ときたび日記 -3ページ目

不思議な温泉リゾート、バムッカレとヒエラポリス

石灰棚
 日本でトルコ料理のお店に行ったら、こんな不思議な光景のポスターに出くわしたことがあります。
こちらは、ローマ時代からの温泉リゾート、バムッカレの光景です。
  純白の石灰岩の棚田が、水を湛え、青い空を映し込んでいます。この風景が200メートルの高さに渡って形成されている、不思議な場所です。
 ユネスコの世界遺産でもあり、先日NHKで紹介していたので、ご存じの方も多いかと思います。

地図
 バムッカレは、エフェソスなどと違い、やや内陸に入った所に位置する街で、主な産業は、観光と綿花の生産。バムッカレとは、トルコ語で「綿の宮殿」を意味する地名です。
 街に近づくとくと、石灰岩の大きな白い山が見え、その周りにホテルが建ち並んでいます。

ホテル
  このあたり、高級リゾート地らしく、ホテルも豪華です。
ただ、ホテルが増えすぎて、バムッカレの石灰岩の棚が汚れだしてきた為、ホテルの数や立地を規制しているとのこと。
 いずこも、人が集まりすぎると、美しい自然を汚してしまう様です。

靴を脱いで下さい
 実際、これだけ珍しく、美しい石灰棚の景色ですので、ヨーロッパ方面からかなりの観光客が来ます。
この石灰棚に溜まっているのは、温泉で、足湯につかれる部分もあり、ここに掲げてある看板は「靴を脱いで下さい」と言う掲示板。

温泉
 ただ、この地域は水分が不足しており、観光資源である石灰の棚田と綿花の畑の間で、水を使用する時間などを決めて、水流をコントロールしています。
  
バムッカレの犬
 何とも言えないくらいのんびりした豊かな雰囲気に満ちています。一番印象的だったのは、犬が安心しきっていて、写真の様な姿勢で寝ていること。
 初めは死んでいるのかとびっくりしたのですが、近づくと「何か用?」と言う感じで、犬が薄目を開いて、こっちを見ます。
  こんな安心しきった犬を見るのは、初めての経験でした。

湯の沸く所
  こう言う所ですから、水不足や観光公害と言った問題もあるのでしょうが、観光客として出かけた身分としては、穏やかで豊かな時間を過ごすことが出来ました。

棚田
 石灰岩の棚田に青い空が映り込む風景は、幻想的で、時を忘れさせてくれます。

ヒエラポリスの円柱
 バムッカレの石灰棚の一番上にあるローマ時代の都市がヒエラポリス。
温泉が湧くバムッカレは、ローマ時代から有名で、そこに建てられたのが温泉保養地がヒエラポリスです。

ヒエラポリス
  温泉がある地域では地震がある訳で、早くから地震で破壊されてしまいました。
ローマ時代の浴場や劇場があり、、発掘が進んでいます。
  ただ、14世紀の大地震で廃墟と化しており、昔の姿を偲ぶのは、困難です。

 寂し気な野アザミなどが似合う、廃墟というのが正直な所。

 でも、リゾート地としてのバムッカレは魅力的でした。長期滞在してみたいです。

女神アルテミスと聖母マリアの街、エフェソス

イスタンブールを出て、最初に訪ねたい場所とすれば、ときたび日記としては、時代が古くて、壮麗な古代ギリシャ時代の都市と言うことになります。
地図を付けようかと思ったのですが、1ページに10枚しか写真が載らないので止めました。
海洋民族だったギリシャ人の建てた都市ですから、トルコの西側にあり、元々は港でした。今は、土砂の堆積のせいで、海から離れています。

セルスス図書館
最初の写真は、12万冊の蔵書を誇ったセルシウス図書館。ギリシャ時代としては、最大規模の図書館でした。
エフェソスは、ギリシャ時代にヘラクレイトスという哲学者の活躍した街として有名です。
ただ、このヘラクレイトスは、ギリシャ哲学者には珍しい神秘思想の持ち主で、同胞の市民も、先輩の哲学者もことごとく軽蔑していました。相当、偏屈な人だったようです。

アルテミス神殿跡
エフェソスと言えば、ギリシャ時代には女神アルテミスの崇拝で有名な街でした。
エフェソスのアルテミス神殿は、世界の七不思議にも数えられた程壮麗な物で、神殿の中には、黄金や宝石に覆われた高さ15メートルのアルテミス像が安置されていました。
7回破壊され、7回再建されましたが、今では復元された柱が一本立っているだけです。
トルコの観光地では、左側にある様な、復元図の掲示がよく見られます。

