備忘録(byエル) -2ページ目

純喫茶ルノアール

東京を走るJRの駅前には、「ルノアール」という喫茶店をよく見かける。

 

何かの用で上京した時は、何故か殆どこの純喫茶「ルノアール」でコーヒーを飲んでいる。

60代の私には、この喫茶店はとても懐かしい感じがして、昭和の青春期に帰ったように店の重いガラスのドアに吸い寄せられるのだ。

 

大阪で生まれ、青春期を過ごした私の知る純喫茶は「スワン」とか「銀河」とか言った名前で、やはりJRの駅前に必ずと言っていいほど存在していた。

 

コーヒー一杯で半日粘り、何人もの友人が入れ替わりやってきては話し込んだ。

店員が顔に『迷惑』を張り付けて、何杯もコップの水を補給しに来る。5杯目くらいになるとコーヒーをお替りして,『迷惑』をリセットし、また次にやってきた友人と話し込むのだ。

 

何をそんなに喋っていたんだろう?

 

 

「えいちゃん」は、矢沢永吉ではない。佐藤栄作を「えいちゃん」と呼んでいた

♪栄ちゃんの家にジェット機が落ちたら、栄ちゃんはその時初めて思うだろう。安保条約やめときゃよかったと♪

角さんという人もいた。角さんがロッキード事件で逮捕されたとき、「国民はあの立派な田中先生がそんな悪いことをするなんて!って驚いたのではない。検察はよう頑張ったねぇって感心したんや」

コーヒーを飲みながら、そんなことを永遠に喋っていた。次のビラはどう作る?とか・・・。

 

ルノアールはその頃の空気を纏った唯一の場所だった。

 

中に入ると、初老の紳士ばかりがコーヒーを飲んでいる。

初老の私には何の違和感もない。

今流行りのお洒落なカフェでは浅くなりがちな呼吸も、ここでは深くなる。

落ち着くのだ。

 

ところが先日、何年かぶりに中野の駅前にあるルノアールに入ると、意外なことに、若い人がチラホラ席についている。みんなPCを開いて、画面の向こうの何かと繋がりながら作業をしている。

 

そして、隣のボックスには、やはり見慣れた高齢の男性が二人静かに雑談している。

店を見渡して、面白いことに気づいた。

老人と若者しかいないのだ。

白髪、白髪、茶髪、ロン毛、薄毛、金髪、

見渡して笑ってしまった。

老人、老人、若者、若者、老人、若者

 

 

若者はPCに埋もれ、老人は過去に埋もれ、コーヒーの香りが両者の存在を一つの空気にしてしまっている。

子育て中のパパママも。仕事に疲れた営業マンも、キャリアウーマンと言われる人も、午後のこの店には座っていない。

座っているのは老人と若者。

 

 

若者はPCに埋もれ、老人は過去に埋もれているが、コーヒーの香りがPCと過去を繋いで、同じ臭気で包んでいる。

同じ空間で同じ臭気に包まれている老人と若者は、時代の中に、よく似た肌触りを感じているのかもしれない。流行りのカフェでは呼吸が浅くなる。そんな臭気を持っているのかもしれない。よく似た肌触り。

 

以前の店より余程閉ざされていて、余程解き放たれている。

 

何となく嬉しいような悲しいような気分で、大好物の臭気を思う存分味わった。

それでもコーヒーを飲んだら水のお代わりをもらうことなく、店を出たのだが。

 

 

 

迷宮伝説 at テレプシコール

「上杉満代舞踏公演『迷宮伝説』」公演の感想を書き留めようと思っていた。

 

衝撃受けたし、私が見たものはなんやったん?って。

この衝撃は忘れられへんほど大きいけれど、この年齢は信じられないほど不確か。

忘れられへんはずのことも忘れていく。

なのでしっかり書き留めておこうと、帰りのガラガラに空いた新幹線の中で、遠くの山にかかる黒雲の塊を見ながら、決めた。のだ。

 

コロナ禍なのだ。

自分にも理解できない自分の生活が半年以上続いている。

 

 

「上杉満代舞踏公演『迷宮伝説』」の告知をFacebookで見たとき、すでに衝撃が走っていた。

観に行く!

