田中誠司(舞踏家)×津田和明(コントラバス奏者)即興公演
梅が咲いた。
定まらなくなってしまった季節のあれこれの中でも、植物たちは静かに風を捉えて花を咲かせ実を結ぶ。
連綿と続く命の日常。
「田中誠司(舞踏家)×津田和明(コントラバス奏者)即興公演」
—静けさを取り戻すー 2/24 @田中誠司舞踏スタジオ
傾きかけた陽光を背に、暗転も照明もなく、公演は始まった。
素肌に燕尾服を纏った田中誠司と、コントラバスを抱えた津田和明は、ふらりと舞台に現れた。
ふらりと、まるで冬の午後の陽だまりで静かにおしゃべりを始めるように。
津田和明が、そっと窓のカーテンを開け、そして田中誠司と拳を合わせる。
音のない、物語のない、日常の中にある、ほんの小さな始まりだ。
わが師田中誠司の踊りの始まりだ。
身体が受け止めている、小さな光、音、振動、自分の呼吸、観客の呼吸、そしてコントラバスの息遣い。それらを身体に受け止めて、静かに動き始める。
空気を動かさなかった。
動かさないまま、すーっと前にやってきて、椅子に座る。
身体を傾けると、その時微かに空気の層に歪みが現れた。
歪みが渦のように誠司さんの身体を包むと、椅子の上立ち上がっていくフォルムの輪郭がエッジを立てて空間に刻み込まれた。
逆光の所為ばかりではない。
輪郭は稽古場の一点に張り付くように存在していた。
コントラバス奏者「かずくん」は17歳からスイスやドイツでコントラバスを学び続け、海外の様々なオーケストラでも活躍するというクラッシック奏者。そしてスイスの大学院で即興演奏にも研鑽するという、演奏家だ。
田中誠司の小さな始まりに、そっと呼応して、枯れ葉が一枚土に落ちるその振動のようなノイズを奏で始める。
ノイズは塵のように光の部屋にきらきら舞い落ちた。
そして、やがて打音になってしまったコントラバスが鳴き声を上げ始まる。
そんな風にして始まった公演は、スタッフをさせてもらった私にとって、夜の帳が下りる
ソワレの終了までの流れの中での一つの公演として心に残った。
誠司さんと和くんが、静かに、一つ一つ、お互いの息遣いに耳を傾けあい、丁寧に丁寧に、これ以上聴き取れないようなかすかな気配をも感じあいながら、逆光の陽光に浮かび上がるシルエットを感じた昼の部。
一転して、和くんが「目覚めた恋」さながらに、コントラバスと激しく抱擁するような音を響き渡らせる中、音の嵐に翻弄される落ち葉。
誠司さんがコントロール不能に飛ばされそうになった夜の部。
静かに出会い、恋に落ち、ぶつかり合う誠司さんと和君の二つの身体を見届けることができたのだ。
日常の中にこそある確かなアンダーワールド
物語の入り込む余地のない刹那の連続
せめぎ合う二つの魂のセッション
久々の田中誠司を奈良のスタジオで観ることができて幸せな時間でした。
最近稽古場では、
一ミリの移動で変わる景色を身体で凝視すること。
前で見ている人、360度に存在する空間と繋がり続けること。
動きではなく、存在することで共有できるものがあることを信じる続けること。
が、試し続けられています。
試行錯誤。
ああやこうや。
行っては戻り戻っては行き。
そんなことが、踊りになるのか?と信じきれない自分がいたのも事実です。
でもこの公演に触れて、それこそが踊りやなぁって気付くことができた気がします。
誠司さんがそのように存在しているとき、見ている私の身体もビンビン空間を感じるし、それを手放したときは,踊り手とそれを見ている私という関係になってしまう。
本番で、すごい挑戦をしてくれた田中誠司さんと、それを受け止め爆発してくれた和くんに、ありがとう!な公演でした。
(出演者プロフィール)
田中誠司
舞踏家。1977年奈良市生まれ。2011年2月、郷里の奈良に田中誠司舞踏スタジオを開設。以来、国内及びヨーロッパ各地の劇場、イベントなどで精力的に公演を続ける。2017年6月、ヨーロッパ3カ国(ベルギー、ドイツ、スイス)にて、舞踏公演&ワークショップツアーを行う。
津田和明
17歳からスイス・ローザンヌ音楽院でコントラバスを習い始め、京都市立芸術大学、ドイツトロッシンゲン音楽大学大学院、ローザンヌ高等音楽院大学院でクラシックコントラバス奏者として研鑽を積み、スイス・バーゼル高等音楽院大学院即興演奏科にてフリーインプロヴァイゼーション奏者としての研鑽を積む。アメリカ、ヨーロッパ全土、シンガポール等で音楽祭のためのオーケストラ、室内楽コントラバス奏者として招聘。即興演奏家としても活動している。
異物を飲みこむ身体
稽古初めの夜。
その夜は、舞踏をこよなく愛する二人の若い人と私の稽古。
稽古前から三人はテンション高く、しばらく顔を合せなかった間の諸々や、つい先日一緒に京都で見た舞踏公演の感想を語り合う。
そう、ああでもないこうでもない・・・って感じで・・・。
で、稽古。
最初に鏡の稽古(静かに立って、誠司さんと向き合って身体を映しあうことで、360度に開かれた身体になる)から始まったのだが、この夜は、立っているだけではく、静かに動く「被写体(誠司さん)」を映し続けるというものに変化。
すると、ただ手を上げるという行為が、誠司さんの中では、無数に揺れ動く波動を持ってなされていることに、今更ながら驚かされる。
感想をシェアする時間に、そのことをほかの二人も話していたが、これは驚きとともに、勉強になった。手を上げるというだけの行為が舞踏する人の中では、無数の瞬間の連続としてある。という再発見。
自分もそう踊っていたつもりだったが、実際はもっと細かく瞬間を捉えることが可能なのだと、しみじみ感じる年明けの夜だ。
で、この夜のミッションは、
「空間のすべてを、異物だと捉えて、自分の身体に異物が入ってくるのを、そのまま感じながら踊る」というもの。
あれ?
