トナカイの独り言

トナカイの独り言

独り言です。トナカイの…。

 四十日以上ブログを更新できませんでした。
 アメーバブログを書き始めて、最長の空白期間になったかもしれません。
 

 前回のブログは七月七日に書きました。

 翌七月八日、安倍晋三さんが暗殺されました。大きな衝撃が世界中を駆け巡り、もちろんその衝撃はわたしにも及びました。

 

 数名ですが、議員と呼ばれる友人が、わたしにはいます。 

 安倍さんに近いところで活躍してきた下村博文君とは高校の同級生ですし、中学の同級生に何人かの議員と呼ばれる方々がいます。

 そんな自分ですが、直接お会いしたことのある人物の中で、もっとも強い印象を受けた政治家はやはり安倍晋三さんでした。彼が世界的影響力を持っていることも、深く納得できました。

 

 七月八日のニュースを聞いて、まず思ったのはケネディ大統領の暗殺事件です。

 当時の北米とソビエトの政治状態と、現在の日本とアジアの政治状況にも思いが及びました。
 

 『不安の時代』に書きましたが、わたしたちは「明日も今日と同じような社会環境が続く」という感覚に落ち着くことは許されないという思いも新たになりました。

 

 暗殺事件から四十日以上が経ち、現在の世間を包む大きな波が、ふたたびケネディ大統領暗殺と被って感じられます。田中角栄さんのロッキード事件とも。

 

 大きなものが動く背景にはほとんどの場合、強力な人々の思惑や意志があるでしょう。今回の暗殺事件の裏側にも、巨大なものごとが動く際の深い闇があるように信じられてなりません。そう考えないとつじつまが合わないほど、さまざまな変化が世間に進んでいます。

 

 新型コロナウイルスとロシア・ウクライナ戦争の問題、そして安倍さんの暗殺問題の間に大きな関係があるようにも感じられてなりません。それに加えて気候変動の問題も、避けて通れないものではないでしょうか。

 

 どちらにしてもわたしたちは大切な岐路に立っているように感じます。
 そして民主主義は資本主義によって窒息し掛かっているようにも感じます。
 わたしたちの選択が、大きく問われる時代に、わたしたちは生きているのでは・・・・・・。

 

 わたしたちは、ある大きな概念のもとに生きている。それは「明日も今日と同じような社会環境が続く」という感覚である。今日は昨日とほぼ同じ社会環境で生きることができ、それが明日も続くという概念の中で生きている。

 第二次世界大戦後の日本は幸運にも、こうした「毎日がほぼ同じ」という社会概念のなかで生きて来ることができた。

 もし、今日と明日の社会環境が異なったら、きっとわたしたちは大きく混乱するだろう。

 

 周りが変われば、自分が変わらなくても、毎日が違ったものになる。そこでは「良い大学に行き、一流企業に就職する」などという価値観は一瞬で消える。すでに消えかかっているのかもしれないが、そんな肩書きより、ずっと根本的な「生きる力」が問われるはずだ。

 近頃、国や県、市町村に属するいわゆる公職が、若者に人気だと聞いた。安定しているというのが理由だそうだ。しかし、国さえ消える可能性がある。

 

 今のわたしたちは、こうした歴史的転換点に立っている。

 大局から観たなら、アメリカを中心とする西欧の支配体制が揺さぶられている。

 

 日本の有力なマスコミの見解を聞くと、ロシアは悪で、世界から見捨てられつつあるような発言が多い。

 ほんとうにそうだろうか?

