ときたび日記 -5ページ目

Villa Jovisとその主

Villa Jovis1
 カプリの中央広場の、細い小道を探し当てて、瀟洒な別荘の間の坂道を登ると、Villa Jovis(ゼウス別邸)にたどり着きます。
 延々4回もかけて、この館の主、第二代ローマ皇帝ティベリウスとその辿った生き様を紹介しましたので、「ただの遺跡じゃん」と言う以上のの感慨を持って、私がこの広大な屋敷跡を眺めたのは、ご想像頂けると思います。

復元図
 68歳の皇帝ティベリウスが、家出をする様に誰にも告げずに立てこもった、邸宅は、広さ7000平方メートル以上有り、300程の部屋がありました。
 歩いていると、どのあたりにいるのか分からなくなってしまいます。
Villa Jovis3
 と言う訳で、至る所に、「ここは、どの部分です」と示す為の掲示板が付けてあります。
 敷地内には、浴場、庭園、テラス、並木道、装飾噴水、プールと何でも揃っていましたし、岩盤をくりぬいた巨大な貯水槽に飲料水用の雨水が蓄えられる様になっていました。
使用人の部屋
生活の快適さを維持できる為の奉公人と、10人足らずの親友だけが同行しました。
周到なことに、使用人の為の小部屋まで用意してあります。
入り口付近
ただ、残念なことに、Villa Jovisは、中央広場に面した聖ステファノ教会や連絡船の船着き場マリーナ・グランデにある聖コンスタンツォ教会を装飾する為に、大理石の床やモザイクタイルが持ち去られ、今では、ただの遺跡にしか見えなくなっています。
 十代の頃から、養父アウグストゥスの元で、ローマの平和の為戦地に赴き、戦利品無き蛮族との戦いを勝利して、ライン川の防衛線を固め、55歳にして養父のやや冷たい後継者指名によって皇帝になってから、税金を一切上げずに平和を維持してきてティベリウス。
 ただ、財政再建の為に皇帝からの賜金を止め、アウグストゥスが過剰な程に作った神殿などの公共施設新設を止めた為、国民には不人気でした。
 息子までいた愛する妻と引き裂かれ、アウグストゥスの命令で再婚した妻との家庭は、当然ながら、冷え切っていました。
 うんざりしたティベリウスが68歳にして、引きこもったのが、カプリのVilla Jovis。
Villa Jovis4

ティベリウスは頑健な肉体に恵まれていました。ロードス島に引退していた頃、ただのローマ人としてオリンピックの戦車競走に参加して優勝したという記録が、ギリシャに残っています。
 有能ではあっても、閉鎖的な性格の老皇帝は、10代からの激務の人生の後、70歳を目前にして、安息の地が欲しかったのでしょう。

 アメリカ大統領が、誰にも言わずにどこかに立てこもり、出てこなくなったらどうなるか。
誰もが、ひどい話だと言うに違い有りません。
 治世の最後の10年を、カプリに籠もって過ごしたティベリウスの評価は、散々な物でした。

 でも、ティベリウスは、カプリ島に籠もった後も、大災害が起これば直ちに医師を送り、怪我人の収容場所を手配し、葬儀を公費で行い、原因を除く為の対策となる法律を制定するなど素早く対応しています。
 この68歳は、家出はしても、仕事は投げなかったのです。

絶景
 皇帝として生きている時、この人に、最高権力者の高揚感も、夢を実現する達成感もほとんど無かったのではないでしょうか。
 55歳で皇帝になることを引き受けてから、責任感だけがこの人を支えていた様に思います。
 カプリの青い海だけが、この人の慰めだったと思えてなりません。

 カプリに立てこもってから10年が経ち、頑健な肉体を誇ったティベリウスにも、死が訪れます。77歳でした。
 首都ローマの市民達は、ティベリウスの死の知らせを聞いて、「ティベリウスをティベレ河に投げ込め」と叫んで踊り回って喜んだそうです。