ハドリアヌス神殿
エフェソスは、ローマ時代にも、交易の中心地として栄えました。これは、紀元二世紀に五賢帝の一人ハドリアヌスに献上した神殿跡です。

不明
  順序が逆になりましたが、同じく五賢帝の一人、同時代のローマの人々から「最高の第一人者」と呼ばれたトライアヌス帝に捧げられた泉。
トライアヌスは、ハドリアヌスの前任者で、ローマ本国以外からの最初の皇帝でした。彼の治めた20年間を、同時代を生きた歴史家タキトゥスは「希なる幸福な時代」と呼んでいます。

港通り
一般庶民の暮らしに身近なのは、この港通りでしょうか。港から、後で出てきます大劇場に続く通りで、両側にアーケード付きの商店が建ち並び、夜には街灯がつきました。復元図の看板も設置してあります。

娼婦の館への案内図
更に、当時の人々を身近に感じるのは、この娼婦の館への案内図だと思います。足跡が、方向を示し、
斜め上のハート・マークが愛を示しています・・・。
ところで、この絵は港通りではなくて、セルシウス図書館と大劇場に続く大理石通りにあります。

大劇場
こちらは、ローマ時代に完成した収容人員2万4千人を誇る古代劇場。直径151メートル、観客席の高さは30メートル。ギリシャ・ローマ時代の劇場としても最大級の物です。
今でも音響効果抜群で、劇場部分の音が観客席からよく聞こえます。現在でも、オペラやコンサートに使われています。
スティング、レイ・チャールズ、ジェームズ・ブラウンが、ここでコンサートをやったそうです。

聖母マリア像
皇帝コンスタンティヌスについてを紹介した時に、ローマ時代に東側では早くからキリスト教が広まったと説明しましたが、ここエフェソスも比較的早くからキリスト教が広まりました。
4世紀にキリスト教が公認された後、エフェソスでは、キリスト教の歴史に残る教会会議や公会議が開かれています。
エフェソスが重要視された理由の一つに、聖母マリアがキリストの死後、エフェソスで余生を送ったと伝えられている事もありそうです。

聖母マリア像
聖母マリアのが過ごした場所は、長い間忘れられていたのですが、19世紀にドイツの修道女が、天の啓示を受けて、行ったこともないのに場所や機構を記録しました。
それを元にイズミールの司祭が発見した場所に建てられた教会が、この「聖母マリアの家」です。
一種の「奇跡」ですね。

聖母マリアの家のおみくじ
と言う訳で、ここの壁に願いを書いた紙を残すという習慣があります。
お神籤を結びつけた木を彷彿とさせて、どこの国の人も同じだなという思いに、苦笑いしてしまいました。

因みに、この教会のすぐ側の郵便局では、「聖母マリアの家」の特別の消印を押して発送してくれます。
良い記念になりますよ。

イスタンブールの街角

ガラタ橋の上から
イスタンブールは、見所の多い街で、世界遺産だけでも、紹介していない所が5つ程残っています。
ただ、トルコ旅日記がイスタンブール旅日記に化けるのもつまらないので、現代のイスタンブールの街並みを紹介して、他の場所に移ろうと思います。

まずは、ガラタ橋の近辺から。

クルーズを終えて
以前にも紹介しましたが、人気の観光スポットであるボスフォラス湾クルーズの発着点は、ガラダ橋の袂あたりにあります。

鯖サンド
クルーズを終えて、記念の腹ごしらえと言えば、名物「鯖サンド」。
取れたての鯖を焼いたのをサンドイッチにして売っています。

ガラタ橋の袂で
地元の人に大人気の様で、周りは、こんな感じで、ちょっとした縁日状態。
実は、私は魚嫌いなので食べてないのですが、同行していた妻は大変美味しかったと満足げでした。

魚市場全景
すぐ横には、魚市場が広がっています。

魚市場
トルコは、数百年に渡ってイスラム世界の盟主でしたし、東ヨーロッパも支配下に収めていたので、それらの地方の美味しい料理が入ってきています。
日本でもトルコ料理のお店は結構良くありますから、ご存じでしょうが、トルコの料理はバリエーションも多く、味付けも微妙な素材の味が分かるタイプですので、日本人好みです。

