日本最初のプロテスタント教会「横浜公会」

明治政府のスパイが多数潜入していた事がわかっています。潜入者達の提出した報告書は、早稲田大学のデジタルアーカイブによって公開されています。

今回は、最初に洗礼を受けた9人のうち一人、安藤劉太郎の歩みに焦点をあてました。アマゾンの電子書籍として販売しております。 

 

 

 

 

最初の受洗者 安藤劉太郎

         ~日本の幼児教育の始まり~

 

決意の受洗

 

明治五年二月二日(旧暦)午後三時、横浜居留地の石造りの会堂では歴史的な出来事が行われようとしていた。

かつて、迫害のゆえに大虐殺が行われた国。それから二百五十年の月日が経っていたとしても、この国には限られた場所で、しかも限られた国しか受け入れず西洋から、キリスト教からは断絶された最果ての地であった。しかし、ペリー来航以降、僅かづつではあったがその門戸が開かれ、交易が始められたことを知り、日本の求霊のため、福音宣教のため来日した宣教師たち。来日以降十数年の月日を要したがその日が訪れるのである。

ヘボン(James Curtis Hepburnであるが、一般に広く知られているヘボンと表記する)をはじめとする宣教師たちは、外国人というだけで敵視している侍にいつも神経をとがらせていなければならなかった。刀を携え、どこからともなく斬りかかってくるかもしれない。外国人と言うだけではなく、耶蘇の教師であるならばなおさらの事である。幕末、明治初期にはいつでも隙を伺う影が付きまとっていたのだ。

来日当初幕府の禁教政策のため、日本人達は、話を聞きに来ることもなく、キリスト教関連の本や雑誌は受け取らなかった。元々聖書を日本人に教える事は禁止されていたのである。未開の地である故、教育、医療に対する人々の関心は高く、それらの社会的な事業を通して人々にキリスト教を伝える機会を得た。多くの制限のある中においての宣教活動であったが、いよいよその実が結ぶ時が来たのである。日本人の中にキリストのゆえに命の危険をも辞さない熱心な者たちが現れ、定期的に独自に祈祷会を持ち、彼らは日本の救霊のために祈り始めた。

午前の礼拝が終わり、参加者は一時昼食に帰った後、会堂には約二十名の宣教師、英学塾生たちが集まっていた。日本で初めて、教会で行われる洗礼式のためである。無論それ以前に宣教師より洗礼を授けられた日本人は数人いたが、教会として行われる洗礼式は本邦初であり、そして、同時に長老の選出をする。

つまり、日本人による、日本初のプロテスタント教会、「横浜公会」を設立するのである。

ジェームス・ハミルトン・バラ宣教師によって名前が呼ばれ、「関」は他の八人と共に講壇の前に並んだ。

まず、既に洗礼を受け信者として会堂に集っている小川、仁村二人の日本人から信仰についての質問があった。このあたりの内容については、豊田道次の項で豊田の報告書を記載したので確認できる。

篠崎桂之助から始まり、そしていよいよ自分の番がくる。

「関」は、前に立っている自分の配下にある仁村と目を合わせていただろうか。目くばせをして何らかの合図をしたのかは判らない。

小川、仁村はそれぞれ、「関」に簡単な信仰についての質問をし、

「関」はそれに答え

「はい信じます。」

と他の受洗者と同様に答えたに違いない。禁教下での洗礼式、キリスト者としての信仰を表明することは、まさに命がけ[1]の決断であった。

キリスト教の信仰を持つことで投獄され、拷問を受け、棄教を迫られていたのである。実際、迫害を受けたその長崎のキリシタンは日本各地に流刑され、投獄されたままなのである。

皆、生活や生命に関する「特別な決意」をもってその洗礼式に臨んでいた。あるものは藩より呼び出され、ある者は受洗を理由に養子先から絶縁されるのである。

しかし、あの、ユダを除いた十一人の使徒たちのように、初穂である十一人の日本人が迫害の国でキリスト教を広めていくのだと参列した宣教師たちは胸を熱くしたであろう。

だが、実際はそこに参加したもの、また参列した中の数人[2]はその「決意」とは違った複雑な思いをもってその瞬間に臨んだのだった。

諮問をする者、そして、諮問されるもの両方が自分を偽り、キリスト教の拡大を防ぐ目的で、日本で初めて教会を設立する洗礼式に臨んでいたのである。

 

