早慶大卒の就活や人生

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こちらのニュースを読んでいたら、

大好きな「ゆな先生」のツイッターが上がりました。

 

 

ゆな先生 @JapanTank

 

結局、東大よりも、金持ちボンボンの慶應が勝ったという話なのですが、

先日も書いた、所得格差の話もしかり、

なんていうのか、出自で全てが決まってしまうんですよね。

 

だから、こうやって苦労して、東京に出てきたひとたち、

自分の子供は小学校受験をさせて、

人生のスタートラインから勝ち組にさせたいと、

必死に戦っていくんだと思います。

 

この、新作の小説も、最後の新幹線の話とか、

ものすごく共感できました。

 

私が、早慶ママにされた、

高級外車のマントの時の気分と同じです。

 

【ある地銀マンの青春】

 

 「藤島高校から入学してきました、前田です」 

得意げなドヤ顔で高校名を名乗った東京大学駒場キャンパス。 

地元福井では誰もが知る名門高校は、東大に入る者なら誰でも知っていると信じていました。 

公立中学から県立藤島高校、東京大学と進んだ私の人生の物語です。

 

上京。 

各駅停車しか止まらない井の頭線の西永福駅。

1Kの古びたアパートを借りました。

 東大の入学式を終え、シケタイで知り合ったメンバーで東京で初めての飲み会にいきました。

 私は胸を張って「藤島高校出身です」と自己紹介をしたけど、

「藤島」を知っている人など誰もいませんでした。

 

「誰か有名な出身者はいるの」と聞かれて、

苦し紛れに「アパホテルの女社長」と答えたときのクラスの女子の表情は、

10年経った今でも忘れられません。 振り返って高3の冬。 

自分は地元ではトップクラスの学力だと思っていたし、

東大模試でも名前が載ったことも何度かありました。

 

でも東大二次試験の本番では、数学が0完に終わって文Iに落ちました。 

滑り止めの慶應に行くのはなんかプライドが許さなかったし、

「私立はバカ」と親と学校の先生に叩き込まれていたので、浪人を選びました。

 

地元で宅浪をしていたとき、自分よりずいぶん学力が低かったはずの、

慶應経済に入った地元の老舗企業のボンボン息子が夏休みに地元に帰ってきて

自動車免許をとっていました。 

免許をとって、さっそく親のベンツに若葉マークを貼って近所を走るのをみたとき、

「俺は東大に行って日本を背負うんだ、お前ら私文なんかとは違うんだ」 

と言い聞かせて必死にこらえました。 

 

でもまた落ちるのが怖くて、翌年は文IIを受験しました。 

現役のときの成績開示では文Iまで「あと5点」だったけど、怖くて怖くてたまらなかったのです。

 

一浪した東大は、余裕をもって受かりました。数学も2完は出来ました。

 東大入学後、「お前らより1年先輩になるはずだったのに」という気持ちは心に留めながらも、

「去年は5点足りなくて文I落ちた、文IIなら受かってたんだけど」と周りに吹聴して精神的な安定を保ちました。

 

女子が「そうなんだー」と言ってくれていたけど、

今思うと恥ずかしいことを言ってたなと思います。 

藤島では野球部で活躍したけど、いつも1回戦負けか、よくて2回戦までしか行けませんでした。

進学校だと、仕方ないと思っていました。

 

私のクラスには、数オリに出たり、AppStoreで配信している者までいたし、

隣の女子がラクロス部で関東大会までいったなどと言うから、

高校のテストで学年何位をとったとか、山川の世界史の教科書の表紙の色が白くなるほど勉強したとか、

そういう話題しか出来ない自分の居場所はありませんでした。

 

入学式を迎えても家具はまだなく、

下北沢にあった石丸電気の「一人暮らし家電セット」で買ったマイコン式の炊飯器で炊いたご飯を、

引っ越しのダンボールをテーブルにして週末に食べました。 

米は実家から持ってきたけど、実家で炊いた米と違ってゴムの味がしました。

 

東京・渋谷の4月。 

私は家具を買いに渋谷のニトリに向かっていました。

テーブルでご飯を食べたかったんです。 

慶應の学生が新歓の飲み会なのか、ハチ公前広場には大量に男女が集まっていました。

 

笑顔の男女が「KEIO UNIVERSITY」と大きく書かれたクラッチバックを持って歩いているのを見て、

「私文がでしゃばってんじゃねえよ」と心の中で思っていました。 

「こいつらは将来東大の俺にこき使われる兵隊でしかないんだ」と自分に言い聞かせ、それを本当に信じていました。

 

