コアジサイ咲く高見山
群生するコアジサイの真ん中を縫うように下る山道に、蛇は長くカラダを伸ばして死んでいた、
カラダの下では無数のアリが蠢いている。アリは順番に蛇のカラダの下に潜り込み、その身を食い千切っては巣へと持ち帰るのだろう行列が草むらへと続いていた。
2時間前、この道を上った時には、蛇はそこに身を横たえてはいなかったはずだ。
登る道の両側に今日を盛りと咲き誇るコアジサイの薄紫の輝きに見とれていて気付かなかったのか。
それとも登頂して、遥かに奥へ奥へと影のように幾重にも広がる大和の山々の姿にため息をつき、凍らせた麦茶と友が作ってくれたお弁当を頬張り、下りの岩場の急坂に足を取られ、そこまで下ってきた、その2時間ほどの間に、蛇は死に、アリに喰われているのだろうか。
それにしても、木陰でもない山道の、そんな場所で、照り付ける午後の日差しの中、身をアリに捧げるその姿は、あっけらかんとして、まるで神々しさすら感じる。
後から下ってくる蛇嫌いの友が、道の真ん中に横たわる蛇を目撃しないで済むように、そして、何組かいた他の登山者が気付かず蛇を踏みつけにしたりしないように、蛇を救い上げてコアジサイの花の影に隠してしまおう。
持っていたストックで蛇を救上げようとするのだが、蛇の死体はことのほか柔らかくグニャグニャで、しかもアリに食い千切られた肉はもうズブズブになっていて、ストックでは持ち上がらず、崩れようとする。
その、グニャッとした、ドロッとした感触は、瞬く間にストックの先端から私の手のひらに伝わり、私は素手で蛇の崩れかけた死体を掴んだかのように身を震わせた。
「胃がんです。印鑑細胞癌。進行のスピードが速い癌なので、すぐ切りましょう」
と医者から告げられたのは、ちょうど去年の6月22日。この日は俵万智風に言えば、「胃がん告知記念日」だ。
記念日であることなど忘れたまま、一年目に暫くぶりのちゃんとした登山。
その途中に蛇の死体と遭遇したのだ。
一年目の今日、蛇の死体を素手でつかんだ感触をもつこの「手」には、まだ動き続けている心臓から送られてくる血液が流れている。
蛇は2時間ほど間に生きることを止め、身を崩し始めているが、この身は死んでしまった3分の2の胃と引き換えに生き続けている。
筋力は衰えたが、それでもコアジサイの咲く高見山に登り、血の通った足と手で、山の中腹にしっかりと立っている。
64歳。崩れ去らなかった人生の残りを、私は神々しいまでにあっけらかんと、生きることができるだろうか。
共謀罪通過だって
最近どうも沈んでいる。
やることがない。という日常に嫌気がさしている。
だが、本当に「やること」がないのか?と問い直せば、そんなことはないのも事実だ。
老親がいる施設に見舞いに行く回数を増やすとか。
半年に一度しか拭き掃除をしないベランダの窓に、週一度は雑巾をかけるとか。
孫の誕生日に手紙を書くとか。
身の回りの細々は、むしろやることだらけ。
誰に頼まれたわけでもないが、文学賞の応募締め切りまでは2か月しかない
確かに「やることがない日常に嫌気はさしている」が、それは去年胃がんの手術をして以降長く続いている日常で、なので、それが沈んでいる原因でもなさそうだ。
沈んでいるのはどうやら、「安倍晋三」という人の所為のような気がする。
彼が総理に就任して以来、大切なことだと思ってきたことが壊れている。
就任するとすぐの外交で、彼は日本の原発をトルコやインドに売り込んできた。トップセールスというらしい。それと同時にフランスの武器の博覧会に、日本製の武器が大々的に展示された。「死の商人」というらしい。
それから、この人は、特定秘密保護法で公務員の口を封じ、安保関連法で集団的自衛権を閣議決定だけで決めてしまった。
つまり、日本は武器や原発を海外に売り歩き、(武器も原発も作っている三菱重工にはこの人の肉親の存在も?)