 しかし、次の皇帝、24歳の若くて美しいカリグラを歓呼の声で迎えたローマ市民は、本当の暴君とはどのような物なのかを理解することになります。

そして、1800年経って、やっとティベリウスへの好意的評価が定着しました。幾多の碑文などが発掘された後、それを徹底的に調べたドイツの歴史学者で、ノーベル文学賞も受賞したテオドール・モムゼンは、ティベリウスをこう呼びました。
  「ローマが持った最良の皇帝の一人」と。

ティベリウス : 自由に生きられなかった二代目皇帝

絶景2
 やっと、カプリの海に戻ってきました。
では、カプリに居を移すまでのティベリウスの人生を振り返ってみます。

 カエサルの属するユリウス一門の上を行くローマの名門貴族、クラウディウス一門に生まれたティベリウスは、母親の奇妙な恋愛再婚にともなって、アウグストゥスに引き取られて育ちました。

少年時代、 アウグストゥスとの仲は良く、「内乱のないローマと、その実現の為の元首政」と言うカエサルの夢を、確かにティベリウスは理解し、引き継ぎました。
 ただ、カエサルやアウグストゥスとは違った所があったのも事実です。

ティベリウス2

 まず、反対勢力である元老院から見て、カエサルもアウグストゥスも、元老院がバックアップした軍隊を打ち破って、武力で権力を打ち立てたリーダーです。 それに比べれば、有能な武将であることを証明し続けたとは言っても、ティベリウスに対する態度は違います。
 また、名門貴族とはいえ平民派として旗色をはっきりさせてきたカエサルや、平民(騎士階級)出身のアウグストゥスに比べれば、ローマが王制から共和制に移った頃5千人の一族郎党と共にローマにやってきたと言う歴史を誇る名門中の名門クラウディウス家に属するティベリウスは、生粋の元老院派の家系出身と言えます。

 そして、何よりも、演技することの出来ない、ティベリウスの性格が、彼の苦悩を深めました。
 カエサルは、開放的な性格で、本音と建て前の使い分けを当然にこなす人でした。アゥグストゥスは、やや閉鎖的でしたが、公共の利益のためなら、偽善の達人でした。
 ティベリウスには、このどちらも出来なかったのです。

 最初の亀裂は、ティベリウスの結婚にアウグストゥスが干渉したことから始まります。
この時ティベリウスは、最初の妻ウィプサーニァと幸福な結婚生活を送り、一歳の息子も授かっていました。このティベリウスをアゥグストゥスは、娘ユリアの再婚相手に選んだのです。自分の血をひいた子孫を増やす為に。ティベリウスは断り切れませんでした。
 その後、ティベリウスは、ウィプサーニァの後姿を町で見かけ、人混みの中に消えるまで目で追った後、前妻と会いそうな機会ことごとく避けたという話が残っています。せつないですよね。

 次がゲルマン人相手の防衛線を巡る対立でした。
アウグストゥスは、カエサルがひいたライン川の防衛線をドナウ川、エルベ川まで東に拡大しょうとしたのです。これを任されたのが、ティベリウスと弟のドゥルースス。ところが、ドゥルーススが戦闘開始4年目で戦死します。
 この時、アウグストゥスはエルベ川河への防衛線拡大は完了したとして、ティベリウスにゲルマン人相手に行使する軍事力を与えませんでした。実際に戦線を指揮したティベリウスが必要だと言っているのに。

 こうして、亀裂は決定的になり、ティベリウスは、一切の公務を返上して、妻をローマに残して、ロードス島に引退してしまいました。大貴族の彼にしてみれば、国家ローマへの奉仕という理由以外に、激務をこなす理由はなかったのです。

 ところが7年の後、アウグストゥスの血をひく二人の若者が死にました。
 その年、アウグストゥスは、正式にティベリウスを養子に迎えます。後継者に正式に指名したという意思表示です。ただし、アウグストゥスの姪の息子、ゲルマニクスをティベリウスの養子にするという条件付きですが。

