いのちのことば社 盗用問題での編集者とのやり取り。
私宛に編集担当者からメールが来ましたので、その返事を個人が特定されるところだけxxxxとして掲載いたします。いのちのことば社編集局XXXX 様わざわざ返事をいただき、ありがとうございます。新改訳の引用について不満があり、私はつぶやいた程度でした。今回メールの件、実は匿名での指摘としたかったのですが、御社OBないし、社員様に知り合いも多い事もあり、表面に出たくはなかったのですが、身バレしてしまい返事をいただき感謝いたします。 まず、この件でいろいろと取り次いでいただいた高橋兄に感謝いたします。しかしながら、さまざまなやり取りの中、質問に対する回答に誠実さを感じられずにおりました。御社の出版物、「西郷隆盛と聖書」についての問題は 「文書盗用」 は、ほんのさわりにすぎませんし、直接宣教や、伝道に関係することではないので細かな問題でしかありません。 しかしながら、それを取り上げないなら、取り合われないだろうと思い、指摘したまでです。 質問の通りお答えするなら、ご存じでしょうが私が指摘した盗用部分は添付した場所を含め2か所です。『命もいらず、名もいらず』北康利著299ページに記載されている文面「事情を知らない韓国では、"日本の三大悪人”として、朝鮮侵攻を行った豊臣秀吉、日韓併合の伊藤博文、そして征韓論の西郷隆盛が今でも、憎悪の対象になっている。」『西郷隆盛と聖書』35ページに、「事情を知らない韓国では、"日本の三大悪人”として、朝鮮侵略を行った豊臣秀吉、日韓併合の伊藤博文、そして征韓論の西郷隆盛が今でも、憎悪の対象になっています。」また、『同書』p305に記載されている「この内容を読めば、西郷が強硬な征韓論を唱えたわけではなく、むしろ先方の無礼を"赦す”大きな度量をもって、あくまで平和的外交交渉を主張していたことがわかるだろう。」 と言う表記が、同じく、『西郷隆盛と聖書』守部善雅著いのちのことば社p38には「この内容を読めば、西郷が強硬な征韓論をとなえたわけではなく、むしろ韓国側の理不尽な態度を"赦す”大きな度量を持ってあくまで平和的外交交渉を主張していたことが分かります。」という箇所です。これを引用表記の間違いと考えるには無理があります。本書と参考文献とでは微妙に言葉が変えられているからです。「侵攻」「侵略」「先方の無礼を」「がむしろ韓国側の理不尽な態度を」に変えられているからです。このような一部の変更が引用表記ミスではなく、盗用の証拠と十分なるります。 反論があるならば簡潔にお答えください。引用表記のミスである場合、引用は本文そのものでなくてはなりません。御社ホームページには新改訳聖書の引用について 1.)聖書本文を誤りなくそのまま引用して下さい(変更の禁止) 。 2.)出所の明示を行って下さい(著作権法第48条)。との記載があります。出版元であるいのちのことば社の社員であり、xx様並びにxx様 編集者がそれを守らなかったということです。引用表記ミスならば、「著者は引用表記しているが、それを正確に写さず、それでいて引用表記を忘れた」といいうことですが、それであるなら、著者に対して大変失礼であるだけではなく、編集の段階での文書精査の貧弱さを思わされます。それは著者には何の問題もなく、xx様並びにxx様という編集担当者のミスが原因であったということを主の前の真実として理解していいでしょうか。「具体的にどの箇所を指すか、教えていただけるでしょうか。」という問い合わせですが、 示しましたなら、どのような対応、をするかまず、答えください。前の指摘では、改定したものが、何の説明も挨拶もなく、教会宛に送られてきただけで、唖然としました。指摘した本人に何の挨拶も、断りもなく改定し、一方的にです。その失礼さに立腹したことです。もちろん購入者にもです。また、わたしは私人として指摘しています。本著者の著作すべてを精査する義務は、御社にあり、それを私に報告する義務があるがあると思われます。そして、感謝こそされ、指摘されたなら、責任ある機関であるなら、他の箇所においてもそのことを調べ、報告する義務があるとも思います。xx兄とのやり取りにもその旨を書きましたが、返答はありませんでした。 当該著書を購入し、また、他の参考文献を精査いたしました。