魚もトルコ料理の人気の素材という訳で、市場も繁盛していました。

子供2
子供を連れて、お父さんが買い物に来ていましたが、何とものどかです。

路面電車
トルコは、EU加盟を目指している国ですから、生活レベルは、ほぼヨーロッパ並みです。
経済も発展していて、日本人のビジネスマンも増えてはいますが、中国の上海あたりで感じる凄まじいまでの変化の勢いは感じません。
平和で、のんびりした感じが残っています。

街並み
繁華街は、立派な百貨店やレストランが建ち並んでいて、ヨーロッパと同じ感じを受けます。

独立記念像
今ではイスタンブールはトルコの首都ではありませんが、東西の架け橋として、2000年の歴史を刻んできたこの街は、色々な意味で、トルコの中心の一つであり、世界中の人々にとって、魅力溢れる街であり続けることでしょう。

ときたび日記は、ギリシャ時代に戻って、エフェソスに行こうと思っています。

高円寺阿波踊り

ひょっとこ連
ちょっと夏バテして元気がなくなったこともあり、趣向を変えて、8月26日と8月27日に行われた高円寺阿波踊りを紹介します。

元気が出ますよ。
実に楽しそうに、「ヤットサー、三度の飯より、阿波踊り、ヤットヤット ヨイサー」
といった、かけ声賭けて踊っているのですから。

写楽連(女性踊り)
この時期に東京の各地で行われる盆踊りの一種かと思っていたのですが、完全にその域を超えています。

今年で50周年を迎えますし、踊りのグループの単位、連の連絡会がありそれに所属している連だけで、参加している連が27も有ります。
こちらは、8月26日と8月27日の両方出場するようですが、それ以外に40以上の連があり、一方だけ出場のところもあるようです。

こんなに大規模だとは思いませんでした。夜店もでて、観光客だらけ。大したお祭りです。

葵新連2
それに、皆さん、うまいです。
どうです、このヨガのポーズ。決まってますよね・・・。

葵新連3
慕われてるんだろうなあという感じの長老を囲んだパーフォーマンスもあったりします。
出場者と一番良い所で見物している人がご近所の知り合いの様で、和気藹々の雰囲気です。

菊水連
意匠も凝ってますし、皆さん綺麗です・・・。

さざんか連
でもやっぱり、基本的にご近所のお祭りの様で、子供が沢山参加しています。
これが、また踊りが決まってるので、びっくり。

子供
こういう、2,3歳の小さい子すら、リズムを取って歩いているんですよ。
すごく可愛い。

琉球国祭り太鼓
特別参加なのか、プロの方も参加してました。
夜なので、動きがはげしてとぶれてしまい、写真になりません。
実際には、とても格好いい踊りです。

獅子
獅子も参加。
見物人に愛想を振っていたのですが、見に来ていた子供は、本気で怖がって泣いてました・・・。

琉球国祭り太鼓2
来年は、もっと良い場所取らなきゃと言う気になりますね。

お勧めです。楽しそうに踊っている人を見てると、元気出ますよ。

ドルマバフチェ宮殿----黄金の食器とハレム

宝物4
 ドルマバフチェ宮殿内に、日常使われていた豪華な食器類が展示してありましたので紹介します。
20世紀初頭まで、皇帝が使っていた宮殿で、こういう展示は珍しいです。

 説明なんかいらないと思うので、写真だけです。

宝物3

宝物5

宝物2

宝物1


 ドルマバフチェ宮殿にも、ハレムがあります。

ハレム掲示
 オスマン・トルコ帝国も、四代目位までは、政略結婚の意味もあって、近隣の王国の王女を妻に迎えていました。
ところが、周りの王国をことごとく征服してしまい、皇后として迎える相手がいなくなり、王統を絶やさない為にハレムが成立したと言われています。