渋谷にいくと慶應生や青学生が楽しそうにしているので、

彼らがいない下北沢が心の拠り所でした。

ごちゃごちゃしてて、居心地が良かったです。

 2年生の時、藤島高校出身の南部陽一郎さんがノーベル物理学賞を受賞しました。 

藤島から東京帝国大学卒です。私と同じですね。

 

開成も筑駒も、もちろん慶應もノーベル賞はいませんでしたので、誇りでした。 

日本人のノーベル賞受賞者って25人いるんです。 

私立高校卒の受賞者って、2人しかいないんですよ。

灘と同志社卒が一人ずつだけです。 

残りの23人はみんな公立高校出身なんです。

 

私立大学卒の受賞者なんて0人なんです。 

東京の高校卒の受賞者だって、1人しかいないんですよ。 

東大経済学部卒の受賞者もまだいませんけど。

南部さんがすでにアメリカに移住してて、国籍もアメリカ人だと知ったのは何日か後でした。

 

3年生で本郷に通い始めると、

「KEIO UNIVERSITY」とか「AOYAMA GAKUIN」と書かれたクラッチバックを持った

ちゃらついた男が可愛い女子を引き連れて歩いている風景に遭遇をすることはなくなったし、

ちょっと散歩して不忍池を超えれば上野のアメ横にいけるようになりました。

 

アメ横にはちゃらついた若い男女はいなかったし、大したおしゃれもしなくても行けます。 

自分にとっては居心地がよかったです。 

アメ横のロンドンスポーツで、8割引のアシックスのTシャツを680円で買いました。 

この店は、どこかの売れ残り品を10kgいくらとかで買ってきてるのでしょう。

 

それを着て、鬱憤がたまると年に何度か本郷の御殿下記念館へ行って運動しました。 

ちょっと電車に乗れば秋葉原のAKB48劇場にも行けたけど、

公式サイリウムが高かったので、劇場の下にあるドンキで

ノーブランド品を買ってお気に入りのアイドルを応援しました。

 
周りとの一体感があって、自分の居場所をみつけたと感じました。 
私は地元の公立中学から公立の藤島に進んで、
国立の東大にいけばその先は明るいとただ根拠もなく信じていました。 
だから自分には受験英語以外の語学の知識もなかったし、
コンピューターとかファイナンスの知識もありませんでした。
 
ダブルスクールなんかも行っていません。 
なんで東京出身の人は大学に入ったのに塾にいくのかわかりませんでした。
伊藤塾、LECって入学時には知らないのが当然ですよね。 
3年生で就職活動をする時、同級生がみんな受けるというので、
流されるまま外銀のインターンを受けました。
 
外銀のグループディスカッションでは、
慶應の帰国女子にその場の主導権を握られ、自分は面接にすら進めませんでした。 
彼女の髪が長くて前髪はかきあげていて、顔立ちがはっきりしていたのだけ覚えています。 
美人だけどガツガツしてるやつが受かるわけ無いだろと思ったけど、落ちたのは私でした。
 
就職活動はうまくいきませんでした。 
リーマンショックがきて、好景気時代に就活した先輩たちからのアドバイスは何も意味をなしませんでした。
というか、大したサークル活動もしてなかったので、本当に親しい先輩なんて実はいませんでした。 
フェデラー選手の活躍を見るたび、テニサーに憧れました。
 
外銀も落ちたし、外資コンサルも落ちました。 
私はどんな職業につけばどんな待遇を得られるのかわからなかったので、
2chで就職偏差値ランキングをよく見ていました。 
とりあえず上から受けていったけど、書類で落ちることは少なかったけど、
面接にたどり着けても受かりませんでした。
 
三菱商事や三井物産も受けたけど、訪問できるOBのつてもなかったし、受かりませんでした。 
面接官の体の大きさも雰囲気も違いました。 
地元の近い地銀の内定を得られたとき、久々にSNSを開くと、
1年先に社会人になる高校の同級生の慶應ボンのタイムラインが流れてきました。
 
「今月から丸の内で商社マンになりました!彼女も来年から丸の内勤務内定!楽しみ!」 
俺より勉強が出来なかったのに、慶應ボンは大手財閥商社に入るそうです。 
2人共丸の内か、彼女はどんな人なんだろう、と思いました。
 頭の悪い私立女子大卒の一般職であってくれ、と期待していました。
 
