サントリー美術館で「谷文晁」展を観た! | とんとん・にっき

サントリー美術館で「谷文晁」展を観た!



江戸東京博物館で開催されていた「ファインバーグ・コレクション展 江戸絵画の奇跡」のなかで、ひときわ目立ったのが谷文晁の「秋夜名月図」でした。横幅が170cm近い大画面に、円い大きな月が浮かび、右下方から葦が伸び上がっています。すべて水墨で描かれています。「文晁圖書」と刻した巨大な印章が目を引きました。東京国立博物館の総合文化展(常設展)でもいつ頃だったか、文晁の山水画を観た記憶があります。僕が谷文晁を最初に知ったのは、たぶん板橋区立美術館だったのではないかと思いますが、その記憶も薄れています。


最近、板橋区立美術館の館長、安村敏信の「江戸絵画の非常識―近世絵画の定説をくつがえす」(敬文舎:2013年3月23日第1版第1刷発行)を読みました。そのなかで常識その八、「上方で大成した南画は、谷文晁によって江戸にひろめられた。」という章がありました。今回の「谷文晁」展の“企画協力”者でもある、河野元昭の説に真っ向から疑問を提出しています。


話はこうである。谷文晁は「多数の門弟を擁して江戸絵画の指導者となり、関東南画を確立した」と、河野元昭が書いたことに、安村は、私が違和感を感じているのは、文晁の絵が、北宗を主体にして南宗や洋風などを折衷した諸派混合でありながらも、「南画」を確立した、という点にです。「上方で南画を大成した池大雅や与謝蕪村は、南宗を主体に北宗を折衷していたのに対し、文晁では南北が逆転する。それでも北宗といわずに南画というのはなぜか、という単純な疑問」だと安村は言います。言葉の定義に始まり、文晁の作品を検討し、また文晁一門の作品の特徴をみて、「谷文晁が江戸に南画を広めた、というのは正しくない。正しくは、江戸に中国の北宗画を広めた、ということだ」と安村は語っています。


面倒な話はさておき、安村は文晁画を大きく二期に分けています。寛政年間(1789~1801)の「寛政文晁」(27~39歳)と、文化年間(1804~1818)後半以降の「烏文晁」の時代です。烏文晁とは、文晁の署名の「文」字が烏のかたちに似ていることから名付けられたもの。また、文晁20代のなかば前後は習作期で「山東谷文晁」と署名するものが多く、この時期を山東文晁時代と呼ぶこともある。山東文晁期は、版元をとおして中国画を学び、また中国画の実物を見て試行錯誤する時代である。寛政文晁期は鋭角をもつ力強い輪郭線によって整然と構築された山水図で、北宗画学習が前面に押し出されている。烏文晁期は墨痕荒々しい筆使いの、ダイナミックな作品が増えてくる。


どのような展覧会でも、展覧会の「目玉」はなにか、という話が必ず出てきます。国語辞書によると、《客が目玉をむいて驚く意から》多くの売り物の中で特に注目される物、とあったりします。今回の「谷文晁」展の目玉はなにか?展覧会会場の「序章」の解説にもありましたが、「あれっ」と思いました。江戸時代後期の絵師・谷文晁と聞いて、これぞ彼の代表作という一点が思い浮かぶ人がどれだけいるでしょうか?文晁の画風には、貪欲なまでの学習態度が反映されており、彼の作画様式を一つに定義することは容易ではありません。それはまさに「様式のカオス」とでも呼べる様相です、と。要するに今回の展覧会は「目玉」がないのである。あるいは、逆に全部が「目玉」?


展覧会の構成は、以下の通りです。


序章 様式のカオス

第1章 画業のはじまり

第2章 松平定信と「集古十種」―旅と写生

第3章 文晁と「石山寺縁起絵巻」

第4章 文晁をめぐるネットワーク―蒹葭堂・抱一・南畝・京伝



序章 様式のカオス

各画法を折衷した文晁の画風には、「八宗兼学(はっしゅうけんがく)」とよばれる貪欲なまでの学習態度が反映されており、彼の画風を定義することは容易ではありません。それはまさに〈様式のカオス〉とでも呼ぶべき様相です。本章では、多種多様な画風を吸収する意欲に満ちた、文晁の作画エネルギーをご覧いただきます。