ハレム外観
  建物は、宮殿の他の部分から分離していました。

ハレム内部1
 ハレムに住む女性は、ジャリエと呼ばれ、スルタンの子供を宿した者は特別な地位が与えられ、自分の子供がスルタンになれば、王族の一員に昇格。

 ハレムの内部は、とても豪華で、宮殿の他の部分と同じレベルです。
ただ、ややこぢんまりしていて、かえって住み心地が良さそうです。

ハレム内部2
 シャンデリアや調度の豪華さも、王の居室に比べて見劣りしません。部屋はやや小さいですが。

ハレム内部3
 違いを感じるのは、赤ん坊用の揺りかごが置いてある部屋があるくらいでしょうか。
それにしても、金のかかった揺りかごです・・・。

 スルタンの生母とならなかった、ハレムに住む女性、ジャリエは高位の高官に降嫁して、邸宅と年金を賜るのが習わしだったそうです。

ドルマバフチェ宮殿----王の暮らし

正面
 ボスフォラス海峡クルーズのところでも紹介したドルマバフチェ宮殿は、新市街に位置し、ボスフォラス海峡した埋め立て地に建ていられています。
 ドルマバフチェとは、ずばり、「埋め立てられた庭」という意味です。

 この宮殿はは、ヨーロッパのバロック様式と伝統のオスマン様式の折衷と言われていますが、外観は、完全に近代西洋風です。

飾り門
 征服者メフメト2世が造営させた庭に1853年にアブデュルメジト1世が建設させた王宮です。
 当時オスマン・トルコ帝国は、強国ではあったのですが、16世紀の圧倒的な力は既に無く、次第に力を増してきたロシアとの度重なる戦争に次第に国力をすり減らしていました。
 1853年と言えば、オスマン・トルコ帝国がロシアに宣戦布告し、ナイチィンゲールが従軍看護婦として活躍したことで有名なクリミア戦争の始まった年です。
 
ボスフォラス海峡を望む門
 ボスフォラス海峡に向かう海側に、門と桟橋があり、宮殿から行動に出ずに船でイスタンブール市内を自由に行き来できる様になっています。

階段
 オスマン・トルコ帝国が崩壊し、皇帝がいなくなった後も、政府の迎賓館として使われています。
トルコ共和国初期には、大統領の執務所としても使われていました。

部屋6
 正直な所、この宮殿は、歴史的にはそれほど有名な場所ではありません。
アヤ・ソフィアやトプカプ宮殿と違って、世界遺産にも指定されていません。

天井の装飾
 ただ、スルタンの豪華な生活を偲ぶには、ここに勝る所はないと思います。

部屋5
 20世紀の初めまで、スルタンが実際にここで暮らしていたのですから。

部屋1

 この宮殿で起こった事件の内、最も有名な物は、オスマン・トルコ帝国が崩壊した後に起こりました。
1938年11月10日、トルコ共和国、初代大統領、ムスタファ・ケマル・アタテュルクが、執務中に、ここで急死したのです。この時、57歳。

 ムスタファ・ケマルは、第一次世界大戦後、連合軍に分割占領されたトルコを再統合し、初代大統領に就任。
スルタン制度とカリフ制度を廃止、メドレセ(宗教学校)やシャリーア法廷を閉鎖し、宗教勢力を一掃して、今日のトルコの国家の形を作り上げました。
 憲法から、イスラム教を国教とする条文を削除、トルコ語の表記についてもイスラム色の強いアラビア語からラテン文字にに変更。

 1934年に議会から、「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクと言う姓を贈られています。
極端かもしれませんが、元老院と市民集会が新しい国家の形を作り上げたカエサルに「国家の父(パーテル・パトリアス)」と言う称号を正式に贈ったのに似た感覚なのでしょう。

 今日でも、 ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、トルコの人々の尊敬を集めています。
 トプカプ宮殿の時計のコレクションも、ケマル・アタテュルクの死亡時刻で、時計の針が止められたままです。

トプカプ宮殿

トプカピ宮殿
1964年にアカデミー賞助演男優賞を受賞した、サスペンス・コメディ、「トプカピ」で有名な、トプカプ(Topkapi )宮殿。
映画の設定が、トプカプ宮殿にある宝剣の奪取を狙う女盗賊と仲間達となっているように、この宮殿は、宝物だらけです。
ご存じ征服者メフメト2世が造営し、1478年に完成、19世紀にドルマバフチェ宮殿にサルタンが居を移すまで、400年に渡って「帝王の宮殿(サライ・ヒュマユーン)」と呼ばれるオスマン帝国の中心でした。

「トプカプ宮殿」と呼ばれる様になったのは、19世紀にサルタンがドルマバフチェ宮殿に居を移した後です。
この宮殿のある丘のある岬の先端に、「トプカプ門(大砲の門)」と呼ばれる門があり、それに因んでいます。

