シリーズ①で永平寺に行ったこと、

②で修道院に行ったこと、

③では聖フランシスコについて

④では祈りについて考えたので、

⑤の今回は歌です。

 

修道院では歌います。アウグスティヌスという飛び抜けて重要な6世紀の聖人は、「よく歌う人は二倍祈る」と言っています。

 

下の写真は、グレゴリオ聖歌の楽譜です。五線譜ではなく四線譜です。落書きみたいなのは、9世紀に書かれたネウマという指示記号です。四角い音符は11世紀に書かれました。

 

神さまがアダムを創ったとき、土を練り固めて泥人形を作り、鼻から息を吹き込みました。土も神さまが創ったものです。人間とは「神が作った土から成る体と、神の息吹である霊によって出来ている」ということになります。(魂は体から来るもので、霊とは違います。馬や犬には魂はあっても、霊はありません。) 体と霊、二つで一つです。

 

死んで体が滅びれば、霊魂も活動停止。「最後の審判」で体が復活すれば霊魂も復活します。ですから、いまの時点で、死んだ人の霊は天国にはいません。天国にいるのはイエス様とマリア様だけです。(ヨセフ様はどうしているのか知りたいところです。)

 

言葉と心を用いての祈りは「霊の祈り」、肺と声帯を使い歌うことは「体の祈り」です。そして祈りを歌うことは、「霊の祈り」と「体の祈り」が一致することです。 先に挙げたベネディクト戒律には、「わたしたちの心が声と一致しますように。」とあります。ut mens nostra concordet voci nostrae.

 

「宗教は心の問題」と思われがちです。旧約聖書の天地創造では、山や川、生き物、人間の体を作ったのが神です。神は「見えるもの、見えないものの創り主」です。 人間は「心と体」でワンセットなので、「宗教は心と体の問題」です。

 

体の事情だけを優先すると、喰いすぎ、飲みすぎ、愛のないセックスになります。 体を「汚れたもの」と考えて、心だけを重視しすると、オカルト、極端な禁欲主義、プラトニック・ラブになります。初代教会と激しく対立したグノーシス、そしてマニといった古代宗教は、「清いのは心、体は汚れている」と考え、セックスと食べることに対し極度に禁欲的だったそうです。

 

カトリックはピンクが嫌い

 

歴史を見ると、教会は極端な禁欲には意外なほど激しく反対しています。カトリックでは「体も心も大切」。神は「産めよ増えよ」と言っています。アメリカで子供が多い家族はたいていカトリックです。ところが歴史を見ると「禁欲大好き」という例が多く見られます。体を苛める禁欲には、やってる感があるのでしょうか? 

 

前回、エンドルフィンの話をしましたが、歌うことで、血液中のテストテロンが低下し、性欲を抑えられるという研究があります。修道院とか、軍隊とか、昔の学生寮とかでは歌が盛んだったのには、そういう理由もあったという説を読みました。

 

中世の終わりごろまでは、教会音楽といえば写真を上げたグレゴリオ聖歌でした。グレゴリオ聖歌は斉唱です。二部合唱や四部合唱ではありません。中世のロマネスク建築は、石の壁が厚くて窓も小さくて残響が長いので、斉唱でもエコーのように響いたそうです。

 

グレゴリオ聖歌の歌詞はラテン語、旋律はメリスマと呼ばれ複雑で歌いにくい。加えて羊皮紙に書かれた楽譜は貴重です。一人一部なんて行き渡りません。暗記する必要があります。専門の聖歌隊しか歌えませんでした。

 

中世の終わりごろにゴシック風の教会が建てられました。壁が薄くステンドグラスの窓が大きくなり、エコーのような反響がなくなりました。人工的にエコーを掛けようということになり、「カエルの歌」のように幾つもの旋律が響き合う多声合唱曲が作られました。宗教改革を始めたルターは音楽の才能もある人で、一般の信者をも交えた讃美歌を充実させました。このころには、紙の楽譜も出回り始めます。

