備忘録(byエル) -4ページ目

奴隷船クロチルダの残骸に対する若干の考察

4日ほど前の新聞に、小さく取り上げられていた記事

「奴隷船クロチルダの残骸が見つかった」っていう。

 

クロチルダは、1860年アフリカのベナンから米国アラバマ州へ奴隷を乗せて運んだ最後の奴隷船らしい。

1808年には米国では既に奴隷の輸入が禁止されていたが、南部のプランテーションのオーナーらが安い労働力を求めて密輸を行っていたのだと。

そして到着したクロチルダは、密輸発覚を恐れたオーナーたちの手によって、燃されモービル川に捨てられた。

 

その奴隷船の残骸が、モービル川の川底から見つかった。

150年を経て川底から蘇る奴隷制の歴史。

 

安い労働力を手に入れるため、人を人と見ることができないオーナーたちの違法な手段。

 

奴隷として買われてきた人たちの魂が川底から蘇ってきたようで、私はその記事に息をのんだ。

 

過酷な労働を担う人手が足りないと、外国人労働者の受け入れを決めたこの国はどうなんだろう?

結婚して子供を持つ自由を持たない労働者は、「人」なんだろうか?

選挙権も持つことが許されていない人たちは同じ国に生きる「人」なのだろうか?

 

 

中村淳彦の「東京貧困女子」という本を読んだ。

奨学金という借金に追われて、生活費のために、風俗に手を染め、それでも貧困から抜け出せない大学生や、離婚を機にシングルマザーとしてダブルワークをこなし、身体と心を病んでしまう女性。就職が見つからない人を「介護」という過酷な現場に送り込み、不正規雇用最低賃金で、過重労働させる国の福祉政策。

貧困は、特別なものではない。この時を生きている私のすぐ隣にあり、それは決し他人事ではないものなのだ。

 

加えて、新聞報道で、就職氷河期と呼ばれた時期に、正規雇用の道を断たれ、派遣で何年も生活せざるを得ない人々の現状が掲載されていたが、政府も、彼らの貧困を把握しつつ

打開策は見つけられないでいる。

就職氷河期、非正規雇用、派遣切り、派遣村、貧困女子、子供の貧困、貧困の連鎖、格差社会、格差階級社会・・・。

目まぐるしく、たくさんの造語が生まれて、垂れ流され、何の解決もないまま、人々は歪な放物線で貧富を分けられてしまう。

 

行き場を失った傷だらけの精神は、子供を虐待し、障碍者を殺し、老人を殴りつけ、テロのような犯行を生み出してしまう。

 

 

川底から見つかった、クロチルダの残骸には、150年後のこの時が、どう映っているのだろうか。

 

分断され、たった一人で船に乗せられている奴隷。

 

歌を歌うこともできず、声もなく、たった一人でワイワイ動く群衆を見ている奴隷。

 

踊ることを忘れ、蹲ったまま、たった一人で円舞を踊る人たちを眺めている奴隷。

 

クロチルダが眠っている間に、私たちはひとりぼっちの奴隷になってしまったんだろうか。

ひとりぼっちの奴隷は、どこに向かえばいいんだろう。

 

クロチルダの残骸は、何を語ってくれるのだろう。

 

風の舞台

昼下がり、澄んだ空気が晴れ渡る街を渡っている。
昨夜強い風と一緒に駆け抜けた雨が、町の湿度を運び去ったみたい。

 

清々しさに圧倒される、風の季節の、甘い時間を味わった。

存在の感触をその手で確かめようと、もがくことを止めない真摯な魂があった。

踊るということを、他者との深い目合いの中で見つけてようとする、真剣な純真に出逢った。

 

昨日は10連休なんていうものの最終日。
そして3泊4日かけての「田中誠司舞踏合宿」最終日。
参加者7人による舞踏公演の日だ。
3日間の濃厚な稽古の成果を発表する会。

 

夕暮れを前ににわかに空に雲が湧き風が強まっていた。

窓の外ゴトゴトと吹き荒れる風の音を聞きながら私は稽古場に作られた客席の隅っこの椅子に座っていた。

 

高窓のカーテンを揺らし、稽古場は『風の舞台』。

 

 

刻々と薄暗さを増す風の舞台に、赤い衣装を身に纏った女性が風に背中を押されるように現れる。彼女が舞台の真ん中で駒の糸を引くと、駒に風が渦を巻くようにして風の舞台が始まる。

即興の群舞だ。

まずは三人ずつ舞台に現れて、空間を捉えるように、上に下に、内に外に、他者に自己に、表に裏に、身体を開いていく。
それぞれが、それぞれの落下の衣装を身に纏い、落ち葉のように舞台に溶けながら落ちて捌けていく。

すると再び赤い衣装の女性が現れて、6人が躍った舞台の空気を丁寧に拾い上げて去っていく。

ここからは、まったく即興だ。
一人ずつ、叩かれる木の音を合図に現れて、やがて6人が混ざり合って踊り始める。
風に背中を掴まれて立ち止まる人、突風に煽られて足を踏ん張る人、飛ばされる人・・・。
翻弄されるうちに、一人一人の「いのちのかたまり」が突拍子もなく床に転がったり、昇華され気体となってあたりに漂ったり・・・。

ある境地へと舞台が動いていく。

合宿の中で『心』や、『踊り』や、『過去』や、『未来』や、そして『いのちのかたまり』に、向き合い、もがき、掴み、零し・・・してきたすべてが身体の余韻として、こちらに伝わってくる。

ある合図で、彼らは人形劇の人形のように、風の舞台のすべてを余韻に映す身体を横たえていく。

そして、赤い衣装の女性が最後に現れて、身体の余韻を風に乗せて、舞台は終わった。

構成も魅力的だったし、夕暮れの風も舞台を作ってくれていた。
何より、合宿に参加し、研ぎ澄まされた深い日々を送っただろう彼らの、真摯な魂が、見る者の身体の髄に清風を届かせてくれた。

