ときたび日記
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サンタ・クロースの話

ときたび日記-ケーキ1
ウィーンでクリスマスカードを探したのに、サンタクロースが見あたらないという話をしましたが、代わりにと言うか、街を歩いていてよく見かけるのは、この不思議な組み合わせです。

ウィーンは、ヨーロッパ最強の王家、ハプスブルグ家の帝都ですから、支配下にあった様々な国から美味しい料理が入ってきて、ドイツ圏の国としては、食べ物が美味しいです。
特に、ケーキは絶品です。
で、美味しいケーキを食べようとカフェを覗くと、この不思議なお人形があちこちにありました。

ときたび日記-Aidaのサンタ2
どう見ても、ウイーンでは、サンタクロースの原型、聖ニコラウスのお祭りがまだ生きているようです。

サンタクロースは、富裕な商人の家族の出身で、4世紀の小アジア(今のトルコ)のミュラの街の司教だったニコラウスという聖者が起源です。
当時、この地を支配していたビザンチィン帝国(東ローマ帝国のこと)では、6世紀から9世紀に掛けて聖ニコラウスの崇拝と祭りが盛んになり、12月6日が聖ニコラウスの祭りの日と定められました。

9世紀にビザンチィン帝国出身のテオファヌスがドイツを支配していた神聖ローマ帝国に嫁いで皇后となり、ドイツやフランスにも聖ニコラウスの信仰が広まりました。
13世紀半ば、北フランスで12月6日の聖ニコラウスの祭りの日に「ニコラス劇」が盛んに演じられるようになりました。
この劇は、せっかく良い縁談があったのに持参金が無く結婚を諦めようとしていた三人の娘の話を聞いた聖ニコラウスが、夜、窓からこっそり金塊を投げ入れ、おかげで娘達は幸せな結婚をする事が出来たという伝説に基づいたものです。
これが基になって、聖ニコラウスが、12月5日の夕方、子供の居る家を訪ねて歩き、子供に躾を施すと共に、ブレゼントをすると言う行事が広まりました。

ときたび日記-Aidaのサンタ1
12月5日の夕方に、白いふさふさした髭を生やし、司教冠をかぶり、黄金の杖を持った聖ニコラウスは、ルプレヒト、クランプス、シュバァルツ等のお供を連れてやって来ます。
ルプレヒト、クランプスは、顔に煤を塗り、大きな袋を担いでいます。シュバァルツは、特に真っ黒に塗っており、毛皮を着て、腰に鎖を巻き、鞭を鳴らしている恐ろしい姿。

ときたび日記-Aidaのクランプス
袋を担いでいるようなので、こちらが、ルプレヒト、クランプスの方だと思います。
彼らは、子供の居る家の扉を激しく叩き、扉が開くとずかずか入り込んで、「ニコラウス様に嘘をついてはいかんぞ」と怒鳴ります。
そして、聖ニコラウスが、子供に向かって、「親の言いつけを守っているかな」とか「他の子をいじめていないかな」とか言ったことを聞き、よい子になる約束をすると、聖ニコラウスがルプレヒト、クランプスに命じて、袋の中のチョコレートや干しイチジクと言ったプレゼンをする。

ときたび日記-クランプス
シュバァルツは、子供が嘘をついたり、はっきり答えないと、机を鞭で叩いて子供を威嚇する役目です。

「悪い子はいないかー」と家々を訪ね歩く、秋田県男鹿半島の「なまはげ」によく似ていて、何か笑ってしまいました。

聖ニコラウスの祭りは、アルプス地方やミュンヘン近郊のバイエルンなどに残り、場所によって、少しずつ異なっています。

ときたび日記-紫のサンタ
16世紀の宗教改革の時に生まれた、プロテスタントでは、クリスマスのプレゼントは誕生した幼子イエスから子供達に送られるのであり、サンタクロースはその使いだと考えられており、聖ニコラウスのお祭りは特に行いません。
と言う訳で、今では、クリスマスイブのプレゼントをサンタが運んでいます。

サンタ・クロースという名前は、聖ニコラウスのオランダ語読みで、それが17世紀にオランダの移民によってアメリカに伝わったと言われています。
シンタ・クラースというのがオランダ語の発音に近いそうですが、私はオランダ語は知らないので、よくわかりません。

サンタクロースが、赤い服を着て、太った姿で描かれるようになったのは、百年位前のドイツの挿絵画家シュヴィントの作品が人気を呼んで定着してからです。
1931年にコカ・コーラ社が、コカ・コーラ社のコーポレート・カラーである赤と白の衣服を着たサンタクロースを広告に使ったせいか、アメリカでは、サンタは必ず赤い服を着ています。

実は、以前ドイツの空港で、クリスマスの時期にこの紫の服を着たサンタクロースの人形を買ったことがあります。
サンタは、今も、地域によっては、赤い服を着ているとは限りません。