 アメリカとヨーロッパによる西欧側の国(日本を含む)と、親ロシア側に立つ中国、そしてインドという超大国。

 ロシア、中国、インドの周辺国を入れた場合、人口にかんしてなら、こちらの方が圧倒的に多い。かつ生産力も優れているように思えてならない。

 

 わたし個人は民主主義者だし、自由主義者だ。

 だから、中国や北朝鮮のような国が世界をリードすることには抵抗がある。ロシアのプーチンのような独裁的リーダーが国を導くことにも反対だ。
 しかし、世界的方向性に影響を与えるようなことで自分のできることは、せいぜいこうした文章を書くくらいしかない。つまりまったくの無力である。

 

 コロナ禍といい、ウクライナ戦争といい、電力不足やエネルギー不足、地球温暖化といい、すべて人間がどうあるべきかという究極の問いにつながっている。
 理性的に考えるなら、解決する方法もある。

 世界中の人々が、明るく幸せに生きる方法もある。


 単純に考えたなら、江戸時代のような生活スタイル・・・・・・ヨーロッパなら1800年くらいに戻れば、すべてが一気に解決される。
 しかし、すべての国が、そうした方向にまったく動けない現実が立ちはだかっている。

 

 コロナ禍やウクライナ戦争が終わった時、昨日と今日はまったく違っているかも知れない。

 今日と明日が、異なっているかもしれない。

 そんな時、頼れるのは裸一貫の自分だけ・・・・・・。

 そんな不安の時代が、わたしたちを包み込んでいる。

 

 『スキー ZOOM ZOOM』では、そんな見えない未来について語っている。

 

 

 ご興味のある方は、こちらも。
 著者の田中先生は、いち早く平先生の教育者としての価値に気付いた方だ。

 

 

 2020年に予定されたオリンピックは結局、世界的な新型コロナウイルスの猛威により、1年遅れの2021年に開催されました。

 近代オリンピックのなかで、これほど開催に賛否両論が起こり、数々の難題を抱えたオリンピックもなかったのではないでしょうか。

 

 第1次世界大戦で失われたベルリン大会や、ソ連のアフガニスタン侵攻で多くの国がボイコットしたモスクワ大会にも問題はあったでしょう。しかし、これほど多くの困難に直面しながら開催したという点で、2020東京オリンピックは、まさに歴史的大会だったと言えるのではないでしょうか。

 

 まず、不測の事態ナンバーワンはやはり、1月WHOによって確認され、月の後半に緊急事態宣言が出された新型コロナウイルスでしょう。そのため、たくさんのスポーツの国際大会が中止に追い込まれていますから。

 

 日本では2月にはダイヤモンド・プリンセス号の事件が起こり、3月にはプロ野球が公式戦の延期を決め、選抜高校野球の中止も発表されています。

 この頃、アメリカのトランプ大統領が「オリンピック延期」に触れ、3月24日に「1年程度の延期」という内容で合意されています。

 

 そんな東京オリンピックの公式映画を、先週と今週の二週にわたって鑑賞させていただきました。先週『東京2020オリンピック SIDE:A』を、一昨日『SIDE:B』を観てきました。

 

 

 SIDE:A は日曜日に行ったにもかかわらずガラガラで、映画館に5人しかいらっしゃいませんでした。そして、SIDE:B は平日だったこともあるのでしょうか、わたしと妻の他は誰もいませんでした。
 連日満員に近い『トップガン』と比べると、なんという違いでしょう。
 どうしても観たかったマイナー映画『ナワリヌイ』・・・・・・プーチンが毒殺を計画したと言われ、間一髪で命を取り留めた男・・・・・・は、深夜にもかかわらずたくさんの方がいらっしゃったので、オリンピックのあまりの人気なさに、驚かされることになりました。

 

 ネットなどによる一般の方の反応をみると、SIDE:A はとても良い映画で、SIDE:B は不出来との意見が多いようです。しかし、わたしは SIDE:B からいろいろなものを感じさせていただきました。観ているだけで、さまざまなことを感じさせられたり、考えさせられたりしたのです。
 たとえば、森さんとバッハさんのこと。彼らの人生について。
 野村萬斎さんの辞任について。

 まるで運命のような橋本聖子さんの組織委員会会長就任。

 映画には出てきませんでしたが、辞任した作曲家のことや、ユダヤ人を揶揄するコントで解任された方のことも思い出しました。

 