それなりの労力と出費をいたしました。もし、当該著者の著作すべてを精査する必要があるならば、それらを、依頼文とともに参考文献と私のところへ送付して下さい。また、それらのものもなく、逆に再見された場合どうされるのかお答えください。 しかし、私が問題にしたいのは内容です。 以前、その本の裏を取るため調査し、それをこちらの参考文献と共に送らせていただきました。 xxxx様に改めてそれが必要でしたら、送らせていただきますので必要の有無をお知らせください。 ちなみに、xx(クリスチャン新聞編集者)兄の回答は以下の通りでした。あらためて、守部の『西郷隆盛と聖書』を読みましたが、この本は基本的に西郷研究家の高柳毅氏の論文内容に則り、その他の文献も参考にしながら、それを膨らませる形で書かれたものと認識します。西郷が聖書に親しみ、「西郷は晩年にはキリスト教を信じていた」という高柳氏の説がすべてと言っていいでしょう。これは、その論文「西郷が読んだ聖書」と、おそらくは直接話を聞く中で得た情報に基づいているものと思います。取り上げられている資料の解釈も、基本的にその方向でなされているのでしょう。そう解釈するに当たってのネタ本も「参考引用文献」の中にはあるのかもしれませんが、それぞれ一つの解釈として、断定的にならずに提示されたと、私は受け止めています。2018/8/6 受信 私の質問には一切触れられておりません。 「膨らませて書かれた」とか、「一つの解釈として断定的にならず」であるとか、本書が空想話であるかの如く、書かれています。編集者及び、編集長様もその認識でよかったでしょうか。この本は、所属している教会の教会学校の小学生の女の子も、自分のお小遣いから購入いたしました。 私は 「偽りを流布して小学生からお金を巻き上げている」と思ったものです。 それが御社や著者の収入となり、活動が支えられ、また文書伝道のため、献金も呼びかけられています。その出版の意義をお知らせください。 以上、要点を上げます。 ①私の指摘箇所は二か所(すでに訂正済み) すべての著作、参考文献を確認しているわけではない。参考文献を購入していない部分については未確認。 ②引用表記不備ではなく盗用である。 ③指摘された以上、精査とその報告の義務が御社にあるのではないか。 ④調査が必要であるなら、正式な依頼文及び著作、参考文献の送付があれば引き受けます。 ⑤内容についての質問に対する回答。 「偽りを流布して小学生からお金を巻き上げている」という言葉に対抗すべく根拠をお示しください。以前高橋兄に送付済みですが、必要ならば再度送付いたします。 ⑥出版の意義について。 真実を探求する姿勢が御社及びクリスチャン新聞にあるのかどうか。もちろんこの手の本に、学術論文ほどの正確さを要求されてはいないと思われますが、教会の講壇からまことしやかに語られている現状は見逃されません。 内容について調査をしたのか、依頼するのかどうか。問題個所が再検された場合はどのように対応するのか。不躾なメールであったと反省しております。さぞやご立腹されて「ほかにもたくさんあるみたい」とお書きになっていましたが、具体的にどの箇所を指すか、教えていただけるでしょうか。 というお返事だったかもしれませんが、責任ある立場の方の責任を持った発言であると承知いたします。 私の指摘は感謝こそされるべきだと思っていますが、誤りがあるなら指摘してください。 著者及び編集者様に、改めてそちらに出向いてでも正式な謝罪をさせていただきたいと思います。 以上長くなりましたが、回答を求めたいと思います。個人的な感想のようなものではなく、立場を明確にしてお答えください。 御社の働きが真理に根差し、主にある支えがありますように。またこの世における誠実さが示されますようにお祈りいたします。 在主佐野学2019年11月21日(木) 9:39 xxxxxxxxxxxxxxxxxxx 11月22日(金) 18:20 (6 日前) 佐野学様 ご返信をいただき、ありがとうございます。 『西郷隆盛と聖書』の該当引用箇所については、原稿作成段階で、参考資料を引用する際に、引用である処理(括弧を付け、出典を明記するなど)が漏れてしまったことに尽きます。