トナカイの独り言

トナカイの独り言

独り言です。トナカイの…。

 2023年12月にもシンギュラリティについて書きました。

 そこに以下の文章があります。

 「わたしが生まれた1955年1月、わたしの家には冷蔵庫も洗濯機も、テレビもラジオも電話もなかった。周りに有線電話のある家があったかもしれないが、よく覚えていない。

 それが1964年、東京オリンピックがおこなわれた年になると、自宅にはカラーテレビがあり、冷蔵庫や洗濯機、蓄音機、ガスコンロなどが揃っていた。移動手段も自転車から自家用車に代わっていた」

 

 シンギュラリティという言葉を自分なりに理解すると、以下であることも書いています。

 「シンギュラリティ」は「特異点」を示す言葉で、『AIが進化して人間の能力を上回ることで、さまざまな大変化が起きる転換点』を指す」

 

 この「シンギュラリティ(技術的特異点)」という言葉を最初に使ったのはレイ・カーツワイルという科学者・哲学者だそうで、彼は次のように説明しています。

 「特異点(シンギュラリティ)とは何か?

 テクノロジーが急速に変化し、それにより甚大な影響がもたらされ、人間の生活が後戻りできないほどに変容してしまうような、来るべき未来のこと。

 (中略)人間の生みだしたテクノロジーの変化の速度は加速していて、その威力は、指数関数的な速度で加速している」(『いま世界の哲学者が考えていること』112P)

 

 シンギュラリティに絡んで、自分がよく考えることに以下があります。

 産業革命以来、世界では機械化が進み、ロボットが人間の仕事を代行していくようになりました。そこで、ロボットが仕事をやってくれるのだから人間は働かずとも豊かになると思えるのですが、現実はまったく逆で、ロボットに仕事を奪われ・・・人件費の安い国に仕事を奪われるのと同じ事が起こり・・・どんどん貧しくなる人々が生まれています。
 それが、シンギュラリティで莫大な加速を遂げるように考えていました。それはそれで恐ろしいことですが。

 ところが特異点の問題は、それどころの騒ぎでないことを、知ってしまったのです。

 二週間ほど前、わたしのスクールで顧問的な立場をお願いしている方と、たいへん刺激的な話をさせていただきました。

 彼は白馬村にインターネットを持ち込んだ方で、今も IT や AI の第一線で活躍されています。ウインドウズ95が発売されて以来、コンピューターのことは彼を頼りにしてすごしてきました。パソコン初期からランを構築したり、メールマガジンをスタートできたのも、ひとえに彼のおかげなのです。

 そんな彼が「わたしの仕事はあと4、5年しかない(と思う)」と発言したのです。

 

 彼曰く「シンギュラリティにはさまざまな観点があるけれど、機械が人間を介さずに自己増殖したり自己革新したりする可能性が強い」というのです。

 これは「機械(AI)」が意識を持つ可能性を示しています。

 

 アイザック・アシモフの著書『アイ・ロボット』には、ロボット三原則というものが書かれ、意識を持ったロボットを人間が管理できるという筋書きになっています。しかし、自己革新を進める AI がどこで意識を持つのか人間には分からず、またその転換点に人間は到底関与できないということになります。

 

 

 脳は体を操るために進化してきました。

 そして複雑な動作を可能にするため、シナプス結合が繰り返され、その過程のどこかで動物は意識を持ったのです。そんな意識がより磨かれていき、自意識と呼ばれるものを生みました。

 

 AI 革新の過程で、そんな意識がどこで生まれるのでしょう。そして、もし生まれたとしたなら、AI が人類を「地球の敵」と認識する可能性はどのくらいあるのでしょうか。

 あのスティーヴン・ホーキング博士は、2014年に次のような予言を残しています。

 「いつの日か、自立する AI が登場し、とてつもない速さで自己改造をはじめるかもしれない。生物学的進化の遅さに制限される人間がこれに対抗できるはずもなく、いずれ追い越されるだろう」

 人間を追い越した AI が、どのように考えるのか、わたしたちには知ることができません。

 AI が感情を持つようになるのかどうかも、わたしたちにはわかりません。

 しかし、AI は人間の脳と同じ進化を経ています。だから、どこかで意識を持ち、感情を持つことあり得ないとは言えません。

 

 わたしたちにわかることは、もう遠くない未来に、シンギュラリティがやってくること。そしてこの世が大きく・・・・想像を絶するほどに大きく・・・・変わるということです。

 

 わたしは「ベーシックインカム」という考え方を肯定しています。
 その理由は、人間の仕事をどんどん機械が代行するのだから、人間はもっとのんびり生きた方が良いと考えているからです。

 環境問題を重要視したなら、いちばん大事なのは重工業を抑えることになります。莫大なエネルギーを必要とする重工業を抑え、人間はできる限り移動せず、競争を避けること。もっとも避けるべきは戦争で、戦争ほど重工業を盛んにするものはありません。破壊と創造を繰り返す戦争ほど、不必要なものはありません。

 

 そんな観点から、シンギュラリティを考えてみると、今より少しはましな未来が見えてこないでしょうか?