 7年前のティベリウスの言葉通り、ゲルマン人相手の防衛線は危機的状況でした。10年ぶりに駆けつけたティベリウスに前線の兵士達は、喜びのあまり涙を流して走り寄ったそうです。
「夢ではないでしょうね、総司令官、我々が再びあなたの指揮下で戦えるなんて」と。
この時代、勝敗、即ち、兵士の生死を決めるのは総司令官の能力でした。ティベリウスの軍事面の才能が高かったのが伺えるエピソードです。

貨幣

 そして、ティベリウスが55才の時、アゥグストゥスが死にます。彼の遺言状は、次の様に始まっていました。
「無慈悲な運命が私からガイウスとルキウスの息子二人までも奪い去ってしまった以上、ティベリウスに遺産の2分の1と6分の1を譲ることを言明する。」
 私の後継者は、ティベリウスだ。ただ、実の孫二人に死なれたので、仕方なく譲るのだと言わんばかり。
 皇帝の称号などどうでも良い程の大貴族に生まれ、実績も十分の55才の男にとって、屈辱以外の何者でもなかったでしょう。

 この後の23年間のティベリウスの治世は、的確で、危なげも、面白味もない物でした。
 ティベリウスは、エルベ河を放棄し、カエサルの時代のライ河=ドナウ河を北の国境線として確定しました。東のパルティア、アルメニア問題も外交によって解決。
 人材登用の妙は、ティベリウス嫌いだった歴史家タキトゥスも認める程で、ティベリウスの死後30年に渡り帝国を支えた程です。

 ただ、緊縮財政を続けたことも有り、市民の評判は悪い。しかも、いかに有能でも、きまじめな性格の為、職場とも言える元老院でも、家族との間も軋轢が絶えない。

絶景1
 耐えられなくなったティベリウスは、68才の時、誰にも告げずにカプリ島に居を移します。"家出"するかの様に。
この後、ティベリウスは書簡を送って統治する様になります。相変わらず、的確に、迅速に。

 しかし、現代だって、首相や大統領が島にこもって、通信だけで指示していたら、大スキャンダルになるでしょう。「馬鹿にするんじゅない」と思う人がいるのは、当然です。
このため、ティベリウスの評判は落ちる一方。ティベリウスが、カプリ島で淫行に耽っているだの、ティベリウスはがけの上から人を突き落とすだののゴシップを書き残した歴史家もいます。現代の研究者は、一笑に付していますが。

カプリの美しい海を見ていると、ここに居を構えた人が、そんなことをする気になるとは、とても思えません。

 ティベリウスが77才で死んだ時、民衆は歓呼でそれを迎えました。
 しかし、カエサルの夢を盤石の体制にしたのはティベリウスです。
 そして、その体制が、アゥグストゥスの血を継いでいるという理由で皇帝になった次の暴君達、カリグラやネロの時代もローマを支えたのです。

 ただ、ティベリウスが、カエサルの次の言葉を見習ったら、もっと幸せに成れたのにと思ったのも事実です。
   「何ものにもまして、私が自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。」

 分かり難いと行けないので、塩野七海さんの著書の中から、カエサルから第五代皇帝までの家系図を付けておきます。
 
系図 

 


 

ティベリウスの前任者達 ; アウグストゥス----カエサルに夢を託された若者

オクタビアヌス

 カプリ島の旅日記なのに、Villa Jovisの主、ティベリウスを説明しょうとして、時代を、或る意味で、ヨーロッパ自体を作った男、カエサルの説明が長くなり、申し訳ないです。
  後もう一人、ティベリウスの悩みの種を作り出した男、アウグストゥスの物語を、我慢して聞いて下さい。
アウグストゥスは、ティベリウスの養父であり、現代社会になぞらえれば、上司でもあったのですから。

 カエサルも、ティベリウスも、本名ですが、アウグストゥスは、元老院が贈った称号で、「尊厳者」の意味です。本名、ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(Gaius Octavius Thurinus)。カエサルの妹の娘の子供ですが、イタリアの小都市の平民の家系に属します。
 カエサルが暗殺された時公開された遺言状で、後継者に指名され、養子となって「ユリウス・カエサル」の名を継ぎ、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス (Gaius Julius Caesar Octavianus) と名乗ります。この時、18才。全く無名でした。
 ポンペイウスとの戦いに勝ち、ローマ改革を始めてから、わずか二年の後に暗殺されたカエサルの夢は、この若者に託されたのです。

