[58] 悲しみの秘義/若松英輔(ナナロク社)──悲しみを通じてしか見えてこないものがある | 書評 精神世界の本ベスト100

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「人が語ろうとするのは、伝えたい何かがあるからであるよりも、言葉では伝えきれないことが、胸にあるのを感じているからだろう。言葉にならないことで全身が満たされたとき、人は言葉との関係をもっとも深めるのではないだろうか」(はじめに)
 著者は、この本に収められた25編のエッセイが「そうした心持ちのなかで宿り、生まれた」と述べています。
 誰でも一生に一度や二度は、この「言葉では伝えきれない」体験を持っていると思います。それが大きな喜びの感動であれ、悲しい出来事であれ、その体験は言葉にした途端に「何かが違う」と感じたことでしょう。
 
 著者は、言葉では伝えきれない代表的なものとして、「悲しみ」について次のように述べています。
「涙は、必ずしも頬を伝うとは限らない。悲しみが極まったとき、涙は涸れることがある。深い悲しみのなか、勇気をふりしぼって生きている人は皆、見えない涙が胸を流れることを知っている」
 ショックのあまり涙も出ず、言葉を失い、ただ呆然と立ちすくんでいる姿が浮かんできます。
「人生の岐路と呼ぶべき出来事は、それが自分のなかでどんなに烈しく起こっても、それを他者と分かち合うことはできない。理由はもう分かっている。それらはすべて、私の内なる世界で起った、私にとっての『事件』だからだ」

 そして孤独感、虚無感の中から、独り生きていく覚悟を決めます。
「真に他者とつながるために人は、ひとたび独りであることをわが身に引き受けなくてはならないのだろう。独りだと感じたとき、他者は、はじめてかけがいのない存在になる」
「人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある。悲しむ者は、新しい生の幕開けに立ち会っているのかもしれない。単に、悲しみを忌むものとしてしか見ない者は、それを背負って歩く者に勇者の魂が宿っていることにも気がつくまい」

 また著者は、他者とのつながりの中でも最も大事な「信頼」について、次のように語っています。
「失ってみて、はじめて分かったことだが、信頼は生きることの基盤をなしている。自己への信頼も、他者との信頼の間に育まれる。心を開いてくれる他者と出会えたとき、人は他者との間だけではなく、自己との新しい関係をも結ぶことができるのはそのためだ」
「心を開くとは、他者に迎合することではない。そうしてしまうと相手だけではなく、自己からもどんどん遠ざかってしまう。むしろ、心を開くとは、自らの非力を受け入れ、露呈しつつ、しかし変貌を切望することではないだろうか。変貌の経験とは、自分を捨てることではない。自分でも気が付かなかった未知なる可能性の開花を目撃することである」

 以上の他にも「勇気とは何か」「師について」「覚悟の発見」「書けない履歴書」など様々なテーマで語られています。いずれのエッセイも「言葉では伝えきれない」体験について述べています。
 なかでも「書けない履歴書」は私自身が思い当たる話なので、少し長くなりますが、最後に引用させていただきます。
「どんな人間であるかを示さなくてはならなくて、履歴書の提出を求められる。紙面には、あらかじめ定められた項目があって、ひたすらにそれらに答える。言葉に書き得る情報で私たちは自分を語ることを強いられる。
 振り返ってみれば、履歴書を書き進めているうちに私たちは、どの項目にも書き得ない出来事こそが、人生を決定してきたことに気が付いてたはずだ。
 しかし、世の中ではそんな理屈は通用しない。そう思い込み、同様の行為を何度も繰り返しているうちに、いつの間にか履歴書という枠のなかで自身を理解し始めてしまう。どんな仕事であっても、その底を支えているのは容易に語り得ない何かなのである。悲しみの経験もその一つだ」
 言葉の限界を知りつつも、語り得ない何かを感じ取るために、それでも言葉を発し続ける著者の熱い思いが伝わってくる本です。ぜひ、一読をお薦めします。

【おすすめ度 ★★★★】(5つ星評価)