備忘録(byエル) -10ページ目

舞踏家はことばをたべて踊るんだ!(1)

私は指を持っている。

右手の人差し指と親指の間が広がらない。

神経が一本欠落しているらしい。

いつも震えて静止しない

柔らかな力でものを掴むことができない

親指と人差し指を持っている。

 

曲がって 閉じて 震える 指

 

習っていたピアノは、右手のオクターブ離れた和音に指を届かせることが出来なかった。 

弾きたかったギターは、ピックを柔らかく握れず音を響かせることが出来なかった。 

和菓子屋さんのアルバイトは、焼きあがってくる最中の皮を握りつぶしてクビになった。

 

曲がって 閉じて 震える 指

 

右手をフォローし続けた左の指の骨が疲れ果てて傷んだ。

 

曲がって 閉じて 震える 両手の指

 

舞踏に出逢ったのはそんな59歳の秋だ。

 

バラの造花を持って歩く稽古

「歩いているのは、存在しているのは『バラの花』です。

 あなたはただ歩くバラに連れられて影のように運ばれていく存在です。

 わたしが!という自意識を捨てて・・・」

という 初めての稽古。

私には

「わたしが!」

という自意識はない。

ただ、

曲がって 閉じて 震える 指がある

 

私の手で運ばれるバラの花は震え続けていた。

 

「わたしが!」

という自意識はないが

「わたしなんかには・・・」

という自意識はでっかい

 

「バラがふるえて、そればかりが気になりました。」

とは、私の言葉

「『ふるえるバラ』なんて舞踏のタイトルになりますね」

とは、師匠の言葉。

 

踊っていいんだ。

ピアノもギターもアルバイトも・・・私にはできないと思った・・・

 

「舞踏は命の踊り」

と、師匠が教えてくれた。

 

私の命を、踊ることが許されている。

 

踊りたい!

曲がって 閉じて ふるえる指を 大切に抱きしめて

踊っていたい!

 

5年前の秋に

私の指は舞踏に出逢った。

 

たくさん踊った

踊るほどに

踊りたい!

と思い

踊り続けたい!

と願い

死ぬまで踊る!

と 覚悟した。

 

「稽古場で倒れて死ぬからヨロシク」

  

 

舞踏公演『縄文家族』

日曜日、『縄文家族』という舞踏公演を観た

(踊り:郷坪聖史 玲子 青蓮   朗読 寺岡東子     音響 田中庸平)

 

場所は「京都wakka」土曜の夜ムビラの公演と二日続けての会場だ。

『縄文家族』、今まで見たどんな舞踏公演とも趣を異にした舞台だった。

...

 

その夜の公演が、私に与えてくれたのは、ぶっちゃけて言葉にするなら「この命の愛おしさを知る。」ということだった。

 

 

朝仕事に行く夫をベランダから見送る。
洗濯機を回しながら、部屋を片付け、埃を払い、掃除機をかける。トイレを洗い、食器を洗い、風呂を洗う。鉢植えのバラやガーベラに水をやり、ベランダを箒で掃く。
そんな日常の「生活」というものが、今朝は妙に愛おしい。

 

命のありのままを、そのまま、そっと差し出してくれる。そんな舞台だったのだが、

 

それは、ちょっとスゴイことだ。

 

 

祈るカラダ。胞衣に包まれるカラダ。生まれたいカラダ。胞衣を食い破るカラダ。産まされるカラダ。産むカラダ。命の意味すら分からず身を横たえるカラダ。抱かれるカラダ。抱くカラダ。求めるカラダ。求められるカラダ。置かれるカラダ。寝かされるカラダ。むさぼり食らうカラダ。問いかけるカラダ。答えるカラダ。ぽつんとカラダ。溶けあうカラダ。離れるカラダ。ボンヤリとカラダ。森の奥深く消えてしまうカラダ。

 

『踊り』を見ているというより、三人のカラダとそこに流れる血や動く筋肉、今そこにある魂と繋がり続けている。そんな公演だった。

 

って簡単に書いたけど、これって、すごい!

 

こんな舞台見たことがない!

 

京都で暮らした二人が、奈良の田中誠司舞踏スタジオで出逢い、『舞踏』に魅せられ、やがて結ばれ、「臨月舞踏公演」の夜に、自宅でふたりだけで子を産み、三人になったふたりは、心の声に動かされて、ふいっと宮古島に移住した。

 

今回の『縄文家族は』一年ぶりの京都での公演になる。

 

その時生まれた青蓮ちゃんは、もうすぐ1歳になろうとしている。
抱かれて舞台に出てきた蓮ちゃんは、その瞬間から観ているものの心を掴んでしまう。
かわいい~!とかって、そんなことは全くない。
赤ちゃんかわいい~!なんてとんでもない。

 

すでにそこには舞台に立つ「ひと」がいたのだ。

 

「ただの存在するものとしてそこに立つ」

 

ということが稽古の中でよく言われる。一切の自意識を捨てて、空間の中ただ存在するものになる。
それがどれほど難しい事か? 身体表現する人なら誰もがそれにブツカリ、モガクのだが・・・。

 

蓮ちゃんの眼光はすでに無心のものとして、そこにある。

泣くでもなく、客席を睨むでもなく、笑顔の媚を売るでもなく。

聖史君と玲子ちゃんが見つめる先を、同じ眼差しで捉えている。

 

こんなことあるんや?