ときたび日記-サンタ
こちらが、ウィーンでやっと見付けたサンタクロースのクリスマスカード。
重々しいというか、何かイメージが違います。

中公新書の「守護聖者」の中に載っている、子供達の歌声が聞こえてくる気がする、神々しさです。

   聖ニコラウス様、私達はあなたを敬います。
   あなたは私達に恵を持ってくる。 
   家の中に幸福、祝福、平和と喜びを運んで下さる。



ウィーンのクリスマス・マーケットにて

クリスマスももうすぐです。どんなクリスマスをご計画ですか。

ウイーンのクリスマスの紹介第2弾。
まずは、ウイーン市庁舎に飾られていた、ミニチュアから。

ときたび日記-天使
この時期のウィーンは、夜の気温は数度しかなく、結構寒いので、クリスマスマーケットに来た人たちの中でも、寒さに耐えかねた人は、市庁舎の中にやってきます。
中には、このような、ミニチュアの展示が。
上の方にいる天使が可愛いです。

ときたび日記-三王礼拝
結構いっぱいあるのですが、見事だと思った物を、幾つかご紹介します。
二つ目は、東方三賢者礼拝。ウィーンでは、三王礼拝というらしく、1月6日が、この三人がキリストに会いに行った日とされ、クリスマスツリーを飾って良いのは、この日まで。

ときたび日記-イエス生誕
ミニチュア紹介の最後に、見事なイエス生誕のものの写真を付けておきます。

ときたび日記-店
さて、お店には、クリスマス・オーナメントを中心に、蝋燭等のクリスマスの飾り物が色々並んでいます。

ときたび日記-店2
日本では、余り見かけない、ガラスのボールに雪の結晶などを描いたものが結構あります。

ときたび日記-窓から
臨時のお店なのですが、作りもしっかりしていて、この写真のように普通の小屋になっていて、臨時の屋台にとても見えないものもあります。
中を覗くと、クリスマス・オーナメントがきらきらしていて、とても幻想的。

クリスマスカードなど買ったのですが、サンタとか、ツリーが描かれているものは少なかったです。
私の感覚で言うと、クリスマスを前面に出してない感じ。
ただ、クリスマスカードを買ったお店は、手作りの商品を出していて、上品そうなお婆さんが、自分で作ったらしい商品をさも愛おしそうに扱っていて、とても感じが良かったです。

ときたび日記-AM Hof
クリスマスマーケットは、ウィーンの色々な所でやっていて、今回5カ所位回りました。このam Hoh Platz(広場)のマーケットは、1842年以来開催されている、伝統有るものです。

ときたび日記-演奏2
マーケットには、クリスマス・オーナメントのお店だけでなく、演奏をしている人もいますし、寒い夜らしく、温めたワインを売っています。
このワイン、7ユーロ位なのですが、その内2.5ユーロはマグカップの代金で、カップを返すと2.5ユーロ返してくれます。
クリスマスマーケットで、この温めたワインを二人で飲んで、記念にマグカップを持って帰るのがこちらの流儀だそうで、私も、幾つか回って、一番気に入ったカップでワインを飲みました。
カップは当然記念に持ち帰り。

焼き栗や焼いたポテトも売っていて、寒い夜の散策に暖まるにはぴったりです。

ときたび日記-演奏
演奏という意味では、am Hoh Platz(広場)のすぐそばのマーケットで演奏していた子供達には感心しました。
流石、クラシックの生まれ故郷ウィーンの子供達と言う感じでした。

ときたび日記-goods
記念にクリスマスマーケットで買った、天使の人形です。素朴で可愛いです。

ときたび日記-犬
こちらは、クリスマスマーケットで買ったのではないのですが、今回買った内、一番のお気に入りの空飛ぶわんちゃん。
クリスマスが過ぎても、飾っておくつもりです。

では、素敵なクリスマスをお過ごし下さい。

ウィーンのクリスマスマーケット 

true
ウィーンのクリスマス・マーケットを見に行ってきましたので紹介します。
最初の写真は、ウィーンの中心に位置するシュテファン教会前のクリスマスツリーです。

キリスト教は幾つかのグループに分かれていますが、西欧のキリスト教会では、11月30日に一番近い日曜日からクリスマスイブまでの約4週間のことをAdventと呼びます。
イエス・キリストの降臨を待ち望む期間で、日本語では、待降節とか降臨節と呼んでいます。

この期間、ドイツ圏の多くの都市では、クリスマス・マーケットが開かれます。
マーケットと言っても、かなり古い歴史があり、日本のお祭りの縁日の感じです。

最近は、フランスでも行われるそうですが、夜が長く天気の悪い冬のドイツで定着しているのは、何となく理解できる気がします。

私には日本のクリスマスは年末の一大商戦という感じがするですが、ドイツ圏のクリスマスマーケットは、故郷の祇園祭などのお祭りと同じ感じがして、大好きです。
もっとも、私が見たのは、たまたま出張で訪れたミュンヘンのクリスマスマーケットだけ。
でも、子供の頃の日本の縁日と同じ雰囲気がしたので、凄く懐かしく感じました。

今回、時間が取れたので、別の都市のクリスマスマーケットも見たいと思い、ウィーンを訪れました。

ウィーンのクリスマス・マーケットは、1298年、皇帝アルブレヒト1世が「Dezembermarkt (12月市)」と呼ばれる市開催の特権をウィーン市に与えたのに始まります。
ときたび日記-市庁舎前1
この期間、ウィーンでは色々な所でクリスマス市が開かれるのですが、ウィーンの中心部で一番大きなクリスマスマーケットは市庁舎前のものです。

