シリーズ①で永平寺に行ったこと、

②で修道院に行ったこと、

③では聖フランシスコについて

④では祈りについて考えたので、

⑤では歌、

⑥-1前回は「信じる」

⑥-2今回は、「再度、信じる」です。

 

前回では、「信じる」とは、人間が自然界を生きる進化の過程で身に着いた能力だが、現代人は多くの前提を信じることを迫られ、神への信仰が疎かになっている、と書きました。

 

私は若いころから「死について考えることは大切だ」「死を考えない人間は、生きているとはいえない」とか聞かされてきました。でも、死について考えたことはありません。

 

東日本大震災が起きたときは、高層ビルの35階で香港の取引先との国際電話をしていました。あまりにも揺れが酷いので「地震だから会議は中止だけれど、これで最後かもしれない」といって電話を切りました。香港には地震がないので、相手には何のことだか分からなかったみたいです。女の子が叫び声を上げたり、ファイルを仕舞った棚が倒れ掛かったりと大騒ぎでしたが、私は窓の外を見ながら「このビルは途中でポキンと折れるのか、ズドンと倒れるのかどちらだろう?」などと考えていました。「こんなところで死ぬのは嫌だな」とは思いました。鈍いのかもしれません。

 

 ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを 在原業平

 

 思ひおく まぐろの刺身 河豚と汁 ふっくりぼぼに どぶろくの味  新門辰五郎

 

神への信仰と、死への恐怖は密接に関わっています。しかし、寿命が30歳であった昔とは異なり、人生80年の現代では「充分に生きた。もう死にたい」という人も多いようです。  

 

宗教は、人生の苦難とも関わってきました。お釈迦様は王様の息子として産まれました。あるとき、城の東門を出ると老人が、西門には病人が、南門では死者を見て、人生の苦難を知りました。北門を出ると修験者がいたので、出家を決意したそうです。(四門出遊)

 

永く平和が続き、社会保障も整備され、治安も良く、だれもが(消極的には)親切な日本では人生の苦難や不安も少ないです。「地上の天国」は現代の日本で実現していて、「神様要らないよ」という感じもします。イエス様も、マルクス様も、いまの日本を見たら「理想郷だ」と言うでしょう。

*養育費の取り立てが制度化されておらず、女性の職場復帰も難しいので、シングルマザーは大変だと思います。

 

神さまの出番は減っているようで、先進国では信者は減っています。アメリカでも減っていますが、まだ神を信じることが主流のようです。競争社会には救いが必要なのでしょうか? 中国も変化の激しい社会であり、宗教への関心は高いようです。

 

それでも、私には「何かを信じたい」という欲望は確実にあります。神を信じることのに人生は随分と辛いだろうと思います。教会では、私のような人を「神に招かれている」と呼びます。「そんな欲望はさらさら感じない」という人は、神に招かれていないか、招かれていることに気づいていないのか。神無しに生きられるなら、無理して信じることはないです。酒の飲めない人が無理して飲む必要はありません。

 

呼ばれています いつも

聞こえていますか いつも

はるかな遠い声だから 

良い耳を、良い耳を 持たなければ  典礼聖歌

 

これまでは、信仰を自然の進化という視点から述べてきました。これからは、信仰の持つ超自然的な面を考えてみたいと思います。

 

多くの宗教者が神秘体験や、神憑り経験を報告しています。これは一体なんなのでしょう?

 

聖書によると、イエスは一人静かに祈る人で、神憑り(がかり)の人ではないようです。私の知る限り、お釈迦様が神憑りを経験したことは無いようです。モハメッドは「神の声を聴いた」と言っていますから神憑りがあったのかもしれません。( アラーの神さまは、「モハメッドは四人と限らず奥さんを何人もらっても良い。モハメッドの妻は、互いに仲良くしてモハメッドの迷惑にならないようにしろ」とか、都合の良いお告げをしているそうです。ただし、モハメッドが奥さんを何人も貰うのは、年上で金持ちの第一夫人が死んだ後だそうです。)

 

