ときたび日記 -4ページ目

アヤソフィア ---- ユスティニアヌスの栄華

Aya Sofya
 イスタンブールの数ある名所の中で、アヤソフィアこそが、もっも多く歴史の舞台となった場所といえます。
 今でこそ、周りに4本のミナレットが付け加えられて、モスクの様に見えますが、アヤ・ソフィア・ジャミィは、キリスト教の大聖堂として建設されました。

 この建物の元々の名前は、ギリシャ語で聖なる叡智を意味するハギア・ソフィア。その後、中世ギリシャ語の呼び名、アヤ・ソフィアがトルコ語の名称となり、今では、アヤソフィアと呼ばれています。
 では、この建物の、数奇な運命を紹介しましょう。

 330年のコンスタンティノポリス遷都の式典の時には、まだこの大聖堂は存在していません。コンスタンティヌスがハギア・ソフィアを建築し始めたのですが、彼が作ったのは極小さな霊廟でした。
 コンスタンティヌスの息子、コンスタンチヌス2世が大聖堂の建築者です。

 当時の大聖堂は、木造屋根を持ったパジリカでしたが、すでに街のシンボルの様な建築物でした。
この建物が、次に歴史上に現れるのは、西ローマ帝国崩壊の少し前、地震が起こった時です。
街を守る城壁と、大聖堂が崩れ落ちたのです。更にその後に、大聖堂は焼失。
410年ののローマ滅亡の知らせを聞いた市民達は、次は自分達かと、恐れおののきました。
時の皇帝テオドシウス2世は、412年に、まずわずか60日で城壁を修復し、415年にはアヤ・ソフィア大聖堂を再建。
この時の城壁が、ビザンツ帝国を1000年に渡って守り抜くことになりました。

内部4
 城壁と違って、大聖堂の方は、この後もう一度焼失し、その後再建された物が、今日、私達の見ることの出来る建物です。
 直径31mのクーポラを持つ、床面積71x71mの巨大な大聖堂を築いた皇帝、ユスティニアヌス1世(在位483~565年)が、この再建劇の主人公です。

ユスティニアヌス
 ユスティニアヌスは、現在は、ブルガリア、トルコ、ギリシャに分断されているトラキア地方の生まれで、農民の子でした。伯父のユスティヌスが、コンスタンティノボリスで軍隊に入り、出世していたので、それを頼って、都に出て行きました。
 伯父のユスティヌスは、生粋の武人で、字が書けない人でしたが皇帝に上り詰めました。
そして、ユスィヌスの養子となったユスティアヌスも皇帝に。

 ところで、ここで紹介しているユスティニアヌスと彼の妻テオドラのモザイク画は、イタリアの街、ラヴェンナの聖ヴィターレ教会にあります。この二つだけは、アヤ・ソフィア・ジャミィのモザイクではありません。

 皇帝ユスティニアヌス1世は、ビザンツ帝国最盛期の名君として知られています。
しかし、実は、この人に関わる物語の中で、一番面白い登場人物はのは、彼の妻テオドラ。
 テオドラは、サーカスの熊使いの娘で、自身も踊り子でした。リビア、エジプトなど帝国東部を、かなり怪しげな商売をしながら巡業して回っていました。
 皇帝になる一歩手前だったユスティニアヌスは、テオドラに一目惚れ。元老院議員と踊り子の結婚を禁止する法律を変えてまで、結婚。

皇后テオドラ
 ユスティニアヌス1世が「ビザンツ帝国の最盛期の名君」と呼ばれる理由は、彼が、イタリアなどの西ローマ帝国の領土のかなりの部分を回復したからです。
 ユスティニアヌス1世は、この夢の実現の為に、法を整備して行政の体制を整え、財政改革を行って、遠征の為の資金を蓄えました。
 このことは、市民から見れば、皇帝の勝手な領土拡大の野望の為に税金が上がることを意味します。

 この不満は、戦車競技の応援団の暴動がきっかけになって爆発。
暴動は街全体に広がり、アヤ・ソフィア大聖堂も焼け落ちました。ユスティニアヌスが説得の演説をしても、警備隊を送り込んでも、暴動は勢いを増すばかり。
ついには、暴徒達が対立皇帝を擁立するまでにエスカレート。

 この時、浮き足だったユスティニアヌスや将軍達に、「今は、死を覚悟しても踏みとどまるべきだ」と強い口調で言ったのがテオドラでした。たくましく生き抜いてきたテオドラなればこその、気迫の籠もった啖呵だったのでしょう。

 腹を固めたユスティニアヌスは、将軍ベリサリウスに市民への全面攻撃を命じます。
戦車競技場は、血の海と化し、3万人の市民が死亡。そして、ユスティニアヌスは反乱の鎮圧に成功しました。

 もし、テオドラがいなかったら、ユスティニアヌスは、数年で帝位を追われた無能な皇帝として終わったことでしょう。
 そして、彼が実現したビザンツ帝国栄光の日々も、テオドラ有ればこそと言えるかもしれません。

 この時の混乱で再び焼失したアヤ・ソフィア大聖堂をユスティニアヌスが再建します。ローマ帝国の再建を夢見る皇帝の、栄華の象徴となる巨大な大聖堂は、この時出来たのです。
 アヤ・ソフィア大聖堂の竣工式の時、ユスティニアヌスが、感極まって「我にかかる事業をなさしめたもうた神に栄光あれ。ソロモンよ、我は汝に勝てり ! 」と叫んだと言うエピソードは、あまりにも有名です。

ビザンツ風
ユスティニアヌスが再建したアヤ・ソフィア大聖堂は、東方正教教会第一の格式を誇り、また、ビザンツ帝国皇帝の霊廟として用いられました。
このため、 拝廊にある「ユスティアヌス1世が聖母子にアヤソフィアを献上するモザイク」など、多くのビザンツ芸術を代表するモザイク画があります。
 ただ、モスクとして使われていた間、漆喰で塗り固められて隠されていたこともあり、損傷が激しい物が多いです。

