備忘録(byエル) -9ページ目

折れた身体 で踊る

沈んだ夕日が、山の端を染めていた。

何色に?

一体山の稜線はどれくらいの種類の色に染められているのだろう?おそらく無数の・・・。

 

でも、「オレンジに染まった」って言葉を書くと、読んだ人それぞれが自分の知る「夕暮れの山の線」を想像してくれるのだろう。

投げた言葉は、受けた人の魂の色に塗り込められる。

なんて、当たり前のことに驚きながら、稽古場へと歩く。

闇が迫った西の空に三日月が美しい。

どうやら、舞踏の稽古は、「家」を抜け出し、夕暮れの景色を歩くことから始まるようだ。

 

26日(水)の稽古

 

最近、稽古場では「未だ出逢ったことのないカラダに出逢う」ことが試されている。

そんな気がしている。

 

この日は、

「カラダにもっとも近い空間に出逢い続ける」

と言葉が置かれた。

顔の近く、首の近く、脇の隙間、折った腕の角度の狭間、丸めた腰の上。

近くの空間に出逢い続ける。

つまり、そこを意識し続けて、立ち…歩き…回り…。

 

で、師匠が『やってみる時間』

 

誠司さんのカラダは、果てしなく近くの空間に出逢うために、近くの空間を探し続け、感じ続けていく。

そうすると、身体はどうなるか?

折れていく。

腰も、腕も、脇も、背中も、指も、足も・・・。

あらゆる部位が内に外に、丸まり、折れて、捻じれていく。

 

「折れるカラダ」

 

と、誠司さんが言葉を置く。

「折れるカラダ」は日本的なものの始まり、舞踏の原点かもしれない。と…。

 

身体は折れているのだが、あらゆる部位は連動している。

折れながら、曲がりながら、カラダの近くを感じ続ける身体は、波動のように揺らぎながら捻じれていく。

 

おもしろい。

 

で、私たちが次に挑んだのだが、すぐにストップが、

 

最近稽古場に通っている若いHさんには、「近くを感じながらも、意識は外側に開き続ける」ことがアドバイスされ、

 

私には「動きすぎ!」と久々の忠告・・・私はどうも焦って先を追いかけ、「今」を見失う癖があり、それは生活にも、人生にも、文章を書くことにも通じていて・・・常に注意を受けていたのだが、最近「今」に立つことが分かりかけた気がしていたのだが・・・

新しい課題を前に、またしても・・・。

 

身体を伸ばさず、近くの空間を感じ続けながら踊る。

 

踊っていると、カラダから、「遠くの空間をつかみたい」というエモーションが燃え始める。

天に向かって、海の向こうへ、地の底に、宇宙に・・・。

それでも、開かず、近くの豊かなものを探し続ける。

しばらくすると、カラダのすぐ傍に、濃厚な空間の塊を感じ始めてくる。

開かないことで、空間の密度が増し、とろけるような、それでいて透明度のある「あたたかな空気」がカラダを包み始めていく。

 

しかも、近くを感じ続けているのに、意識は広く研ぎ澄まされていて、前で観てくれている人、稽古場の四隅、自分の立っている場所・・・が見渡せているのに気づく。

 

出逢ったことのないカラダに、私は確かに出逢っていた。

 

Hさんは、途中で涙を抑えられなくなったようで、号泣しながら、それでもそれを零すことなく、最後まで踊り切った。

「何かに触れた」

と彼女は後で語っていた。

 

「踊っていて、感情の沸点に達するとき、それは確かにカラダが何かに触れているんだ。間違ってないよ。大切なこと。

でも、そこで感情のまま泣いてしまうと、こぼれてしまう。

覚悟を持って、その場所を捉えて降りていく、降りて降りて降りて踊り続ける時『いのち』に出逢うことができる」

と、師匠の言葉。

 

舞踏は深い・・・

 

空間と拮抗して動く…稽古

19日(水)の稽古

 

鏡の稽古

ずいぶん長い時間、向き合って立ち、カラダを映しあった。

最初は「カラダをカラダに、映し映される」ことを意識して立っていた。

映っているか?

前に立つ人の、目は目を、肩は肩を、指は指を、映しているか?

前に立つ人を鏡にして、自分のカラダが映されているのか?

静かに、向き合っていく。

 

しばらくすると、前にいる人だけではなく、カラダは稽古場のすべてを映し始めてくる。

 

またしばらくすると、前に立つ人のカラダに映し出される、自分と自分の背景をも自分の

カラダが映し始めて、私のカラダは、静かで深い場所に浮かび始め、

 

もっと時が過ぎると、私は宇宙の中に、わたしというたったひとつのカラダを立たせる感覚が掴めてきた。

 

例えば、それは詩人が無限の言葉の海の中から、「たったひとつの言葉」を立ち上がらせるのに似ているのかもしれない。

例えば、それは画家が永遠の色の中から、「たった一つの色」をキャンパスに塗り込めるその始まりに似ているのかもしれない。

うまく言えないけれど、「自分のカラダを芸術に選ばれた作品として宇宙に置く」という覚悟が湧く。ことかもしれない。

 

そんな稽古から始まった梅雨明けの日の夜。

今までにやっとことのない「カラダ」に出逢う稽古が始まる。

 

 

歩く稽古

「前に出ようとする自分のカラダが、後ろへと向かう空間の力と拮抗していることを意識する。」

と言葉が置かれた。

 

それは何?