当たり前のようにそう決めた。この半年余り舞踏の稽古に行くことすら『自粛』し、ありとあらゆる人込みを避けて暮らしていたのに、東京での公演に、『行く!』とすぐにそう思った。自分の命を自分で生きる。そんな当たり前のことを身体が思い出したっていう感じに。

 

上杉満代さんの公演。しかも高松真樹子、山本むつみ、という大好きな二人の踊り手が一緒に踊る。そんな贅沢な公演を見逃すわけにはいけへんわ。

 

予想通り、いやいや、私の予想なんてチャッチィものを置き去りにして ぶっ飛ぶほど、公演から受けた衝撃は大きかった。

少し落ち着いたら言葉にしようと思っていたのだが、興奮は一向に冷めやらない。だから、書くことにした。上手く書けなくても書くことにした。不確かな年齢やし、書いておくことにした。

 

この危なっかしい日々に、確かな三人の命の手ごたえを感じ続けた。

 

 

照明が舞台を光で包む。暗闇から解放された目が、ゆっくりゆっくり舞台にあるものを認識する。

最初に目に入ったのはベールに包まれた上杉満代さんの表情。もちろんそれは捉えどころなど無いものだ。そして徐々に視界が広がり、前方両脇に向かい合って座る真樹子さんと睦美さんの横向きの身体だ。

三人は、ゆっくり手で口元を隠したりそっと開いたりを繰り返している。

 

猩々たちの語らい。童子を従えた如来。

見たことがある。確か民話かなにか物語の中にあった絵。寺で見た仏像。もしかしたら宮崎駿さんの映像?

絶対どこかで見たことある!これ絶対知ってる物語の一部の景色や!

と私の心がしきりに懐かしがろうとしている。

 

でもすぐに違う何かが押し寄せてくる。

ただ三人がゆっくり手を口元に置いている・・・いや、全身の毛穴のすべてが細かく細かく揺らいでいる。三人は決して同じではない。揺らぎの速度も波動もそれぞれの形をして、見ている私に伝波してくる。

猩々の語らいは、如来の教えの詩は、上杉満代の身体が、目が、すでに空気を破壊し始めている。前の二人は同じような服を着たシンメトリーな彫刻のように存在していながら、微妙にわずかに、時には大胆に身体をズラシテ、上杉満代の破壊の波動に揺れている。

 

―物語に逃げ込まないで。―

―物語なんかでごまかさないで。―

 

内緒の話のように、三人が私に囁いている。

 

―いのちは決して一つじゃないのー

 

踊りの構成は、完成度が完ぺきといっていいほど高く、そこからはある流れができていく。

 

獅子の母子のように。大草原の大きな木の陰で、母に寄り添って甘え、母に見守られながら遊び始める。ちょうちょを追いかけて捕まえられずふくれっ面をする小さな獅子の子ども。何者も恐れない無垢で大胆に飛び跳ねるもう一人の獅子の子。やがて二匹は母親の懐で眠りに落ちる。

深い眠り。

幾千光年眠っていたのだろう。照明の星が天空を回り、私も物語の中、幾千光年の月日を眩暈のように過ぎていくことになる。

目覚めた二人は、深い恋情の中、何もかも一つに溶けあおうと身体をぶつけ合う。愛おしく愛撫しそれでも足りずぶつかり合い高い声で笑い滑稽に身体をもとめあう。

この時の真樹子さんと睦美さんのからだの絡みに、見ている私は手を掴まれ引きずり込まれていくから不思議だ。

普通二人の絡みは、映画でも小説でも、もちろん舞台でも二人以外を寄せつけはしない。二人の絡みで物語は完結し、見る者は、二人の姿に自分を重ねて自分の恋情へと向かうもの。そんな気がする。

でも、この時、私は確かに二人の絡みの奥深くに沈み込んでいた。二人と一緒に二人を感じ、二人一つの命と一つになりたくて、身体を重ねていた。

 

―物語はあなたを裏切るのー。

 

この場に物語はない。

今そこに生きる舞台の私たちと、ここに生きている客席の私だけが確かに、この場に存在するのだ。

 

 

そんなことをぼんやり感じていた時、黒い衣装をつけた上杉さんが低い音楽と共に舞台奥から這い出てきた。

 

 

上杉さんは恐ろしいエネルギーで、そこにあった求めあう空間そのものを破壊しようとしている。そんな気がした。

二人の身体に入り込んでいた私は、幻影も幻想も幻聴も、身を守るために身に纏っていたそんなものが、破壊される恐ろしさに、震えることになる。

鳥肌立っている自分を自覚しながら、舞台の上、上杉さんが、成長して大人になった獅子を両サイドに従えて這って這って這って迫って来るのを私は見ていた。

 

破壊される恐怖は破壊されたい激情へと形を変えて私を満たしていく。

破壊されたい。

 

破壊して、破壊して、こなごなにして、いのちのまん中でこの場に在りたい。

 

最後は扇子を手に、上杉満代の踊りが始まる。

顔のベールをゆっくり取る。それだけの動きで、破壊されたいと願った私の、『いのちの真ん中』を、上杉満代が掬い取ってくれる。

そして、美しく無条件に掬い取るその人のからだは、痛みと苦痛に溢れているのだ。

激しい痛みと苦痛を伴いながら、あらゆるものを掬い取って立ち上げって来る上杉さんのド迫力に、気づけば私は口をぽかんと開けて、鼻水を流していた。

 