モザイク3
 たとえば、これは、ギャラリーと呼ばれる南の回廊にある「ディーシス(請願)」と言うモザイク画で、世界で最もすばらしいモザイク画の一つと言われています。
 
モザイク2
  残念ながら、3分の2は剥がれ落ちています。

 ユスティニアヌスによる537年の献堂式以来、1453年まで、東方正教教会の中心であったアヤ・ソフィア大聖堂には、イコンなどの幾多のキリスト教の美術品がありました。
 幸か不幸か、アヤ・ソフィア大聖堂にあった美術品の内、かなりの物は、1204年の第4回十字軍によるビザンツ帝国崩壊時にヴェネツィア人に略奪され、現在、ヴェネツィアで見ることが出来ます。

 アヤ・ソフィア・ジャミィが舞台となったもう一つの大事件、ビザンツ帝国の滅亡は、項を改めることにしました。

人気のボスフォラス海峡クルーズ

 前回のブログが、地図だらけになったので、地図が有れば分かり易いかと思って、ボスフォラス海峡クルーズを紹介したのですが、長くなったので独立させることにしました。

ボスフォラス海峡
 イスタンブールは、ボスフォラス海峡に突き出た三角形の半島の先端に都市があるので、海峡にそって有名な建物が建ち並んでいます。

 このため、ボスフォラス海峡のクルージングは、人気のツアーです。
双眼鏡か、高倍率の望遠レンズのついたカメラを持って行くことをお勧めします。
モスクや要塞、宮殿等の美しい建物が、驚く程沢山建ち並んでいます。

ガラダ塔とガラダ橋
 イスタンブールで、橋と言えば、ガラタ橋が有名です。
二階建てになっていて、以前は下にレストランがあったそうですが、今では撤去されています。
何故か、平日の昼間から釣り人がいる不思議な橋でもあります・・・。
下の地図を拡大して貰うと分かりますが、旧市街の横にある金角湾(Golden Horn Bay)を跨いでいます。

その向こうに見えるのがガラタ塔。1348年にジェノバ人が、自分たちの居住区を守る為に築いた物です。
61mも有る12階建ての建物で、今では観光用に解放されています。
物見の塔だけあって、展望テラスからは、360度、イスタンブールの景色が楽しめます。

塔と組み合わさって、趣のある橋ですが、ここ、ガラタ橋あたりが、クルーズの出発点です。

イスタンブール市街図

ドルマバフチェ宮殿
 この白い優雅な宮殿は、ドルマバフチェ宮殿。征服王メフメト2世が造園した庭園に、1853年アブデュルメジト1世の命によりアルメニア人の建築家が建造した宮殿です。
実際に王宮として使用された建物で、見た目は西洋風ですが、内部は男性向けの空間と、女性向けのハレムに分かれています。
総面積、45,000m2、285の部屋、46のホール、あげくにトイレが68有ります。
凄く豪華ですので、後ほど、項目を建てて、紹介しますね。

ルメール・ヒサリ
 こちらはコンスタンティノポリス攻略の時に紹介した、スルタン・メフメト二世が街を攻略する為に建てた、「ルメール・ヒサリ(Rumeli Hisari)」。
 この要塞の対岸には、「アナドール・ヒサリ」と言う要塞があり、二つの要塞によって、ボスフォラス海峡の渡航の安全を期すというのが、スルタン・メフメト2世の公式の理由でした。

 この、「ルメール・ヒサリ」の近くに、ボスフォラス海峡を渡る大橋がかかっています。
ボスフォラス海峡はアジアとヨーロッパを隔てる海峡ですから、アジアとヨーロッパを繋ぐ大橋と言うことになります。
橋
ここ、第二ボスフォラス大橋は、日本の技術陣によって懸けられた物で、ガイドさんもそのように説明してくれます。

記念切手2
 この橋を記念した切手まで有ります。
 実際問題として、日本が援助をしたとしても、それを記念して切手を発行してくれる国は多くないです。トルコの親日的な一面という感じがします。

 このあたりで、船はUターンし、ガラタ橋の近くにある桟橋に戻ります。

港の側2
 そして、再び桟橋に到着して、楽しいクルージングは終了。

ここは、魚市場があって、楽しいです。
魚市場は、あまり「ときたび」という感じではないので、イスタンブール紹介の最後にでも、ふれたいと思います。

イスタンブール ---- ヨーロッパとアジアの接点

ブルーモスク
 トルコの観光写真と言えば、最初に出てくるのは、イスタンブールにあるスルタン・アフメト・モスク、通称ブルー・モスク。
 初めて見た人は、圧倒されること請け合いという感じの壮麗な建物です。
 オスマン・トルコ帝国の首都だったイスタンブールには、数多くの美しいモスクがあり、要塞、宮殿、博物館も、数多くあります。
 世界中探しても、これほどの歴史的建造物が集積している場所は、そうはありません。
或る意味で、私の様な歴史の旅を楽しむ者にとっては、この街は、幾多の人々の歓呼の声と、断末魔の声が亡霊の叫びとして、聞こえてくる場所です。
「夏草や 強者どもが夢の後」と同じ感覚だと思います。
 
地図
 これは、世界遺産の資料から拝借さて頂いた地図ですが、イスタンブールは文字通りヨーロッパとアジアの境目にあります。
 或る意味、すばらしい立地です。しかし、よく知られる様に、この街が、ローマ帝国の新しい首都コンスタンティポリスとして建設されたという事を考えると、何故ローマから遙かに離れた所に首都を建てたのか、不思議な感じがします。