 

赤ちゃんと一緒に踊ります~。なんてことではない。
三人で、古代の風の中、自然の一部として息をし、肉を食い、森に帰る。

 

しかも、舞台は暗くも厳しくもない。
命の意味を深く掘り下げているにも関わらず、淡々と木漏れ日を浴びて、時に楽しく笑いあい、あくびをするような、そんな世界観が作り上げられている。

 

色即是空花盛り・・・。なんて言葉がふと頭に浮かんだ。

 

そして、何より、玲子さんと聖史君のカラダが研ぎ澄まされていた。

 

袋からグロテスクに産まれ落ちた玲子さんが、放り出されたこの世で、じっと動かず喜びと苦悩を併せ持ちながら横になっているとき、彼女のカラダはどこにもゆるみがなく、ずっと研ぎ澄まされていたのに驚いた。

 

死から彼岸へと生まれ変わる聖史君のカラダが、起きあがろうと空間の中でもがき、それからふと、こちらをぼんやり見て、また立ち上がっていく。そのすべての場面で一瞬の無駄もなく、過多にもならなかったのに感動した。最

後森のかなた、祖霊の下に戻っていくシーンもよかった。

 

冒頭で二人が低く声を合わせる、その声の深さにも身体が震えた。

 

本当に多才な人たちだ。

 

 

会場の古民家のしつらえ。
音響。
そしてスタッフの女性の和服。

何もかもに丁寧さを感じる、最高の舞台。

 

 

そして今朝、私は私の命を愛おしむ時間を握りしめている。

 

 

 

ムビラの音

Simboti のムビラの演奏を京都の古民家で聞いた。この古民家は「京都WAkka」というところで、さまざまユニークなイベントを企画しているのだが、友人ヨウヘイ君が、ここのオーナーとシェアハウスしているところでもある。

 

ムビラはジンバブエ北方で暮らす『ショナ族』の人たちが神事に使う楽器らしく、演奏者のsimboti氏はこれまで一度もその村を出たことがなく、神事の奏者として演奏を続けてきた人だという。

 

「指ピアノ」と呼ばれる弦楽器で、無数の音を指で弾き続けることで曲を構成していくものなのだが、彼のムビラは、雨や風や川や森や星や、自然の中にある様々な音を丁寧に指でなぞっていく。そんな風合いの音がする。

 

ひとつひとつの音は生き物のように自在に跳ねて、各々の場所に着地するのに、それらは重なりの中で一つの「調べ」としてしかないハーモニーを生み出している。

                                                                                                                               

 

同じ旋律が幾度も繰り返され、それは速度を変え、音の量を変え、明度を変えて、聴く者のカラダを打ち続けていく。その音に合わせて身体を揺らしていると、速さや強度の違いが、自分をある神秘へと連れて行ってくれそうな気がしてくる。

 

神事としてムビラが奏でられるとき、その音を受けてシャーマンのような人が祖先の魂とコンタクトをとり、神の声を聞き、それを部族の人たちに伝えるということらしいが、その意味が少しだけ分かった気がする。

 

祈りの音楽。

例えば「雨乞いの曲」

しかし、なんて静かな雨乞いの曲だろう。

天にいる雷神の目を覚まそうと大きな太鼓を打ち鳴らすようなことはない。

静かに、ジンバブエの乾いた大地に雨粒が天から落ちて吸い込まれていくように、奏でられる無数の音が聞く者の皮膚に落ちて内側に浸透していくのが分かる。

ムビラの音は、「自然の中にそのまま存在する音楽」の再現なんだろうか。

 

 

それは、雨粒のひとつひとつが、樹木に草花に土にベランダの手すりにコンクリートの壁に着地音を立てながら落ちて来て、それらの複合音が「雨の音」を生み出しているのに似ている。

 

森を渡る風が、こずえを揺らし、木の実を土に落下させ、突然の風に驚いた鳥が鳴き声を上げ、虫が枯れ草を這う。それらの複合音が「森の音」を生み出しているのに似ている。

 

流れる川の水が、大きな岩にぶつかり音を立てて裂けていき、小さな石を転がし、遠くでそれは滝となって流れ落ち、魚が小さく尾びれを動かす。それらの複合音が「川の音」を生み出しているのに似ている。

 

自然の中にある音は、一つ一つの自由な小さな音が重なり合うってできている。密やかで何一つ主張のない小さな音たちが集まって、「雨の音」「風の音」「水の音」「森の声」「波のささやき」を作り上げる。
雨の風の川の森の夜空の、自然の中にある複合音。

 

ムビラが奏でる音は、そんな静かで閑かな音の重なりだ。

 

3時間近く、ムビラの音を浴び続けていた時間は、ひとり午後の窓辺で雨の音を聞く時のように、街角でふと風の音に皮膚を震わせて佇む時のように、山から流れてくる川の音に心が透き通ってしまう時のように、星降る夜この身が宇宙の塵の一つになって彷徨う時のように。
 

地球という大きなゆりかごで子守唄を聞いているような、穏やかで静かな時間だった。