ときたび日記-市庁舎前4
150軒近い屋台がオープンし、約300万人もの人が訪れるそうです。

ときたび日記-市庁舎前2
13世紀の始まり依頼、クリスマスマーケットには小規模な業者しか参加が許されていません。
一つには、年末のこの時期は、小規模な業者にとって苦しい時期でも有り、又、安定的にクリスマスに必要な商品を提供するには多数の小規模業者を入れた方が良いという考えです。

ときたび日記-トラム
この時期のウィーンでは、市電でさえ、クリスマスデコレーションをして走っています。
まるでお伽の国に迷い込んだような気分にさせてくれます。

市庁舎前のマーケットのの話だけでも色々あるのですが、追々書いていきます。
本日は、この辺で。

阿佐ヶ谷七夕祭2007

金賞3
 お久しぶりです。
少し元気になったので、また再開しょうかな思っておりますので、宜しくお願いします。
 本日は、リハビリを兼ねて、ご近所の商店街の七夕祭りのご紹介です。

期間
 中央線沿線の阿佐ヶ谷では、旧暦の七夕の時期に、パールセンターという商店街を中心に七夕祭りをやります。
 「まだ電気冷蔵庫が珍しかった時代」に、夏の暑い盛りに大勢の人を呼ぶにはどうしたらいいかと全国の夏祭りを視察に行った結果、七夕祭りに決定。
 昭和29年からと言う伝統を誇ります。

風景1
 阿佐ヶ谷は、23区内なのに不思議と古い街並みや商店街が残っているし、とても不思議な街です。
 この賑わいは、夏の七夕祭り、秋のジャズ祭と商店街の努力の賜だと思います。


金賞2
 このお祭りの自慢は、第一回から続く商店主の皆さん、手作りの張りぼて飾り。最初の写真は、金賞を取ったシュレックの張りぼて。実に生き生きしています。
横には、このようなパワー・プリンセスの皆さんも。

銀賞
 こちらは銀賞受賞作品。芸術ですな。

肉1
 張りぼてばかりでなく、七夕の期間限定の出し物もあります。
こちらは、本場ドイツで受賞したハム屋さん。

肉3
 このハム美味しいんですよ。大人気で、お店の人は大忙し。祭りの期間限定は惜しいと思います。

団子2
 ハムだけでなく、七夕祭り期間限定の団子もあります。これもを狙うのは、地元のお祭り通です。
 地元の人から「あそこは商売っ気無いから、早く行かないと無くなるよ」と言われて、早めに出かけました。

恐竜1
 今年は、恐竜のロボットが置いてあり、大変な人だかり。
男の子は、みんな恐竜好きですし。

蛙
 夏だというのに、元気に頑張る着ぐるみさん。
バテないでね・・・。

豚
 リハビリですので、ここいらで終わろうと思いますが、何故か印象に残ったのがこの豚。
 絆創膏の位置が、最近辞任された大臣に似ている気が・・・・。

 8/8までですので、まだやってます。
間に合わなかった方も、来年のご来場をお待ちしております。





ソンツェン・ガンボ--- 観音の化身と呼ばれる大王

ユンブラカン宮
 前回、インドからやって来た異形の少年が、天から来た天子としてヤルルン渓谷の吐蕃部落の最初の王、ニャテイ・ツェンポとなったのを紹介しました。紀元前237年の即位と推定されています。
 この王が住んだ最初の王宮が、ヤルルン渓谷のほとりに建つユンプ・ラカン宮。チベット最初の宮殿であり、初代王ニャティ・ツェンボが住んだ所です。
 元々あった宮殿は毛沢東の起こした文化大革命の時に破壊され、現在の建物は1982年に復元された物です。

 更に言うと、天に繋がる光の索「ム」を持った最後の王、第七代吐蕃王ティグン・ツェンボは、自分の臣下ロガン・タジの計略に掛かり、矢で居殺されてしまいました。ロガン・タジは、王の娘を無理矢理妻として、王位を乗っ取ったのです。
ティグン・ツェンボ以降の王が、天に繋がる「ム」を失ったとされるのは、このクーデターと関係があるでしょう。
 ロガン・タジは、ティグン・ツェンボの次男シャキの軍隊に破れ、王権は、ニャティ・ツェンボの流れを引く一族の元に戻りました。
 紀元一世紀頃のことです。

ソンツェン・ガンボ
 さて、神話の色濃い七代の初期の王達の後、再び神話に彩られた王が現れます。
それが、33代吐蕃王ソンッエンガムポ。

 ポタラ宮の中を見学していた時、10才くらいの少年僧が、近くにあった像をさして「ソンッェンガンボ」と誇らしげにに紹介してくれました。
 チベットの人にとっては、誰でもよく知っている歴史上の偉人なのでしょう。

 チベット年代記では、随分と念の入った誕生物語が紹介されています。

 ます゛、第28代ラトトリニェンシェル王の時代にユンブラカン宮の屋上に太陽の光に乗って、観音菩薩の修法を記した聖典や金の塔が舞い降りてきて、「汝より数えて五代目にこれらの意味を知る王が現れるであろう」と声がしたそうです。王が良く理解できないながら、これらの聖典や塔を宝物として供養すると、王の寿命は120才に延び、「一つの身体で二つの人生を生きた」と言われたとされています。