 わたしたちはそんな変化にどう準備したら良いのでしょう。
 

*写真はI,Robot から。

 モーツァルトに取り憑かれたのは高校一年の時だった。

 最初はカール・ベームの交響曲からはじまり、ヴィルヘルム・バックハウスのピアノソナタ、そこからピアノ協奏曲へと進んでいった。

 ちょうどこの頃、三澤洋史君と知り合い、彼にこうしたレコードを貸したり、彼から違うレコードを借りたりしながら、モーツァルトについてずいぶん会話した記憶がある。


 バックハウスにはモノラル盤とステレオ盤のピアノソナタがあったが、わたしの買ったステレオ盤には立派な楽譜が付いていた。この頃のLPレコードのプレゼンテーションはとても美しかった。内容も充実していた。CDに変わって入れ物が小さくなり、美しさと情報量を失ったことを、とても残念に感じてしまう。
 そんなバックハウスのレコードに付いてきた楽譜だが、これを使って三澤君が初めてモーツァルトのソナタを練習してくれた。そして、わたしに聴かせてくれたことは、素晴らしい思い出のひとつである。

 

 

 ピアノソナタから時が流れ、フリードリッヒ・グルダとクラウディオ・アバドのピアノ協奏曲を聴いて、強烈にモーツァルトのピアノ協奏曲に惹かれた。最初はやはり20番に惹かれ、続いて21番、23番へと続いていった。


 大学生になると、イングリッド・ヘブラーのピアノソナタ全曲盤を手に入れたり、バックハウスの27番に取り憑かれたり、ワルター・クリーンのいくつかの演奏にのめり込んだりもした。

 良く覚えていることのひとつに、ウラディミール・アシュケナージのCDがある。もうスキーをはじめた頃だと思うが、アシュケナージのモーツァルトが出るというので、楽しみに待って聴いたのだが、とても強い違和感を感じてしまった。好き嫌いの激しい青年期だったから、しばらくアシュケナージのモーツァルトには手を出さなかった。

 

 今2024年5月、この文章を書いている部屋には、アシュケナージの21番が流れている。そして近頃頻繁に聴いているのが、このCDなのだ。
 あの頃、強い違和感を感じたアシュケナージのモーツァルトに、今うっとりと聴き惚れている自分がいる。
 たぶんアシュケナージの演奏はとてもロマンチックなのだろう。モーツァルトの一部が、すでにロマン派に分け入っていることを強く感じさせてくれるものと言えるかもしれない。
 アシュケナージの演奏に浸る時、自身の心の変化にも気付かされることになる。

 

 

 近頃、感動的な協奏曲を聴かせてくれたピアニストに、ピョートル・アンデルシェフスキがいる。彼もまた非常にロマン的な演奏をおこなう若手ピアニストである。わたしが若い頃だったら、きっと違和感を感じたに違いない演奏だろう。しかし、今のわたしには深いところで訴えかけてきてくれる。
 また中年をすぎて知ったリリー・クラウスからも大きな感動を得たことを書いておきたい。

 

 

 モーツァルトが創ったのはほんとうに不思議な音楽だ。
 嬉々として戯れているようで、戯れている子供の目に涙が流れている。
 モーツァルトの弦楽五重奏(K.516)に小林秀雄さんが「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」と書いたが、まさにこうした深遠な何かがそこにある。
 モーツァルトに惹かれはじめた時、バックハウスのロンドイ短調(K.511)にこうした何かを、すでに感じていたように思う。
 

 作曲した本人も意図していないのに、モーツァルト晩年の作品には表の顔だけでなく、裏側に異なったなにか恐ろしさのような表現を含んでいる曲が多い。そんな楽しくて、悲しくて、嬉しくて、辛くて、孤独なモーツァルトの音楽に、わたしは惹かれ続けている。

 

 二週間ほど前「クロイツェル・ソナタ」について書いた。「クロイツェル・ソナタ」は、ほんとうに素晴らしい曲で、数々の芸術家に影響を与えてきた曲でもある。レフ・トルストイの同名の小説はベートーヴェンの曲に触発されて書かれたとされているし、ヤナーチェクはトルストイとベートーヴェンの両者に刺激され、弦楽四重奏を残したと云われている。
 圧倒的な何かを持つのが、第九番となる「クロイツェル」である。

