平田オリザ「演劇ワークショップ」
来週半ばまで居座るという、50年ぶりだか何だかという、その寒波が奈良の上空に忍び寄って来た。その最初の日の夕暮れ時。逆さに写る興福寺の五重塔が、猿沢の池の水面で寒そうに震えていた。
ならまち文化センター。
2 Fホール。
1月23日午後 5 時。
「平田オリザさんのワークショップがあるよ」
主催する奈良市に勤める友人からラインをもらい、へぇ~って感じで行くことにしたのだが・・・。
恥ずかしながら、オリザさん演出の舞台を見たことはない。書かれた本を手にしたこともない。
テレビでお見受けした時の優しそうなお人柄と、明快なコメントに惹かれて参加を決めたのだが、もちろん役者になったことはない。
ただ、30年ほど住んでいる今の地元の友人たちと、劇の真似事をしていたことがある。
といっても、私は脚本と演出担当で、役者ではなかった。
なのに、いきなりワークショップ。
無理があるよな。なのだが、決めたのだ。残された人生「行きたいところには行くんだ」と。
で、劇のワークショップ・・・???
参加者は殆どが演劇部の高校生。
なかには中学生。
演劇の指導をしている教師風の人。
に混じっての私・・・64歳演劇未経験者。
どうなる事やろ?
と・・・。
でもワークショップが始まるとそんな不安は、吐く息と一緒に身体から抜けていった。
まず、実際身体と声を使っての、コミュニケーションを取るためのゲームが始まる
「奈良と言えば?」という質問を受け、自分の答えを声に出していいながら同じ答えの人を探し当ててグループを作っていく。というようなもの。
行きたい国?
とか
好きな果物?
なんかでは答えは幾通りもあったのに
奈良と言えば?
では「大仏」と「鹿」しかグループができなかったのは、奈良に住む人たちの奈良に対する思いの薄さのようで面白かったりする。
ここでオリザさんは「同じ質問を福島の人にすると答えは何だと思いますか」
と意味深な質問を参加者に投げかけた。
当然誰かが「原発」と答えた。
実際に福島でこのワークショップをすると
「桃」や「フラガール」や「喜多方ラーメン」etc・・答えは様々挙がるが、
「原発」は挙がらないとか。
内側の目と外側の目がどれほど違うか?という話をされたのは印象的だった。
「福島の高校生には、『君たちはこのギャップを抱えて進まないといけないんだよ』と話すんです」と「君たちは何も悪くないのにね」と・・・。
エアのボール投げと、縄跳びとでは、やる側が動きをつかみやすく、観ている側の想像力が働きやすいのは、どっちか?というところから、
共感しやすい虚構と、共感しにくい虚構があるということを実感させてもらえた。
そこから芝居を構築するときは共感しやすいものから展開して、徐々に難しいものへと移行していくと・・・。
本当に言いたいことは伝わりにくい事だとも・・・。
だから本当に言いたいことをいきなり言わない!共感を増やしてそこまで持っていくのだと。
あとは、電車の中での見知らぬ人と会話が始まるという脚本をもとに、その場面がリアルになるようグループでセリフを増やして演じるという実践。
オリザさんは、これにもそれぞれのグループに対して問題点を丁寧に展開されて。
高校生たちを相手に、自分が掴んできたものを惜しげもなく伝えていく姿勢には頭が下がり、若者に対する熱い言葉は、64歳の胸にもしっかり伝わったのだ。
帰り道、どんどん下がり続ける外気温のなか、五重塔はすでに池の水面に凍り付いていた。
田中誠司舞踏公演「彼方と此方」
葛城、金剛と連なる山々を見ながら車が走る。続く高野山。左手の熊野の山々は深く昏い。
どこまでも冬枯れの木々が奥へ奥へ車窓にいる者を誘い続ける道を南へひた走る。
トンネルをいくつか超えると、急に視界が明るくなった。行く先に太平洋が広がっていることを空の光度が教えてくれる。
京奈和道が伸び続けてくれているので、奈良から2時間で、山を背に海に向かった和歌山市に到着した。
和歌山は太平洋に面してありながら、昏い熊野の山を背負っている。
熊野の山々は、都のしがらみを寄せ付けない荘厳さを持ちつつ、津島佑子が「青みどろ」と形容する歴史に支配される奈良のヘドロのようなものを内包してもいる。
和歌山は不思議な場だ。
都のヘドロを海に流し込むための土地は、よほどの闇の力をもっていなければならない。
和歌山に降り立つと、そんな磁場を感じるのだ。とは旅人の手前勝手な感想なのだが。
何故、和歌山に向かったのか?