日本が直接攻撃されていなくても、地球の裏側で起こっている某国の戦いに加担し(某国は中東やアフリカで様々な代理戦争を仕掛けているというのに?)
それに異議を唱える人々の口を封じ、今度は、反対する心までも封じ込めようとしている。
彼が総理になって以来、着々と進められてきた、「戦後レジームからの脱却」。つまり日本を軍需産業で潤う国にし、自衛隊を海外派兵させ戦わせる国にする。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
かって、大陸に兵を出し多くの罪なき人々を死なせた日本。自らも国土を戦火に覆われて世界唯一の被爆国となった日本。
その深い痛みを握りしめて、二度と武力を行使しないと誓ったこの国は、「安倍晋三」という人を総理に担ぎ上げて、再び戦争への道を歩み始めている。
しかも、時代劇の悪代官か?
思想性の強い学校(安倍晋三万歳とこどもが叫ぶような)建設にも、親友の大学運営にも、何億円もの行政援助を行い、自分の宣伝マンのレイプ事件をもみ消し、まさに国の財政も警察権力も、思うがままに動かしている。忖度?なんてことじゃなく、命令だろ?
こんな状況も状況なのだが、国民の大半は、それに関心すら持っていないのだ。
それにつけても、自分の無力をつくづく情けない。
今日、国の運命を変えることにありかねない法案が通ったというのに、「それはおかしい!」と声を上げる場もない。
ひとり、テレビの前で国会のニュースを見ていると、涙があふれてきた。
「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」とは芥川龍之介の言葉だが、時は日本が戦争に突入していく世紀。
沈んでいく自分を感じる。
それは私ばかりではないだろう。
ベルギー奇想の系譜展
初夏のさわやかな風に誘われるように、兵庫県立美術館に出かけたのは、いつだったろう?
最近、日にちの感覚がない。認知症の検査に、「今日は何日ですか?」というのがあると聞くが、その検査を受けて正常と認定される自信がない。
「ベルギー奇想の系譜展」が5月中旬から始まっていた。
ベルギーという国は不思議な国だ。ヨーロッパの真ん中に位置していて、歴史の長きに常に周りの国々に侵略され続けてきた国らしい。九州ほどの面積の小さな国で、オランダ語圏、フランス語圏、ドイツ語圏に分かれているのも頷ける。
そのベルギーの「奇想の系譜」という展覧会が県立美術館であるというのを、Facebookの情報で知った。
「ボスから、マグリット、ヤン・ファーブルまで」という言葉と一緒に奇妙な物語の挿絵のような絵がコピーされていた。
ボスとヤン・ファーブルはよく知らないが、マグリットは好きだ。
マグリットの絵は、一見わかりやすいポップな感じがしないでもない絵なのだが、しばらくその絵と向き合っていると、なんていうんだろう? 死の影に包囲されるというか、不確か。
何となく、自分が「立っている」と思い込んでいた地場が突然ぐにゃと歪んで、崩れ落ちていくような感じがする。
自分の女性器が膣の奥深く、縮み上がって入り込んでくるような感覚。ぞわっとする。ぞわっとして、そんな絵が何枚も並んでいて、ぞわぞわっと怖くて怖くて、しばらく廊下の椅子で動けなくなったのは、一体いつ?どこの美術館で観た「マグリット展」だったんだろう?