 「帝王の門(Bab Humayun)」と呼ばれる門を備えた外壁の内部に囲まれ、古代ビザンティオンのアクロポリスのあった場所にそびえ立つ宮殿の総面積は、70万m2。
 この敷地の中にある城壁に囲まれた200mx400m空間が、サルタンの私邸で、トプカプ宮殿の本体。
この印象的な門は、本体部分のの門で「挨拶の門」と呼ばれています。

構成
 これが本体部分の構造です。5と番号の振ってあるのが、ハレム。とても豪華な建物です。
 2の番号の振ってある庭は、公式行事の行われた場所で、ここにあった国庫が武具展示室になっており、トルコの武器や、明治時代にトルコ皇帝に寄贈された日本の甲冑まで有ります。
 更に、4と番号の振ってある「幸福の門」を抜けるとサルタンの私室や、宝物館があります。

庭
 「帝王の門(Bab Humayun)」から「挨拶の門」に至るまでの敷地は、オスマントルコ帝国時代も、現代も入場自由の庭園になっています。

タイル
5の番号を振ってある所がハレム。このタイルだけからも想像できる様に、とても豪華な建物です。

インテリア
これ、ハレムの一部です。
どこの国の歴史にも時々あるのですが、オスマン・トルコでも17世紀になると皇帝の母后が政治を自由に動かす時代がありました。
ハレムの豪華さは、その時代の名残でしょうか。

装飾
装飾は、豪華の一言に尽きます。「世界の帝王」と呼ばれたスレイマン大帝時代のオスマン・トルコの栄華を偲ぶには十分です。
 残念なのは、宝物殿の写真は、一般の人には禁止な事。映画の題材になった「トプカプの短剣」等があり、女性は楽しめると思います。
私などには、ダイヤモンドが大きすぎて、現実離れしてしまい、「ほんとにダイヤ?」と言う感じになってしまいますが・・・。

刀
逆に、女性は楽しくないかなと思うのが、武具の展示室。こんなに大量の武具の展示は、滅多に見られません。

武具
 何とという感じがとますが、日本の甲冑もあり、とにかく、色々な武具のオンパレードです。
スルタン直属の親衛歩兵、イェニ・チェリの付属楽曲隊が奏でる行進曲が遠くから聞こえただけで、ヨーロッパの人々が震え上がったと言われるオスマン・トルコ帝国の軍事力を感じさせます。

タイル2
 宝物を見るなら、この宮殿は最高です。
ただ、19世にドルマバフチェ宮殿にスルタンが居を移して以来放置されていたこともあり、人の住んでいる感じはありません。
豪華な生活とはどんな物かを知りたいなら、ドルマバフチェ宮殿の方がお勧めです。
 と言う訳で、次回は、ドルマバフチェ宮殿を紹介します。

ブルーモスク

ブルーモスク1
トルコの観光パンフレットで使われる一番代表的な建物は、このスルタン・アフメト・ジャミイ、通称ブルー・モスク。

アヤ・ソフィアと向かい合う様に建っています。
理由は単純で、この建物は、当時20歳だったスルタン・アフメト1世(在位1603~1617年)が、アヤ・ソフィアに対抗する物として建設させたからです。

ブルーモスク2
世界で唯一、6本のミナレットを持つイスラム建築で、直径27.5mのドームを持つ、壮大な建物です。

この建物は、歴代のトルコ皇帝、つまりスルタンが重要な宗教的宣言の舞台として使い、メッカへの巡礼の出発点でもありました。

内部1
そして、アヤ・ソフィアと違って、この建物は現在でも現役のモスクです。
信者の礼拝中は入れませんし、ノースリーブは禁止。

ブルーモスク・天井部
内部の壁が、青く輝く数万枚のイズニク製のタイルで飾られていることから、ブルーモスクと呼ばれます。
暗いので、色がうまくでていません。
目で見ると、美しい青いです。カメラの性能不足で申し訳ないです・・・。

中庭
ただ、ブルーモスクの建てられた17世紀は、既にオスマントルコ帝国の力は頂点を過ぎていました。
ヨーロッパ諸国に恐れられた大帝スレイマンの死後既に40年近く過ぎてから即位した、スルタン・アフメト1世は、ブルーモスクの建設以外に、これと言った業績を残していません。

このモスクが6本のミナレットを持つことについての逸話も、そう思って聞く、少しもの悲しい物があります。

スルタンは、メッカ巡礼に出かける前に「金("altin")のミナレットを作れ」と命じて出かけたのですが、金がかかりすぎて無理だ考えた建築家は「六つ("alti")のミナレット」を作ることにしたという物です。
発音がほぼ同じなんですね。単に聞き間違えたという説もありますが。

