まず、誘拐された女はただただ不運だったとしか言いようがない。
この愚者の男に好意を抱かれてしまったことが、運の尽き。
彼女に何の非もなく、ただただ哀れなだけ。
で、誘拐犯の男だが典型的な「無敵の人」である。人望もなく、貧しく、学もなく、友人も家族もいないのだろう。
ただ理想の女を部屋に閉じ込めてモノにする、という妄想を悶々と抱えていただけの男だ。
しかし、この野郎に大金が舞い込んでしまい、男は己の妄想を実現しようと動き出す。
こいつは、典型的なオタク、というか、社会不適合というか。
自分の好きなものを人に押し付け、自分の気に入らないものは拒絶。そこに寛容性がない。
口先だけは「暴力は振るわない」とか言っているが、4週間も監禁される身にもなってみろ、と思うが彼には思えないのだ。
客観性がないからである。人がどう感じるか分からないのだ。
彼の原理は簡単で、「優しくしたら、優しくしてもらえる」というものだ。
それを人に押し付けるのでどこまで一方通行のコミュニケーションとなる。
そもそも、意中の女を誘拐・監禁して自分を愛させるってことが「実現可能」と信じている点で、こいつは一体どんな人生を歩んできたのか不思議でしかたない。
ただ、監督ウィリアム・ワイラーは演出がうますぎるので、ついつい誘拐犯側を応援してしまう瞬間がある。
あの、隣人が訪ねてきて風呂場から水があふれているシーンである。
あのシーンは「あ、バレる!」とドキドキしてしまう。
さらに、男は女の芸術観とかセンスを貶す。「『ライ麦畑で捕まえて』はクソだ」とか「ピカソもクソだ」という。
じゃ、お前の好きな女はセンス悪いけど、それでもいいのか?と思う。それで恋は冷めないのだろうか。
よく誘拐犯のことを好きになってしまう「ストックホルム症候群」ということが映画内で出てくるが、この映画においてはまったく存在しない。誘拐された女は、まったく行為を抱いてないし、常に逃げ出そうとしている。
それに犯人はまったく警察に捕まる様子はなく、また新たなターゲットに狙いをつけて映画は終わる。
これ悪いことしたやつがまったく裁かれないけど、これ当時のヘイズコードは大丈夫だったのかな。
イギリス製作だから関係ないのか?