 更に、ソンツェンガンボ王と、二人の(!)后は、観音様が放った光により生まれたとチベット年代記にあります。
 ネパール人の王妃、ティツゥン妃は観音様の右目の光から、中国人の王妃、文成公主は観音様の左目の光から、ソンッエンガムポ王自身は、観音様の心臓から放った光から。

 実際、ソンツェンガンボ王は、581年に生まれ、649年になくなった実在の王なのですが、チベットでは観自在仏(アヴァローキテーシュブァラ)の化身とされ、各地に観音菩薩の特徴である頭上に阿弥陀仏の化身を持つ形の像が祀られています。

ソンツェンガンポ王像 この王の祖父の時代から吐蕃王国は、急速な成長を始めました。
この31代タリニュス・ツェンボ王の時代にチベット七賢人の一人と呼ばれたガラン・ザワンが大臣となり、炭を作り、それを使って金属製の農具や武器を作る事を広めた為です。
 農業の生産性が上がり、武力が向上し、ソンツェンガンポの父ナリム・ソンッエン王は、周辺の部族を併合して、吐蕃は急速に領土を拡大しました。
 ちょうどこの時、ソンッエン王が、毒殺されてしまい、チベット高原統一という父の夢は、わずか13才のソンツェンガンボに引き継がれたのです。

 この王は、まず、内乱を収拾し、平和を回復して被チベット高原初の統一統一国家を作りあげました。ラサに遷都したのもこの王です。

 ソンツェンガンボ王の功績は、それだけに留まりません。
トンミ・サンポータという大臣をインドに派遣しサンスクリット語を学ばせ、トンミ・サンポータはサンスクリット語を参考にチベット文字を作成し、王に献上しました。
 また、冠位十二階級を設置し、政治制度や軍制を整備しました。
ソンツェンガンボ王がちべっとを安定させると、農業や牧畜の生産は、飛躍的に増大し、野山には牛や羊が満ちあふれ、見渡す限りの田畑があったと伝えられています。

 時代的には、574年に生まれ、622年に没したとされる聖徳太子、厩戸皇子と同時代の人ですし、冠位十二階、憲法十七条を作ったとされる所も似ています。
 当時の国の発展の時期と状態が、日本とチベットは似ていたのでしょう。

ティツゥン妃像
 ソンツェンガンボ王が、634年に隣国ネパールから迎えた王妃が、ティツィン妃です。
 ネパールから由緒ある釈迦無に像をチベットにもたらし、ラサ市内のトゥルナン寺を建立したことで知られます。

 このネパールの王女を、チベットの王妃として招いたガルという大臣も、チベットのような未開の地に、娘を嫁がせたくない父王からの様々な謎かけを見事に克服して、王妃を連れ帰った偉人として像が飾られています・・・。

文成公主像
 こちらは、ソンツェンガンボ王のもう一人の夫人、文成公主。

 随分と、エピソードの多い人です。

 元々は、ソンツェンガンボ王が、中国、唐の皇帝、太宗に、皇子グンソンの嫁として皇帝の娘を欲しいと使者を遣わしたのが始まり。
これを断った太宗に対して、ソンツェンガンボ王が怒って、20万の兵を率いて戦っい、唐に協力する部族を破ったものの、最終的に唐に敗北。
再び求婚の使者を送って、大臣ガルに金五千両の結納金を持たせて、太宗に交渉させ、やっと太宗に認めさせた婚礼でした。

 昔から中国では、外交政策として、王族の娘を異民族に降嫁させる「和蕃公主」がしばしば行われていました。
 大抵は、皇帝の実の娘ではなく、文成公主も、例外ではないだろうとされています。
 しかし、唐の都・長安から、4000メートルの山を越えて、異境の地に嫁いだ文成公主の心中は、かなり痛々しい物だったでしょう。
 しかも、夫、グンソン王子は、結婚して三年ほどで落馬して死亡。

 この時、文成公主が、夫の菩提を弔って立てたのが、ラサ市内にあるラモチェ寺。チベットで最初に立てられた仏教寺院です。

 グンソン王子のもが明けると、文成公主は、再び王位についたソンツェンガンボ王と再婚。
 当時、夫を亡くした嫁が舅と再婚するのは、チベットでは普通だったようです。

 ソンツェンガンボ王は、唐の太宗に再婚の報国をし、婿として忠誠を誓います。
この事は、チベットと唐の結びつきを強め、王は貴族の子弟を唐に留学させ、唐を参考に行政、軍事の制度を整えました。

 或る意味、遣唐使や、仏教の振興という面でも、ソンツェンガンボ王と聖徳太子は、よく似ていることになります。

 ところで、ソンツェンガンボ王は、文成公主と結婚して三年ほどでなくなります。
 中国側の文献では、文成公主をチベットと中国の結びつきの象徴のように重く扱いますが、個人的には,かなり気の毒な女性だという気がします。

ソンツェンガンボと妻達
 すっかり長くなってしまいましたが、古代チベット、吐蕃王国の創設者、ソンツェンガンボ王と夫人達の物語を終わりにしたいと思います。

 変わった漢字って、変換するの大変ですね・・・・。

チベットの神話と初代王朝

石仏
チベットは、イランやイタリアのような紀元前数百年にまでさかのぼれるような長い歴史は持っていません。

チベット文字が出来たのが7世紀頃ですので、チベットの歴史もそのころまでしか辿ることが出来ません。
それ以前のことは、神話の混じり合った形で残っていることになります。