地図2
 こちらはイスタンブール周辺の衛星写真。真ん中が、ヨーロッバとアジアを隔てるボスフォラス海峡、左側がヨーロッパ側のバルカン半島、右側がアジア側のアナトリア半島です。
 イスタンブールは、ボスフォラス海峡の南側の端に位置します。
 イスタンブールは、アジアとヨーロッパの二大陸にまたがるっているのですが、スルタン・アフメト・モスクを初めとする歴史的建造物のある旧市街は、ヨーロッパ側の、ちょっと出っ張った感じのする部分にあります。
 この街の起源は、紀元前667年頃に今日の旧市街のあたりに建設されたビザンティオン(Byzantion)と呼ばれたギリシャの植民地で、小さな街でした。

コンスタンチヌス
 ビザンティオンは、紀元前11世紀からのギリシャ植民地の時代、そして紀元2世紀に終わるローマ帝国最盛期の五賢帝の時代を通じて、注目されない小都市でした。
この街を紀元330年にローマ帝国の首都にしたのが、後のキリスト教文明圏の国々から「大帝」と讃えられるコンスタンティヌス。

 この彫刻、以前紹介したカエサルやアウグスティヌスの像に比べて、お粗末な作りだと思いませんか。
彫刻の造形の美しさは、その時代がどのくらい繁栄しているかを、映し出していると思います。

 この皇帝の時代には、ローマは坂を転げる様に力を失い、内乱と蛮族の侵入に苦しんでいました。
軍人出身の皇帝が現れては、殺されたり、戦死したり、自殺したりと、211年に即位したカラカラ帝から、284年に殺されたカリヌス帝までの73年間に22人も皇帝が変わりました。平均在位期間3.3年。
 アウグスティウスが44年、ティベリウスが23年、五賢帝も平均17年の在位期間だったのに比べて、混乱の程が分かります。

 コンスタンティヌスの前の皇帝、ディオクレティアヌスは、副皇帝を置き、初め二人で、最後には4人で帝国を統治しました。こうしなければ、蛮族の侵入に対処できなかったのです。
 ディオクレティアヌスが引退した後、後継者間で内乱が起こり、一時は6人の皇帝が並立。
コンスタンティヌスは、他の5人の皇帝との生き残りを賭けた戦闘を勝ち抜いた人でした。 

 コンスタンスティヌスの時代、ローマ社会の混乱に不安を覚える人々の間にキリスト教が広まりました。
コンスタンスティヌスは、帝国立て直しの為にキリスト教を支持基盤にしようとしたのです。この為にキリスト教を公認し、教会関係者に免税などの手厚い保護を与えました。

 結果として、彼の時代以降、皇帝は神に選ばれた絶対君主の色彩を強め、ローマの軍団は、キリスト教徒であることを意味するXとPを組み合わせた軍旗の下で戦ったのです。
コンスタンティヌス以降の時代を「もはやローマではない」と言う歴史学者もいます。

カエサルの作った元首政では、元老院と市民集会の支持と承認を得て初めて皇帝に就任できました。
ローマ帝国の軍団は、「元老院とローマ市民」を意味する"SPQR"(Senatus Populusque Romanus)の軍旗の下、国家ローマの為に戦っていたのに。

 コンスタンティヌス以降、「元老院とローマ市民」が主権者であったローマ帝国は変質し、「神の名のもとに皇帝が支配する」中世的なビザンツ帝国への移行が始まりました。

 コンスタンティヌスにとって、ローマ神話の神々に捧げられた神殿の建ち並ぶ街ローマは、邪魔だったのでしょう。
キリスト教を支持基盤にする以上、キリスト教がより強く広がっていた帝国の東側に新しい首都を築いた方が有利と考えたのです。
 ビザンティオンは、ローマ帝国のヨーロッパ側とアジア側の境にあり、絶好の地理的条件でした。

イスタンブール市街図
 しかも、上の市街図を見て頂けると分かる様に、三角形の半島の先端にあるので、戦時は攻め込み難く、平和な時は通商取引の集結地として最適です。
 21世紀の現代でも、通商取引の集結地としてのイスタンブールは健在です。旧ユーゴスラビアの人々や、ルーマニア、ロシア、ウクライナからも通商目当ての人々がイスタンブールに集まっているそうです。

コンスタンティヌスが、330年5月11日に首都を移した後も、しばらくの間、この街を皇帝が訪れることは少なく、コンスタンティヌスの死後、50年経って即位したテオドシウス1世(在位379年-395年)がやっと治世の大半をこの街で過ごしました。
 そして、世紀が変わり、410年8月、コンスタンティノポリスに恐ろしい知らせが届きました。ローマがゴート族に占領され、西ローマ帝国が滅びたのです。

 この日から、1453年5月29日、コンスタンティノポリスがオスマン・トルコに占領されるまで、この街は、1000年の長きにわたって、ローマ文明を伝えるビザンツ帝国の中心であり続けたのです。

ビザンツ帝国の版図
 ビザンツ帝国は、6世紀頃には、ユスティアヌス帝の元でアナトリア全土、バルカン半島全土、イタリア全土、スペインとアフリカの一部を回復するまでなります。
 その後は、西の元蛮族達(今日のヨーロッパの人々です・・・)、東のペルシャ帝国と死闘を繰り返し、領土を失っていきます。
7世紀、再び領土を回復しますが、イスラム教が成立し、イスラムの軍団に敗北。
11世紀には、南イタリアやバルカン半島を回復しますが、何と同じキリスト教国である十字軍の攻撃より、一時帝国は崩壊。
 帝国再建は果たしましたが、急速に力を失っていきます。

 13世紀になると、チンギス汗の子孫達が、ユーラシア全土に襲いかかりました。
中国、中近東、ロシアと既存の国家をなぎ倒したモンゴル族の国々の内、中近東を支配したのがイル汗国。
ただ、イル汗国は、中近東一帯を支配していた為、西のはずれのアナトリア半島には興味が薄い。
 この隙をついて、アナトリア半島の西に勢力を伸ばしてきたのが、オスマン・トルコです。
 
