「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…」
ご存じのように、これは『方丈記』(鴨長明)冒頭の文です。著者の福岡氏は、私たちの体を形作っている細胞もこの河の流れと同じだと言っています。
「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである」
「つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が『生きている』ということなのである」
私たちの体は分子的な実体としては、数ヶ月前の自分とはまったく別物になっています。西洋の諺にもあるように「あなたは、あなたが食べた物そのものである」というわけです。
私たちの体を構成するものは、元をたどると食べ物に由来する分子です。その分子は環境からやってきて、いっとき、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていきます。
こうした生命観は、じつはシェーンハイマー(生化学者)が初めて唱えたものですが、著者は彼の考え方をさらに拡張して「動的平衡」と名づけたのです。
著者によれば、現在の私たちは「動的平衡」と真逆な「機械論的生命観」に強く影響を受けていると言っています。生命現象はすべて機械論的に説明可能だと考える生命観です。この生命観を最初に唱えたデカルトは、次のように述べています。
「心臓はポンプ、血管はチューブ、筋肉と関節はベルトと滑車、肺はふいご、すべてのボディ・パーツの仕組みは機械のアナロジーとして理解できる。そして、その運動は力学によって数学的に説明できる」
福岡氏は、現在の私たちがこの「機械論的生命観」に深く侵されているといいます。
「生命を解体し、部品を交換し、発生を操作し、場合によっては商品化さえ行なう。遺伝子に特許をとり、臓器を売買し、細胞を操作する。これらの営みの背景にデカルト的な、生命への機械論的な理解がある」
こうして、生命はミクロな分子パーツからなる精巧なプラモデルとして捉えられ、それを操作対象として扱いうるという考え方が支配的になっていったのです。
しかし、著者はそうした考えに異議を唱え、これを克服しなければならないと言っています。
「動的平衡にあるネットワークの一部分を切り取って他の部分と入れ換えたり、局所的な加速を行うことは、一見、効率を高めているかのように見えて、結局は動的平衡に負荷を与え、流れを乱すことに帰結する」
その根拠として、次のように述べています。
「遺伝子組み換え技術は期待されたほど農作物の増収につながらず、臓器移植は未だ決定的に有効と言えるほどの延命医療とはなっていない。ES細胞の分化機構は未知で、増殖を制御できず、奇跡的に作出されたクローン羊ドリーは早死にしてしまった。
こうした数々の事例は、バイオテクノロジーの過渡期性を意味しているのではなく、動的平衡としての生命を機械論的に操作するという営為の不可能性を証明しているように、私には思えてならない」
さらに環境と私たちの関係についても──
「環境にあるすべての分子は、私たち生命体の中を通り抜け、また環境へと戻る大循環の流れの中にあり、どの局面をとっても、そこには動的平衡を保ったネットワークが存在していると考えられるからである」
生命が「流れ」であり、私たちの体がその「流れの淀み」であるなら、環境は生命を取り巻いているのではない。生命は環境の一部、あるいは環境そのものであるというわけです。
この本はタイトルを見ると難しそうですが、下記のような身近な疑問を織り交ぜながら解説しているので意外とスラスラ読めてしまいます。
なぜ大人になると時間が早く過ぎるようになるのか?
なぜコラーゲンを食べ物として摂取しても、衰えがちな肌の張りを取り戻せないのか?
なぜクローン羊のドリーは短命だったのか?
様々な疑問を「動的平衡」の視点から解き明かしています。ぜひ一読をおすすめします。
【おすすめ度 ★★★】(5つ星評価)