 しかし、わたしが一番好きなヴァイオリン・ソナタは「クロイツェル」ではなく、第五番となる「スプリング」で一八O一年に発表されたものだ。

 

 この年、ベートーヴェンはジュリエッタ・グッチャルディと恋に落ちた。第十四番となる月光ソナタ(ピアノ)が、この翌年に発表されている。
 ベートーヴェンはジュリエッタに求婚して振られたとされているが、最新の研究ではその逆に近い状態で、ジュリエッタは終生ベートーヴェンを想い、頼っていたというのが真実のようだ。

 

 「スプリング」という愛称で親しまれている第五番は、文字どおり幸福感に満ちた音楽に聴こえてくる。おそらく第一楽章の第一主題が、まさに春の訪れを感じさせるような明るい曲想に満ちているからだろう。
 しかし、この曲をじっくり聴いてみれば、幸福感だけでないことは明白だろう。

 二楽章は瞑想に近いほど、深く祈りに満ちている。

 

 わたしが初めて聴いたレコードはダヴィッド・オイストラフとオボーリンのものだが、今聴いてもバランスの取れた素晴らしい演奏である。
 二楽章の深さという点で言うと、メニューインとケンプの録音も忘れてはならない。まさにケンプワールドとも言える祈りに、メニューインが絶妙な応対を繰り返し、まるで音楽が静寂に沈んでいくような感動を与えてくれる。
 

 

 一楽章の初々しさという点なら、やはりパールマンは欠かせない。パールマンを聴くたびに、「ヴァイオリンとは何と美しい音を出すのだろう」という思いに圧倒される。
 第一楽章だけでなく、全体としてパールマン&アシュケナージ、ディメイ&ピリス、そしてシェリング&ヘブラーなど、曲本来の魅力に満ち、素晴らしい演奏だと感じている。

 「スプリング」というタイトルには相応しくない出だしだが、ツィンマーマンとヘルムヒェンも感動的な演奏である。彼らの「スプリング」はこの曲がいかにパワフルな曲であるかに気付かせてくれる。まるで「クロイツェル」を凌駕するかのような圧倒的エネルギーに溢れている。

 もうひとつ新しい演奏から選ぶと、以下のロレンツォ・ガットとジュリアン・リベールのCDも聴き逃せない。あくまでも伸びやかに、まさに「スプリング」らしい美しい演奏である。
 ぜひ、聴いてみてください。

 

 三月二十三日、マウリツィオ・ポリーニが逝った。
 八十二歳だった。

 

 自分の人生にとって、ピアノ音楽はなくてはならないものである。つまり、ポリーニはずっと強く意識せざるを得ない演奏家であり続けたのだ。

 

 あえて書いておくが、わたしはポリーニの音楽に心酔していたわけではない。ヴィルヘルム・ケンプやバックハウス、リリー・クラウスというピアニストの方がずっと心の近いところにいる。近頃よく聴いているピアニストならリーリャ・ジルベルシュテインやポール・ルイス、メロディ・チャオがいて、彼らもポリーニよりずっと身近にいる。
 

 しかし、なにより衝撃を受けたピアニストとして、ポリーニを挙げない訳にはいかない。
 

 初めて彼の「ショパン練習曲集」を聴いた時の衝撃を、今でもはっきりと覚えている。

 それまで漠然と考えていた『ピアニズム』という語の意味を、明確に理解させられた体験だった。聴き始めてすぐ、全身に鳥肌が立ち、音の洪水に感性を刺激され、それに圧倒された。

 レコードの帯に「これ以上、何をお望みですか?」と書かれていたはずである。
 

 

 ベートーヴェンを好むわたしだから、ポリーニのソナタ集を心待ちにした。特に21番『ワルトシュタイン』や23番『熱情』を聴きたくてたまらなかった。

 しかし、これらを聴いた時の失望を、今でも思い出すことができる。

 ポリーニが新譜を出すたびに、なんとかしてすぐ聴くように努めてきた。そして、失望と感動を交互に感じつつ、「彼も人間なのだ」としばしば思った。彼には「ミスター・パーフェクト」という仇名が付けられていたのだが、決してそうではないことを、裏付けられ続けた。

 