 カエサルの青春が、伯父の一人が、他の伯父2人を含む多くの人々の首をはね、その首がローマ中心部の演壇に晒された光景から始まった様に、オクタウィアヌスの青春は、当時のローマの若者のヒーロー、カエサルの暗殺から始まりました。
 カエサルの夢「内乱のないローマと、その実現の為の元首政」、モットー「寛容(クレメンティア)」のうち、カエサルの夢を引き継いで「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」を築き上げたのが、アウグストゥスです。
 ただ、若きオクタウィアヌスのモットーは「復讐」でした。

 カエサルが計画していたパルティア遠征の準備のためにギリシャにいたオクタウィアヌスが、カエサル暗殺の報を受けて帰国した時、世間は「この若造は誰 ?」と言う反応でした。
 オクタウィアヌスの最初の仕事は、カエサルの遺言にある「首都在住のローマ市民に、一人につき300セステルティウス(ローマ軍団兵士の年収の半分くらい)を贈る」を相続人として実現する事と、カエサルを偲ぶための競技会を開催する事。ところが、カエサルの遺産は副官だったアントニウスが管理していて返してくれない。
 18才のオクタウィアヌスは、カエサルの友人達にねばり強く働きかけ、この二つを実現します。
 これにより、市民の間にもオクタウィアヌスの名が広まり、カエサルを慕う兵士もオクタウィアヌスのもとに集まる様になりました。

 そして、オクタウィアヌスの復讐劇が始まります。カエサルを暗殺したマルクス・ブルータス、デキウス・ブルータス、カシウスをアントニウスと組んで、次々と戦場で死に追いやりました。
 そして、カエサルの後継者に指定されなかったのを不快に思っているアントニウスとの権力争奪戦に勝ちます。これは、或る意味、アントニウスの自滅でした。

 復讐を遂行した後、アントニウスとオクタウィアヌスは、和平協定を結び、アントニウスはオクタウィアヌスの姉と結婚して、東半分がアントニウス、西半分がオクタウィアヌスの分担と定めます。
 ところが、担当地域の同盟国、エジプトのクレオパトラの色香に迷ったアントニウスは、東方のローマ属州や同盟国をクレオパトラに与えると宣言してしまいます。これで、アントニウスは、国家ローマの敵です。
 オクタウィアヌスとアントニウスが雌雄を決したアクティウムの海戦。ここでもクレオパトラが疫病神になりました。どうしても、戦場についていくと聞かないのです。挙げ句の果てに戦場の殺し合いに耐えられずに、離脱。それを見たアントニウスがクレオパトラの後を追ったものですから、総司令官を失ったアントニウスの軍勢は総崩れ。

 アウグストゥス
 ともあれ、内戦は終わったのです。オクタウィアヌスは、戦いの神ヤヌスの神殿の扉を閉めて、ローマの戦争状態が終わったことを宣言しました。カエサル暗殺から14年。オクタウィアヌスは33才になっていました。
 初代皇帝、アゥグストゥスの時代が始まったのです。紀元前30年のことです。

 この後のアウグストゥスの物語は退屈です。
 アウグストゥスは、カエサルの考えを引き継ぎ、国家ローマを成長期から、安定期に移した人です。
領土拡大を止め、領土維持に方針を移しました。アントニウスに勝った直後、50万人いた兵士を最終的には16万8千人にまで減らしています。
 そして、常備軍を作って、国境沿いに軍団を配置。相手は蛮族ですから、戦利品の無い防衛戦に報いるため、軍団に退職金制度を導入しています。

 上に掲げた軍装姿の像が有名ですが、実は、この人が直接指揮を執った戦いは必ず負けています。
 カエサルと違い、軍事的才能はなく、政治と行政の天才でした。軍事面では、カエサルがペアを組ませたアグリッパに頼っていました。
アグリッパ
 戦闘に関しては、現場感覚のあまり無い人でした。このことが、後にティベリウスの悩みの一因になります。
 
