禅と骨
ドキュメンタリー映画の中で何が一番好き?
そう聞かれたら、答えは決まっている。
もっとも、私にそんな質問をする人はこれまで一人もいなかったし、これからもいるとは思えないけれど・・・。
それでも、答えは決まっている。
「中村高寛監督の『ヨコハマメリー』です!」
もう10年ほど前だ。そのフライヤーに切り取られた老女の姿にそそられて、映画館に足を運んだ。
その時観た映画が忘れられない。
綺麗なドレスに老いた体を包み込み、白粉で皺だらけの顔を浮き上がらせた老女。
メリーさんは、老女で、娼婦で、ホームレスだ。
彼女を知る人への取材を通して、メリーさんの生きてきた時間を辿っていく。そんな映画だった。
取材は丁寧で、高級娼婦だったと語るメリーさんと共に敗戦後の横浜に生きた人々の、メリーさんと横並びで歩いてきた「時間」を、その熱量までみごとに描き出していた。
戦後の混乱の中、命を繋ぐことが何より大切で、カラダを売るために街角に立つことを選んだ自分を許した。
その場所で、その場所としてのプライドを持ち、位の高いアメリカ兵しか相手にしなかった。
その場所で、その場所としての相応しい日の明け暮れを選んで暮らした。
その場所で、その場所としての悲しみを淡々とやり過ごして、次の日にだけ命を運んだ。
やがて、時代は流れ、その場所にも新しい資本の価値観が流れ込み、その場所でしか次の日に運べない命を、ごみのように掃出した。
それでも、路地裏でひっそりと、次の日だけに運ばれる命は、流行おくれのドレスの中で白粉に塗れてこっそりとその場所で次の日にだけ運ばれていく。
それは、郊外のマンションで家族と暮らす平成の私の日々と、明らかに地続きで、私もまた、メリーさんと横並びで、ここに生きている。
10年たった今も、その時確かに見つけた「横並びで歩くメリーさん」が、私の傍に影のようにいるのを感じているのだから、
「一番好きなドキュメンタリー映画は」の問いには迷わず
「ヨコハマメリーです!」
と答えるつもりだ。
誰も聞いてくれないだろうけど・・・。
その中村高寛監督の映画が11年ぶりに公開される!
しかもタイトルがすごい
「禅と骨」
これは観るしかない!
と、いつも行く映画館の上映最終日に滑り込んだのは、12月1日のことだ。
京都天竜寺の禅僧、ヘンリ・ミトワ。
なんの予備知識もなく客席に座った私は、いきなり写し出される「赤い靴」という童謡のルーツに、面食らう。
あれ?「禅」やんな?「骨」やんな?
横浜の波止場から船に乗って異人さんに連れられていっちゃった女の子が、その後どうなったか?なんて、どうでもええし・・・???
で、始まった映画。
芸者だった日本人の母とドイツ系アメリカ人の父の間に生まれたヘンリが、戦争のさなか、二つの国の間で壮絶な生活を強いられていく・・・のだが・・・。
これがウエンツ瑛士が演じる「再現劇」になっているのだ。
正直、なんかのバラエティ番組観ているみたいで、ちょっと違和感がある。
家族を顧みず、禅僧として生きようとする彼と、その娘との確執。
裏千家のアメリカ向けのスポークスマンとして地位を獲得したのにも関わらず、禅僧としての修行をはじめ、
禅僧として、周りから認められ始めたにも関わらず、「赤い靴」の童謡のルーツを探るドキュメンタリー映画を残そうとして、家族や協力者と軋轢を作り上げていく。
そして、ヘンリは死んで骨になるのだが・・・
実は生前、彼は様々な人たちの遺骨を仏壇に置き、経を上げていた。
「私が関心を持っているのは過去だけです」
と言い切る彼は、過去帳を作り上げ、母や兄やたくさんの人の遺骨に囲まれて生きていたのだ。そして、彼は骨とになり、家族の手によって収集した骨たちと一緒に墓に納められる。
映画は、骨にこだわり、ある意味「禅」的に破天荒なミトワを、描いていくのだが、
どうしても「再現劇」が霧になって、真髄に辿り着けない。
見え隠れして、結局たどり着けなかった「ヘンリ・ミトワ」に、欲求不満を残したままの2時間になってしまった。
映画館の下にあるショップで買い込んだプレゼント用のマグカップや、クリスマス飾りの大きな袋を抱えて乗った帰りの電車で、やはり影のように傍にいるメリーが、「それでもヘンリも地続きだよ」
と、ぼんやり笑った気がした。
直列に湧き立つ刹那を待つ葉
冬が駆けてきた。
続く寒空の日々。
それでも今朝のようにどこまでも晴れ渡る青空の下では、日差しに包まれた街は美しい。
まっすぐに坂道を駆けのぼって来る北風に、色付いた葉が一斉に音を立てて舞い落ちる。
一斉に?
