模型づくりとか趣味の日々リターンズ -3ページ目

【マッドマックス:フュリオサ】どうしたジョージ・ミラー!

フュリオサようやく観ました。

なんでこれまで観なかったかというと、前作「怒りのデスロード」が傑作すぎて、その印象を壊されたくなかったからです。

 

その心配は杞憂でした。自分にとっては別物でした。

 

言っちゃあ悪いが、これが巨匠ジョージ・ミラーの作品であることすら疑うような映画で、どうした!と叫びたくなるような内容でした。

 

無論、前作に匹敵、ましてや超えるものなど期待してはいませんでした。

それでもなお、前日譚を作ることの難しさ。

既に出来上がってしまった様々な設定に辻褄を合わせるように物語を紡いでいくことの困難さがひしひしと感じられました。

 

刈上げ頭、義手となった左腕、健康な女性でありながら”子産み女”扱いではなく、大隊長という立場。”緑の地”に生まれ、そこに戻ることが最大の目的であること。

 

これらすべてに辻褄が合うように物語を構築していくことの困難さ。

 

なのでどうしても矛盾とか、そりゃいくらなんでも無理だろうという場面が出て来ます。

 

フュリオサの最大の目的が、緑の地への帰還なのか、ディメンタスへの復習なのか。これも全編通してブレブレ。

 

ディメンタスという人と行動もよくわからん。深く考えずにイモータンジョーの砦に殴り込みかけて、ダメダメで逃げ帰る。そうかと思ったら需要な拠点であるガスタウンを易々と確保する。

 

水と油はなにより重要なはずなのに、面白がってバイク軍団を延々と走らせたり、砂埃立てないように水巻いたりと。そういう細かいところがいちいち引っかかる。

 

それも本編がつまんないからで、本編に勢いがあれば些末は気にならなくなるもんなんです。

 

目がでっかいばっかりで小柄なアニャ・テイラー=ジョイはいつまで観てても大柄なシャリーズ・セロンに見えてこないし。

 

フュリオサとディメンタスの長いセリフのやり取りは、地獄の黙示録のラスト、監督自身がどうやって話を終わらせたらよいかわからず延々と観念的なセリフを続けさせていたことを彷彿とさせ。

 

なんでこの映画を作ったか??怒りのデスロード製作時点で既に構想はあったようですが。

 

うーん…正直、この映画をどう楽しめば良いのかつかみかねるまま映画は終わってしまいました。以上。

 

 

45年前には理解出来なかったレイジング・ブルを観直した

レイジング・ブルでございます。

アマプラで配信終了間近とのことで、慌てて観ました。

 

この映画、マーティンスコセッシとロバート・デニーロの最高傑作とする向きもありますが、公開当時観た時はなんかピンと来なくて、何の印象も残ってなかったんですよね。

 

今回観直して、その理由が分かったので書き残しておきます。

 

まずこの映画、ボクシングの映画じゃない。実在のボクサー”ジェイク・ラモッタ”の伝記映画であり、実力があるにも関わらず大成しなかった、その顛末についての映画です。

 

途中にボクシングのシーンを挟みつつ、その大半は弟でありマネージャーであるジョーイや、奥さんのビッキー、業界を仕切る人たちとの諍いが描かれていきます。

ジェイクは奥さんのビッキーが浮気してやいないかと病的なまでに心配し、「お前あの男とやったのか」と奥さんを罵り、殴り、弟にまで疑いをかけます。

 

このデニーロの芝居が上手い。殴るとか怒鳴るとかじゃなく。弟と一触即発のやり取り、殴りかかる寸前の、怒りを秘め、どことなく異常な目つき顔つき。抑えた演技が上手い。それでいてキレた時は徹底的にキレる。

 

ボクサー役のための増量減量も確かにスゴイ(今なら特殊メイクとCGでチョチョッとやっちゃうんだろうけど)が、それ以上にキャラクターの演じ方が半端じゃないっす。アカデミー主演男優賞も頷ける。

 

こういう映画が昔はアカデミー賞を取ってたんだよ…人を演じ、人を描く重厚な映画…

 

そんなことで、大変充実感のある視聴体験でしたが。

 

一方で

 

 

このビジュアルですよ。

 