師匠田中誠司の公演があったからだ。
北海道、ドイツ、ベルギー、スイスと続いた師匠の公演を全部見逃した。
「和歌山で踊りますよ」
と聞いた時から心待ちにしていた。
やっと観ることができた師匠の踊りは、内に秘めたエネルギーをカラダと空間の際で、丁寧に細かく揺らぎのように「ある形」へと変えるという、神秘的なものだった。
舞台の構成がどうとか、そんなものではない、カラダそのものの神秘のようなものが、観ているこちらのカラダにそのままダイレクトに伝わってくる。そんな感じの舞台だった。
まず舞台に現れた田中誠司は「面」を付けていた。
苦悩というものを、滑稽というか醜悪というか、そんな手に届くようなものに形づけた「面」を付けている。面は口の部分だけないので、口だけが被っているその人の呼吸を伝えてくる。
面を付けているので、当然見る者の視線は、踊り手のカラダに集中する。
踊り手のカラダは、客席の観客も含めたその場を感じようと繋がろうと、開かれ試され閉じられ続ける。
その動きを追っていた私の頭にふと「これ和歌山やん」って言葉が浮かんだ。
面を付けたその顔は、都のヘドロを海へと流す闇の力を持っているのだ。
しかも、裸に羽織っている黒いガウンは、どこか知らない外国を連想させるものだ。
熊野の山を背負い、太平洋に向かう。
そんな和歌山の土地の形を出てきた田中誠司から感じてしまう。それは車で奈良から和歌山へ南下してきたその日の私が触れていた「和歌山の神秘」に、どすんと重なってしまった。
そこから先は、まるでその霊気に包まれているように私は客席にいた。
面を外した誠司さんはガウンをも脱ぎ、その場で生まれ変わっていく。
生まれ変わったカラダは、しかしどこまでも丁寧に空間を捉えようと模索し続けていく。
わずかの音も光も、観客の息遣いも・・・すべて丸ごとカラダで受け止めようと、静かに丁寧に、近くを遠くを彷徨い・・・カラダと空間の際を行ったり来たり・・・
「彼方と此方(あっちとこっち)」というのが公演のタイトルなのだが、まさに内と外、日常と魂の世界。空間と身体。わたしとあなた。あなたとわたし。生と死。
その狭間を行っては戻り、戻っては行く。
寄せては返す波のようなカラダ・・・を握りしめ続けている。
かすれた口笛が響いた時には驚いてしまう。
この「際に立ち続ける」緊張感の中、緊張感の隙間から、ふと音が漏れ出てくる。口笛はそんな感じで吹かれている。
しずかなしずかなさとのあき・・・おせどにこのみのおちるよは・・・
詩のない詩だ。
漏れ出た「意味を持たない詩」だ。
バケツの水の中から濡れたスリップを咥え取ってそれを身に着けフィニッシュに向かう。
最後まで、際にカラダを置き続け、軽くならず、同じ場所を守り続ける。
あっちもこっちも、わたしもあなたも、何もかも溶けてなくなり、
私が見ていたのか踊っていたのか?
濡れたスリップを着てここに立っているのが私なのか?
私が和歌山だったのか?
都のヘドロを海に流し込む神秘の力はこの身にあったのか?
