サウジアラビア建国の数年後、東部地区ダーランで石油が発掘される。
1933年、アメリカの国際石油資本が利権を獲得し、地元の案内人の力も借りてダンマン油田発掘に成功(1938年)、アラビアン・アメリカン・オイル・カンパニー(通称アラムコ)がスタートした。
紆余曲折の後、現在サウジアラビアの国営会社となったサウジアラムコ(1988年設立)の前身である。
石油発掘とそれに続く石油戦略により、サウジアラビアは瞬く間に世界トップクラスの豊かな国になっていった。
▼1980年時点の、サウジアラビアの国民一人当たりGDPは、G7各国を上回っていた。
(IMFデータから当方作成)
石油による利益は国民に分配された。
医療や教育は無償で施された。
学生の海外留学には、付き添い家族の交通費・生活費まで政府から援助された。
(上のグラフで分かるように、往時の勢いを無くしたサウジアラビアは、近年この方針を一部変更し、海外に出ていた留学生が帰国せざるを得なくなる事態も発生した。)
大学を卒業した者には土地が与えられた。
国が安定した住居を用意しても、遊牧暮らしの方が良いと1年の大半を砂漠のテントで暮らす者もいるとニュースになったこともある。
▼砂漠の遊牧民
私が住んでいた東部地区はアラムコのお膝元で、ゴールデンベルトと呼ばれる通りには、ため息が出るようなサウジ人の大豪邸が並んでいた。
モールにはブランド品が並び、街の金(ゴールド)ショップのショーウィンドウには、眩いばかりの装飾品が飾られていた。
では、そんなサウジアラビアで私たち外国人は?というと、コンパウンドと呼ばれる外部と隔離された居住区に暮らしていた。
コンパウンドは有刺鉄線を張り巡らせた高い塀で囲まれ、入り口には銃を持った兵士が立ち、人の出入りをチェックする。
車のボンネットを開け、車体の下はミラーでチェックする。
2001年のアメリカ同時多発テロの頃、サウジアラビア国内でも在留外国人を狙ったテロが頻発したことから、多くのコンパウンドは二重のゲートを構えて2段階チェック体制をとっていた。
車がスピードを出せないように、敷地内の道路には数メートルおきに減速帯(スピードバンプ)が設けられていた。
緊急時に逃げ込むための防弾扉の部屋(パニックルーム)が備えられた物件もあった。
こんな風に書くと随分と物々しい感じがするが、ひとたびコンパウンドに入れば、治外法権のごとし。
まず、外国人しかいないので敷地内の移動にはアバヤ(黒コート)を着る必要がない。
さらに、ミニスーパー、レストランやテニスコート、プールなどの設備が整い、コンパウンドによっては季節のイベントや習い事まで用意されるというサービスぶり。
▼ディズニーランドにクリソツ?な、コンパウンド内のパレード
▼日本人グループで神輿を手作りし、コンパウンド内を練り歩いたことも
外の大型スーパーやショッピングモールへの巡回バスも用意されていた。
女性だけでは外を歩き難い環境で、公共交通機関など移動手段もないので、私たちは基本的に外出を控え、コンパウンドの提供する各種サービスを利用して敷地内での生活を楽しんでいた。
(以前ブログに書いたカフェ巡りをするようになったのは、駐在終盤のことだ。)
ゴールデンベルト(豪邸群)の10分の1くらい?いやそれ以下だろうが、それでも日本の我が家とは比べ物にならない大きな家に住んで、テニスレッスンやヨガ教室に通い、暇があれば友人たちとマージャンに興じたり手料理を持ち寄ってお茶や食事を共にする・・・・そんな「the駐在生活」を送っていた。
それなりに楽しかったけれど、正直に言ってしまうと、
狭い我が家で自由気ままに暮らしている今の方が私の性分には合っている。
当時を懐かしく思い出しながら、「塀に囲まれて守られた空間での贅沢」は、サウジ女性の暮らしぶりに通ずるものがあるように感じたりしている。
とはいえ、家の大きさ同様、贅沢の桁ケタが違うと思うけどね・・・・・