コロナ禍の渦中で、危なっかしく命と向き合ってきた不本意な日々に、それでも、それだからこそ、激しい希求をもって公演を見れたこと。

踊り手の踊りに対する激しい情念を、肌身に感じられたこと。

何もかも含めて、最高の公演で、「一生モノの感動」をもらえたなぁって、台風が迫っているらしい午後の時間に、奈良の曇り空見ながらパソコンに向かっているのだが、書ききれないもどかしさは、いつものこと。追々感じていたことを書き足すことにして、晩飯の準備へと身体を移動させよう。

 

稽古場日記。秋の始まり

生まれて初めて感じることが多いなぁ。

「コオロギの声が聞こえますね。羽を震わせて空気を振動させ、その振動をあなたの身体が感じるんですよね。ということは、反対にあなたの震えはコオロギに届いているってことですよね」

なんて言葉が田中誠司の口から出る。

 

先週の稽古の夜

その夜は、幾日も幾日も幾日も、ゆうに一か月は続いた熱い空気から解放された最初の夜だった。放たれた窓から流れる涼風にカーテンが揺れ、その向こうから虫の声が聞こえていた。

 

身体に受ける音を感じて。

 

空間に対して身体を開き、丁寧にその場の音や光を身体に受け続ける。

光や音を、目や耳で受けるのでなく、皮膚で筋肉でその奥の臓で、そしてからだの中の空洞に流していく。

なんで?

からだを空っぽにするために。

空っぽのからだ・・・で立つ歩く上に下に移動する。

そうして観ている人と繋がるために

踊りの基礎。踊るためのからだになる。

そんなものに挑戦し続けて、すでに8年が過ぎようとしている。

 

稽古の夜の不可思議な挑戦が続いている。

 

秋の始まり、

突然虫の声が止み、冷たい風が窓からつーっと入ってくると、静かに雨の音が動いてきた。

しばらくすると、雨の音が夜の闇に溶け込んでしまう。と、りーんりぃぃーんって虫が羽を震わせる。

 

私は立っている。ただ立っている。

ジーンってしてくる。

ジーンって、耳やろか?鼻腔やろか?魂と言われるものやろか?

季節が移ろう夜には魂魄に大きな穴が開く。土の奥深くから這い出て地上の夏に触れた蝉。静寂の苔むした森を超えて踊りの輪に飛び込んだ「まれびと」。

大きな空洞が移ろう季節を飲み込んでいく。

ただジーンとして立って立って立っている私に

 

 

「コオロギの声が聞こえますね。羽を震わせて空気を振動させ、その振動を身体が感じるんですよね。ということは、反対にあなたの震えはコオロギに届いているってことですよね」

 

そんな言葉が聞こえてきた。

 

聞こえるって、空気の振動を感じるってことで、それは鼓膜で感じるやろし、皮膚で感じるやろし、指先で感じるやろし、関節で感じるんやろ。

私の呼吸を、指先のわずかな震えを、髪が風に乱される震えを、虫は触覚で捉えているのかもしれない。

 

双方向に空気は動いている。

 

そんな当たり前のことを、67年呼吸してきて初めて確かな感覚をもって掴んでいる。

 

不思議な夜に、私は揺らいで虫も揺らいで雨も揺らいで風も揺らぐ。

 

 

そのまま踊れれば良かったのに。

蝉のようにまれびとのように、大きな穴に空間を吸い込んだまま踊れれば良かったのに。

 

いざ踊り始めると、その確かな感覚が逃げる逃げる。

コロナ自粛と納得してしばらく稽古から遠ざかっていた私は、掴んだ感覚を掴んだままでいる時間がもどかしい。

踊りたい!踊りたい!

気持ちばかりが込み上げて、踊りにならない踊りにしがみついていく。

 

掴んだ感覚がやばいほど逃げていくから、追いかける。

鬼ごっこの鬼になった。

だから、感覚は当然逃げ続けて、なにも掴めない。

掴めないけど踊りにしがみつく

もう最悪・・・

 

最悪のまま終わっていくのに、そのことすら分からないでいる。

面白い程、踊ることを追いかけて踊ることに酔っているから、自分が感覚を逃げしていることにも気づかないのだ。

 

もう最悪・・・

それに気づいたのは、帰り道、誠司さんから痛い指摘を受けてからやから情けない。

 

「一度差し出した手で掴めなかったものを、何度も探さない。掴めなかったことを理解してそこからもう一度丁寧に感覚を研ぎ澄ませて踊りだすこと!何度も掴もうともがくから、丁寧さが零れ落ちてる。まぁしばらく踊ってないことが露呈してたね。」

 

分かれる間際の指摘

真夜中に突入しそうな夜の静寂の中。

こんな時間に、そんな言葉もらったら今夜は寝られへんわ。

 

そう、でもその指摘で、その夜の自分の取り逃がしたものをもう一度探すことができたのだから、痛い指摘は痛い気付きの入り口になったってことやね。

 

しかも帰るとすぐ崩れるように寝落ちしたし。