他の引用箇所で発行時に表記が正しくなされている箇所でも、原稿段階では正しく元資料を写しておらず微妙に違う manabu sano<ubanknight8068068@gmail.com> 11月25日(月) 11:46 (3 日前) Toshinkaiyaku,sunahara, Bcc:support, Bcc:bible, Bcc:cs-edit, Bcc:seicho, Bcc:cs-read, Bcc:lsv いのちのことば社編集局xxxxxxご返信を感謝いたします。 しかし質問の件、御社出版物文書盗用に関する回答の内容を拝見いたしましたが、当方の質問と回答に多少のずれがあるように感じ、回答内容を確認させていただきます。「『西郷隆盛と聖書』の該当引用箇所については、原稿作成段階で、参考資料を引用する際に、引用である処理(括弧を付け、出典を明記するなど)が漏れてしまったことに尽きます。他の引用箇所で発行時に表記が正しくなされている箇所でも、原稿段階では正しく元資料を写しておらず微妙に違う語句になっていることは多く、編者者が元原稿を見て直しています。指摘された該当箇所で、語句が微妙に違って元資料とほぼ同じというのは、まさに引用文として原稿を作りながら、括弧を付け忘れ、編集者が引用とは気づかずに発行に至ったのが原因だと考えております。」 「著者」が、「原稿作成段階で、参考資料を引用する際に」「漏れた」 「著者」が、「引用文として原稿を作りながら、 括弧 を付け忘れ、 編集者が引用とは気づかずに発行に至った」ということでよろしいでしょうか。 編集者は、括弧がなかったため、「引用に気が付かなかった」ということでよかったでしょうか。 つまり、著者が正確に文章を引用せず、引用表記もしなかった。そして、それに編集者が気がつかなかったというように読めますが、よろしかったしょうか。 「原稿段階では正しく元資料を写しておらず微妙に違う語句になっていることは多く、編者者が元原稿を見て直しています。 」 とありますが、それは「引用表記がなされている場合に、編集によって行われる作業」ということです。 もう一度確認すると、当該箇所は 「著者が、原稿作成の段階で、元原稿『命もいらず、名もいらず』北康利著を微妙に変えて、記載し、引用表記をしなかった。ということで良かったでしょうか。 そうだとするならば、意図的であるかないかにかかわらず、文書盗用となると思われます。 編集のミスであるなら、記載漏れですが、著者が意図的であるかないかが関係なく、同様の文章が使われているならば盗用といえます。 また、多少文言を変えていることが、意図的な盗用である証拠となるでしょう。 そしてそれに関して、著者からは何のコメントも、発表もなく、再版その後も、当該図書に関する講演などをしていることについて、倫理に反する事に思えます。 また、御社においても、私が当該箇所指摘後、すぐさま訂正再版されたのは、事実を隠蔽するための疑いがあります。 それをどこにも調査も公表もせず、販売し続けているいることは悪質であると言わざるを得ません。 また、今後の発表も、その内容次第においては事実の隠蔽と思いかねぬ次第です。 前にも、書いた通り、私にとって、当該図書のこの問題は、あまり重要ではありません。それは、直接伝道や宣教に関係ないことだからです。 また、御社の働きにおいても、重大な影響があるとは思われませんので、回答によってはこのことを深く追求し続けることは致しません。 問題にしたいのは内容だということを再三申し上げます。その発言の内容に証拠も事実としての根拠も見当たらないことにあります。 本書には西郷隆盛が、キリスト教に寛容であり、聖書を手に取り、洗礼を受け、聖書を教えていたなどという内容について、証拠となりうることが一つも見当たりません。 事については、クリスチャン新聞社、xxxx兄がxxxxx教会にて証しされたとき、「西郷隆盛がバラから洗礼を受けた」という発言に質問したおり、奈良宣教協力会での講演会で質問されてはと言われ、当該書著者に質問したところ、「本を読んでから質問するように」との内容でした。その故に当該図書を購入し、内容について精査質問をした内容の一部が、盗用箇所の指摘です。 御社の働きに信頼し、その図書を購入し、求道者や未信者に紹介している福音派の信者にいつも信頼されるものであってほしいという願いです。 