日本人による諮問が終わると、前もって教えられていた通り、九人の受洗者は声を合わせ、

「今日先生の尋ねるところ、また示すところ、我等身体を殺し固く相守るべし」

と謹んで答えた。

それから、一人一人名前を呼ばれ洗礼が行われた。

「関」の番となり、バラ宣教師は

「安藤劉太郎、我、父と子と聖霊の名により汝に洗礼を授けり」

と言うと、水盤から手に水を取り、頭にその水を注いだ。

関の額、首にその水はしたたり流れた。

その光景にその場に紛れ込んでいた他の諜者達は、「関」の破邪僧であり、上級諜者としての決意と覚悟が強く伝わったに違いない。

「諜者は千里の外より彼か情実を報告するの伝信機械なれば、諜者なくしては廟堂の君子何をもって防邪の方向を立てたまわん」[3] 

(明治五年三月横浜在留安藤劉太郎差し出し)

と関は語っている。

「防邪」関は、キリスト教の拡大を防ぐため、為政者たちの「伝信機械」として働くため、自分を殺し、憎むべき邪教の入信の証しとして洗礼を受けたのである。全てはこの国を守るため、そして、邪教が日本に蔓延(はびこ)らぬためである。最初の受洗者となり、そして、教会の設立者として加わる。他の諜者の手本となるため、率先して身を邪教に沈めたのである。また、その決意の背景には、今まで、破邪僧として何の実績も挙げられなかったことがある。

 

 

反キリスト教活動の始まり

 

関はその三年前、明治二年に大谷派の先鋒として意気揚々と乗り込んだ。しかし、長崎では思うように活動は出来なかったのだった。耶蘇教の宣教師に近づくにも、既に西派に先駆けてキリシタン探索を進めていた西派(本願寺派)の潜入者に正体をばらされ、宣教師たちから追い払われてしまったのだ。

また、そればかりか、外国人に近づく者として開国派と誤解され、攘夷派からは命を狙われた。大政奉還がなされ、新政府によっていよいよ攘夷が決行されると思われていたのである。そのため、関達は身の危険を感じ地方への疎開を余儀なくされた。

それから、長崎をあきらめ、活躍の場を求め、同じ開港場である大阪に移ったのはいいが、人々の頑迷さにより、耶蘇教の蔓延る兆しは見えなかった。

そうしているうちに、明治政府は重い腰を上げ、長崎のキリシタンは日本各藩に流刑される。浦上四番崩れが起こった。

それにより、石丸をはじめとする西派(浄土真宗本願寺派)の破邪僧達は

「右一昨巳年(明治二年)異宗徒引き移し之頃、探索方骨折候に付き、心付けのため金二千五百疋被下候事辛未(かのひつじ明治4年)正月」

として、長崎裁判所より褒賞を受けるのである。

長崎に留まった竜山慈影が大谷派で唯一褒賞を受けたことも関にとっては口惜しい事であっただろう。

大谷派の破邪僧として派遣されている自分が、何の功績もあげられずに学寮へ帰ることは出来な事であったのかもしれない。

関は、京都、東本願寺の学寮に戻らず、本山からの推挙により、渡辺昇大忠の元、弾正台の一員と加えられたのである。

そして、日本にある外国人居留地として最も大きい横浜で、上級諜者として外国人の英学校に潜入し、ヘボンやバラ、プラインら宣教師に近づき洗礼にまで至ったのだ。

 


[1] 『日本プロテスタント史研究』小澤三郎 113ページ 第六回洗礼式にて井深梶之助は小川義紘より「首を斬らるる様な事がないかとも限らぬが、それでも洗礼を受けたいかどうか」と質問され、「言下に固よりその覚悟はありますと答えへ」た。

[2] 報告書の存在から豊田道次、正木護は偽名を使い洗礼式に立ち会っていることがわかる。その他にも異宗取締諜者名簿から数人立ち会っていた可能性がある。

[3] 大隈文書『諜者報告書』明治五年三月横浜在留安藤劉太郎差し出し