スルタン・メフメト2世
  次第に領土を縮小していたビザンツ帝国にとどめを刺したのが、オスマン・トルコ帝国第七代君主、スルタン・メフメト2世。
 オスマン・トルコにしてみれば、東には強大なモンゴル族がいるので、西側の弱ってきたビザンツ帝国を攻めるのは、極当然の戦略でした。
 そして、1000年の間街を守り抜いた強固な城塞を持つコンスタンティノポリスの攻略こそが、更なる西への帝国拡大の為の、次の重大事だったのです。

 1453年、コンスタンティノーブルを征服した時、スルタン・メフメト2世は21歳。二年前に、父の死により君主の地位を継いだばかりでした。
 1452年1-8月に、ボスフォラス海峡のヨーロッパ側、市街から15キロの地点に「ルメーリ・ヒサル」と言う要塞を建設。
 1453年2月に町の包囲を開始し、3月に海から市街に攻撃を開始。
 本格的攻撃は、4月6日から始まり、5月28日の夜、攻撃軍は市街に突入。
こうして、ローマ帝国の跡を継いで1000年の栄華を誇ったビザンツ帝国は、滅亡しました。

 スルタン・メフメト2世は 征服者Fatihの尊称に相応しく、その後も征服事業を続けました。
30年に渡る治世で、セルビア、ワラキア、モルダヴィア、アルバニア、ヘルツェゴビナ等のバルカン半島の諸王国、さらには、当時世界最強を誇ったモンゴル帝国の後裔の一つであるクリミア汗国までも服従させています。

港の側
 ヨーロッパとアジアの境、ボスフォラス海峡に輝く、イスタンブールの栄光の歴史、駆け足にピックアップしてみました。
 この街に響く、強者達の夢の後の一端をお伝えできていれば幸いです。

親日的なトルコの人々

子供達
 トルコ旅行していて、一番、他と違うのは、観光地にいる現地の修学旅行中という感じの子供達が駆け寄ってきて、「日本人ですか?」と聞きに来ること。
 そうですよと言うと、「一緒に写真撮らして下さい」と言って、並んで、嬉しそうに写真を撮っていくんですよ。
それも、いろいろな所で、そう言う場面に遭遇します。
私は、トルコ以外で、こんな経験はないです。

記念碑
 トルコの人々が、ここまで親日的なのは、明治23年(1890年)に起こった、「エルトゥールル号遭難事件」の顛末をトルコの人々が歴史の教科書に掲載し、学校で教えている為だと思います。
 上の写真は、遭難事件の起こった和歌山県串本町南紀大島にある「トルコ軍艦遭難慰霊碑」ですが、地中海に面するトルコ南岸にも慰霊碑があるそうです。

 以前テレビでも紹介してましたが、事件の顛末を簡単に説明しておきます。

 1886年に日本の皇族がオスマン・トルコ帝国を訪問したのに応えるために、1890年フリゲート艦エルトゥールル号は、初のトルコ使節団を乗せて、横浜港に入港。帰路、台風に遭遇して和歌山県の串本沖で岩礁に衝突し、遭難しました。
 この事故で、特使を含む518名は死亡しましたが、69名が地元民に救助され、手厚い看護により一命を取り留めました。この時、村人達は台風で漁が出来ず、自分たちの食べ物さえなくなってしまうと言う状況にもかかわらず、最後に残った、非常時の為に飼っていた鶏までもトルコ人に食べさせて介護したと言います。
 その後、遭難者達は天皇の命により、日本の軍艦でトルコに帰国。当時、日本国内では、犠牲者と遺族への義援金も集められ、トルコに届けられました。
 
記念館
この事件を記念して建てられた記念館が、和歌山県の串本町にあり、エルトーゥルル号の模型や、乗員の遺品、トルコ政府から贈られた品々を展示しています。

記念切手
 テレビ番組のメインになっていたのは、この事件の後日談といえる、昭和60年(1985年)年の出来事です。

イラン・イラク戦争のまっただ中、サダム・フセインは、総攻撃体制に入り、「イランの首都、テヘラン上空を飛行する航空機はいずれの国のものであろうとも撃墜する」という方針を打ち出しました。
 この結果、テヘラン在住の日本人300人は脱出不能に。
あろう事か、日本航空は「帰る際の安全が保証されない」とイラン乗り入れを断念。万事休す。
 この時、テヘランに孤立した日本人を助けに駆けつけてくれたのがトルコ航空でした。

 何故、危険を冒してまで、トルコ航空は日本人を救いに来てくれたのか。元駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏は、こう語りました。
「エルトゥールル号の事故に際して日本人がなして下さった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは、子供達でさえエルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようとトルコ航空機が飛んだのです。」

 エルトゥールル号の遭難からテヘランでの救出劇まで、実に95年の時が過ぎ去っています。
100年前の恩に報いようと、トルコ航空機はテヘランに飛んだのです。
日本航空さえ救出を断念した危険の中を。
 
 経済大国とか、ハイテク国家とか、日本人は、自分の国のことを思っていますが、本当に誇りに思うべき事は、エルトーゥルル号の遭難の時、言葉も分からない外国人を懸命に助けた、明治の人々の精神的な高さだと思います。
 そして、そのことを、これほどまでに憶えていてくれるトルコの人々には、感謝と畏敬の念に頭が下がります。

トルコって、どんな国 ?