 何度と無く政略結婚を繰り返し、至る所に愛人がいた上、何故か女性にもてたカエサルと違い、アウグストゥスは、最初の政略結婚が失敗に終わった後、24才で惚れ込んで結婚した5才年下の妻リヴィアと一生添い遂げました。
 変わっていたのは、オクタウィアヌスが求婚した時、リヴィアは子持ちの人妻で、しかも妊娠中だったこと。
二人の結婚式の介添人は、花嫁の前夫・・・。

 このリヴィアの連れ子が、ティベリウスと弟のドゥルースス。母親が再婚する時、子供は前夫のところに残すが当時の習慣だったのに、かなり変わっています。

 そして、この人の最大の失敗は、自分の血をひく者を後継者に据えようと執念を燃やしたこと。
ただ、これが裏目に出るのは、次のティベリウスが死んだ後です。

  アウグストゥスは、紀元後14年、77才で死にます。アントニウスに打ち勝って、ヤヌス神殿の扉を閉めてから44年、内戦もなく、異民族の侵入もないローマ帝国を作り上げて、旅立ったのです。

ティベリウスの前任者達 : カエサル ---ガリア戦役と暗殺

Caesar胸像
40代にはいっって、カエサルの華麗な活躍が始まります。元老院議長である執政官に就任したのです。
公務に就く者の倫理基準を定めた「国家公務員法」、当時の利権構造を大きく変える「農地法」を、既得権益を失うことを恐れる元老院派の反対を押さえ込んで成立させました。

そして、執政官を経験した者だけが着くことの出来る、属州総督として、ガリアに赴任。

地図

当時のガリアとは、今日のフランスほぼ全土、ドイツの西部、ベルギー、オランダ、つまりは、今日の西ヨーロッパの大半と言って良い地域です。
当時、この地域に国家はなく、強大な部族だけでも10以上に分かれており、耕地より森や沼の方がずっと広いといった未開の地でした。
更に大きな問題は、気候の厳しいライン川の東に住むゲルマン人がガリアに侵入を繰り返し、ゲルマン人に定住地から追い出されたガリア人の部族が、別の部族の住む地域に侵入するといったいざこざが続いていた事です。そして、それは同時に、ローマの国境周辺に戦乱が広がることも意味したのです。

 カエサルは、8年懸けてこの地を征服、ローマ化します。

 最初の年に、スイスに住むヘルヴェティ族が、ゲルマン人を恐れてフランスに移動しようとして、起こった戦乱を平定。
その後、ガリアの人々の懇願を受けて、ライン川を渡って中部ガリアに侵入してきたゲルマン人をライン川の東に押し返し、フランスの西半分と、スイス、ドイツの一部に当たる中部ガリアをローマの覇権下に収めました。

 二年目、次は俺たちがやられると考えたガリア北東部のベルデ人が、カエサルに戦いを挑みます。
今日のベルギーのあたりで、30万の敵を相手に、3万5千の兵を率いるカエサルは、敵を湿地帯の間の狭い戦場に引き込み、戦に勝利。後は、降伏する部族とは和平を、抵抗する部族とは戦闘を行い、ベルデ人を征服。

 三年目に、ブリューターニュで起こったガリア人の反乱を制圧、四年目にゲルマン人に大勝し、ライン川に初めて橋を架け、ゲルマン人を威圧。更に、ローマ軍として初めてドーバー海峡を渡ります。
 五年目の冬、基地を襲われ、9千人の兵を失うが、急報を聞いたカエサルは身だしなみも整えずとって返し、対ローマに立ち上がったガリア軍6万を7千で撃退。

 こうして、カエサルはガリア全土に都市を、道路を造り、着々とガリアをローマ化していきました。
 7年目に、カエサルのおかげでゲルマン人が侵入してこなくなったため、これまでゲルマン人を恐れてローマに頼っていた中部ガリアで自由を求めた反乱が起こり、たちまちガリア全土に広がります。