しかしながら、当該図書の内容はその時のブームにあやかり、事実と異なることをまことしやかに語り、販売実績を上げるための著作であるように思われることが残念に他なりません。 また、そのことを信じ、多くの奉仕者が証しし、講壇においても説教に用いられるなど、黙認できない思いでした。 ですから、盗用問題は質問に回答いただきたいための副産物にすぎません。 また、当該図書を購入したのも、事実を確認するために他なりません。内容の問題を公にするためには盗用という事実は実にインパクトがありますので、今後もその問題を問いたいと思います。 しかし、回答いただきたいのは、先に送った内容についての質問です。 主の名を賛美いたします。いのちのことば社クリスチャン新聞xxx様 久しく、お便りいたしませんでしたが、いかがお過ごしでしょうか。文書伝道のため主の働きにまい進していることと思われます。貴兄および、御社の働きが祝福され、主の名があがめられますようにお祈りいたします。 さて、先日、お便りいたしました、守部氏の「西郷隆盛が洗礼を受けていた」という主張の件について、著者にお取次ぎいただいてありがとうございました。その件について、著者から、何か回答らしきものがいただけるかと思い、講演会には参加させていただき、講演後に時間を割いていただき質問させていただきました。その内容については結局のところ、「著書を読んでから質問するようにとのことでありました。」私自身もそれを見ないまま、批判的なことを繰り返しても、失礼だったと反省しております。 そのようないきさつから、著書を拝見させていただき、疑問を受けましたので、それについての解答を受けられるであろうと思い、いくつかの点において、疑問に思ったことをまとめました。読んでいただければ幸いです。添付文章に詳細は書いてありますが、以下に要点をまとめました。1、有馬藤太の証言の信憑性。資料の取り扱いについて、最初に結論があり、それに都合の良い記述だけを集めて歪曲した西郷像を創作している。2、中村正直の『啓天愛人説』が西郷の啓天愛人の背景にあるなら、キリスト教の影響を受けたとは言いがたい。著者は資料をまったく見ていないで、自分の主張を、あたかもそこから言われているように偽装している。3、木戸孝允がキリスト教嫌い?浦上4番崩れの黒幕?歴史的背景の認識不足。4、西郷がキリスト教擁護の不思議?著者の想像の西郷像から、史実を捻じ曲げているだけではなく、資料の理解をも曲解している。5、閑愁禄の誤解 著者はクリスチャン新聞の編集者だったと聞きますが、内容をまったく正反対に捉えている。https://www.youtube.com/watch?v=N8RtYkPaPP4 youtubeに現代文の朗読があるので確認していただきたい。7、盗用ないし、引用表記の不備について 類似のないし酷似した文面が他の著作に見られ、引用表記されていません。著者の了承を受けていないなら、盗用とされる可能性があります。 以上が指摘内容であります。長くなりましたので、興味があるときのみ文書を読んでいただけるように添付と言う形にさせていただっきました。一方的に送りつける形になり失礼お詫びいたします。このような文面を送ることに抵抗を感じましたが、真実を探求し、真理を述べ伝える立場において、はっきりとしておいたほうが言いと思い、送らせていただきました。不要と思われたなら破棄して下されば幸いです。主の名を賛美いたします。クリスチャン新聞xxxx 様 お返事いただいてありがとうございます。お忙しい中、お手間を取らせて申し訳なく思います。私といたしましては、貴兄の証を生駒めぐみ教会にてお聞かせいただいた内容、文書伝道の継続と必要性を新たに考えさせられ、神様に感謝いたしました。 さて、先の文章は書籍の編集のかたがたにも見ていただいているということですので、改めて対応いただいたことを感謝いたします。 しかし、守部様よりの返答文書の中に、「実は、『閑愁録・護教』については、拙著『龍馬の夢』に原文と現代文を併記して、くわしく解説させていただきました。 」 という文章に大変驚きました。『閑愁録』についての著者の解説がついた本があるという事、まったく知りませんでしたし、その内容をご存知で現代文にもしているということに驚きました。