今までは、ずっと空間を感じ、受け入れ、愛し愛されランデブーのように踊っていたのに・・・??
異物・・・なので、当然違和感もある。
違和感もあるけど、それはそれ、そのままにして踊る。
そう発想を変えると、身体に面白い現象が起こった。
空間を受け入れる・・・という時には、皮膚の毛穴が開放されて、空間と風通しがよく、草原で風を受けて立っているような爽快感や、粘り気のある空気の幕にくるまれて、ふんわり浮かべられている感覚があるのだが、「異物」という言葉から、それとは違う、境界を際立たせる意識が立ち上がってくる。
ぞわぞわっと、身体の表面に泡立つものかあり、境界が際立ち、それでもそこから身体に浸透してくる、音や光や振動を、体の中に感じていく。そんな感じ。
異物は、指から、腹から、腰から背中から足の裏から、入り込んでは身体を通過し、身体のあらゆる穴から外に出ていく。
と、今まで感じたことのない感覚が身体を走るのだ。
ぞくぞくっと不気味に震える身体。通過していく光や音に、はっきり感じる違和感。
そしてその感覚に突き動かされる身体は、当然、今までに自分が踊りの中で辿ったことのない動きを生み出す。
「Lさんらしさのない、初めて見る踊り」
と仲間たちから言ってもらえたのは、
「異物を飲み込む」という言葉の威力だ。
みんなでの稽古の後は、ひとりひとりが踊る時間
課題は
「前で見ている人と、関わり続けて踊る」
ということ。
見ている人と関わり続けて、そこで次の動きを生み出していく。
と、これが難しい。
関わりの中で、動いているつもりが、いつの間にか自分の感情に動かされて、勝手に降りて行ってしまう。
これを掴むのに、何か道があるはずなのだが・・・。
身体と発想のどこかの方向に、そこへと続く細い線がある気がしているのだが、私にはまだ掴めない。
踊っていて、ふとその場所に入り込むことができていることはある気がするのだが、それは偶然の産物で、まだそこへの道が見えてはいないのだ。
ほかの二人は、それぞれにとても面白い踊りをしていた。
岡山から来たKさんの身体は饒舌で様々な景色を見ているのを感じたし、
Rさんは、飛んで跳ねるアクロバティックな動きの合間に、とても柔らかい、見ている人を求める時間を作っていた。
それでもやはり。「関わり続ける」ことで生まれる踊りには至っていなかった気がする。
年末から年初へ、稽古の夜は深まり続けている。
稽古が終わり、スタジオの外へ出ると、奈良の夜が心底冷えていた。
稽古場日記「狂気のお遊び」
昨夜の稽古は面白かった。
普段のように立つ歩くの稽古が始まったのだが、私は全く集中できない。
久しぶりのマンツーマンで、目の前の誠司さんに意識が集中してしまい。360度空間を感じながら歩くことができない。
と、誠司さんが、
「空間を受け入れる」という前回の稽古の中で、ふと出てきた言葉を口にする。
「空間を感じるというのでなく、受け入れるという意識が大事やなって思うんですよ」
それから、空間を受け入れることを意識して、誠司さんが静かに「歩き」始めたのだが、歩く中で、身体が豹変したのだ。
今までに見たことのない身体。
身体は軽いのに、魂が深まっている。
いきなり立ち上がり、遊ぶように手足を曲げる。と思ったら転がり、転がりながら波を作り、そしてまたぶっ飛んで上空を目指すと思うと、次の瞬間には身体は縮む。縮んだ身体が、どんどん縮み消えてしまった。
動く身体。でも細かく瞬間瞬間を大切にゆっくりゆっくり動くその時と、身体の微細さは変わらないのだ。
なんなんだ?
これはなに?
面白がっているのは、見ていた私だけではない。踊っていた誠司さん自身が、自分の身体の動きを面白がっている。
面白がっている誠司さんは、何かをつかんだ様子で、それからもしばらく、「狂気の遊び」を試し続ける。
老人のような表情の中に、幼い幼い子供の不安が重なる。
この世のものとは思えない邪鬼になったかと思うと、美しい少女が恥じらっていたりする。
普段の踊りで見る「菩薩像」のようにすっと立つ誠司さんはその夜は現れない。
その動きを面白がっていた私なのだが、私の番が回ってきてそこに立ってみると、「狂気のお遊び」は本当に難しい。
動くと、深さが消えて、ただ滑稽な形になるだけの身体になる。
深く降りていくと、いつもの形になっていく。
「身体と空間の関係の中で生まれた泡立つものをつかむ」
と助言を受けるが、なかなかつかめない。
「無理!誠司さん、これ無理です!」
と私。
「まぁ撃沈する夜もええですよ」
と誠司さん。
みごとに撃沈したのだが、今までに試してこなかった、新しい領域が見えた気がして、悔しいけれど、うれしいような稽古の夜だった。
私にとっては今年の稽古納め。
最高の稽古納めだった。
今年は、2月に稽古場の若い舞踏家と3人で踊る機会があり、
7月に、音声館でのソロ公演があった。
舞踏三昧の一年を過ごすことができたのだが、言葉に残すことから逃げていた年にもなった。
来年は、できれば「私のことば」を大切にしていきたいなぁ。
さぁ、家を掃除しなくっちゃ。