最初にお断りしておくが、私はどちらかというとリベラル派だと自負している。
けれども、一時期「宮内庁」に勤めている知人がいた折には、ただただ「リスペクトthe知人」だった。しかもこんな風に書くことが、「宮内庁に知り合い」プチ自慢だったりもするのだから質が悪い。
とはいえ、これは平均的日本人にありがちなことに違いない。その証拠に、過去には偽皇族ロマンス詐欺もあったし、最近では「宮内庁献上」詐欺のニュースがあったばかりだ。
とにかく、凡庸なる私は「宮内庁」の言葉に弱いのだ。
だから、先の崇徳天皇の白峯陵で宮内庁の立て札を見た時、なんだか畏れ入ってしまったのである。
さて、
私が知る限り、香川県にはもう一ヶ所「宮内庁」の立て札がある。
ここ「神櫛王墓」(カムクシノミコ)だ。
▲源平合戦の跡地を歩いていて偶然に見かけた「宮内庁」の
立て札。
▼神櫛王墓の先に、源平合戦で源義経の身代わりになった佐藤継信の墓がある。
宮内庁?神櫛王?
謎のまま帰宅して調べてみると、、、
「神櫛王」は、第12代・景行天皇の皇子で、古代史スーパースターにして日本平定に尽力した日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の実弟ではないか。
これはもうパワースポットと言わずして何としよう。
荒ぶる力で熊襲(九州南部)征討から東方征討まで八面六臂に活躍した兄・日本武尊の弟としては目立たないけれど、神櫛王は讃岐国造(クニノミヤツコ)の祖とも言われている。(日本書紀)
江戸時代には荒れ果てていた墓所を、明治に入って時の知事(最後の高松松平藩主)松平頼聡公が整備造営したと言う。
「神櫛王墓」は、昭和9年の宮内省諸陵寮 編纂・出版の「陵墓要覧」に記載されている。
私が平伏す「宮内庁お墨付き」である。
(国会図書館デジタルコレクションより)
そして、「陵墓要覧」を熟読しながら不思議な縁故を感じたのが、日本武尊と神櫛王の母(景行天皇の皇后)である播磨稲日大郎姫(ハリマノイナビノオオイラツメ)の陵墓が兵庫県加古川にあるという事実。当方の連れの出身地だ。
もしかして、遠い末裔?高松にやって来たのはご先祖様のお導き?・・・と炎上しそうなことを妄想して、もはや似非・皇族詐欺に発展しそうな勢いだ。
いかん!いかん!ここらで筆を置かないと、リベラル派は到底語れまい。
余談になるが、「陵墓要覧」を表に落とし込むと、崇徳天皇が讃岐に流されたことがいかに珍しいことであったかがよくわかる。
古代史では神櫛王のように遠征先の地方で埋葬された皇族も見受けられるが、奈良・大阪が主流で、50代桓武天皇から74代鳥羽天皇までは、ほとんどの天皇・皇族が京都に埋葬されている。
75代崇徳天皇が香川で崩御されてからというもの、
81代安徳天皇が壇ノ浦にて入水、
承久の乱により
82代後鳥羽天皇が島根・隠岐島へ配流、
83代土御門天皇 土佐国(現・徳島)へ自ら配流、
84代順徳天皇 新潟・佐渡へ、、、
崇徳天皇崩御後、偶然か否か敵対した後白河院の周りで災厄起こったとも言われるが、
その頃から、時代が大きく動いて天皇家に災難が降りかかったことは歴史の流れを見ると明らかだ。