トナカイの独り言

トナカイの独り言

独り言です。トナカイの…。

 先週の日曜日、親友(三澤洋史君)のコンサートに行ってきた。
 愛知祝祭管弦楽団によるワーグナーの『ローエングリン』である。
 素晴らしい演奏だった。最高の歌手たちと熱いオーケストラ、素晴らしい合唱団による奇蹟的な名演だった。
 高校時代、親友と共に『トリスタンとイゾルデ』に嵌まり・・・・・・正確に言うと、親友はパルジファルに、わたしはトリスタンに取り憑かれ・・・・・・ワーグナーの世界を知ったけれど、ふつうならわたしにとってのワーグナーは『トリスタンとイゾルデ』と『パルジファル』くらいだったに違いない。しかし、親友と愛知祝祭管弦楽団が次々とワーグナーを取り上げ、ついには『ニーベルングの指輪』全曲までやり切り、その過程でどんどん深みに引き込まれていった。
 

 ワーグナーは底無しとも言える世界を、みごとに創造した。
 そしてワーグナーの世界には、人間の負の感情が見事に描かれている。
 人間の持つ嫉妬、欲望、疑惑、迷いなどという負の感情が、これでもかというほどに描かれている。

 なかなかふつうの日本人には理解出来ないかも知れない。
 しかしワーグナーを理解すると、今のヨーロッパを席巻するウクライナ戦争などがわかりやすくなる。今回の『ローエングリン』も、ルートヴィッヒ二世とヒトラーが偏愛した作品である。

 

 ウクライナ戦争が始まって、もう一年半をすぎた。
 まさか二十一世紀になって、第一次と第二次世界大戦を経験した人類が、これほど大っぴらに戦争をおこない、一年半も終息できないという事実・・・・・・。これを思うたび、ほんとうに悲しくなる。
 

 ウクライナはより強力な兵器を提供され、ロシアは核の使用をちらつかせ、人間はほんとうに学ばない生物だと悲しくなる。

 

 

 

 世界は環境や核廃棄物処理、二酸化炭素といった大切な問題に直面している。
 しかし、大切にしなければならない問題を観て観ぬふりをし、戦争という莫大なエネルギーの浪費をおこなっている。

 その理由の一つは、「現代の世界が、経済を中心に回っている」からではないかと、わたしには信じられる。
 現実に、お金の流通が、世界を動かし、個人を動かしているのだから。
 そんなやり方が・・・・・・世界構造が・・・・・・行き詰まっていないだろうか?


 もっとも巨大な経済活動が「戦争」であることは間違いない。
 莫大な富とエネルギーを費やして作った都市を、高額な兵器を使っていとも簡単に破壊する。
 よく死の商人と言われるように、対立するものたちを戦わせ、その両者に兵器を売りつけるというマッチポンプビジネスも盛んである。

 

 資本主義はその文字どおり、資本が一番。つまりお金を持っている者が強い。
 だから、誰もがより儲けようとする。そうしなければ、資本主義社会で生き残れない。
 そのため、もっと大切な未来や、環境がないがしろにされる。
 

 世界の過半数の人々は今日生きるために、森を破壊し、鉱物を掘り、金を稼がねばならない。
 

 もし人類が揃ってやり方を変えられるなら、地球に生きるすべての人間が幸福になるだけの富が、すでにある。しかし富めるものは自らの保身と繁栄に精一杯で、貧しい者たちは生きるために精一杯。どちらも路線変更など考えるゆとりはない。

 

 もし、時々取り上げられる『現代貨幣理論』と『ベーシックインカム』を組み合わせた社会を作れるなら、大きく世界を変えられる可能性がある。
 コロナ禍以後、『現代貨幣理論』の有効性はほとんどの先進国で証明済みだと思われるし、『ベーシックインカム』を取り入れるなら、不必要な競争を避けることができる。と、わたしには思えてならない。