そして、その内容が「信仰は失っていたかもしれませんが、キリスト教徒が激しく迫害されていたことに同情があったとも考えられます。しかし、世は、キリシタン禁制の時代です。キリスト教を評価することは出来ないでしょう。ただ、迫害は食い止めたいという思いが、法律で、決して罰してはならないという言葉になったのではと推察します。」 と書いてあることに再び驚きました。 このたび、いのちのことば社におきましては、それまでの新改訳を新たに精査した聖書を出版されました。高度な文章を精査する能力をお持ちの出版社であるはずと思っています。 しかし、私にとって、『閑愁録』についてそのような理解は常識的ではありませんでしたので、どうしてそれが出版されているのかが不思議に思われました。 出版までに、プロの編集者の幾人かの人々が目を通し、また広く日本に出版され、多くのとびとの目に触れられている。 そして、驚いているのが私一人という事が、まことに不思議です。もしや、私の理解に誤りがあるならばお教えくだされば感謝です。 A、現在までの研究者の見解 まず、幕末期、『閑愁録』に類似する書物は多数存在します。それら、「護法書」と呼ばれる書籍群に対する研究書『明治佛教全集護法編』には、護法篇関係書目のリストの中に、『閑愁録』が、「概説的なもの」の一つとしてあげられあます。 それら、すべてを読めとは言いませんが、これら「護法書」の趣旨として、それらの一つを手にとるのも良いと思われます。また上記にした『同書』の徳重浅吉氏の解説、「護法編総説-護法運動の概論-」を読めば、その理解も進むでしょう。それらは、国会図書館のデジタル文書となっていますので簡単に読むことが出来ます。また、『閑愁録』については、『日本思想闘諍史料』に、破提宇子1巻(ハビアン)破吉利支丹1巻(鈴木正三)妙貞問答2巻(ハビアン)排耶蘇1巻(林道春)などの排耶書と呼ばれる反キリスト教の文章と共に掲載されています。このように、排邪論、または護法論の研究者は、『閑愁録』を「護法書」、「排耶書」に位置づけています。それは、『閑愁録』の本文の前には白抜きで『護法』と大きく印刷されており、それが、仏法を守る「護法」を主願とした書物であることは明らかです。また、それに続いて印刷されている『金湯』とは金城湯池の訳であり、「国防」を意味する言葉です。前の文章で記述したように、『閑愁録』は「仏法護国論」を簡潔に表している書物だということが常識的であります。「仏法護国論」とは、仏法によって国を守り、「教を以って、教を討て」という国を守るために、仏教を用いてキリスト教を排除せよという考えです。B、内容の解釈についてさて、著者が問題としている部分、私が、詩編第53章1節「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている」と言う言葉から、聖書に「神はいないと書いてある。」といって神否定の根拠にしているようなものです。 と書いた部分についてですが、『閑愁録』には 「故に日用条理政法刑罰を以って。決して禁制するへからさる也」と書いてあります。そこだけを読めば、政法や刑罰では決して禁じてはならないと言うことにも見えますが、しかし、その最初の「ゆえに」と言う言葉は何をさしているのでしょうか。 その前の文章で、守部氏が「比較的正しくキリスト教の教理の中心を説明」と言っている部分を見てみると、「耶蘇自ら磔殺せられ、(イエス自ら十字架にかかり)万民の罪障を償ひ天帝に謝せし説を主張するか故に、(万民の罪をつぐない、神に謝罪することを主張するゆえに)一たひこの教えを奉するものは。(一度、キリスト教を信じたものは)極刑にしょせらるるを以って。(死刑にされることを)己れか栄えとす(誇らしく思う)。甚しき者は好んで十字架に懸て死す者あり。(顕著なものは、自ら進んで、十字架刑にかかって死ぬものもいる)しかしその教えたるや。詭謠揺巧。(しかし、その教えは詭弁悠揚巧み) 到らさる処なくその説談する(終始うまく説明する)所因果応報天道地獄の説と似てことなる者にめ。(それは因果応報、天道地獄の教えと似ているようでまったく違う)只人欲の向かう所によりて几庸を狐惑す(ただ、人の望むことを言って、無学なものを誘惑している)。」 