チベット人の起源についてもインドから来たという説も、ビルマ系、もしくは、マレー系という説もあります。

石仏2
チベット族の起源についてはチベット語で書かれた「チベット王統記」の中に面白い説話があります。

普陀洛山にいらっしゃる観音菩薩が、神が姿を変えた猿に戒律を授けました。
猿に南の海から北の雪の高原に行き修行をするように命じたのです。
猿は早速チベットの岩山にある洞窟に赴き、そこで瞑想していると、一人の女の悪魔がやって来て、猿にあからさまに媚態を示して求めました。
猿が修行中だからと断ると、女の悪魔はこう言って猿に迫りました。
「私は前世から下されて悪魔にされました。今日こうして、あなたに出会い、恩人になって貰おうと思いました。でも、どうしても親しくなれないというのなら、私は悪魔と結婚し、何万もの人を殺し、無数の悪魔の子を産むことになるでしょう。
そうすれば、この雪の高原は悪魔の世界となり、更に多くの人が殺されるでしょう。考え直して下さい。」
このまま夫婦になれば戒律を破ることになるし、妻にしなければ更に殺生を行うことになると悩んだ猿は、普陀洛山に戻って観音菩薩に相談しました。
観音菩薩は「これは天の意というものです。おまえは彼女と一緒になりなさい。」と指示されました。
こうして生まれた猿の子孫達は、観音様の加護を受け、食物に不自由することもなく繁栄し、次第に尻尾が短くなり、やがて人間となりました。これがチベット人の起源とされています。

自分達の起源を語るにしては、かなり変わっていると思いますが、チベットの人たちが観音様を守り神だと思っていると言うのは伝わってくる話です。

老婆
同じ、チベット語で書かれた「チベット王統記」の中に、チベット王家の起源についての説話が伝わっています。

ある時、インドの王家に異形の赤ん坊が生まれた。その子は、木の箱に入れられてガンジス川に捨てられ、農夫に拾われました。その子は長じて生い立ちを知り、世をはかなんでガンジス川を遡りチベットへ向かいました。
この子がヤルルン渓谷のラリロルポ山頂から見下ろすと、ヤルルン渓谷が気に入ったので、ヤルルン渓谷のツェタンゴシの地に降り立った。
この地に住んでいた遊牧民は、少年が颯爽とした姿をしているのに言葉や振る舞いが理解できないので、長老に相談した所、長老は12人の頭のよい祈祷師(シャーマン)を遣わして調べさせました。
祈祷師がどこから来たのかと聞いた所、少年が上を指した為、「天の神の子」と解釈した人々は、彼を指導者にしました。
これが、チベットの初代の王ニャーティ・ツェンボです。

ツェンボとは、「強者」、もしくは、「英武の主」という意味でチベットの王のことです。

何か暢気な話ですが、この王が実際にチベットの最初の統一王朝、吐藩王朝の創始者であり、彼の即位は紀元前237年頃の事とされています。

まあ、小さな集落の指導者という出発だと思いますが。

石仏3
この後の物語は、神話的特色を持っており、ニャーティの後の7代の王達は「皆頭頂部に光の索、ム、を持っていた。」と記した年代記があります。
 「光の索、ム、は長い(またはぴんと張った)索で、くすんだ黄色(もしくは茶色)をしていた。王達は死ぬと、足の方から(ちょうど虹のように)消えていき、頭頂部のムの中にとけ込んでいく。そして次には、この光のムが天空の中にとけ込んでいくのである。」
神を先祖とする最後の君主ディグン以前には、王の墓はなかった。

ところが、ディグンは傲慢で怒りっぽく、決闘の折りに不注意から自分の光の索、ム、を断ち切ってしまい、この王の後、王の屍は埋葬されるようになり、墓も発見されているそうです。

国の創設者は神の子孫とする神話は、結構あります。エジプトのファラオが一番有名かな。
これも一例ですね。

建国神話は、この位にして、次は、聖徳太子とほぼ似た時期に活躍した実在の王、ソンツェンガンポ王と、彼の建国物語を紹介したいと思います。

兵士の居る観光地

途上
 チベットは厳しい気候なのですが、実際には、観光地化しており、日本人でも簡単にいけます。
どちらかというと、観光地させられていると言った方が正しいかもしれません。

 チベットに関して一番有名な映画は、1997年に作られたブラッド・ピット主演の「Seven Years in Tibet」だと思います。
 以前、トロイを紹介した時に同じくブラッド・ピット主演の「トロイ」を歴史好きの人には向かないと評しましたが、「Seven Years in Tibet」は、お勧めします。

 「トロイ」がギリシャ神話を切り出した映画だったのに対して、「Seven Years in Tibet」は、実在したオーストリア人登山家ハインリッヒ・ハラーの自叙伝を元にした冒険物語。
 3250年前の神話を再現するのに比べれば、第二次世界大戦とその後の共産中国によるチベット侵攻の物語は、ずっとリアルです。
 ブラッド・ピットの代表作でもありますし、中国政府がクレームを付けたという話もありますので、色々な意味で傑作だと思います。