イスラム風
 トルコというとどういうイメージを持ちますか。大体で言うと、モスクがある、イスラムの国というのが、普通の方のイメージかと思います。
 間違っては、いないんですよ。
 トルコには、美しいモスクや、高度なイスラム芸術が溢れていますから。それだけでも、とても魅力的です。

 ただ、トルコは、それ自体で、とても多層的な地域、民族です。その他の魅力も、一杯です。
 そして、旅して感じるのは、トルコ程、親日的な国はまず無いと言うことです。

 もしあなたが、旅好きで、まだトルコに行ったことがなかったら、トルコは絶対お勧めです。
 EUに入ろうかという交渉をしている国ですから、設備面では、ヨーロッパ並みです。ホテルも上質。
 これから追々説明していきますが、巨大な帝国を作った国ですから、各地の美味しい料理が取り入れられていて、食べ物も美味しい。
 それに何と言っても、親日的です。
 世界中さがしても、自分は日本人だと言った時にそれを聞いた現地の人が嬉しそうな顔をしてくれる国は、そうはないですよ。

地図
 トルコは、多層的だと言える理由の第一番目は、現在のトルコ共和国が位置する、アナトリア半島という土地の歴史にあります。
 ここは、アジアとヨーロッパの境目に当たり、とても古くから、様々な民族の国が生まれ、そして、消えていきました。
 紀元前18世紀には、既に大きな王国が有りました。ヒッタイトと言う名の民族が作った王国です。

ヒッタイト
 ヒッタイトは、インド・ヨーロッパ語族に属する民族で、鉄器を最初に使用したことで有名です。
 アナトリア半島を統一した後、メソポタミアに遠征してバビロニア帝国を滅ぼます。
 そして、紀元前15世紀にはエジプトと国境を接する様になり、時のファラオ、ラムセス二世とのカデシュの戦いと、その後結ばれた友好同盟条約が、エジプトの記録に残っています。
ラムセス二世は、アブシンベル大神殿の建造者で、この神殿には、高さ22mのラムセス2世像があります。また、旧約聖書の「出エジプト記」に描かれている、モーゼとユダヤ人を圧迫した「圧政の王」でもあります。
 と言う訳で、この王様に関する記録が沢山残っており、その中に、この強大なファラオが勝てなかったヒッタイトについての記述も数多く残っています。

 武力を誇ったヒッタイトは、紀元前12世紀頃、アッシリアの攻撃を受けて滅びました。
 ただ、この時期の遺跡は、見ていても、美しいという域には達していないですね。個人的意見ですが。

ギリシャ風
 そして、紀元前11世紀になると、ギリシャ人がアナトリア半島に植民地をつくり、エフェソス、ミレトス等の12の富裕なギリシャ植民都市がアナトリア半島で栄えました。
 例えば、ミレトスは、ギリシャ七賢人の一人、日食を予言したことで有名な、世界最初の哲学者タレス(紀元前6世紀)が活動した街です。アナトリア半島のギリシャ植民地は、ギリシャ人の文化的中心の一つでした。
 ですので、今日のトルコには、美しいギリシャの遺跡が沢山残っています。

ビザンツ風
 そして、今日のイスタンブールは、かって、コンスタンティノポリスと呼ばれ、330年にローマ帝国の首都となり、395年にローマ帝国が東西に分裂してからは、東ローマ帝国の首都として栄えたことは、ご存じと思います。
 当然、この時代の美術品も、イスタンブールにある訳です。
 残念なことに、東ローマ帝国を滅ばしたオスマン・トルコの国教、イスラム教は、偶像崇拝禁止ですので、東ローマ帝国時代の絵画や彫刻は、大半が破壊されたり、壁の中に塗り込められたりしました。
 ただ、今日のトルコ共和国は、1920年のトルコ革命の主導者ムスタファ・ケマルのもと、政教分離を実現していますので、生き残った絵画や、美術品を見ることが出来ます。

突厥族の移動
 トルコの多層性のもう一つの意味は、トルコ民族の起源です。
 彼らの使うトルコ語は、日本語と同じウラル・アルタイ語族に属します。つまり、言語から見ると、トルコ民族はモンゴル高原起源の人々です。
 トルコ語は、語順などが日本語と似ており、旅行した時のガイドさんに言わせると、トルコ人にとって日本語は学習しやすいのだそうです。

 トルコ語の最古の碑文は、モンゴル高原にある、7世紀末の突厥碑文。
それ以前、3世紀頃ののモンゴル高原の遊牧民も、中国側の資料から推測すると、トルコ民族と考えられています。
 7世紀に大帝国を築いた突厥が、ウイグル族に滅ぼされ、イスラム教の成立、モンゴル帝国の興亡の時代を経て、イスラムに改宗し、イスラムの帝国で傭兵として活躍しながら、カラ・ハン朝、ガズニ朝、セルジューク朝と次第に勢力を伸ばしました。そして、13世紀オスマン朝が成立し、ヨーロッパを脅かす大帝国に発展。

  この過程の中で、トルコ民族は、次第に西に広がり、アゼルバイジャン人、トルクメン人、ウズベク人、カザフ人、キルギス人、ウイグル人などがトルコ民族に属する人々です。
 一言で言ってしまえば、トルコ人は、日本人に非常に近い起源、モンゴロイド(黄色人種)系の起源を持った人々なのです。
 因みに、イラン語はインド・ヨーロッパ語族ですから、イラン人は、言語的には、コーカソイド(白色人種)系の起源を持った人々と言うことになります。
 (議論のある説を組み合わせておりますので、独断と偏見という面が多々あります。ご容赦の程を。)

カッパドキア
 そして、最後に、カッパドキアに代表される、風変わりで、美しい自然があります。歴史に特に興味が無くても、この景色を見るだけでも楽しいですよ。

  どうでしょう、トルコは、見所一杯の、素敵な国だと、思って頂けましたでしょうか。
繰り返しますが、もし、まだ行ったことがないなら、トルコは絶対お勧めです。

 何故トルコの人は、親日的なのかという話を書き始めたのですが、長くなりそうなので、独立させることにしました。




 

迷路と黄金のバロック建築、レッチェ

サントロンッオ
  南イタリア旅日記の最後を飾るのは、「プーリアの真珠」と讃えられる、バロック建築の街、レッチェ。
人口9万人を超える大きな街です。セリエAのチームを持っている程ですから。
上の写真は、街の中心部の広場にある巨大な円柱の上に置かれている、街の守護聖人、聖オロンツォの像です。

