金は共同幻想ですが、私たちが信じている限り有効です。信仰無くして、この世は成り立ちません。

 

現代人は神への信仰から遠ざかっています。先進国での信者は確実に減っています。その代わり、現代人は「分業への信仰」に基づき生きています。複雑化する社会、高度な科学。原発の電気で灯りを点け、ワクチンで病気を防ぎ、乱高下する株と為替、仕組みの全く分からないコンピュータ。都市生活は分業によって成り立っています。

 

現代社会で生きていくには、八百万の神々を信じるよりも、それぞれの分野の専門家を信じれば良いのです。心の不安にはカウンセラーがいます。現代社会は多神教です。唯一の神は忘れ去られつつあります。唯一神ヤハウエが十戒の第一に「わたしのほかに神があってはならない。」と刻ませた所以でしょう。

 

混沌とした世界を理解するために、人間は「人格」や「原因」を求め、究極の答えとして神を信じるようになった。現代人のニーズには専門家が答えてくれる。神の居場所りつつある。

 

という感じでしょうか?

 

これは「私が作った物語」なので、ほかにも多くの説明があると思います。

 

再び、信じる ② シリーズ「神様と仏さま」その⑥ー2に続きます。