 実際問題として、この映画に描かれたように、中国がチベットを占領しているというのがラサを訪れた時の印象です。

 チベットの首都、ラサに行くには、元々3つほどルートが有り、今では青海省のゴルムドとラサを結ぶ西蔵鉄道も開通しましたので、更にルートは増えています。
 私が使ったのは、ラサの南約110kmに有るクンガ空港でした。

 上の写真は、クンガ空港からラサに行く途中の岩に描いてあった、仏像を撮った物です。
ところが、この川に掛かっている大きな橋を兵士が見張って居るんですよ。

 ラサは、中国国境に近い訳でもないのに、何で兵士が見張っているのかなと思ってみていると、
ラサの市内にもかなりの兵士が居ます。

 地元の方が、ボタラ宮を礼拝しているのを「邪魔だからこんな所でやるんじゃない」と兵士が邪険に扱っているのを観て、心が痛みました。

 私は、中国には仕事の同僚も居ますし、中国好きな方だと思いますが、チベットに関してだけは、批判的です。
 ですので、この後の記述は、その分偏っている可能性が有ると思って頂いた方が良いと思います。

地図
 チベット人を自認する人が住んでいる地域は、インドの一部とプータン、そして中国です。
このうち、面積・人口共に大部分が中華人民共和国の占領下に措かれています。

 上の地図の内、赤く塗られた部分がチベットです。中国の行政区分としては、西蔵、青海、四川省の2州1県、雲南省の一州に分けられています。

 チベット自治区に入境するには、中国政府の入場許可証が必要です。この許可証は原則として5人以上のグループにしか発給されません。従って、チベットを旅するには、旅程が決まっているツアーに参加する以外に手段はありません。

 ラサに行く航空便は、北京、上海など中国9都市からでていますが、航空機による旅行者の大半は、四川省の首都、成都からの航空便を使います。

 成都については、この旅日記の最後で紹介したいと思いますが、料理も美味しいし、洒落た街です。

 ただ、日本から成都に行く人は当時少なく、「海外旅行にしてはやたら小さな飛行機だな」と思いつつ日本から成都に行ったのですが、成都で、チベットに行く飛行機を見てびっくり。

 日本から成都に行く飛行機より遙かに巨大。中は、中国人観光客でいっぱいでした。

店
 チベットは、中国人に取っては手頃な観光地の一つらしく、街の中には、結構大きなショッピングセンターがあります。
 主に、お土産物屋の店ですが。

 前回、マニ車をお参りしていた様な服装の人々が、現地のチベットの人々だと思います。
服装から見ても、余り裕福そうではない。

 ところが、中国人観光客は、大量に街にいます。西洋人とおぼしい人もいるのですが、観光客の大半は、言葉から見て中国の人のようです。
 
 そして、どういう訳か、豪華な家具や、巨大なオーディオセットが売られているショッピングセンターがあるんですよ。
 かなり裕福な人が住んでいると推定できます。

 現地のチベットの人々の服装とは、かなりギャップのある光景が広がっていました。

兵士
 兵士に写真機を向ける勇気はないので、著作権に問題のなさそうな所から、拝借してきた写真を掲載させて貰います。

 ポタラ宮の前を行軍する中国兵士。

 中国政府の要人となっている学者の書いたチベットの歴史を読むと「解放後、もと農奴だった百万人がチベットの主人公となり、その生活は大きく改善された」と言った文章がちりばめられています。
 政府の公式見解とはそうしたもにのなのでしょう。一旅行者としては、違和感を感じる文章ではあります。

 天空の仏教国家チベットは、とても悲しい所でした。

天空の仏教国家・チベット

ボタラ宮
 GWなので、久しぶりにときたび日記を書いてみる気になりました。
長らくのインターバル、申し訳ありません。

 今回ご紹介したい所は、世界の屋根ヒマラヤ山脈を望む、チベット。
私が行ったのは、その首都ラサだけなのですが、割りに行ったことのある人が少ない場所だと思うので、のんびりと分かる範囲内のことを色々紹介させて貰います。

 チベットって、どういう特徴があるのか。

 一つは、中華人民共和国に併合されるまでは、ダライ・ラマと呼ばれる僧侶が国家元首であったほどに宗教色の強い仏教国家でした。

 ダライ・ラマの居城であったボタラ宮は、仏像で埋め尽くされています。
このページの最初の写真は、ボタラ宮の一部です。

 私が訪ねた時にも、多くの現地の人々がポタラ宮に礼拝を捧げていました。仏教信仰は今も生きています。

 「ボタラ」というのは、仏教の原典に使われているサンスクリット語のPotalaka(ポタラカ)と言う言葉に由来します。
 Potarakaは、観音菩薩が住むと伝えられる山の名前で日本では「普陀洛」と呼ばれます。端的に言うと、極楽浄土の一種です。

 和歌山県に普陀洛寺というお寺があります。この世の苦しさを逃れて極楽浄土、普陀洛へ行こうと船に乗って沖にこぎ出すという「普陀洛渡海」が行われたという悲しい由来のあるお寺です。