 『現代貨幣理論』をわたしは次のように理解している。
 各国政府は紙幣発行の権利を持っているので、有効なことであるなら、いくらでも紙幣を印刷し(数字上の金額を増やし)使うべきである。じっさいほとんどの国々がコロナ禍に莫大な紙幣を印刷し、ばらまいているが、経済危機はおこっていない。これは紙幣の信用が保たれているからだと考えられる。そのため、各国は自国の信用を高めることや『真善美』を高めることになら、いくらでもお金を使えるということにならないだろうか。人々の信頼を高め、国の信頼を高められるなら、無制限に紙幣を発行しても大丈夫なのでは・・・・・・と考えられる。

 『ベーシックインカム』が採用され、生きるだけなら誰にも可能な社会が生まれるなら、ほとんどの人々は自分のやりたいことをやるだろう。生き甲斐のある生活を選択するだろう。そうなれば、比較による優劣の世界から離れやすくなり、個人にとっての価値観が優先されるようになる。だから、自己実現という言葉が身近になり、「競争原理を超えて」という世界の実現に近づきやすくなる。そして、ほとんどの人々が政府や行政に恩を感じやすくなり、よりよい行政が実現しやすくなるように想像できる。

 つまり個人や地域、国の信用を高める仕事になら、いくらでもお金を費やすこと。そして『ベーシックインカム』による最低限の生活保障を整えたなら、世界を大きく変える踏み台になるのではないだろうか。 
 

 どちらにしてもわたしたちはアメリカ一強の時代から、混迷の時代に走り込んでしまった。
 混迷の先に希望を見つけるため、先進国の人たちは未来を考えて、できることからスタートしないと、間に合わない可能性すらある。
 

 戦争をしている場合ではないと、わたしには信じられてならない。
 ほとんどのみなさまがそう感じているに違いないのだが・・・・・・。
 自分たちの無力さに、深い悲しみを覚えてしまう。。。

 

 中学三年でベートーヴェンにのめり込んで以来、五十年以上も彼の曲を聴き続けてきた。
 交響曲に限って言えば、のめり込んだ当初はやはり五番、七番、九番を聴くことが多く、それに四番が続いただろうか。一番聴かなかったのが一番、二番、そして八番である。
 ところが七十歳も近くなった今、いちばん聴いているのは一番、二番、そして八番なのだ。
 

 中学、高校時代に、これら三曲はほとんど聴いていない。なんとなく魅力に乏しいようにすら感じていた。そんな中で初めて一番と二番の魅力に気付かさせてくれたのはイッセルシュテットの交響曲全集だった。大学時代イッセルシュタット盤を聴いて「ああ、なんと良い曲なんだ」と強く感じた記憶がある。それから二十年近くが経過して、四十歳の頃、ワルターのCDで決定的にこの曲の真価を知ることになった。
 今でもワルターとイッセルシュタットの一番、二番は絶品だと思う。
 

 しかし中年の頃は、まだまだ交響曲なら他を聴きたい気持ちが強かった。
 六十歳も半ばになって、不思議と一番、二番に惹かれるようになった。
 ピアノ三重奏やピアノソナタも同じで、近頃は初期の曲により惹きつけられる。
 ベートーヴェン初期の曲たちは、ほんとうに健全なエネルギーと、弾けるような覇気に満ちている。

 まだまだ人生の荒波と悲劇に打ち倒されていない元気の良さと新鮮さ、その奥に秘められた強靱な意志と革新性を感じられる。そうした観点からもイッセルシュタットとワルターの演奏は素晴らしい。
 

 ずいぶん長い間、これら二種類を超える演奏に出逢えなかったが、今回これらに並ぶほど素晴らしい演奏を聴くことができた。

  まずトーマス・ファイとハイデルベルグ響のCD。そして下の写真のジョルディ・サバールとル・コンセール・ド・ナシオンの録音である。
 どちらも素晴らしい演奏と録音である。

 トーマス・ファイは自宅で転倒し、その怪我以来指揮をしていないそうだが、ほんとうに残念なことだと思う。ぜひ全曲を録音して欲しかった。

 

 

 ベートーヴェン初期の音楽に込められたエネルギーを感じる時、わたしは現実に若返ったように感じられる。決して人生後半のステージにいるのではなく、まだまだ夢や希望を持ってステージに立っているように信じられる。


