讃岐東照宮はどこにあったか | tokyoarukiのブログ

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東京町歩きと読書の備忘録です。
東京の城東を中心に、歴史を学びながら歩いて・・・・・のはずが、香川県にお引越し。

突拍子もない海外ネタなど織り込みながら、高松を散策してまいります。

気まぐれかつ浅学ではありますが、
よろしくお付き合いください。

昨日久しぶりに更新したのに、「いいね!」してくださる懐かしい?アイコンの数々を目にして、じ~~んと心熱くなった私でございます。この場を借りて、深く御礼申し上げます。

実は緑内障かつドライアイで画面を長時間見られないので、皆様のページにはぼちぼちゆっくり訪ねさせていただきますね。

 

 

さて、本日は昨日のネタに絡めて。

 

家康殿200年忌(1815)に屋島南麓に移された讃岐東照宮が、それまでどこにあったかと言うお話です。

 

 

江戸時代末期の高松古地図を見ると、栗林公園の北西・宮脇村に「克軍寺」の文字が見えます。


(▼香川県立図書館デジタルライブラリーより「讃岐高松市街細見新図」1882年 一部:北方を上に反転させています)

 

別の古地図では同じ場所に「本門寿院」の文字。

(▼香川県立図書館デジタルライブラリーより「高松城下町屋敷割図」幕末頃 一部)

 

現在も同地には「本門寿院克軍寺」が建っています。

 

 



「墓地新規募集」しているごく普通に見える(ごめんなさい)お寺ですが、ここが、藩祖・松平頼重公が家康公を東照大権現として祀った寺院です。

 


▼境内、南の山の巨岩を背景にした祠は怖いくらい霊的な感じが。



「讃岐東照宮」創建時には、「播州書寫山から100人に及ぶ僧侶を呼んで祈祷した」と、以前出かけた博物館の展示で見かけました。



残念ながら、高松空襲でこの辺りまで甚大な被害を受け、現在の本殿は再建されたものですが、瓦に葵の御門が輝いています。

 




 

興味深いのは、上記2番目の地図の中、本門寿院に向かう参道に「藤堂和泉殿道」の文字があること。

「藤堂和泉殿」とは「藤堂高虎」。

高虎は江戸初期、松平家が高松入りする前、生駒家の若君(高俊)を外祖父として補佐し高松城築城にも尽力したと言われています。それらの功で、この寺に祀られたようです。

高虎が生駒正俊(高俊父)に援軍を出し勝利したことから「克軍寺」と名付けたとも寺のHPに出ています。

そうか、徳川の神様は1815年屋島に移ってしまったので、幕末に祀られていたのは高虎様ですね。



一寺院に見る時代の移ろい、、、地方都市の歴史散策もなかなか楽しいなぁ。


 

▼高松市街から本門寿院克軍寺に向かう道。低いトンネルの上は、1時間1〜2本のJR高徳線が走ります。



(でも今日なんぞは、暑すぎる!どうした日本?!

皆様ご自愛くださいね。)