不思議な夢を見ていたような
そんなその夜の田中誠司さんの公演でした。
最近稽古場で挑戦し続けていることの意味がよーく理解できた公演でした。
年が変わる前に・・・
寒い一日だった。
「今年一番の寒波到来」と天気予報のお姉さんが困り声で伝える。
「北海道はホワイトアウト」と・・・吹雪く地方都市の映像が映し出される。
「今年一番」を繰り返し、冬は徐々に深まっていくのだ。
奈良の寒い夜に、稽古場へと向かう。
「送ったろか?」
今年最後の仕事を終えて帰ってきた機嫌のいい夫に車で送ってもらって稽古場に。
夜を歩くと25分。遊歩道の街路樹に写し出される枯れ枝のシルエット。見下ろすニュータウンに零れ落ちる家々の灯り。街の明るさにかき消される彼方の星光。
稽古場への道は日常の時間から私を解き放つ不思議な時間なのだが・・・
車だとわずか5分、日常が私のカラダにこびりついている間に稽古場に着いてしまう。
送ってもらって言うのも失礼な話だが、これはあかん。
それでも、稽古場の畳を雑巾がけしていくと、だんだん気持ちが落ち着いてくる。
一枚二枚畳を拭くごとに、私は私を取り戻していくって感じかな?
で、始まった今年最後の稽古(ワークショップ自体は暮れの29日まで行われるのだが、私にとってはこの夜が今年最後の稽古だ)
「昆虫の触覚のように、手の指一本一本で細かく空間を捉え続ける。」
この夜の稽古はこのテーマから始まった。
昆虫の触覚は、上も下も右も左も、自分を囲む空間のわずかな振動も捉えようと、震えながら揺らぎながらそのセンサーを働かせている。危険な鳥の羽音、甘い花の匂い、雨の予感、恋人の息遣い、命を守るあらゆる外部を捉え続けているのだ。
カラダが空間を捉えるために、まずは指で空間を捉える。という稽古。
これは数か月前から頻繁に稽古場で試されているメゾットだ。
一瞬一瞬を感じながら、手を前から上へ、そして横へ降りて下へ、を繰り返して歩く。
その時も、指は全方向へ触覚のように開かれている。
ところが、指を意識すると、一瞬一瞬の手とカラダが掴めて来ない。一瞬のカラダを感じると指の震えが止まってしまう。焦ると視線は現実しか捉えない。
集中、集中・・・・と自分に言い聞かせていると。師匠からすぐストップがかかった。
「硬い!そんなに硬いカラダでは空間は捉えられない」
そこから師匠が「やってみる」時間。
誠司さんは指をわずかに震わせながら、手を静かに上げ始める。そして手を横に下に下ろしながらこちらに向かって歩いてくる。
その時、身体のラインがくっきりと際立ってくる感じがある。
輪郭が鋭角に空間に刺さる。
それなのにカラダは柔らかいのだ。
零れ落ちる・・・カラダの中のものが、その輪郭から零れ落ちている・・・
指が捉えた空間を、カラダの輪郭が鋭く感じて、輪郭がナイフのように空間に刺さるような感じになると、カラダと空間が溶け合っていく。
ここしばらく、そんな身体を作る挑戦を繰り返してきたのだが、それが師匠の身体に体現されているのが分かる。
零れ落ちるカラダ。内と外がひとつに溶けあうカラダ。そのとき輪郭は際立つ。
空っぽのカラダになった輪郭だけが歩いてく。それは今まで見たことのない存在。現実から超越しつつ現実に足を置いた存在。・・・そんなカラダの実現。
そのあとは、自由な動きで空間を感じ続ける即興的な稽古。
指で空間を捉えようと焦り過ぎた私が、腕と身体を開きすぎていることを指摘されてまたここでやり直し。
それから、私のカラダは静かに空間を掴める場所を探し始めた。
指で、脇で、腰で・・・探す・・・髪で、足で、胸で・・・探す・・・
何度かフィットする。
ここ!
カタダが解放され、深い場所に降りていくことが許される。
でも、それは一瞬ですぐ、その場所が遠くなる。
それでも、何度も探す。
危うい姿勢、開く胸・・・そこから静かに身体を閉じていくと、閉じ切る前のある場所で、「ズレ」を感じることがある。
その「ズレ」の向こうに探している場所がある・・・それが分かる。
この夜見つけた場所は、そのあと師匠とたくさんの時間をかけ、言葉で確認することで、胸の中に、まるで絵画のように、音楽のように、具体化して記憶に残った。
「ズレ」るカラダは、深まりへの入り口なのだ。
今年最後の稽古で掴んだものを、年が変わる前に残すために、日記に記した。
夕暮れ。
寒さがまた忍び寄ってきた。