山々
 もう一つの特徴は、天空の国家と言っていいほどの標高の高さです。

 チベットの首都ラサの標高は、3,650m。富士山の頂上よりやや低いだけです。
 富士山に登ったことのある人は、ラサの気候は、大体富士山の頂上と同じ感じと思って貰って良いです。
 平均気温は、最も暑い7月が16.4度、最も寒い2月が0度と平地の東京と大きくは変わらないのですが、それ以外は、富士山頂にいるのとさして変わりません。

 まず、空気が薄く、高山病の危険があります。ラサに着いた日に言われたことは、
「今日は、風呂に入ってはいけません。お酒も飲まないでください。身体が酸素の薄い状態に慣れるまでは、高山病の危険があります。」でした。

 次に非常に乾燥しています。年間降雨量は、日本の八分の一。

 更に、高地で共通の現象ですが、日差しが非常に強い。
しかも、ラサの日照時間は年間3000時間を超え、一日の日照時間を10時間とすると年に300日は太陽が照っている計算です。
注意しないとあっという間に日焼けして、皮膚をやられます。

 そして、同じく高地でよくあることですが、一日の寒暖の差が大きい。夏の晴れた日には、30度になる日も多いですが、同じ日の夜半に0度近くまで下がる日もあります。

 結果として、現地の農地の生産性は低く、人々は余り豊かではありません。
食事も、現地の食べ物で贅沢なものは見つけられなかったです。

仏像
 チベットの仏教は、日本の仏教と異なり、インドから直接伝わったものです。

 日本の仏教は、全て中国を経由して、6世紀頃紹介され、日本独自の深化を遂げました。
これに対し、チベットの仏教は、7世紀頃の導入初期に中国の影響があったようですが、インドのすぐ隣という地理的事情もあり、インドの最新の教えが流入し続け、日本とは違った発展を遂げています。

 チベットの仏教の歴史も結構、面白い話が多く、機会を見つけてご紹介していきたいと思います。
仏教こそが、チベットの歴史の中心だと思いますので。

マニ車と人々
 そして、何より、その仏教の教えが、今も現地の人々の生活に根付いているように見えるのが、貴重です。

 ここに見えているのは、マニ車と呼ばれるものです。
チベットでは、多くの現地の人が、小さなマニ車を持って、歩きながら回しています。

 マニ車は、一回回すとマニ車の中に書かれているマントラ(真言)が書かれた経文の全部を読んだことになると言うアイテムです。
 日本のお寺にも、たまにあります。

 色々と写真も準備したのですが、書き出すと長くなってきたでの、一旦、チベット編第一回を終わることにします。

 中途半端で申し訳ないですが、チベットは不思議な所だという印象は持って頂けたのではないかと思います。
 次回から、その不思議さの中身と由来を紹介していきたいと思いますので、お楽しみに。

カッパドキア----ギョレメ国立公園

ギョレメ国立公園.
随分更新しなくなってしまい、申し訳ありません。
気が付くと、カッパドキア紹介の前半のつもりで書いてから、二月近く過ぎてしまいました。

 前回、噴火による溶岩が固まった凝灰岩層で出来たこの地方の岩は柔らかく、水や風に依って削られて、「妖精の煙突」と呼ばれるキノコのような不思議な形が出来たことを紹介しました。

 また、この地には、紀元前18世紀のヒッタイトの時代から人が住んでいるのですが、今あるような石窟寺院が作ったのは、9世紀にイスラム教徒に追われたキリスト教徒によると言うこと、また、同時期に作られたと思われる「地下都市」があると言う所までが前回です。

 で、このカッパドキア観光の中心となるのは、ギョレメ国立公園。ギョレメとは「見てはいけないもの」という意味のトルコ語です。

800px-Goreme_1
 ギョレメは、端から端まで1km程しかない小さな村ですが、4世紀頃からキリスト教徒達が共同生活を営んでいました。
 イスラム教徒の迫害から逃れた信者達は、9世紀頃から次々と洞窟教会や修道院を作り始め、10世紀には、400以上の教会があったと言われています。

ギョレメ国立公園2
 ギョレメ国立公園は、1985年にユネスコの世界遺産に指定されました。
現在では、約30の教会が集まるギョレメの谷を博物館として保存、公開しています。

居室へ
 この教会は、博物館の入り口から歩きと最初に現れる小さな教会で、バジル教会。11世紀に建設されました。

居室へ2
 聖バジルは、4世紀の司教で、カッパドキアで大地主の家庭に生まれました。コンスタンティノポリスとアテネで教育を受けた後、カッパドキアに戻り、隠遁生活を送る人々を集めて修道院を作り、更に治療と看護の為の施設を作らせて病人の支援を行いました。

 聖バジルの祝賀祭が、一月の一日と二日に行われます。

入り口
 現在残る教会は、教会建設の盛んだった7世紀から11世紀のものが見学できます。

入り口2
 ギョレメの教会は、岩を掘って作られた後、内部の壁面を整える為にわらや火山灰を混ぜた石灰を漆喰として使いました。この漆喰の熱さ,約2mm。

地下教会
教会の幾つかには、キリスト教徒の描いた色鮮やかな絵が残っています。

地下教会2
綺麗なものだけ紹介していますが、保存状態の良くないものが多いです。

公園を行く
 ギョレメ野外博物館で見学できるのは、イスラム国家の中で生き延びたキリスト教の遺跡です。

 イスラム勃興時にアラブの人々によって破壊されたイランのペルセポリスなどを見てきた感覚で言うと、ここまで、完全な形で残っている方が不思議なな気がします。

公園を行く2
 14世紀以降、オスマン・トルコの領土となり、修道院活動は大幅に縮小されましたが、カッパドキアのキリスト教徒には、大幅な自治が認められました。
 私達が、ここまで保存状態の良い洞窟教会を見ることが出来るのは、このせいだと思います。