地図
 大きな街だけあって、辿り着くのも容易です。最寄りのブリンデイシ空港からバスで30分。
地図からも分かる様に、アドリア海とイオニア海に近く、近くの海岸からは美しい海が見られます。
海産物の料理も色々とあり、ウニのリゾットなんかも。聞くだけでも、美味しそうでしょ。

円形闘技場と旧市庁舎
 この街は、ローマ時代からから「ルピアエ」として知られた街でした。
このため、街のど真ん中に保存状態の良いローマ時代の円形競技場が残っています。
 ただ、この写真を見ても、ローマ時代の遺跡のすぐ横に、旧市庁舎が残っていて、奇妙な感じがすると思います。

 普通は、ローマ時代に建てられた都市は、碁盤の目の様に整然としています。
ところが、このレッチェは、イタリア半島の南端の主要都市であったため、東ローマ帝国、ノルマン朝、ホーエンシュタウフェン家、アンジー家、ハプスブルグ家と様々な支配を受け、中世風の迷路の様な都市になってしまいました。

カール五世の凱旋門
 この迷路の街に、バロック建築を持ち込んだのは、オーストリア、ドイツ、スペイン、ナポリを支配したハプスブルグ家絶頂期の皇帝、カール五世(在位1515年~1556年)です。
 多分、カール五世は、レッチェが気に入ったのでしょう。レッチェの城を整備すると同時に建物の建設を命じています。そして、バロック様式は、この皇帝の時代の芸術様式でした。
 上の写真は、カール五世に捧げられた凱旋門で、ハプスブルグ家の紋章、双頭の鷲が掲げられています。

サンタクローチェ聖堂
 レッチェの建設が美しい理由の一つは、ここの建物に地元で取れる石灰岩が使われているからです。この石で出来た建物は、夕日に照らされると黄金色に輝きます。
しかも、この石は柔らかくて加工し易いため、建物は細かい彫刻で飾られているのです。
 レッチェのバロック建築の傑作と言えば、サンタクローチェ聖堂。
何故、聖堂全体の写真じゃないのかと思うでしょ。
この聖堂、横に長いので、全体を写真に撮ろうと思うと、有る程度離れる必要が。ところが、この聖堂の前には、狭い道があるだけなんです。
 これだけの建物なら、前面に広い庭とか、広場があるのが普通だと思うのですが、この迷路の様な都市では、それが無い。

レリーフ1
そこに使われているレリーフを見て下さい。思わず笑ってしまいたくなる様な、明るさを湛えていると思いませんか。
レリーフ2
実は、こんな感じのレリーフが、街の建物の至る所に飾られています。
バルコニーのレリーフを見落とさないために、この街では上を向いて歩くことがお勧めです・・・。

ドォウモ広場
 迷路っぽさが極まるのは、大聖堂前の広場です。左側が、レッチェの大聖堂、右側は司教館です。南イタリアで最も美しい広場の一つではあるのですが、出入り口が一つしか有りません。
広いのですが、少し息苦しい感じも。
それに、カフェとかは無くって、厳粛な宗教広場になってます。日常的に市民が集う空間ではなく、がらーんとした感じまでします。

ドゥオウモの鐘楼
大聖堂の左側には、このような五層構造の鐘楼が。広場全体として遠近感を感じさせ、美しいのですが、隙間無く囲まれた空間は、ちょっと息苦しいかも。
市民の憩いの場は、聖オロンツォの像の有るサントロンツォ広場のようです。

町並み
 凄く美しいのですが、ローマ時代が好きな私には、違和感もあるレッチェ。
でも、この街は、文句なしに現代の観光都市です。美しい海も近いし、料理も美味しい。ジェラートも美味しかったですよ。

 次回からは、もう少し東に移って、トルコを紹介したいと思います。

アルベロベッロのすぐ側の観光地、カステッラーナの洞窟

カステッラーナの洞窟
あんまり歴史と関係ないのですが、アルベロベッロに行ったら、ついでにカステッラーナの洞窟に行くのも良いかも。
全長3kmも有る大きな洞窟なので、結構見応えがあります。ただし、秋芳洞などに行ったことがある人から見れば、「なかなかの洞窟だね」という程度の感じかもしれません。

地図
この位の大まかな地図を使うと、アルベロベッロの位置との見分けがつきません。たどり着くには、アルベロベッロと同じく、まず、プーリア州の州都バーリから私鉄Sud-est線を利用。鬱陶しいのは、この洞窟最寄りの街の名前がCastellana Grotte(カステッラーナ洞窟)と言う為、似た名前の駅が二つ有ること。
「Castellana Grotte(カステッラーナ洞窟)」と「Grotte di Castellana (カステッラーナの洞窟)」と言う二つの駅で、Castellana Grotteだと街の方に行ってしまいます。
Castellana Grotteの街自体は1000年を超える歴史があり、917年の公式証書にこの洞窟が記載されています。
この洞窟、かつては、地元民の間で「底なしの深淵」と見なされて、恐れられていたそうですが。

入り口
今では、周りとは不釣り合いな高さ28mの展望台が出来ているので、洞窟の入り口はすぐ分かります。
洞窟の中も、見学コースが整備されていて、すっかり観光名所に。では、洞窟にご案内・・・。

入り口の広場
写真がちょっと小さくなっていますが、入ったすぐのところは、結構広いです。天井までは、20m位有りそう。洞窟と言うより、地底世界という感じすらします。