歴史的逸話が少ないという意味では、損な建物ですが、ユスティニアヌスの勝ち誇った様な叫びや、帝国滅亡時の人々の絶望の叫びが聞こえる気がするアヤソフィアに比べると、アラーへの祈りだけを聞き続けたブルーモスクは幸せなモスクなのかもしれません。

イスタンプールの地下宮殿

地下宮殿ぬ
 アヤソフィアに比べると、圧倒的に地味なのですが、是非訪ねることをお勧めしたいビザンツ時代の歴史遺産が、ここ地下宮殿。
中にはいると、広大な空間に静かなクラシックの曲が鳴り響いていて、とても幻想的です。

地下宮殿2
  もともと、ビザンツ帝国の時代にトプカピ宮殿などのある旧市街の地下に作られた貯水池です。
コリント様式の円柱に支えられた広大な地下空間で、市街の遙か西にある水源地からの水が蓄えられています。
 世界遺産に指定されてもいます。
 
メデューサ2
 この地下宮殿は、奥の方にある円柱の基部に、ギリシャ植民都市ビザンティオン時代の物と思われるメデューサの巨像の頭部が使われていることで有名になりました。

メデューサ・イメージ
 ギリシャ神話で、見た物を石に変える怪物として有名なメデューサですが、元々は、ギリシャの先住民の女神だったとされ、コリントスでは、大地の女神として崇められていました。
  
ギリシャ神話では、元々美しい少女だったメデューサが女神アテナの怒りをかって怪物にされ、英雄ペルセウスに殺されることになっています。
 怪物としてのメデューサは、頭髪が無数の毒蛇なのが有名で、後の画家達の様々な題材になっています。

メデューサ1
 地下宮殿には、メデューサの頭部が土台として使われている柱が二つあり、一つは横向きに、もう一つは逆さまになっています。
 元々神様だった、強力な魔物の頭部ですので、ギリシャ植民都市ビザンティオンでは、街を守る守護神として使われていたのではないかと言われています。
 おそらく、街の中央部に、鬼瓦かシーサーの様の様な感じで祀られていたのではないでしょうか。

 地下の貯水池に柱の基部にされているのは、気の毒な感じもします。

外観
 ただ、入り口の建物はとても小さくて、注意しないと見逃してしまいます。
入り口の建物も、歴史的価値からも地味な建造物なのですが、私は、絶対行ってみることを勧めます。

 コリント式の円柱の立ち並ぶ、広大な地下の空間に、響き渡る音楽が、今もありありと思いだせるくらい、インパクトの強い体験でしたので。

アヤソフィアII ----ビザンツ帝国最後の日

内部3
1453年5月29日、アヤ・ソフィア大聖堂は、またしても歴史の転換を目の当たりにします。

コンスタンティノボリスを占領した、スルタン・メフメト2世は、入城すると、ゆっくりとした歩みで占領した街を見て回りながら、まっすぐアヤ・ソフィア大聖堂にむかいました。
 アヤ・ソフィア大聖堂の前で馬を下りたスルタン・メフメト2世は身をかがめて、一握りの土を取り、自分のターバンの上に注ぎました。
 アラーの神に、感謝の祈りを捧げたのです。

内部2
 そして、聖堂内部に入ったスルタン・メフメト2世が、聖堂をモスクに改装する様命じた時、コンスタンティノポリスの象徴、アヤ・ソフィア大聖堂は、破壊を免れ、アヤ・ソフィア・ジャミイとして、生き続けることになりました。

内部1

 現在の、アヤ・ソフィア大聖堂には、写真の様にコーランの言葉が書かれた掲示板が幾つも掲げられています。
 そして、キリスト教のモザイク画は、漆喰を剥がした下から現れた物に過ぎません。 

イスラム風
 更に時が流れて、1934年、ムスタファ・ケマル・パシャにより、アヤ・ソフィア・ジャミィは世俗化され、宗教施設としての長い歴史を閉じました。
 1935年以来、トルコ共和国の博物館として、一般公開されています。

 アヤ・ソフィア大聖堂に入った時、唸る様に聞こえる数多の歴史上の叫び声、幾つかでもお届けできたかと思います。
 いつか、訪れてみて下さい。