 オリンピックという世界的、国家的イベントの背景を、さまざまなシーンから考えざるを得ない映画です。
 映画がおもしろかったかと聞かれれば、「まあまあ」としか答えられませんが、映画を観た意味を問われれば、自信を持って「観て良かった」と答えられます。


 監督の狙いがどこにあるのか、わたしにはわかりません。
 しかし、自分自身もさまざまな形で参加し、触れてきたオリンピックというものを、もう一度考え直す手段になってくれました。

 みなさまもどうかご覧になり、ご意見を聞かせてくださると嬉しいです。

 

 高校に入学したての頃、わたしは高校の三年間を使ってベートーヴェンのピアノソナタについて何か書いてみたいと思っていた・・・・・・このブログだけでなく、何冊かの本にも書いてきたことだけれど・・・・・・。

 結局、高校ではいろいろなことが起こって書くことはできなかった。せいぜい三大ソナタと呼ばれる8番、14番、23番について感想を書いたくらいだ。
 大学に入る時も、同じ野心を持っていた。

 ところが大学では、フリースタイルスキーに出逢うという大事件が起こり、わたしはベートーヴェンよりもスキーにのめり込んだ。

 しかし「ベートーヴェンについて書いてみたい」という気持ちはずっと続いていた。

 昨年ようやく『ポストコロナのベートーヴェン』を書いて、いったん区切りが付いたと思っていた。32曲あるピアノソナタではなく、16曲の弦楽四重奏曲に載せて、わたしの思いを綴らせていただき、ある意味、ようやくゴールに辿り着いたように感じていた。

 

 ところがである。

 気が付くと、今も毎日のように彼のピアノソナタを聴いている自分がいる。

 きっかけは日本の女性ピアニストたちの素晴らしいベートーヴェンに出逢ったことだ。

 児玉麻理さんと小菅優さんの全集を聴き、河村尚子さんの手に入るすべてのベートーヴェンCDを聴き、仲道郁代さんのほとんどの曲(全曲ではない)に耳を傾けて、「やはりピアノソナタについて書いてみたい」と思うようになった。

 ここに挙げたどの演奏も、それだけ素晴らしかったのだ。

 

 今活躍する彼女らに感化され、田中希代子さんの歴史的演奏にも手を伸ばした。そして、彼女の23番(熱情)に涙が止まらなくなった。

 

 「日本からこれだけの演奏家が育っている」事実に大きな感動をいただいた。

 

 そんな新しい視点を得ながら、自分が好きだったピアノソナタ全集を聴き直している。

 そして、聴き直す過程で、元々とても高く評価しているのもかかわらず、一度もそれについて書いたことのない全集があることに気付いてしまった。

 ケンプとバックハウスからスタートしたベートーヴェンのピアノソナタだが、現在、わたしの手元には26種類の全集がある。これまで買って聴いて手放したものも20種類くらいはあるように思う。


 そのなかで、とても好きな二つの全集について、ここに載せてみたい。
 まずリチャード・グードのもの。

 

 

 ベートーヴェンに真正面から向き合い、誠実で、非常に温かい愛情に満ちた演奏である。
 緊張感や音楽理解の深さも素晴らしい。
 

 そして近頃、わたしがいちばん聴き返しているのが、こちらスティーヴン・コヴァセヴィッチの全集だ。

 

 

 こちらも素晴らしい演奏で、グードよりも緊張感が強いと言えるかもしれない。またベートーヴェンの身の凍るような孤独感を見事に浮き上がらせてくれる。

 

 温かい愛情に溢れたグードと、緊張感と孤独感を強く感じさせるコヴァセヴィッチは、どちらも最高の演奏である。
 全集としての完成度は、これら二種類がいちばん高いのではないか・・・・・・。
 ぜひご一聴を。

 

 クラシック音楽が好きだというと、よくこう言われる。

 「良い趣味ですね」

 日本を代表するピアニスト仲道郁代さんは、著書に次のように書いている。

 「クラシックはおしゃれなものであり、暮らしの中のファッションのように、『時折コンサートへ行くっていうのもいいかも』というような雰囲気があった・・・・・・」

 これは1990年代に感じられたクラシック音楽を取り巻く環境についての言葉だが、このようにしばしばクラシック音楽は教養や癒しと結びつけられる。

 