フランコ・アネッロ
こちら、この洞窟を調査し、全長3kmにおよぶ鍾乳洞であることを発見した洞窟学者、フランコ・アネッロの胸像です。

穴
入り口を入ったすぐのところに巨大な穴が空いています。
なんと、この穴はかつては、ゴミ捨て場として使われていたんですよ。
この穴は、地獄に繋がっていると思われていたそうなんですが、地獄に繋がる穴をゴミ捨て場にする・・・・。
悪魔でも出てきたらどうしようかと思わないんですかね。
どういう感覚してるのか、理解できん・・・。
穴の下の人々
巨大な穴なので、洞窟の中では、最も明るい場所になってます。
写真も撮りやすいですし、観光客が見上げていて、結構混み合っています。
観光パンフレット
こちらは、観光パンフレットから借用してきた写真ですが、時期を選ぶと、こんな風景が見られるそうです。
Grotte di Castellanaの公式ホーム・ページには、この光の下に女性の絵(漫画?)を配したものが使われています。

白の洞窟
 もう一つ観光パンフレットによく使われるのは、この洞窟の一番奥にある「白の洞窟」。全体が純粋な水晶で出来ており、ライトアップの光を反射して白く輝いています。
洞窟見学のコースは、二種類有って、時間がかかる方のコースでないとここには行きません。
この部分は、「世界一豪華な洞窟」と言われています。
道
洞窟ですので、中は十五度くらいと、やや寒く、足場も悪いのでご注意下さい。
白の洞窟で折り返して戻り、帰りは、最初の空間からエレベータに乗って上がります。

 結構、見応え有るので、時間の許す方、日本で大きな鍾乳洞に行ったことのない方は、アルベロベッロに行った時に立ち寄って下さい。

お伽の国のトゥルッリ

トゥルッリ
 今回の題名は、正確に言うと「お伽話の家の様なトゥルッリのある街アルベロベッロ」。
上の写真にあるのが、トゥルッリ(Trulli,単数ならトゥルッロTrullo)と呼ばれる建物で、石灰岩を積んだだけの独特の住居です。
トゥルッリの語源は、丸屋根を意味するギリシャ語のトゥルロスに由来すると言われています。
この街の成立は、前回のマテーラより更に新しく、16世紀。イタリアとしては、新しい部類の街です。

地図
アルベロベッロに一番近い空港は、プーリア州の州都バーリにあります。そこから、私鉄で一時間半から二時間程度所要。観光を除けば、オリーブ・オイルの生産を中心とした農業の街です。人口、約一万人。
ユネスコの世界遺産に指定されていますし、日本の白川郷と2005年3月3日に姉妹都市提携を締結。
と言う訳で、結構、町中の土産物屋さんで日本語の表示も見かけます。

アルベルベッロ
「アルベロベッロ Alberobello」とは、不思議な響きの名前ですが、現地の資料によるとarboris belli(戦争の木)から来ているとされています。
何でも、村の入り口に大きな樫の木があり、その木の近くで戦争の悲劇的な出来事があったのだとか。日本の観光案内には、「美しい木」の意味だと有りますが、街の歴史から見ると「戦争の木」の方がふさわしそうです。

16世紀の半ば、この地はナポリ王配下のアックアヴィーヴァ伯爵の領土となります。アックアヴィーヴァ伯爵は、森を切り開き開拓を進める為、周囲の領土から人を呼び集め、これによって新しい村が誕生しました。
ところが、この地方は石灰岩地層の広がる痩せた土地で、石が多く、苦しい生活の中で農民は知恵を絞って、足下を掘れば幾らでも出てくる石灰岩を使って、小屋を建てました。これがトゥルッリの始まりです。
ここからが、更に酷いのですが、アックアヴィーヴァ伯爵は、小作人達にセメントなどの接着の為の建材を使用することを禁じました。石を組み合わせるだけで家を造れと言うのです。
理由は何と、王の税金取り立ての為の調査の時、小作人達に家を取り壊させて、税金を払わなくても良いようにするためでした。
かくして、今日まで続く、石を積んだだけのトゥルッリの建築様式が確立しました。
メルヘン漂うトゥルッリが背負っているのは「本当は怖いグリム童話」と言う感じの、過酷な物語です。

現在のアルベロベッロは、過酷な過去を感じさせません。

全景
アルベロベッロの家が、全てトゥルッリと言う訳ではなく、現在残っているトゥルッリは約1500軒。その内、車の通れる道のあるアイアピッコラ地区の400軒に人が住んでいます。

マリアさま2
アイアピッコラ地区のトゥルッリの町並みは、とても美しく、壁は毎年塗り直して、白く保たれています。日本の街のお地蔵さまに当たるのか、マリアさまが飾られていたりします。
 マリアさま
明るい南イタリアの光と合わさって、何か、ほっとする様なマリアさまでした。

小道
現在のアルベロベッロのは、とてものんびりした、のどかな感じの街です。坂道を歩いていると、人が生活している感じが適度に伺え、美しい町並みと合わさって、「お伽の国」の思いを強めます。

屋根の模様
トゥルッリの屋根には、球や三日月、星などのオブジェが描かれていますが、魔除けの意味でもあるのかと聞いてみると、「同じような家が並んでいるから、自分の家が分かる様にしてあるのさ」と言う拍子抜けの答えが。

レストラン
トゥルッリは、人が住んでいるばかりでなく、レストランや、土産物屋としても使われています。中は、そう広くはないのですが、小振りな店を営むには、最適の広さです。
土産物屋
お土産物屋さんも、のんびりしてました。トゥルッリ作りの職人さんが、トゥルッリのミニチュアを目の前で作っている工房があったりして、結構楽しいです。

最近、テレビで、トゥルッリはよく紹介されますし、一目見たら忘れられない建物なので、ご存じの方も多いと思います。
出かけていって見ると、更に「お伽の国のトゥルッリ」の思いが強まると思います。お勧めの、観光スポットです。

洞窟住居サッシの街マテーラ

マテーラ1
南イタリアの面白い場所を幾つか紹介したいと思います。
ただ、現在の観光対象になっている物が出来たのが中世という地域が多いので、カプリやポンペイに比べれば、あまり面白い歴史的背景はありません。

