明治5年頃、禁教下、日本ハリストス正教会に入り込んでいたスパイの記録。

大隈文書にある、この諜者による報告書をニコライは増上寺の老僧より見せられたと考えられる。

 

増上寺はこの後、教部省による大教院政策、(全国の神社仏閣を統合しようとする試み。)で大教院とされた。

 

「第一回洗礼後、ニコライ師は、例の如く、芝増上寺なる老僧の庵室を訪問したるより、老僧は常の如くニコライ師を方丈より通し、茶菓子などを出したる後、之を覧られよとて、一葉の書類を差し出したり、ニコライ師は何心なく、之を手よりして、一覧するに一料らんや、その書類は、ニコライ師が今回駿河台より於いて、洗礼機密を執行したる室内の図よりして、室内の洗礼盤の位置、領洗礼者の整列したる位置、その人員詳密より図取りたるものなりき、掌院ニコライ師は之を一覧し、愕然として、心実に領洗者の前途を憂慮して黙然たりき-中略-この図は実より、儀式の状を探偵して、之を政府に密告したるものなぢりかば、當寺は宗教上の国事より関係を有し、予はその係役なる以て、この書類を政府より回付せられたるものなり。」『日本正教会伝道誌』しかし、この報告書には疑問が残る。なぜなら、受洗者の一人、伊佐敷肇も『日本正教会伝道誌』ではスパイの一人とされている。そのグループとは別に安藤恵三も潜入していた事が大隈文書によって知ることが出来る。この報告書を入手し、ニコライに示した増上寺の僧侶の意図は何だったのか、巡査伊佐敷肇のグループと、石丸八郎等異宗捜索諜者との関係謎は深まる。