無数に風の中を彷徨い、ぐるぐるとカオスのようにぶつかり合いながら道端に落ち続ける葉。
それぞれに着地の色を選んで身を染めた葉たちは、歩道のキャンバスに無秩序な点描を描く。
強く吹き上げる風が一斉に葉を散らし、散らすごとにキャンバスの点描は重ねて塗り込められていく。
一斉に?
風の中、しばらく佇み、渦巻く葉の湧き立ち方を眺めている。
風が吹くごとに、葉が空に湧き立っていくのだが・・・。
気づけば、枝から離れるその刹那、湧き立ちの始まりの瞬間は、決して「一斉」ではないのだ。
「刹那」は微妙にズレているのが分かる。
落ちる葉が行儀よく、順を守って風に飛び立っていく。
風の意志に従順に、列を作って湧き立つ機を待っているのだ。
ふと、「直列」という言葉が浮かんだ。
直列に行儀よく湧き立つ刹那を待っている「着地の色を選んだ」葉。たち・・・。
荒川洋治さんの詩を思い出す。
北山十八開戸の中の一節
「白い十八の部屋に、ひとりずつ入れる
暮れはじめた とても重い人たちだけが
よろこびのまま直列する」
「よろこびのまま直列する」のは、枝と結んだ手を放つ葉たちだ。
行儀よく、順を守って飛び立った葉は、枝と結び合った手を離した刹那、身を風に浮かばせて「宙」に遊ぶ。
選んだ着地の色を楽しむように渦巻いて渦巻いて宙を上がったり下ったり。
やがて歩道に点描を描いて朽ちる時を待つのだ。
「直列」なのだ。
そう気づくと、胸の奥のわずかな重いシコリがすーっと空へ抜けていくのを感じた。
先日友人がメールで送ってくれた荒川洋治さんの詩「北山十八開戸」を手に、その友人と聖地巡礼?北山十八開戸まで行ってきた。
秋の終わり。その日も寒かった。
「カラダに空洞を作る」稽古
夏はいつ終わったのだろう?
ずいぶんと雨が続いた。いや今日もまだ降り続いている。
厚い雲の流れを見届け、洗濯物を干すタイミングを計り、山に行く計画が延期に次ぐ延期に追いやられ、
晴耕雨読、雨の音を聞きながら、俄かに買い求めた「カズオ・イシグロ」の著作を数冊読み進めることにも、すっかり飽きて、
ふと気づけば桜の葉がすっかり色付いていた。
夏はいつ終わったのだろう?