東京大学を卒業してから数年後、
北陸の地銀支店でおじぎはんこをきれいに押して稟議書を回し、
地元の同族会社のぼんくら社長の対応をして疲れた一週間が終わる金曜日。 
1人暮らしの散らかった家で金麦を飲みながらなんとなくFacebookを開くと、
商社マンになった慶應ボンの彼の投稿が目に入りました。
 
「来月から米国駐在します!ご報告ですが、サークルの後輩であり、
かねてよりお付き合いしてきたXXさんと結婚することになりました!」 
 
あの外銀のグループディスカッションで私を蹴散らした
慶應の帰国子女女子が写っていました。
相変わらず前髪はかきあげています。随分美人にみえます。
 
「XXさん」の名前を調べると、丸の内にある外銀で働いていることがわかりました。 
外銀って凄いですね、20代で年収2000万3000万の世界だそうです。 
同じビルには2chのブラック企業偏差値ランキング常連の電機メーカーも入ってたけど、
その電機メーカーよりも私の地銀のほうが平均年収が低かったです。
 
あれから5−6年たったでしょうか。私も30代になりました。
 私の地銀にある数少ない駐在のポジションは、英語が出来ない私文の後輩に取られて、私はいけませんでした。 
出張で東京に行くときは、アパホテルを使っています。 
受付においてある社長カレーをみると、安心しますよね。
 
あの狭い部屋でも効率良く作られた構造、枕元にあるUSB充電端子。素敵ですよね。 
会社の上司には、「やっぱり藤島の同窓のアパホテル、応援したいんです」と言っています。 
でも本当はQuoカードプランを使って出張のたびに小遣いを稼ぐことに、ささやかな幸せを感じてるんです。
 
銀行は年功序列賃金で、頑張っても給料が増えませんから。 
出張で渋谷に行く用事があったので、井の頭線にのって下北沢へ10年ぶりに行ってみました。 
私の知っている下北沢はもうなくて、駅前にあった戦後の闇市の名残の駅前食品市場も、なくなっていました。
 
上京したときに1人暮らし家電セットを買った下北沢駅そばの石丸電気もなく、
跡地はガラス張りの無印良品になっていました。 
なんか、私あの小洒落た感じが苦手なんですよね。 
本郷からアメ横に散歩に行くのが好きだったのは、
下北沢の闇市が東京デビューの始まりだったからかもしれません。
 
出張の帰りの北陸新幹線、東京駅。 Quoカードでちくわとビールを買いました。 
新幹線のホームで久しぶりに慶應ボンと帰国子女夫婦に出くわしたんです。 
なんとなく話しかけたくなくて気づいてないふりをしてたけど、彼から話しかけられました。 
「前田じゃん、藤島の前田だろ?俺だよボンだよ」
 
「俺、親父の会社継いでさ、いまから金沢寄ってから帰るんだわ」 
「前田なにしてんの?」 よれよれのスーツと靴に、ちくわとビール。
 「いま銀行で働いてるよー」 服装から勤務先を見定めてくる奥さんが見てくる視線がつらかったです。
 
 「ボン、帰国してたんだねFacebookに書いてよー」
 
「え、Facebook? ああ、インスタしか使ってないからさ。
子供も2人できたよ。1人はアメリカ国籍も取れてさ。あ、出ちゃうから乗るわ。またな」 
 
グランクラスに入っていった彼を見送り、私は普通車へ入りました。 
横の席にはスルメとビールを手にした太ったおじさんが座っています。額が脂っこいです。
 
アパホテルのQuoカードで買うちくわとビールは、
いつも大宮駅のあたりをピークにとても美味しいのに、その日はなぜか味がしませんでした。 
軽井沢駅で降りていく幸せそうな家族連れを横目に眠りについて、起きたら金沢駅でした。 
隣のおじさんももう新幹線を降りていました。
 
ハンコが必要な業務のために駅前の地銀本社に寄って、
1人で残った作業をしたついでに、会社のデータベースを見ました。 
慶應ボンの会社、高校の時よりも、遥かに成長していました。
 帰り道、Quoカードの残りを全部使って、ローソンでからあげクンと肉まんを買いました。
 
帰り道に歩きながら食べたら、新幹線のちくわよりも味がしました。
肌寒い夜に食べるQuoカードの肉まんは、体に染み渡りますよね。 
明日は早朝から社内接待で支店長とゴルフに行ってきます。 
もう長袖を持っていかないとですね。 
今年も金沢の冬は、きっともうすぐそこです。 (Fin)