地図
マテーラは、南イタリアでもかなりたどり着きにくい場所です。ローマから、特急に4時間40分乗って、私鉄に乗り換えて1時間半。バスで直行という手もありますが、こちらも5時間40分所要。
南イタリアの中心、ナポリからでさえ、路線バスで4時間かかります。

サッシの眺望通り2
この街の見所は、洞窟住居サッシ(岩壁を意味するサッソの複数形)です。8世紀頃、東方からの修道僧が石灰岩の洞窟に住みついたのが始まりと言われています。
写真を見た感じでも分かると思うのですが、大体貧しい人々がサッシに住み、豊かな人は、高台に普通の家を構えて住むと言うのが元々のバターンだったようです。
16世紀には、この地を支配していたアランゴーナ家が、街ごとトラマンターノ伯爵に売り渡してしまい、伯爵が重税を課した為にマテーラの人々は反乱を起こし、トラマンターノ伯爵を惨殺するという、凄まじい歴史も持っています。
中世以降の南イタリアは、貧しく、この種の話が結構あります。
サッシは、キリストの生涯を描いた映画「パッション」の舞台に使われましたが、貧しさが染みついているというか、怪しげで、何か出てきそうな雰囲気が漂っています。

室内1
サッシの室内を提示した博物館があるのですが、かなり狭いです。
室内2
しかもこんな感じに、家畜も同居。
このロバ、とぼけた感じて゛、良い味出しているのですが、実際こんなのと生活というのは、大変です。
水瓶
水も少なく、雨水を溜めて使っています。お洒落な感じはありますが。

ドゥオモ
サッシで、一番の存在感を放つのはこの大聖堂。13世紀に建てられた物で、サッシのほとんどどこからでも見ることが出来る直線的な美しい建物は、雑然としたサッシ地区の中では、異質な感じがします。
ドゥオモ内部
内部もとても美しく、日々の暮らしに疲れた貧しい人々にとって、何よりの心の支えだったでしょう。

チビタ
この写真は、ローマ時代に小さな集落のあったチビタと呼ばれる、マテーラの最も古い部分です。マテーラは、17世紀にバジリカータ州の州都となり栄えますが、19世紀初め州都が移ると衰退し、「サッシは南イタリアの貧困の象徴」と言われるまでに落ちぶれ果てました。
この評判を気にしたのか、1952年イタリア政府は、サッシの住民に移住を命じ、サッシは廃墟に。

小綺麗
ところが、1993年、サッシはユネスコの世界遺産に指定されます。
だからでもないのですが、近年サッシの荒廃を食い止める為に住民を呼び戻そうという動きが活発化し、こんなお洒落な住居が出来ています。ホテルも開業。

怪しい感じと南イタリアの明るさの混在する不思議な街ですが、これからも何百年も、たくましく生き延びて欲しいものです。

カプリ名物、色々

さて、お目当てのVilla Jovisの見学も終わったし、そろそろカプリから、他に移ろうかと思います。
その前に、これは見逃すのは惜しいよと言う事になっている物を幾つかご紹介。

洞窟入り口
まずは、日本人観光客は、これだけを見る為にカプリに来る人が大半という、「青の洞窟」。
アナカプリ側にある石灰岩層の洞窟で、普通は、連絡船の船着き場、マリーナ・グランデから船で来ます。
ところが、この洞窟に入れるのは天候に恵まれ、海の穏やかな時だけ。夏は結構入れるそうですが、私の訪ねた秋ともなると、これが普通無理。
運良く、優秀なガイドさんが、今なら入れるかもと聞きつけて、陸路、「青の洞窟」へ。

青の洞窟2
ラッキーなことに入れました。とっても、幻想的。
出入り口が狭いので、中でも待たされるのですが、船頭さんが、洞窟の中で外に出る順番待っている間(イタリア語の)歌を歌ってくれたので、ご機嫌でした。
青の洞窟
外に出ると、今日は洞窟に入れそうと聞きつけた、アメリカ人の団体さんを満載した船が。
私どもは、さっさと帰ったのですが、帰り道雨が・・・。
アメリカ人の団体さんは、入れなかったかも。

Faraglioni
次いでと言いますか、カプリで一番有名な名所は、このファラリオーニと呼ばれる奇岩なんだそうです。岩の高さ、110m位。ダイビングにも最適とか。
伊勢神宮の夫婦岩を連想しますが、日本人向けのガイドブックには、あまり載ってません。

外観
雨が降ったら、室内が綺麗な建物を狙いましょう。こちら、アナカプリ中心部のサン・ミケーレ教会。表はこぎれいで派手なのですが、裏は、普通の家に埋もれてよく分かりません。
しかも、ヴィラ・サン・ミケーレという有名な建物があるので、地元の人に「サン・ミケーレはどっちの方角ですか」と聞いても、怪訝な顔をされて、「教会かい、Villaかい」と聞き返される羽目に。
見つけてみると、ほんとにアナカプリ中心に位置しています。
内部
内部が、とってもお洒落。なぜか、「流石カプリ」という気分に。
中へ入ったら、階段を上って、マジョリカ焼き風の床絵を見ましょう。
床絵
「地上の楽園」と「アダムとイブの楽園追放」が、見事に描かれています。明るい感じの、見ていて気持ちの良い絵です。

さよなら、カプリ
他にも、色々面白いところがあるようなのですが、お目当てのVilla Jovisは見ることが出来たので、後ろ髪を引かれながら、「さよなら、カプリ」となりました。

カプリは、お勧めです。ただ、間違っても、「青の洞窟」だけを見に行くと言う様な事はしない様に。天候が悪くて、「青の洞窟」を見れないばっかりに、お通夜に出たかの様な表情でカプリを後にする羽目になるかも。
天国みたいなカプリを満喫する為には、何泊かすることを、強くお勧めします。