登り口
 カッパドキアの洞窟住居には、1950年まで人が住んでいましたが、現在では、危険なので人は住んでいません。

住居跡
 2005年の公式記録では、年に85万人の外国人観光客、100万人以上のトルコ人ツアー客が訪れたそうです。
 実際、私が行った時も、沢山のトルコの少年少女が、修学旅行かなという感じで訪れていました。


土産物屋
 トルコ旅日記は、ここで終了して、次回からはチベットの都、ラサの旅日記を書きたいと思います。
 最近、イランのニュースが良くテレビに出てくるので、イラン旅日記をイランの歴史が見渡せるようにいつか書き直したいとも思ったのですが、イスラムの国が続くのも、単調かなと思って、次の機会に回すことにしました。

 では、次は、チベットの話で、お会いしましょう。





京都初詣2

清盛公の塚
年賀葉書の当選番号も発表され、お正月も遠くなりつつありますが、もう一カ所だけ、お気に入りの場所を紹介させてください。

こちらは、京都の中心地、東山区にありますので、ご存じの方も多いかと思います。このお寺は、今では小さいお寺という感じを受けますが、三つの由来を持った面白いお寺です。

元々私がこのお寺に興味を持ったのは、平家物語の中に良く出てくるからです。
この六波羅の一帯は、平安時代後期、平家一門の館が建ち並んでいました。六波羅蜜寺は、清盛の父、平忠盛が、この寺に軍勢を泊めて以来縁が深く、東西五町(1町は109.09m)、南北八町の広大な境域内に5200余りの平家の屋敷が並んでいたそうです。

平家が没落氏、都落ちする時に兵火を受け、本堂以外は消失してしまいました。

看板
ただ、武家の源流の一つ、平氏ゆかりのお寺であり、平清盛の座像が祀られたこのお寺は、源頼朝などにより火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉も本堂を修復、徳川代々の将軍も朱印を加えて、大切にしてきました。

武家にとっては、大変大事なお寺であったようです。

六波羅蜜寺.
ただ、お正月に私がお参りするのは、他の二つの由来のせいです。

空也上人像
このお寺の開祖は、「市の聖」と、当時の人々から親しまれ、敬われた空也上人です。
このお寺には、空也上人の像があります。清盛像と同じく重要文化財で、美術に興味がある方なら一度は写真を見たことが有るのでは、と言う程有名なものです。
口から仏様が出ているユニークな像ですが、これは念仏を唱えている事を表しています。

平安後期は、武家の台頭からも分かるように、従来の社会体制が崩れ、戦乱が続いた苦しい時代でした。救いを求める思いがとても強かった時代でもあります。
念仏は、エリートだけのものだった複雑な仏教の教義による救いを、一般の人々の救いにしょうと単純化、もしくは、純化したと言う側面を持っています。

皇服茶紹介
空也上人は、醍醐天皇の第二皇子という生まれで、比叡山座首より大乗戒を授かったという、エリート中のエリートでしたが、京都に流行した悪疫退散の為、自ら十一面観音像を刻み、仏像を車に安置して市中を回りました。
この時、青竹を割って茶を立て、中に梅干しと結昆布を入れて仏前に供えたものを病者に授け、歓喜踊躍しながら念仏を唱え、悪疫を退散させたと言い伝えられています。

皇服茶
六波羅蜜寺では、この時のお茶を皇服茶と称して、お正月3日間だけ有料で授与してくれます。
お茶を飲んだ後の方が中に入っているものが見やすいので、写真は、お茶が入っていませんが、ご容赦の程を・・・。
皇服茶を貰った時一緒に貰う御札と梅干しの種を財布の中に入れておくと、一年を無病息災で過ごせるとされています。

地蔵尊
因みに、空也上人が「歓喜踊躍しながら念仏を唱え」たことから、二月三日の節分に六斎
念仏踊りが、また十二月の十三日から三十日まで「かくれ念仏」と呼ばれる念仏踊りが行われます。

六波羅蜜寺地図
 六波羅蜜寺は、開祖空也上人、平家ゆかりの地と言った事情から、平安時代から、鎌倉時代に掛けての名宝が多くあり、国宝が一点、重要文化財は14も有ります。
 少し分かり難い場所にあるのですが、一番近いのは、京阪五条駅からで、徒歩十分弱で着けます。


弁天様
 最後に、六波羅蜜寺は都七福神の一つ、「福徳自在」の弁財天様が祀られています。
お正月には、「福徳自在初稲穂」が無料で頂けます。ただし、先着1000名様まで。

宝
都七福神は、特に新春に巡拝すると七難即滅、七福即生極まりなしといわれ、功徳が大きいとされています。
来年、お寄りになられては如何でしょうか。


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