この部分が「比較的正しくキリスト教の教理の中心を説明」というのに疑問を感じますが、続きとして、「だから、常識や刑罰では、決して禁じられない」と言っています。その理由は、「そんなもので罰しても無駄だから」ということです。そして、続きを見ると「元亀天正の際。(1570-1593年の際)その宗旨を奉ずる者を捕らえて厳科に処する事。(切支丹を捕らえ、厳しく処罰した)亡慮三十万人。(約三十万人)。而ぬ今に到るまでその本根を芟鋤するかなわず。(しかし、今に到るまで根絶やしに出来なかった。)」その後にも、「遇民を扇動せん。」であるとか、「その毒稲延べて大阪京都に及ばん」と排邪的な言葉が続きます。 やはり、内容的にも『閑愁録』は反キリスト教である排耶と、仏教の再興を目的としています。前に紹介させていただいた現代文の朗読で説明は不要と思われましたが、あえて説明させていただきました。C、当時の人々の理解『維新政治宗教史研究』徳重浅吉著において「或いは三月には寮司猶龍が閑愁録を持ちまわっているなど、破邪の精神は相当に了解されていたらしい」 408ページ との記載があります。幕末、明治に活動した破邪僧が、寺院に『閑愁録』を持ちまわって、反キリスト教思想「破邪」の精神を伝えていたというのです。寮司猶龍という破邪僧は、本願寺大谷派、高倉学寮(現在大谷大学)のキリスト教対策機関である「護法場」の一員で、宗門から派遣され、長崎に行き、浦上四番崩れにかかわった、降魔窟という一派の一人です。猶龍という人物は「仏法護国論」を持って各寺院を示唆して回ったと言うことです。そして、この破邪僧たちは、長崎では、東西宗派同盟を組んで、切支丹を厳重に取り締まるための建白をし、また流刑の際、取り締まり協力したため長崎県庁より、褒章を受けています。『閑愁録』とは、沢山ある護法書の中で、平易に、また短く、簡潔した文書であるため、用いられたのでしょう。前の文章で破邪僧がかわいそうに思うと書いたのは、彼らがその人生を賭して、護法(佛教を守る事に)励んでいたからです。当時の読んだ人たも、やはり、「護法書」または反キリスト教を目的とした「排耶書」として読んでいたのです。以上、『閑愁録』について詳しく説明させていただきましたが、そのような説明がなくても、文章を読むだけで、簡単に理解出来るので蛇足かもしれません。ですから、『閑愁録』で「キリスト教徒が激しく迫害されていたことに同情があった」であるとか、「迫害は食い止めたいという思い」があったなどという文章をまじめに論じあう必要はありませんので、著者には回答を求めません。不思議に思われるのは、簡単に理解できる内容であるにもかかわらず、編集の段階で研究者たちの常識から逸脱している内容が、正しく評価されず、出版されているかです。そのことにおいては、出版社である、いのちのことば社への信頼にもかかわってくると思われますが、それについての印象もお答えいただければ幸いです。もちろん、内容理解において、私の理解が間違っている部分、また新たな証拠などがあるならば、お教えください。すき放題述べさしていただいたこと、失礼な表現があったこと謝罪させていただきます。 在主 佐野 学というように先に送った⑤内容についての質問に対する回答。「偽りを流布して小学生からお金を巻き上げている」という言葉に対抗すべく根拠をお示しください。以前高橋兄に送付済みですが、必要ならば再度送付いたします。 ⑥出版の意義について。 真実を探求する姿勢が御社及びクリスチャン新聞にあるのかどうか。もちろんこの手の本に、学術論文ほどの正確さを要求されてはいないと思われますが、教会の講壇からまことしやかに語られている現状は見逃されません。 とともにお答えください。 私はあくまで、私人として確認しているだけです。先にも言いましたが、御社のOB、社員様に知り合いも多く、ただ真実を追求しているだけであります。ですから明らかになるまで追求し続けます。ですから、御社に対して悪意のある第三者と思われないようにお願いいたします。 在主 佐野学 この他にも、他の本からの盗用が一か所、また、守部氏の他の著作で1か所が見つかっています。全てを精査しているわけではありませんので、他にもまだまだあるかもしれませんが、それらを証拠として突きつけても、守部氏の本を売り続けている事に驚愕します。