チベットの神話と初代王朝 | ときたび日記

チベットの神話と初代王朝

石仏
チベットは、イランやイタリアのような紀元前数百年にまでさかのぼれるような長い歴史は持っていません。

チベット文字が出来たのが7世紀頃ですので、チベットの歴史もそのころまでしか辿ることが出来ません。
それ以前のことは、神話の混じり合った形で残っていることになります。

チベット人の起源についてもインドから来たという説も、ビルマ系、もしくは、マレー系という説もあります。

石仏2
チベット族の起源についてはチベット語で書かれた「チベット王統記」の中に面白い説話があります。

普陀洛山にいらっしゃる観音菩薩が、神が姿を変えた猿に戒律を授けました。
猿に南の海から北の雪の高原に行き修行をするように命じたのです。
猿は早速チベットの岩山にある洞窟に赴き、そこで瞑想していると、一人の女の悪魔がやって来て、猿にあからさまに媚態を示して求めました。
猿が修行中だからと断ると、女の悪魔はこう言って猿に迫りました。
「私は前世から下されて悪魔にされました。今日こうして、あなたに出会い、恩人になって貰おうと思いました。でも、どうしても親しくなれないというのなら、私は悪魔と結婚し、何万もの人を殺し、無数の悪魔の子を産むことになるでしょう。
そうすれば、この雪の高原は悪魔の世界となり、更に多くの人が殺されるでしょう。考え直して下さい。」
このまま夫婦になれば戒律を破ることになるし、妻にしなければ更に殺生を行うことになると悩んだ猿は、普陀洛山に戻って観音菩薩に相談しました。
観音菩薩は「これは天の意というものです。おまえは彼女と一緒になりなさい。」と指示されました。
こうして生まれた猿の子孫達は、観音様の加護を受け、食物に不自由することもなく繁栄し、次第に尻尾が短くなり、やがて人間となりました。これがチベット人の起源とされています。

自分達の起源を語るにしては、かなり変わっていると思いますが、チベットの人たちが観音様を守り神だと思っていると言うのは伝わってくる話です。

老婆
同じ、チベット語で書かれた「チベット王統記」の中に、チベット王家の起源についての説話が伝わっています。

ある時、インドの王家に異形の赤ん坊が生まれた。その子は、木の箱に入れられてガンジス川に捨てられ、農夫に拾われました。その子は長じて生い立ちを知り、世をはかなんでガンジス川を遡りチベットへ向かいました。
この子がヤルルン渓谷のラリロルポ山頂から見下ろすと、ヤルルン渓谷が気に入ったので、ヤルルン渓谷のツェタンゴシの地に降り立った。
この地に住んでいた遊牧民は、少年が颯爽とした姿をしているのに言葉や振る舞いが理解できないので、長老に相談した所、長老は12人の頭のよい祈祷師(シャーマン)を遣わして調べさせました。
祈祷師がどこから来たのかと聞いた所、少年が上を指した為、「天の神の子」と解釈した人々は、彼を指導者にしました。
これが、チベットの初代の王ニャーティ・ツェンボです。

ツェンボとは、「強者」、もしくは、「英武の主」という意味でチベットの王のことです。

何か暢気な話ですが、この王が実際にチベットの最初の統一王朝、吐藩王朝の創始者であり、彼の即位は紀元前237年頃の事とされています。

まあ、小さな集落の指導者という出発だと思いますが。

石仏3
この後の物語は、神話的特色を持っており、ニャーティの後の7代の王達は「皆頭頂部に光の索、ム、を持っていた。」と記した年代記があります。
 「光の索、ム、は長い(またはぴんと張った)索で、くすんだ黄色(もしくは茶色)をしていた。王達は死ぬと、足の方から(ちょうど虹のように)消えていき、頭頂部のムの中にとけ込んでいく。そして次には、この光のムが天空の中にとけ込んでいくのである。」
神を先祖とする最後の君主ディグン以前には、王の墓はなかった。

ところが、ディグンは傲慢で怒りっぽく、決闘の折りに不注意から自分の光の索、ム、を断ち切ってしまい、この王の後、王の屍は埋葬されるようになり、墓も発見されているそうです。

国の創設者は神の子孫とする神話は、結構あります。エジプトのファラオが一番有名かな。
これも一例ですね。

建国神話は、この位にして、次は、聖徳太子とほぼ似た時期に活躍した実在の王、ソンツェンガンポ王と、彼の建国物語を紹介したいと思います。