 わたしが尊敬している人の中で、今のわたしより長生きしたのはヘルマン・ヘッセのみとなってしまった。ベートーヴェンもマーラーも、すでに他界してしまった年齢になったけれど、もう少し頑張って、少しでも彼らがやってきたことに近づけたら嬉しいと思う。
 

 余談だが、今この瞬間、福岡でおこなわれている世界マスターズ(水泳)で、たくさんの友人たちが命を熱く燃やしている。マスターズ水泳の世界には、ほんとうに驚くような英雄たちがたくさんいる。
 わたしもベートーヴェンの一番、二番を聴いて、少しでも彼らに近づきたいと思う。
 

 もう十年くらい前になるが、『矛盾』というテレビ番組に出演したことがある。
 この時の『矛盾』は、十一歳 VS 五十五歳という設定だった。
 体力の上り坂にある十一歳の平均値と、下り坂にある五十五歳の平均値が同じだということで、水泳バタフライ種目で十一歳の日本チャンピオンと対決することになったのだ。

 わたしは五十五歳代のチャンピオンで、確か五十六歳か五十七歳の時だったと思う。

 

 

 写真はレース直前、十一歳のチャンピオンと握手しているところ。
 レースにおけるわたしのタイムは三十秒前半で、高校三年の時とほぼ同じだった。

 

 水泳や陸上のように、明確にタイムで結果の出るスポーツは、潔いと同時に残酷である。
 十一歳から登り始めたタイムは、いつしか落ち始めるのだから。
 

 水泳に限って言えば、これまでのところわたしのピークは五十七歳だったように思う。この年、日本記録まであと百分の二秒というところまで迫ることができた。五十メートルのバタフライもふつうに二十九秒台で泳ぐことができた。五十メートル自由形で記録されたピークは五十四歳だが、五十七歳の時ならこれを上回れたとも信じられる。

 

 そんな五十七歳から、難病に患り、手術した経緯もあるが、記録はゆっくりと落ちて行った。やがてコロナ禍となり、三年というもの水泳大会から離れてしまった。コロナ禍であっても、スキーシーズン以外は泳いできたけれど、技術練習に留まることが多く、肉体的限界に迫るような練習はしていなかった。

 

 その理由の一つとして、コロナ禍はスキーに集中できた・・・・・ということがある。
 指導だけでなく、スキー技術の再確認にも集中できた。だから、スキーがとてもおもしろかったのだ。

 今年の春、スキーシーズンが終わり、ふたたび泳ぎはじめた時、ふとこんなことを思った。

 「とことん泳げるのは、いったいあとどれくらいだろう?」

 

 スキーに比べると、水泳は圧倒的にフィジカルへの負担が大きい。筋力や瞬発力だけでなく、心肺機能にも大きな負担がかかる。要するに本格的な練習をしたら、とても辛いスポーツなのである。トレーニング中の心拍数など、スキーとは比較にならない。二百を超えることもたびたびである。

 そんな苦しい水泳の練習に心身を注ぎ込めるのは、あとどれくらいなのだろうか・・・・・・。そう思った。

 そして、数ヶ月ではあるけれど、「思い切り泳いでみたい!」と感じた。

 ジャパンマスターズに出場するためには、エントリータイムを設定する必要がある。そのため、六月末に中高生の大会にエントリーした。
 自分では中学三年に出したくらいのタイムで泳げるだろうと思っていたが、なんと中学二年の時のタイムに終わってしまった。予想より一秒以上も遅かったのだ。最後の数メートルはまさに鉛の体となり、腕も足も動かなかった。
 やはり苦しい練習が、まったく足りていなかった。
 ・・・・ということでこの大会以降、五十メートルのインターバルを中心に練習を再開。
 七月二十七日の今日、泳いだ日数も四十四日となった。

 今週末、長野県選手権に参加する。
 今度は中高生だけでなく、大学生や一般も含む無差別級の大会である。出場者中、最高年齢でもある。
 高齢になってからの練習が、どこまで通用するのか、正直わたしにはわからない。素晴らしいスイマーでもあった故・平先生が言っていたように、自分の体で人体実験するより他がないのである。