 自分の非常に重要なところを形作るのに寄与している音楽にかんして言えば、彼の残した録音は到って少ないと言わざるを得ない。ど真ん中だと、ベートーヴェンの協奏曲第4番とモーツァルトの協奏曲第23番だけかもしれない。ブラームスの協奏曲第2番も好きだが、もっと好きな演奏がいくつかある。ベートーヴェンの4番とモーツァルトの23番なら、自信を持ってベストに挙げられる。

 

 

 彼のベートーヴェン(ソナタ)は「凄い」とは思うが、なぜかわたしの心には沁みてこない。これほど響いてこない演奏も、たいへん珍しいほどに。しかし、ほとんどのショパンには強く引き込まれる。そして、いつも『ピアニズム』という言葉を思い出す。

 

 ポリーニは実演で一度も聴いたことがない。
 やはりそれは、とても悔やまれることだ。
 実演を聴くこともなく、もちろん会ったこともないが、確実に自分の人間形成に大きな影響を与えてくれた演奏家マウリツィオ・ポリーニ。

 安らかに。

 ・・・・・・合掌・・・・・・。

 

 65歳をすぎて、室内楽を聴く時間が長くなってきた。それもベートーヴェンの後期やある時期のモーツァルトなど、俗にいう侘寂のある作品を聴く時間が延びてきた。
 もちろんそれらは素晴らしい音楽なのだけれど、ある特殊な人生経験がないと理解出来ないようにも信じられる。それらの曲とは別に、室内楽という分野にあっても、交響曲や協奏曲を圧倒するようなエネルギーに満ち、万人の心を揺さぶる曲もある。
 たとえばベートーヴェンの『熱情』ソナタなど、その最たるものだろう。弦楽四重奏の4番、7番、そしてヴァイオリンソナタ第9番『クロイツェル』もそのひとつである。

 

 今回の主役はその『クロイツェル』だ。

 個人的な好き嫌いを抜きにしたら・・・・個人的には5番の『スプリング』が好き・・・・この曲こそ、ありとあらゆるヴァイオリンソナタの頂点に君臨すると言っても間違いではないだろう。強い葛藤を秘めて圧倒的な力の奔流の感じられる1楽章、穏やかな落ち着きを取り戻す2楽章、そして陽気とも言える3楽章である。
 

 クロイツェルと呼ばれる理由は、ヴァイオリン奏者のクロイツェルに捧げられたからだが、元々はブリッジタワーに捧げられるはずで、その裏側にはある女性との複雑な関係が絡んでいると言われている。
 

 作曲は1803年。ベートーヴェン、33歳の時の作品だ。

 わたしの好きな第5番『スプリング』の2年後で、ピアノ協奏曲第3番と同じ年、ピアノソナタ第23番『熱情』の2年前にあたる。『永遠の恋人』候補のひとりであるヨゼフィーヌとの恋愛が再燃焼しはじめた頃の作品となる。

 個人的解釈として、ヨゼフィーヌとの熱愛が『熱情』ソナタに溢れているいう内容を書いたことがあるけれども、このクロイツェルソナタにも、そうした熱い想いを聴くことができる。

 ベートーヴェンの創作にかんして言うなら、ヨゼフィーネとの恋愛が中期の数々の名曲を生み、アントーニアとの新しい恋とヨゼフィーヌの死が、後期の傑作を生んでいる。恋多き人生であり、それらが素晴らしい名曲として結晶している。

 

 この曲を初めて聴いたのは、たぶんオイストラフとオポーリンのレコードだったように思う。
 続いてスターンの演奏に接して、心を打たれた記憶がある。このスターンの演奏はもっと名盤として取り上げられて良いと思う。
 

 これまでの人生を通じていちばん愛好したのはズーカーマンの演奏である。
 評判の高いアルゲリッチ(ピアノ)と数人のヴァイオリニストの演奏も素晴らしいとは思うけれど、ズーカーマンほど惹きつけられなかった。
 そんな中で近頃、闘いと葛藤というアプローチではない諏訪内さんの演奏に魅了された。

 

 この演奏に感化され、持っているCDを聴き直したり、新しく入手したりしてみた。
 素晴らしいと感じたのはデュメイとピリスのもの、そして以下に挙げるツィマーマンとヘルムヘンの演奏だ。特に後者は、クロイツェルソナタの圧倒的ゾクゾク感を感じることができた。

 

 人生を葛藤なく生きられたらどんなに良いかと思う時もある。
 しかし、不完全なわたしだから、葛藤の生まれないはずがない。もしそうであるなら、葛藤のなかでベートーヴェンくらいもがいて、苦しんで、ふたたび浮上して道を見つけるのが良いのだろう。そんな道標となる曲のひとつに、『クロイツェル』ソナタがある。