讃美歌はプロテスタント、みんなで歌うので親しみやすい曲が多いです。カトリックは聖歌。今はカトリック教会でも、皆で歌いますが親しみやすさという点ではプロテスタントに一歩譲ります。)

 

16世紀ごろ(日本だと、戦国時代の終わり)、カトリック教会もプロテスタントに対抗して新しい歌を作ろうということになりました。ルネッサンス音楽です。日本ではあまり知られていません。youtubeでパレストリーナとか、ヴィクトリアとかとか検索してみてください。美しさに陶然とします。

 

 

 

よく「音楽の父、バッハ」と言います。器楽曲についてはその通りでも、合唱曲ではバッハより100年ぐらい前が最高峰です。文化史家の竹下節子さんは「バッハは、バロック・ブラザーズの末息子」と呼んでいます。バッハが偉大であることは間違いありませんが、バッハの時代になって技術が進歩し、良い音のする楽器が作られたという要因も大きいです。ストラディバリウスはバッハと同時代の人です。

 

グレゴリオ聖歌について書きたいのですが、考えがまとまらないので、何れかの機会に。

 

一言だけ  聖歌は神を称えるものです。ホールに集まった人々から拍手喝采を浴びるために歌うのではありません。オペラ歌手のように、高音部を華やかに響かせて美声を誇ってはいけないのです。

 

ちょっと疑問なのは、「踊り」です。旧約聖書の登場人物はよく踊ります。ダビデは、「聖櫃」を見て嬉しさのあまり裸で踊って、奥さんに「みっともない」と家から閉め出されてしまいました。

※聖櫃とは十戒が刻まれた石板を納めた石の箱です。ハリソン・フォードが見つけた「失われたアーク」です。 アークヒルズ「Akasaka Roppongi Kaihatsu」はこれに掛けたのでしょう。

 

ところが新約聖書になると人は踊らなくなります。イエスが踊ったり、修道院でシスターが踊っているというのは考えにくいです。明治から後の日本の男は踊りませんが、江戸時代のお侍さんたちは踊っていたし、織田信長も踊ってました。踊りは思ったより重要かもしれません。

 

カトリック教会は熱狂的な信仰表現を嫌う傾向があります。全くの私見ですが、教会は、踊ることによって得られるトランス状態を嫌ったのではと思っています。アレルヤ唱に続いて多くの続唱 (Sequentia)が作られましたが、過度に装飾的であるという理由で多くが廃止されています。近年では「怒りの日」(Dies iræ)が「レクイエム」から除かれています。もともとのDies iræは静かな曲でしたが、モーツアルトやヴェルディの作曲したものは、劇的に過ぎると思います。

 

進化論で有名なダーウインは、「歌などと言う、生きて行くための役に立たないものが、何故あるのか進化論では説明できない」と言っています。ところが、最近の研究では、歌うことは、ダーウインが想像した以上に人類の進化に大きな影響を及ぼしているようです。

 

私たちはなんとなく、人類は先ず初めに言葉を話すようになり、その次に、言葉を使って歌うようになったと考えています。動物にも言葉があることようですが、歌を歌う動物はたくさんいます。鯨の歌は有名ですし、象も私たちには聞こえない低周波で数十キロ先にいる仲間と会話をしているそうです。そして鳥たち。動物の世界では歌うことは珍しくありません。

 

大昔の人間は一日中歌っていたのではないか? 朝起きると「朝の歌」。男たちは勇ましい狩りの歌。女たちは子守や洗濯歌。ご飯を知らせる歌。歌うことでコミュニケーションをとっていたのですが、全部歌うのは面倒なので、歌の冒頭の部分やサビを取り出して「狩り」「朝」「洗濯」「ご飯」といった単語となったのではないかというのです。

 

サピエンス族は歌うのに都合の良い喉を持っているので、良く歌い言葉を発達させた。喉があまり良くないネアンデルタール人やイルカや犬は、頭は良くても歌や言葉を発達させることが出来なかったので、知能の発達も遅れたというのです。

 

ヨハネ福音書には「初めに言葉があった」とありますが、「初めに歌があった」というべきかもしれません。

 

 

次は「信じる」について考えてみます。

 

続く