 今回の練習にあたって、これまでの水泳トレーニングと変えたところがある。これまでは水泳のストローク数に合わせて、単純で辛いウェイトトレーニングを中心にやっていたけれど、今回は瞬発力や爆発力を増すようなトレーニングを中心に置いたのだ。だから、ウェイトにもおもしろさが出てきた。やはり楽しめないトレーニングは続かないし、効果も少ないと感じるから。

 

 正直に書くと、土曜日に予定されている五十メートル・バタフライは、まだ泳ぎ切る自信がない。しかし、日曜日の五十メートル・自由形では、なんとか中学三年の時のタイムを出したいと願っている。欲を言うなら高校一年くらいのタイムまで上げたいと思う。ちなみに高二の時のタイムがでれば、それは年令別の日本新記録となる。
 どこまでできるのか、まったくわからないけれど、やってみれば結果が出て、自分の立ち位置がわかる。
 できる限りのことをやって、思い切り泳いでみたい。
 

 わたしの周りには神がかった人が何人もいる。
 なかでも水泳の世界チャンピオンで世界記録保持者の松本弘さん(八十六歳)は飛び抜けている。彼の人生における最高記録は、バタフライなら七十二歳の時なのだ。自由形に到っては七十五歳でピークをむかえている。
 もしこうした松本さんのような方を知らなかったら「年だから」と、とうに諦めてしまったかもしれない。しかし、松本さんや沖浦さん(パワーリフティング世界チャンピオン)という素晴らしい人たちと直接触れ合い、一緒に練習もさせていただけると、その凄さがどこからもたらされているのかを、少しだけ知ることができる。
 彼らが、単にスーパーマンだからではないことがよく分かる。
 強い意志と継続される努力が、彼らの結果をもたらしている事実を、知ることができる。

 彼らの年まで、まだまだわたしには残されている。どこまで近づけるかはわからないけれど、精一杯やってみたいと思う。


 

 写真はメインで練習している S'ウエルネス小谷 のプール。

 エフ-スタイルのキャンプ(ターゲットを絞ったスキーレッスン)では、たいていビデオ撮影をする。その時、参加されているみなさまに、よくこんなことを話す。

「オリンピックの決勝だと思って滑ってください!」

 時には、こんなふうに伝えることもある。

「このために、もうみなさんは十年以上もすべてを犠牲にして練習してきたのです。そんな気持ちで滑ってくださいね」

 こんな言葉に乗せられ、つい力余って失敗してしまう人もいる。

 シーズンに何回かわたしも「あっ、うまく滑れなかった(良い見本となるほどに滑れなかった)」と思うことがある。

 

 じつは、わたしはもの凄いあがり症なのだ。

 だいたい上に書いたようなことをみなさまに話している間、心臓はドキドキで、時に足が震えていることもある。心臓の音が、お客様に聞こえてしまうのではないかと心配になる時すらある。
 

 昨年に続いて、今シーズンも八千穂高原スキー場のモーグルフェスティバルにジャッジの一人として呼んでいただいた。そこに参加すると、大会の前走を務めることになり、ジャッジには現役バリバリのオリンピック選手から、つい最近の全日本チャンピオンに到る面々が並ぶ。たぶん次の方と、わたしだけ三十歳以上の年齢差がある。

 

 特に今年の一日目の朝、前日に融けた雪が凍りついてカチカチのアイスバーンとなった。公式練習でも、ほとんどの選手がコース外に飛び出してしまうほどで、朝一の前走はとても難しかった。
 加えて、わたしはひとつ大失敗を犯していた。それは前日、あまりにも雪が柔らかかったので、わざと古いエッジのないスキーを持ってきてしまったということだ。
 「なんでこんなことを引き受けてしまったのだろう」
 スタートに立ちながら、自分の心臓のドキン、ドキンという音を聴いていた。

 

 

 映像は決勝前のものだが、雪が柔らかくなってすら、震えるほど緊張していた。
 

 デモランを滑り終わると、参加されるみなさんの前で少し話をする。その時、不思議なことだが、心の底からこう思った。

「確かに緊張したなあ。でも、七十歳近くになって、これだけドキドキできることがあるなんて、なんという幸だろう」

 