空気抵抗を感じるってこと?言葉の意味を確かめながら歩き始める。

 

と、すぐストップがかかった。

そこで師匠が、前に進もうとする私の肩を静かに手で押し返す。

「もっと微細に動いて」

という指導で、ほんのわずかにカラダを前進させると、ほんのわずかな力で押し返された。

「こんな感じ。微細に空間と拮抗しているカラダをつかむ」

 

野暮な説明をしてみると、空間は、持つ様々なベクトルを持つ圧力や浮力などエネルギーに満ちている。「立つ」というのはそういうエネルギーの均等の中で可能になっているのだが、そうして「ある」カラダが、前へ歩き手を上げ身体を傾ける時、それは空間の均等を破るってこと。

つまりある種空間の持つエネルギーと緊張関係を作ることで、その時、動くカラダと空間のエネルギーが、やはりそこで新たに拮抗しているということ。

 

この夜は、その微細なエネルギーの拮抗を丁寧に感じながら動くという稽古。

 

まずは師匠田中誠司が稽古場に立ち『やってみる』時間

 

と、その時の誠司さんのカラダをどう表現したらいいのだろうか?

『動いてないのに、動き続けているカラダ』という感じだろうか?

 

稽古場の空間に彼は静止している。首を傾け、身体を捩り、全身をこちらに晒したまま動かない。ずいぶん長く静止し続けるカラダ。

なのに、そのカラダは微細に動き続けている。

舞台中を走り回り、飛びあがり、落ちてくる・・・狂気のカラダ。

踊り狂うカラダから、空間を超えてこちらに突き刺さって来るエネルギーが、静止した誠司さんのカラダからあふれている。

彼の長く続く静止の時間に、観ている私は大きなエネルギーを感じ続けていた。

それは「のような気がする」

という話ではない。

彼のカラダは、実際に微細に動き続けていたのだ。mm単位の微細な動き。

それは「ふるえ」というには余りに確かな強度を持ったエネルギーの表出だ。

 

空間のエネルギーと拮抗した身体をカラダが感じるということの意味が少しわかった気がした。

 

その時誠司さんのカラダに起こっていたことを、後の時間に聞いてみた。

「道を探し続けている。」

と誠司さんは言う。

「次に続くあらゆる動きを探し続けていた。惰性にならず、陳腐にならず、演技にならず、踊りを死なせない、次へと繋がる動きを探し続けていた。」

と・・・

「命へと繋がる道を慎重に探していく。どれが正解か分からないから、無限の仮説を立てながら旅をしているような感じ。」

と・・・

「空間と拮抗して

 他者(観ている人)と拮抗して、

 自分の精神と身体が拮抗する

その時、命へと繋がる狂気の道が見えてくる」

とも・・・

「ひたすら『今』とかかわり続けると、カラダがどこまでも切実になっていく」

とも・・・

「今日のカラダで、今日の精神のふるえに出逢う」

とも・・・。

 

梅雨の明けの夏の夜風の中、誠司語録を噛みしめながらバスで帰る。

仕事帰りの疲れた紳士たちに席を譲るため、私はつり革を握って車窓の膨大な集合住宅の灯りを見ていた。

宇宙の中に、たった一人の人を立てる。軋轢や矛盾に満ちた世界の中、それと拮抗して存在する者は、たとえ静止していても無限のエネルギーを内在している。

 

物語の課題に少し道が開けた気がした。

 

 

舞踏家はことばをたべて踊るんだ!(2)

12日水曜日の稽古

 

湿度に満ちた風の中、その夜稽古に参加したのは私だけ。

朝から腰が痛いと告げる。

64歳。腰の骨も劣化している()

湿った月は夜の涙のようだ。

 

何とはなしに師匠が話し始める。

「今夜の稽古は『話』だけ」

この時この人は決めていたのだろうか?

腰を痛めた64歳の弟子に、この夜は言葉だけで舞踏を伝えようと、どの段階でこの人はそう考えたのだろう。

 

3時間、溢れる言葉を私はカラダに受け続けた。

それはとてもたくさんの「気づき」だったのだが、それはまた追々に。

 

「処女公演ではいっぱい大切なもの零してしまったから、最後にあと一回だけ公演してみようかと・・・」

とは私の言葉

「なぜ、『あと一回だけ』なん?」

とは師匠の問い。

 

「舞踏とは生きること」という言葉は飾り文句じゃない。

生きる限り踊り続ける。

 

今ある、そのカラダを噓なく晒し続け、そうすることで、魂の深み、地球・宇宙の生まれた時から綿々と受け継がれてきた「いのち」そのもの、そんな場所をつかみ取る。そしてその場所で、今観てくれているその人と、確かに繋がる。

 

「それが舞踏やというなら、そんなん、あと一回・・・とかで踊れるわけないよ」

 

「たとえカラダが動かなくなっても、舞踏することの深い意味を信じ続けるという覚悟を持ってたら踊り続けるよね」

 

舞踏公演・・・なのか・・・小説なのか・・・

 

今生きていることにおいては、20代でも64歳でも、恐らく何一つ変わりはないのだろう。

踊りたい!

書きたい!

曲がって 閉じて ふるえる指が、そう叫んでいる。

 

そんな湿度の夜の稽古。

潤った月は、無限に触れた者たちの、涙の一滴。

 

舞踏家は、「ことば を 食べて」 踊るんだ!

            by 誠司