源頼家が従二位に昇叙して征夷大将軍に就任したことは、本来であれば喜ばしいことであるはずであったが、位階の高さがかえって鎌倉幕府を混乱に招くことになった。
特に混乱のもととなったのが、源頼家の後継者を誰とするかという問題である。
それは遠い未来を見据えたこととなるが、源頼家の後継者を貴族として出世させなければ、最低でも従二位にまで出世させなければ征夷大将軍に就任させることができないのであるから、鎌倉幕府として総力を挙げて源頼家の後継者を貴族界に送り込んで出世させなければならない。そのためには藤原氏や村上源氏、そして、後鳥羽院への接近も必須である。
ところがここで問題がある。
複数名送り込むわけにはいかないのだ。
征夷大将軍に就くことができる位階の者が複数いた場合、征夷大将軍の役職をめぐる争い、すなわち、源頼家の後継者争いが必ず起こる。鎌倉幕府の内部での争いということは武士の争いということだ。権謀術数ではなく剥き出しの武力での争いになる。ただでさえ梶原景時という前例を生み出してしまった鎌倉幕府だ。後継者争いとなったらそれは血が流れる事態を意味する。
ゆえに、早々に源頼家の後継者を選定し、源頼家を中心とする鎌倉幕府を維持すると同時に源頼家の身に何か起こったときに限り、源頼家の後継者に指名された人物が征夷大将軍を継承して鎌倉幕府を存続させるという方策を取るしかない。
では、誰が源頼家の後継者たるべきか?
ここで誰よりも早く動き出したのが比企能員であった。何しろ源頼家は比企能員の娘との間に男児をもうけている。源頼家の長男である一幡はこのとき、数えで五歳、満年齢で四歳である。たしかに幼いが、そもそも源頼家の年齢を考えると、長男が既にこの年齢になっていることのほうを感嘆すべきであり、幼さについて文句を言うわけにはいかない。
一方、北条政子や江間義時も動き出していた。源頼家の弟である千幡である。前述の通り現在の学齢でいくと小学四年生であるから、一幡よりは年長者であるものの、こちらもやはり源頼家の後継者とするには幼すぎる。
肝心の源頼家はどう考えていたのか?
結論から言うと、息子である。弟に自分の後を継がせるという考えは毛頭なかった。弟を推す実母や叔父、すなわち、北条政子や江間義時は、源頼家からしてみれば征夷大将軍の役職を簒奪しようとする者に見えたろう。自分が手にした征夷大将軍の役職は自分の子が継ぐべきであり、そのために協力する比企能員をはじめとする比企一族は味方、敵対する北条一族は敵であるという考えが源頼家の心のうちに生まれてきていた。
なお、後にこの国の歴史を悪い意味で動かすことになってしまう公暁はこのとき四歳であり、生前の源頼朝は公暁のことを源頼家の後継者にしようとしていたという。無論、源頼朝が亡くなったのは五年前、そしてこのとき公暁はまだ四歳であるから、源頼朝が公暁を目にしたことなどあるわけがない。しかし、源頼朝は比企氏より家格の高い源氏一族の賀茂重長の娘を頼家の正室とし、彼女が男児を産んだならその男児を源頼家の嫡子として、鎌倉幕府の第三代将軍にしようと計画していたという。もし源頼朝がもっと長生きしていたならば源頼朝の目論見も成功していたであろうが、源頼朝は六十歳にもならない若さでこの世を去ってしまった。そのため、賀茂重長の娘、すなわち公暁の母は、源頼朝の死とタイミングを合わせるかのように段々と立場を弱くしていったと考えられる。それこそ、源頼家の正室の地位を失い、代わりに比企能員の娘である若狭局が事実上の正妻になるほどに。
源頼家も賀茂重長の娘ではなく比企能員の娘を自分の正妻であると考えていたようで、だからこそ一幡を自分の後継者と考え、一幡への将軍位継承の障害となる存在、具体的には北条家と、北条家に関係する面々に対する牽制である。