 少しくらい失敗しても、自分が現役選手と一緒に滑ってゴールを切れるのは、なんという幸だろう・・・・・・そう実感した。
 

 ふり返ってみると、まだモーグル競技で宙返りが禁止されている時代にフリップを飛び、まだ誰も捻っていない時代にフルツイストを飛んだ経験が、わたしにはある。そんな人のできないことをやって、それが嬉しかった時代もある。エアリアルならわたしが日本で初めて飛んだ技は、片手で数え切れない。

 しかし今は、そんな気持ちと遥かに異なったところにいる。
 純粋にモーグルやスキーを、楽しめることが嬉しくてたまらないのだ。
 そして滑ること自体が、楽しくてならない。
 

 不思議な出逢いからスキーにのめり込み、一生懸命滑ってきた。
 人生の迷路で迷っていたわたしが全力で取り組めるものはスキーしかなかった。
 わたしの母は九十二歳になるが、つい最近まで「スキーでは食べていけない」から「早く止めなさい」と言っていた。
 数日前の母の日、それを聞かなかったのに驚いたほどだ。

 

 スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学でおこなった有名なスピーチに「コネクティング・ザ・ドッツ(点と点をつなぐ)」という内容がある。大好きなスピーチで、この中に「点と点がつながるのは、ふり返って初めてわかる」という内容のところがある。つまり意図的に繋げようとしても、うまく行かないけれど、やりたいことに全力を注いで生きるなら、いつしか点と点がつながっていく、という意味のところである。


 心臓が飛び出しそうなデモンストレーションからゴールして、わたしは過去のひとつの点と、もうひとつの点が不思議とつながったように感じた。スキーを滑り続ける意味を感じられたと言えるかもしれない。
 それが心底、嬉しかった。

 

 十代で初めて方丈記に出逢った時、最初の文章から強烈なパンチを受けた。

 

 ゆく河の流れは絶えずして、しかし、もとの水にあらず。
 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しく止まりたる例しなし。

 世の中にある、人と住みかと、またかくのごとし。

 

 これを読んだ時、平家物語と同じだと思った。

 

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。

 

 こうした無常観は、日本人の心深くに流れている。

 

 わたしが初めて極度の無常観に襲われたのは、バレエスキー(アクロスキー)がなくなると聞いた時だ。

 フリースタイルスキーに惹きつけられた理由のひとつに、自己表現を可能にするバレエスキーの存在があった。バレエを滑っている時わたしは、自分を表現できる場を得たように感じたのだから・・・。

 四十五歳で現役に復帰する決意をしたのも、最後のバレエ競技会に出場したかったからである。この翌年・・・つまり最後の全日本選手権で・・・わたしは二位となった。

 

 つい最近、そんなバレエスキー以来の無常感に襲われる出来事があった。
 『静の桜』が倒れたのだ。

 


 

 源義経を追って美麻の大塩まで来た靜御前が、ここで力尽き、亡くなったという伝説がある。そんな静御前の杖が根付き、この大木になったというのだ。
 それが事実なら、樹齢千年近いことになる。


 初めてこの樹に出逢った時・・・・それはもう二十五年以上前のことだが・・・・なぜか涙が止まらなかった。心の深いところを揺さぶられ、波のような感動が繰り返し押し寄せてきた。

 そんな経験を与えてくれたのは、この桜以外にない。

 だから、しばしばここを訪れるし、両親を連れてきたり、親友を連れて来たりもした。
 下の写真は故・平光雄先生と一緒に来た時のものである。


 

 あんなに元気な平先生が亡くなるなど、まったく想像できなかった。
 同じように千年も生きた静の桜が亡くなる時に出逢うなど、予想すらできなかった。
 しかも、その樹がわたしにとって、特別な意味を持っていたのだから。

 

 

 最後に逢った時・・・二年ほど前だろうか・・・静の桜は、確かに痛々しいほどに弱っていた。

 千年という年を、この樹は生き切ったのだろう。
 もう休みたかったのだろう。

 元気だった時の写真と共に。

 「さようなら、静の桜」

 安らかに・・・・・・。