 

清々しさに圧倒される、吹き抜ける風の季節の、甘い時間を味わった。
存在の感触をその手で確かめようと、もがくことを止めない魂があった。
踊るということを、他者との深い目合いの中で見つけてようとする、真剣な純真に出逢った。

 

今、昼下がりの日常に、まだ私は清冽な風のなかにいる気がしている

舞踏家 寧呂・睦美ワークショップ

46日土曜日。

傾き始めた春陽の中、稽古場(田中誠司舞踏スタジオ)に向かう。

満開の桜の、妖しい吐息と並走するように、遊歩道を下る。

 

 

neiro mutumiの舞踏ワークショップ」

普段と違う稽古。少し不安で、めっちゃワクワク。

しかも夕暮れ間近の遊歩道に、桜が艶めく。

 

稽古場に着くと、普段のメンバーと一緒に初めてスタジオに来た人たちもいた。

少し不安で、めっちゃワクワク。

 

何となーくお喋りしながら、それぞれがそれぞれのスタイルで何となーく身体をほぐし始める。

ので、私も珍しく身体をほぐしてみた。

 

と、寧呂さんが

「今、何を意識して身体をほぐしてますか?」

と静かに話し始めた。

「今、この瞬間も空間を意識する。そこから稽古が始まるんです」

と。

ワークショップの前に、何となーくその場にいた私の意識が変わるのが自分で分かった。

空間の中に、意識的に存在する!

そのことこそが「舞踏すること」なのだから。

 

 

ワークショップでは

睦美さんにレクチャーを受けながら、ずいぶん時間をかけて「呼吸する」ことを体験した。

身体の変化を自覚しながら、ゆっくり息を吸い、ゆっくり息を吐く。

肋骨に手を当て、開く身体と閉じる身体を意識する。呼吸によって変化する身体の、その変化の分だけ動く身体を感じ続ける。

吸う息は空間を受け入れる身体を

吐く息は空間に溶け込む身体を

繰り返すうち、稽古場の空気の中に身体が溶解してしまう気がしてくる。

 

もう、稽古場はすっかり夕闇に染まり、開けられた窓からは夕暮れの気怠さが流れ込んでいる。

 

 

すると今度は寧呂さんのレクチャーで、その「闇」を身体に受け入れて、立ち上がり、歩き、回るという稽古へと時間が進む。

 

夕闇が随分濃くなり、立つ自分が闇の中方向を見失い揺らいでいるのが分かる。

闇は人を揺るがせる。

 

「闇の粒子を感じて受け入れるように」

その時、寧呂さんの声が聞こえる。

 

声に沿って身体をすませると、重心を見失い揺らぎ始めた身体と空間の境界に、闇の細やかな粒子が泡立っているのが、はっきり感じられた。

と、その瞬間、揺らいでいた身体が、闇の中に、すくっと立ち上がってきた。

 

「縦にも横にもたくさんの線に貫かれた身体を自覚する」とも。

 

 

 

ここから、ワークショップのメインテーマに稽古が移行していく

 

 

―なみなみとコップに注がれた「水」にすべてを映して歩くー

 

手に持ったグラスには、表面張力でかろうじて零れないまで、極わ極わに水が注がれている。

それを零さないように、前に立つ人に届けるのだ。届けられた人はまた前に立つ人にその水を届けていく。

 

スリリングな稽古。

 

水は稽古場の空間すべてを映している。自分もそこにいるすべての人も、空間には含まれている。それを映し続けたまま、丁寧に運んでいく。

 

しかも水の中には地球が始まって以来のあらゆる記憶が流れていて、それを零さないように、大切に前の人に運んでいく。

 

面白いことに、これは想像ではない。詩的な比喩でも暗喩でもない。

実際に、グラスの水はすべてを映す存在としてなんら嘘はないし、水の歴史は生命の歴史で「水の記憶」は私も含めたすべての存在の記憶なのだ。

 

頭で考えることではない。

水の存在そのものが、それを伝えてくれている。

 

なので、運ぶことを伝達しながら、身の内に溢れてくる暖かさは、確かな感覚で、真実のものとして身体を包んでいる。

 

参加者の一人が、

「綿々と続く生命の歴史を、次の人に伝達していく。そうすると、全員で一つになって次の世代に命を運んでいくようで、感動的でした」

と感想を述べていたが、それは参加者の全員が深く同意した嘘のない感覚だった気がする。

 

 

最後は、グラスの水にすべてを映しながら、即興を踊る。

もう、この時は、4時間近くかけて、呼吸を感じ、闇を感じ、水に映された空間を感じ・・・

 

それからの即興だったので、身体は開かれ、踊るというより、水とともにある!っていう風に、即興が進んでいった。

寧呂さんと睦美さんの誘導もあり、それぞれに、映された空間を意識して丁寧に身体と向き合っているのが印象的だった。

 

そんなこんなで、あっという間の5時間のワークショップが終わった頃には、闇はすっかり帳を下ろし、夜中へと歩を進め始めていた。

 

 

何と、ここで、睦美さんの手作りのお弁当が!

土佐の田舎寿司と、卵焼き、山菜の煮物が可愛くお弁当箱に並べられて、手縫いの布巾に包まれている。

こんなに丁寧に、お弁当箱を開ける人の気持ちを考えて作られたお弁当にはめったにお目にかかれない!

 

お弁当も含め、お二人の丁寧さに身体が温まる。

 

そんな春の夜のワークショップ。

帰り道、一人歩く街に、夜中も眠らず咲き誇る桜の妖気が絡みつくようだった