新約聖書で神憑りがあったのはパウロです。入信するまではキリスト教徒を迫害していたパウロですが、ダマスカスに向かう途中で強い光を浴び「なぜ、私を迫害するのか?」というイエスの声を聴いたと言います。(この時、パウロの目から「ウロコが落ちた」そうです。この表現は聖書オリジナルです。)

 

パウロは持病があったようで、「高ぶることのないようにと、肉体に一つのトゲを与えられた。」と言ってます。この棘とは「てんかん」だと言われています。

 

てんかんは側頭葉の病気です。側頭葉を刺激すると、普通の人でも発作を起こすそうです。また、1秒間に20~50回程度の光の明暗を体験すると、てんかんに似た発作を起こすことがあります。ポケモン放送中に、子供たちが発作を起こすという事件がありました。パウロは「強い光を浴びた」といっているので、パウロもポケモン体験をしたのかもしれません。

 

てんかんの中でも、Geschwind症候群という症状があり、その特徴は

 

●神秘的、宗教的、哲学的関心が高い 

●強迫的、過剰に書く(過剰書字) 

●粘着的言動と迂遠 

●怒りや攻撃性が現れやすい 

●性的欲求の低下まれには同性愛 

●認知の強化

 

これを見ると、宗教家や神学者・哲学者は全て、てんかんの患者に見えてきます。トマス・アクィナスやプラトンは、羊皮紙と羽ペンで驚くほどの量の本を書いています。

 

パウロも膨大な書簡を書いているし、文章表現は分かりにくく迂遠です。またキリスト教徒を迫害したぐらいだから攻撃的です。「結婚しない方が良い」とあっさり言っているので、女の人には関心なかったようです。

 

画家のゴッホは、上の症状の全てが当てはまるそうです。若い時は神学校に通っていましたし、有名な「耳切り事件」は暴力性の表れかもしれません。

 

てんかんについては、慈恵医大の須江洋成先生の「てんかんの精神医学的問題」のP30~37をご参照ください。ネットで見れます。箇条書きなので読みやすいです。ゴッホの部分は特に興味深いです。

 

という訳で、宗教家の神秘体験は「てんかん」かもしれません。だからといって、「宗教なんて、てんかん患者の妄想に過ぎない」という訳ではありません。「ゴッホの絵なんて、てんかん患者の幻視に過ぎない」と言わないのと同じです。ゴッホの絵は、てんかんによって研ぎ澄まされた感性や強い意志の産物なのでしょう。

 

ハンディーを乗り越えた人が、常人のなしえない仕事をすることはあります。パウロもてんかんという「体のトゲ」を通して神の声を聴いたのかもしれません。

 

「神秘体験はてんかんの症状」と決まった訳ではないですが、神秘体験や神憑り体験も、医学的に説明できるかもしれません。その上で、それらの奥には神のメッセージがあるのかもしれません。処女が妊娠するんだから、てんかんが神秘体験でも驚くにはあたりません。

 

神はあらゆる手段で私たちを招いています。私たちは、聖書や神学的な黙想だけでなく、自然現象や、医学的に説明可能な体験からも神の呼びかけを受け取れる、と信仰者は考えます。

 

中世のスコラ学では、「神は、聖書という書物と、自然という書物、二つの書物を書いた」と考えたそうです。進化の過程で人間に植え込まれた「究極の答えを知りたい」という願望も、てんかんの症状を通しての神秘体験も、神が人間を招くために書いた「自然」という書物の一部なのでしょう。

 

神秘体験とは与えられるものであって、私たちから求めるものではない、と以前に書きました。神憑り(かみがかり)になるつもりが、悪魔憑き(あくまつき)になるかもしれません。苦行とか荒行も、側頭葉の発作を促す効果があるのでしょう。コカインなどの薬物を用いることもあるそうです。

 

神秘体験とかトランスとは、宗教のスパイスかもしれません。ある程度はあって良いものです。でも、スパイスを掛け過ぎて激辛にすると、私などはお腹が痛くなります。

 

信じるって難しい課題です。解き明かしたという気が全くしません。次の⑥-3「また、信じる」に続きます。