モーツァルトのピアノ協奏曲 | トナカイの独り言

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 モーツァルトに取り憑かれたのは高校一年の時だった。

 最初はカール・ベームの交響曲からはじまり、ヴィルヘルム・バックハウスのピアノソナタ、そこからピアノ協奏曲へと進んでいった。

 ちょうどこの頃、三澤洋史君と知り合い、彼にこうしたレコードを貸したり、彼から違うレコードを借りたりしながら、モーツァルトについてずいぶん会話した記憶がある。


 バックハウスにはモノラル盤とステレオ盤のピアノソナタがあったが、わたしの買ったステレオ盤には立派な楽譜が付いていた。この頃のLPレコードのプレゼンテーションはとても美しかった。内容も充実していた。CDに変わって入れ物が小さくなり、美しさと情報量を失ったことを、とても残念に感じてしまう。
 そんなバックハウスのレコードに付いてきた楽譜だが、これを使って三澤君が初めてモーツァルトのソナタを練習してくれた。そして、わたしに聴かせてくれたことは、素晴らしい思い出のひとつである。

 

 

 ピアノソナタから時が流れ、フリードリッヒ・グルダとクラウディオ・アバドのピアノ協奏曲を聴いて、強烈にモーツァルトのピアノ協奏曲に惹かれた。最初はやはり20番に惹かれ、続いて21番、23番へと続いていった。


 大学生になると、イングリッド・ヘブラーのピアノソナタ全曲盤を手に入れたり、バックハウスの27番に取り憑かれたり、ワルター・クリーンのいくつかの演奏にのめり込んだりもした。

 良く覚えていることのひとつに、ウラディミール・アシュケナージのCDがある。もうスキーをはじめた頃だと思うが、アシュケナージのモーツァルトが出るというので、楽しみに待って聴いたのだが、とても強い違和感を感じてしまった。好き嫌いの激しい青年期だったから、しばらくアシュケナージのモーツァルトには手を出さなかった。

 

 今2024年5月、この文章を書いている部屋には、アシュケナージの21番が流れている。そして近頃頻繁に聴いているのが、このCDなのだ。
 あの頃、強い違和感を感じたアシュケナージのモーツァルトに、今うっとりと聴き惚れている自分がいる。
 たぶんアシュケナージの演奏はとてもロマンチックなのだろう。モーツァルトの一部が、すでにロマン派に分け入っていることを強く感じさせてくれるものと言えるかもしれない。
 アシュケナージの演奏に浸る時、自身の心の変化にも気付かされることになる。

 

 

 近頃、感動的な協奏曲を聴かせてくれたピアニストに、ピョートル・アンデルシェフスキがいる。彼もまた非常にロマン的な演奏をおこなう若手ピアニストである。わたしが若い頃だったら、きっと違和感を感じたに違いない演奏だろう。しかし、今のわたしには深いところで訴えかけてきてくれる。
 また中年をすぎて知ったリリー・クラウスからも大きな感動を得たことを書いておきたい。

 

 

 モーツァルトが創ったのはほんとうに不思議な音楽だ。
 嬉々として戯れているようで、戯れている子供の目に涙が流れている。
 モーツァルトの弦楽五重奏(K.516)に小林秀雄さんが「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」と書いたが、まさにこうした深遠な何かがそこにある。
 モーツァルトに惹かれはじめた時、バックハウスのロンドイ短調(K.511)にこうした何かを、すでに感じていたように思う。
 

 作曲した本人も意図していないのに、モーツァルト晩年の作品には表の顔だけでなく、裏側に異なったなにか恐ろしさのような表現を含んでいる曲が多い。そんな楽しくて、悲しくて、嬉しくて、辛くて、孤独なモーツァルトの音楽に、わたしは惹かれ続けている。