と、また霧に包まれた記憶の断片を追いかけるが、わからないからやめる。
で、海の匂いのする美しい道を兵庫県立美術館まで歩く。強い日差しに六甲から吹き降りてくる風が心地よかった。とそんな気がしている。
兵庫県立美術館は、コンクリートの打ちっぱなし。安藤忠雄さんの設計だと、聞かなくても分かるようなその壁の回廊を降りていく。採光の妙と海の借景。カフェのテラスで遅い昼食を取っていると、隣の席のご婦人から声をかけられる。
「靴とおかばんのオレンジが素敵ですね。」
「あ、ありがとうございます。」
お礼の言葉を口にして声の主を見ると、彼女は帽子からスカーフ手提げのかばんもパンツも、そのすべてをオレンジで固めていて、
「私もオレンジフェチなので」
と、微笑む頬もオレンジに見えた。
もちろん、私はオレンジフェチでも何でもなく、その鮮やかなオレンジ色の靴はバーゲンでサイズに合うのがその色しかなく、仕方なく買ったものだし、オレンジの皮のリュックも同じような理由で何となく手に入れた代物だ。それでも、誰かに何かを褒められるなんてことが殆どない人生の中で、オレンジフェチのご婦人からの誉め言葉が、心を癒してくれる。
海の香り、硬質の壁と光のコントラスト。そしてオレンジの誉め言葉。
すっかり気をよくして、「奇想の系譜」へ向かう。
入るとすぐ、ヒエロニムス・ボスの不思議な絵が出迎えてくれる。
黒目の大きな顔が建物のように絵の真ん中に置かれていて、鼻からこぼれ落ちる花びら(?)が緑色の粘液につかる人たちの大きな桶に降り注いでいた。長い鼻をトランペットのように吹きながら歩くネズミ?宮崎駿さんのアニメに出てくる「カオナシ」のような顔を持つ生き物。そんなものが蠢く絵の中で裸体の女性が様々な誘惑に負け堕落の苦悩に喘いでように見える。なにもかもが寓話のようなのに、いやに真実味がある。おそらく描いた人にとって、これは空想上の物語ではないのだろう。おとぎ話につけられた挿絵の様相でありながら、でもこれは真実なのだ。絵の中の人物の苦しみに嘘がない。
今まで見たことがない絵だ。
あり得ないことを「ある」と信じる人の魂と、こちらも疑うことなどみじんも思いつかないまま対峙している。不思議な感じで、お腹から、力がほわっと抜け落ちていく。
その感じは、ボスに影響を受けたという、その後の作者の絵にも流れてて、でも残念ながら、画家たちの名は私には初めて触れるものばかりで、なので、その名とともに作品たちも記憶から消えてしまっている。ただ、そのお腹から力が抜け落ちる不気味な不思議さだけは、今でも体に残っているのだ。
それでも、いくつかかすかな記憶に残っている絵もあるにはある。
例えば、フェルナン・クノップフという画家の女性像の群れ。何枚もあるその女性像たちの表情はそれぞれにテーマは違うのだが、観るものを圧倒させる眼力を持っている。深い悲しさを内容しつつも、こちらに強い意志を送り続けてくる。女性なのか男性なのかすら分からなくなるほど挑戦的だ。
例えば、テイエリー・ド・コルディエという画家の「狂った森」という絵。
木が生い茂る深い森。夜明けなのだろうか右側に濁った光が射している。道は中央に描かれその前方は闇に包まれているのに、その光は一体どこから射しているのだろう。
なんて思いながら、絵の前にしばらく立ってみる。身体に森の気配が感じられた気がして、それから、絵に向かって静かにゆっくり歩いてみる。(舞踏の稽古の『立つ・歩く』だ)
すると、身体が狂った森の中に運ばれていくのが分かる。森には風が吹き荒れて木々が大きく声を上げながら揺れている。その声は、私の身体のあらゆる細胞から私の中に入り込み、そしてあらゆる細胞から私の外へと出ていくのだ。木の声を通過させ続けるうちに自分が森そのものになってしまう感覚が生まれてくる。これは面白い体験だった。
と、極私的な感想を持ちながら展示を見続ける。
ボスの系譜が、脈々と流れて続けるベルギーの画家の流れの中に、マグリットを流しいれていく意図を持った展示なのだが、おそらくマグリットがこれを見たら怒り始めるかもしれないなぁなんて思ったりもする。
奇想天外なボスの絵は象徴主義、シュールレアリスムを経てマグリットへ。と・・・。
私の中では、それらは全く繋がらないのだが、展示ではそういう流れが作られていた。
「ベルギー」という国におこったこととして、画家たちの系譜が構成されていた。
それはそれで面白い切り口なんだろうか?とも思う。
で、マグリットの絵なのだが、「前兆」、「観光案内人」、「夢」、「大家族」、「レディメイドの花束」「マグリットの孤児たち」と、タイトルの言葉としての情報と、絵の持つズレた景色が、大きくまたズレを生んで、やはり私はぞわっと身体を震わせていた。