 こうした文句に接するたび、「バカヤロー」と叫びたくなる自分がいる。

 もちろん、これはあくまでも自分の感想で、一般的なクラシック音楽論とはまったく関係ない。

 しかし、クラシック音楽イコール「美しい」とか「癒し」とか、「心地よい」という感性を持たれている方は、ほんとうに表相しか見ていないのだ・・・・・・と憤る自分がいる。

 

 ハードロックグループの「Rage against Machine」や1960年代から70年代の「Rolling Stones」は反体制として有名だけれど、ベートーヴェンは彼らと比較にならないくらい体制や時代に反抗し、じっさいにそれらを変えた。
 ショパンの音楽は美しいけれど、その音楽には数え切れない死体を踏み越えてきた悲哀がある。

 シューベルトの音楽も美しい。しかし同時に、そこには死ぬほどの孤独が潜んでいる。

 ショスタコーヴィッチの音楽に、どれほどの絶望と苦悩を、あなたは聴くことができるだろうか。

 

 クラシック音楽イコール「良い趣味」という人は、まったくわかっていない・・・・・・と思ってしまう。

 クラシックを良い趣味として、癒しとして聴ける人は、わたしとはまったく異なった生きものである。なぜなら、わたしが知るほとんどのクラシック音楽の中には、見事なほど作曲家の苦悩や孤独や、意志が潜んでいるからだ。もちろん歓びや希望も同時に存在しているのだが。多くの名曲は人間という弱く醜い存在を把握しつつ、その先を描いている。

 

 作曲家の想いが、演奏家の実感と共鳴し、そこに聴き手の体験が合致したら、とんでもない世界が現れる。それがわたしのクラシック音楽である。

 

 クラシック音楽を、わたしはむさぼるように聴いてきた。それは魂が、それなしには生きてこられなかったからだ。だから、「良い趣味ですね」という人はまったくわたしを見誤っている。
 

 たとえば、もし恋人とすごすなら、わたしはきっとバート・バカラックを聴くだろう。
 高速道路をドライブするならキャロル・キングかシャーディあたり。

 筋トレなら最近は「Two Steps from Hell」が多い。今でも時々ロッキーを聴くが。
 リラックスしたい時ならマイケル・フランクスあたりだろうか。
 たまにワインでもとなれば、バーバラ・ストライザンドかもしれない。
 

 クラシック音楽を聴くのは、生きるため、生き残るためだ。
 そのために聴かざるを得ないのである。
 

 今の人類社会は、まったく公平でない。

 科学は進歩したかもしれないが、人間性はまったく進歩していない。だから科学が発達した分だけ、より悲惨な現実がもたらされている。
 そんな辛く苦しい地球上の人類の一人として生きるために、クラシック音楽くらい重要なものはない・・・・・・と信じる自分がいる。

 

 クラシック音楽のテレビ番組や雑誌、評論は、どれも「クラシックは良い趣味」で「癒し」に満ち、「美しい」と伝えている。
 それに対して、わたしは「なんとおめでたい人たちなのだろう」としか思えない。
 「あんたたちはベートーヴェンやマーラーをまったくわかっていない」としか思えない。

 

 もちろん、わたしがわかっていないのかもしれない。

 わたしの親友のように、こうした苦悩や孤独をわかって(超えて)なお、大きな幸せと歓びを求める人もいる。

 わたしがクラシック音楽を好きな理由のひとつに、こんなものがある。
「ベートーヴェンの後期に涙する人類が増えたなら、きっと戦争はなくなり、より平和な社会が訪れるのではないか・・・・・・」
 

 わたしのようにクラシックを聴く人は少数派かもしれない。
 しかし、そんな人たちに増えてもらいたい。
 同志として。
 平和で調和に満ちた世界を創るために・・・・・・。