季節の巡りを感じる私のセンサーが壊れ始めている。
センサーが壊れているのは「季節の巡り」だけではなく「書く」というセンサーも壊れ始めているのかもしれない。
「稽古場日記」に書き留めておきたいことがたくさんあった。
雨を眺めて過ごす日々に、夏の間にため込んだ美しい時間の記憶がどんどん零れ落ちていく。雨の川と一緒に「忘れ去られる」という名の海に流れ込んでしまっている。
ひとつひとつ拾い集めて書き留めたいのだが、それはもう無理なのだ。・・・・と諦めて、前向きに?昨夜の稽古から書いてみようと思う。
昨夜10月27日の夜。
「カラダの中に空洞を作る」稽古
「カラダを空っぽにする」と師匠が言った。
「カラダの中を空っぽにしないと、外から何も入ってこない。空間をカラダいっぱいに取り込んで踊るには、まずカラダを空っぽにしないとね。」
「心を空っぽにする」なんていう言葉は、座禅とか、瞑想とか、何かで緊張してる人にかける言葉として、よく使う。何も考えない。
眠れない!と訴える私に夫がよく「心を空っぽにして、目ぇ瞑っとき」なんて寝ぼけ眼で声をかけてくれる。
カラダを空っぽにする
その夜は、そんな稽古。
まず、師匠がやってみる。
誠司さんは静かにカラダをそこに立たせたが、なんやろ?その瞬間から普段と違う雰囲気がある。カラダが自由になっているっていうか・・・。
それから本当にかすかに、カラダを捩りながら低い姿勢をとっていく。
もちろん、いつものように、手の指先、首、肩、背中、足先に至るまで、カラダのすべての部署に、神経が行き渡っている。
でも何かが違う。
ゆるみなく、カラダは覚醒されているのだが、不思議と軽いのだ。ふわふわ・・・とも違う。そんな甘い軽さではなく、すーっと消え入るような軽さ・・・といった方がいいいのだろうか?
そして、彼が移動し始めると、移動の軌跡に合わせて、空間が色を変えていくのが感じられるのだ。
移動の時間が経緯していくにつれて、色を変えた空間は、ぼんやりある温度を携えて観ているこちらのカラダをも包み始める。
つまり、観ているこちらも、いつの間にかカラダにぽっかり空洞ができていて、舞踏家が踊ることでできた空気がその空洞に入り込んでくる・・・という感じ。
誠司さんは軽さを保持したまま、やがて、床にカラダを横たえた。
その時、「溶けた・・・」という言葉が私の頭に浮かんだ。
それまで、言葉にできない空気の色を感じ続けてきた私は、頭に「溶けた・・・」という言葉が浮かんだ瞬間、それまでいっぱいになっていた感情が一気に溢れ始めたようで、意味もなく涙を流していた。
悲しいとか、苦しいとか、嬉しいとか・・・そんな感情を一切挟まない、意味のない琴線がカラダを震わせ涙があふれる。
稽古の夜、さまざまな挑戦を繰り返すとき、とんでもない「カラダ」が出現し、それは、何にも代えがたい感動を生む。
こんな時間があるから、5年もこの稽古場に通っているんだ。私は改めてそう納得していた。
そして、この夜の稽古で、誠司さんのカラダが、得体のしれない「ある境地」に入り込み、空間に溶けてしまって輪郭を失う・・・そんな異次元の踊りを見ることができたのだ。
これは本当に贅沢な感動だ。
カラダを空っぽにする時、「からっぽにしよう!」と念じることではない。
カラダの輪郭。
つまり空間とカラダの境界線に、意識を向け続けていくのだ。
空間がカラダに流れ込み、カラダの中にあるエナジーが空間に流れて出ていく。
外と内が流れ続ける風通しの良い「輪郭」を作れているか?そこに意識を向け続ける。
踊っている時、「感情」は一切ない。
そんなことを誠司さんは語ってくれた。
それを受けて私も稽古を始める
「輪郭」「境界線」に意識を集中させる。
丁寧に、あらゆる境界線をオープンに空間が入り込めるように。
そう感じながら踊っていくと、カラダがどんどん軽くなり、カラダを空間に明け渡す感覚が掴めてきた。それは不思議な、熱量のある、空間にカラダを放り投げてしまっているような温かい感覚だった。
それなのに、温かな空気の中に居るのではなく、吸う息と吐く息が等しく涼やかな感じのする、そんな時間でもあった。
その夜は、師匠と、「死」について、
「今自分に流れている命が、地球の誕生以来のあらゆるものの命の流れの中にあるのだ」という実感について、
「踊る」ということ「書く」ということ、「晒し続ける」覚悟について、
さまざま喋り合う稽古となった。
稽古場のオレンジの間接光が、更けていく秋の夜の気配を包み、しんみり深い稽古の夜だった。

