アニメを今見てて、アニメの殺生丸がキザでびっくりしたり(原作の殺生丸はキザとは真逆のキャラです)。桔梗という巫女が出てくるのですが、桔梗もなんか原作とは雰囲気が違ってて、色々微妙な気持ちになります
殺生丸は原作漫画連載&アニメ終了後も、かなりひとり歩きをして人気が拡大していったような印象を受けます。その結果、昨年に父にまでなった姿がテレビアニメで描かれて、エネルギー的象徴となるものは、人の意識に作用して変化したり拡大するものなので、今回真実のオリオン(真実の父性・男性性)の象徴として上がってくれたことは、”ひとり歩きするほどに育ったからこそ”とも言えるので、そりゃそうか、、と思います。
象徴というのはコードです。コードは、カルマ(もつれ)を解消することも、カルマ(もつれ)を作ることもできる。神々は私たちにとってはコードであり、神々自体がややこしいのではなく、そのコードとともにもつれた人の心がややこしいのです。
当時、私が原作を流し読みしかできなかったのは、「犬夜叉」という物語は、この”人のもつれた心”を主題に描いていて、それが辛かったからなのだと今回振り返って思い出しました。
主人公の犬夜叉は半妖(半分人間、半分妖怪)なので、人の心を持っていて、持っているからこその心の傷があり、犬夜叉と仲間となって四魂の玉と奈落(ならく)討伐のために旅をする仲間は皆、かなりつらい過去とそれによる呪縛を抱えていて、キャラひとりひとりの基本設定がまぁまぁ辛かったのでした。
一方殺生丸一行(殺生丸・従者の邪見、殺生丸についていく少女りん)には、この心のもつれがなく、何故なら殺生丸は純血の妖怪だから、弱肉強食の妖怪の世界で培った荒魂以外の魂はただ育っていないだけでした。
=ここが神的です。神話の世界で描かれていることは、今の人間の価値観で観るならば非道です。人情で動いていないので。
象徴とするのであれば、もつれていないモノである必要がある。
原作者の高橋留美子さんにとっても殺生丸一行を描くのは「和み」だったそうです。ただ、当時の私にとっては、この前の2つの記事に書きましたが、荒魂に対しての嫌悪感を持っていたので、13巻までの漫画連載の3年間は荒魂でしかなかった殺生丸に対してスルー気味で読んでいました。
その後、殺生丸がりんと出会って慈悲のこころを育てていっても、「犬夜叉」自体つらくて流し読みをしていたので、「殺生丸=ベジータ」みたいな印象でした(笑)感情を抜いたらドラゴンボールの世界観にちょっと似てる。「犬夜叉」の妖怪たちの闘う理由はドラゴンボール的w
とにもかくにも、、犬夜叉を読んでいて当時は辛さが勝ってあまり入れなかったのだと思い出し、それは、当時は日常の中で無力感とつきあっていたから、そういうのは娯楽でまで要らないと思ったのかもしれません。
スターウォーズや、鬼滅の刃などはその代表。
でも、高橋留美子さんの作品は、切なさや痛みの振動率が何か細やか。女性性的なのだなと、改めて気づきました。
「犬夜叉」以前の作品は基本がコメディだったので、どのキャラも親しみを込めて感じられるということが面白さになっていたのですが、「犬夜叉」は基本がコメディではなくシリアス冒険物語なので、私にとっては辛くなったのだろうと。
これは高橋留美子さんが作品づくりで大切にしていることだそうです。ご本人の言葉から抜粋と要約です。
*ぼんやりでもいいから、(キャラの)生きてきた環境、経済力、プライドの置き処なども考える、これらはその人物のリアクションの根拠になるから
*ある程度の人物像を把握したらそれを貫き、ぶれないようにする、性格を貫いてこそ、その後意外性も描けてくる
*自分がキャラを愛すること、これはすごく大切
*キャラそれぞれの気持ちを考えながら描いている
キャラの「生きてきた環境、経済力、プライドの置き処」という視点の組み合わせがすごいなぁと思います。この3つでだいぶバランスを持って存在が立体的になります。「土台、力、行動原理」に置き換えられるのかな。
そして、物語を最初から決めているというよりは、彼らがどのように動くのかを感じながらそれを描いていくという描き方をされているようです。
どのキャラ(存在)に対しても、尊厳を持って彼らの心中を感じながら、彼らが何故そう動くのか動機を感じながら描いているため、悪役みたいな存在でさえ、白黒線引きされていない繋がりを感じてしまうし、そこに読み手としては共感が発動してしまう。
そして、
「言葉にしないこと」を通して読者には感じさせるということも大切にされています。
高橋留美子さんの描き方と言うのは、とても女性性的です。
そして死生観が繊細だとも。私が勝手に感じているだけですが、高橋留美子さんの生い立ち(生育環境)を読むとそれは自然にそうなるようにも感じるところがあります。
高橋留美子(Wikipedia)
私が高橋留美子さんの作品に出会ったのは小学校3年生頃、めぞん一刻という作品をテレビアニメで見たことでした。
その作品での名シーンのひとつなのですが、タイトルの「背後にあるものを共に持つ」という、ものすごく女性性的な美しさのシーンです。
愛した人を忘れるということができるわじゃない、そして忘れたいと思えない、誰かを好きになって愛した人を忘れていってしまうことにも心が痛んでしまう、その響子さんの思いを複雑にも感じつづけた五代さんが、何年もかけて(その間に五代さん自身も社会人として自立していく)、色々あった後にこの場面を迎えます。
「あなたはもう響子さんの心の一部だから、あなたをひっくるめて、響子さんをもらいます。」
今の自分の気持ちを響子さんの元夫、亡くなった惣一郎さんのお墓の前で(そこに響子さんがいるとは知らず)伝えるという、ものすごくロマンチックとも言えるプロポーズ。
同じ言葉でも、本人に向かって、饒舌な男性が言ってもそれは美しくない。女性性の視点は常に、内包されているものに向く。それはコードの様に隠したものではなく、、その時まで出ないことを選んで内包したもの。
背後にあるものを常に感じ、それを共に持つ。
でもそれは、
背後にあるものまで感じ「持ってしまう。」ではなく、あきらめでもなく、悲しみでもなく、「共に持つ。」と受け容れたものだと気づくこと。
それが、真実の女性性。
一つ前の記事で書いた、「エフェソスの密儀」、月が内側に秘めているもの。
私が、「女性が子宮奥に持っているレムリアのクリスタル」として感じてきたもののことだと思います。
何かエーテル的なもの。
先日これを出したら、アニメの殺生丸と雰囲気全然違う!というコメントをもらいました。アニメは監督が途中で変わったりして、キャラにばらつきが出てそうだし、、原作の殺生丸の方がずっと魅力的、、というか面白い。原作画像抜粋で紹介したいと思います。そしてとてもインディゴソウル的です。
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