第1章 画業のはじまり

文晁は10歳の頃、加藤文麗(ぶんれい)(1706-1782)に入門します。文麗は木挽町(こびきちょう)狩野家三代周信(ちかのぶ)の門人で、正統な狩野派の流れを汲む絵師でした。文麗の画風は、当時の江戸狩野派によく見られる荒々しい運筆を特徴とし、文晁の初期作にも影響を与えています。そして、17、18歳頃には中山高陽門下の渡辺玄対(げんたい)(1749-1822)に師事します。玄対は南蘋派(なんぴんは)や南宗画・北宗画の折衷様式を学んでおり、文晁が描く南蘋派風の花鳥画や、南北折衷的な山水画の基礎は、玄対によって築かれたといえます。画業の草創期に様々な画風に触れたことが、後に文晁の幅広い画域を形成していくことになります。



第2章 松平定信と「集古十種」―旅と写生

天明8年(1788)、文晁は田安徳川家に奥詰見習として五人扶持を受けて出仕し、寛政4年(1792)、老中松平定信(1758-1829)に認められて近習となります。定信は八代将軍徳川吉宗の次男・田安宗武の子で、白河藩主・松平定邦の養子となり、白河藩主を継いだ後、老中首座を勤めました。寛政5年(1793)、文晁は定信の江戸湾岸巡視に同行し、各地の風景の写生を担当します。この時の写生をもとに制作された風景画には、正確な遠近表現や立体感を示す彩色法が用いられ、西洋画学習の成果がうかがえます。また、寛政8年(1796)、文晁は定信の命を受け、全国の古社寺や旧家に伝わる古文化財を調査します。この調査時の模写と記録は、全85巻の刊本『集古十種』として刊行されました。多くの名品を模写したことは、文晁の画業に大きな影響を与えました。



第3章 文晁と「石山寺縁起絵巻」

松平定信は、古文化財の保存・整理分類からさらに一歩進めて、過去に失われた作品の復元に着手します。「石山寺縁起絵巻」は正中年間(1324-26)に七巻本として企画されましたが、江戸時代に至るまで、巻六・七は詞書のみが存在し、絵を欠いていました。文化2年(1805)、石山寺座主尊賢(そんけん)の強い願いに定信が応え、お抱え絵師の文晁によって補完されました。近年、重要文化財「石山寺縁起絵巻」(石山寺蔵)を文晁が写した模本が当館所蔵となりました。本章ではサントリー美術館本「石山寺縁起絵巻」を修復後初公開するとともに、一切の私意を加えず古様に従い補完の構想を練った文晁の挑戦をご覧いただきます。




第4章 文晁をめぐるネットワーク―蒹葭堂・抱一・南畝・京伝

文晁を語る上で欠かせない要素の一つに、幅広い人脈があります。『集古十種』編纂のために訪れた大坂では、当時の文化ネットワークの中心人物であった木村蒹葭堂と出会います。文晁は後に蒹葭堂の肖像を描いており、親しい交流は蒹葭堂が没するまで続きました。また、絵師の酒井抱一、狂歌師・戯作者の大田南畝(なんぽ)、戯作者の山東京伝とも親しく交わり、様々な合作を残しています。加えて、文晁は教育者としても優れており、渡辺崋山など、多くの門人たちを育てました。文晁をめぐる多様な交友関係の広がりは、文晁という人物の魅力を伝えています。



「生誕250年 谷文晁」展

谷文晁(1763~1840)は、江戸時代後期の関東が団で中心的役割を担った絵師です。文晁といえば関東南画の大成者として知られていますが、狩野派や円山四条派、土佐派、洋風画をも学ぶなど、各画法の折衷に努めて一家を成した巨匠の一人です。しかし、文晁の多作さと多岐にわたる様式は、彼の活躍ぶりを伝えると同時に実像の把握を困難にしているとも言えるでしょう。一方、文晁は松平定信や木村蒹葭堂など当代一流の文化人たちと親しく交わり、渡辺崋山をはじめとする多くの門人を育てました。その人脈の広さは当時の画壇でも際立つものであり、知識人・教養人としても群を抜く、文晁という人物の魅力を物語っています。本展では、文晁の生誕250周年を記念し、文晁と人々との交流を軸に、彼の画業と功績をたどります。加えて、近年当館の所蔵となった谷文晁筆「石山寺縁起絵巻」を修復後初公開します。文晁の多彩な交流関係から生まれた名画の数々をぜひご覧ください。


「サントリー美術館」ホームページ


とんとん・にっき-zuro 「生誕250周年 谷文晁」展

図録

企画・構成:池田芙美/上野友愛(サントリー美術館)

企画協力:河野元昭(秋田県立近代美術館館長・尚美学園大学大学院教授)

編集:池田芙美/上野友愛/丹羽理恵子/井垣万里子(サントリー美術館)
発行:サントリー美術館

発行年月日:2013年7月3日



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