ロッキーが1976年で、ロッキー2がこの映画の公開前年の1979年。

それでこのビジュアルで白黒でボクシングでデニーロとなれば、なんかロッキーよりもシブい、男の戦いを描くボクシング映画を想像するじゃないですか。

 

それはマーケティング的に必要だったのかもしれないけど、あまりに想像と違う内容に、当時これを観た自分はポカンとしてたんだろうなー、と容易に想像出来ます。思ってたんと違う。

 

なので映画としては傑作の部類なんだけど、期待していたシブい目のボクシング映画、ストイックな主人公が闘う映画も観たかったなーと思うのであります。

 

なんせ時折挿入されるボクシングのシーンが無駄にww迫真に迫ってて迫力があってスゲーんだもん。ねえ?!

 

余談ですがこの若いころのジェイクを演じるデニーロがビートたけしの若いころにクリソツで、たけしがパクったのかなーと勝手な想像をしております。

 

 

 

 

【映画評】PERFECT DAYS トイレ清掃の映画なのにウンコ出てこないよー これでいいのか?

今年もマイペースでやってまいります。

 

PERFECT DAYS でございます。カンヌで役所広司が主演男優賞取りました。

 

浅草あたりのぼろアパートに住んでいる初老の男性平山。なぜか妙にシャレオツな公衆トイレを日々清掃するのがが仕事。同僚の若者に呆れられるほど、トイレをピカピカに磨いている。

その几帳面さは生活にも表れ、毎日のルーティンを崩さない。近所の寺の境内を掃き清める音で目覚め、布団をたたみ、植物に水をやり、歯を磨き、ひげをハサミで丁寧に整え、玄関わきの棚に揃えた腕時計、鍵、小銭、古いフィルムカメラ、小銭をポケットに入れ、軽バンで出かける。仕事の後は開店直後の銭湯で湯を浴び、駅地下の古びた飲み屋で焼酎の水割りを一杯とおかずを2~3皿。布団に入って文庫本を読み、眠くなったら寝る。

そんなルーチンを崩すような出来事がたまに起きても、最後には元の生活に戻る。今日も仕事に向かう平山の表情は満たされているようでもあり、涙ぐんでいるようでもある。

 

渋谷にシャレオツな公衆トイレを作ろうというプロジェクトがあり(例の、人が入ると透明なガラスが曇って中が見えなくなるというアレも、このプロジェクトの一つ)、この映画も元々はそのプロジェクトのプロモーションビデオを作ろうと、ヴィム・ヴェンダース監督に発注されたものだとか。

不勉強で申し訳ございませんが、この監督の映画を観たことがありません。シャレオツなプロジェクトのプロモーションに相応しい、ハイセンスな映像を撮る方なのでしょう。

 

なので、トイレ清掃という素材を取り上げながら、トイレはすべからくオシャレだし、ボロアパートに住んでいても貧相ではなく、当節流行りのミニマリストのような風情であります。

そして決定的なのは、平山がじつはかなり裕福な家庭の出身であり、自らこの生活を選んだということがはっきりと語らているということ。

 

選べる側の人なんです。低賃金で3Kの仕事を選ばざるを得ない人ではないんです。

 

役所広司は、そういう人物を実に、存在感たっぷりに演じます。小奇麗なんですよ。そこは認めます。

この映画もそういう、なんというか映像センスの良さを楽しむ映画として観れば楽しめます。

 

だけどねー。なんかズルいと思ってしまうのよね。

3Kの仕事を選ばざるを得ない人の存在を「無かったことに」出来るほど、私ら市井の人間は安閑として暮らしてはいないんです。

コロナ禍の閉塞感から解放されたと思ったら円安、ウクライナ戦争やらパレスチナ問題やらで物価は値上げ値上げで、ポテチの袋も軽くなったことwww 今の社会のトレンドはむしろ閉塞感とか、日々の生活への絶えざる不安じゃない?

 

そんな日々でこの映画を観ると、「ちょっと高いところから見下ろしてないか?」と感じてしまう。少々イジケた気分になってしまうの正直なところなんです。

 

そしてトイレ清掃の映画なのに、ウンコも小便も、便器にあふれる便所紙と黄ばんだ水も、なーんにも出てこない。

見るべきものを見ようとしてない。作り手のそんな意識を感じました。