アレシア
 さしものカエサルも追いつめられましたが、フランス南部のアレシアの会戦で、ガリア連合軍を破り、主要部族に壊滅的な打撃を与えて、ガリアのローマ化が完了しました。

 ガリアを平定して、市民の間に絶大な人気を得たカエサルを元老院派封じ込めようとしました。カエサルから全ての権利を奪おうとしたのです。
 これに対抗して、軍団を率いてローマに進軍したカエサルと、元老院派が担いだ、当時最大の武将、ポンペイウスとの4年に渡る内戦はカエサルの勝利に終わります。
 カエサルは、生涯、戦闘で負けたことのない人でした。

  カエサルは、自分を「終身独裁官」に任命し、帝政への道を開きました。こうして、ローマの内戦に終止符をうとうとしたのです。

 カエサルが、勝利の後に掲げたモットーは、「寛容(クレメンティア)」でした。自分に敵対した者を全て許すと。
カエサルは、このことを讃えた、友人であり、長年の政敵でもあったキケロにこんな手紙を出しています。

 「私が自由にした人が再び私に剣を向けることになるとしても、そのような事には心を煩わせたくない。何ものにもまして、私が自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうであって当然と思っている。」

 20世紀の歴史を見ても、政敵の大粛正は繰り返されています。こんな言葉を本気で言った人を、どんな時代にせよ、私は他に知りません。
 そして、この言葉通り、カエサルは、自分が許した人々に暗殺されることになりました。 

長くなってしましたが、これで、ローマ帝国を作った男、カエサルの話を終わります。

ティベリウスの前任者達 : 白いカンパスに夢を描いた男---カエサル Part 1

Caesar
Villa Jovisの主ティベリウスについて語るには、彼の生きた時代を語るべき。
そして、ティベリウスの生きた時代を作ったのは、彼の前任者、ユリウス・カエサルとその跡を継いだアウグストゥス。
そこで、道草ですが、あまりにも有名なこの二人の生涯を見ておきます。

ガイウス・ユリウス・カエサルは、紀元前100年、ローマ建国から653年目の年に、生まれました。
ローマでも最も古い名門貴族ユリウスの一員として、そして、姉と妹に挟まれた一人息子として、両親の愛を満身に受けて育ちます。

 当時ローマは、イタリア全土ばかりか、スペインの大半、ギリシャ全土、さらには、トルコや北アフリカにも領土を持ち、地中海を「我らが海(マーレ・ノストゥルム)」と呼ぶ程の大国。
ところが、国内では、元老院派、つまり、貴族と平民派の、文字通り血で血を洗う争いの日々が続いていました。
カエサルが13歳の時、平民派ガイウス・マリウスと元老院派ルキウス・コルネリウス・スッラの内戦があり、、マリウスが勝利して、元老院派の人々を処刑し、頭部を切り離してローマの中心部、フォロ・ロマーノの演壇の上に晒した事があります。
マリウスはカエサルの伯父に当たりますが、殺害され、首を晒された人々の中にもカエサルの伯父が二人いました。
この時、少年カエサルが受けた心の傷はよほど深かったらしく、カエサルは、敵対する人々を死に追いやることとは無縁の生涯を送ります。

戦乱の原因は、ローマがイタリア半島の小国であった頃から続く貴族による合議制、元老院制度では、巨大な国家を運営できなくなっていた事です。カエサルが、生涯追い求めたのは、悲惨な混乱の元になっているローマの政治体制を作り替えることでした。

ところが、若き日のカエサルは、「偉大な」と言う言葉とはかけ離れた日々を送っています。カエサルの青春は、国外逃亡から始りました。

コイン2

16才の時父を喪い、カエサル家の家長となったカエサルは、平民派の重鎮キンナの娘コルネリアと結婚。カエサル自身、平民派の旗頭マリウスの甥ですから、「平民派」だと言いふらしている様な結婚です。
ところが、結婚してまもなく、義父キンナが殺され、元老院派のコルネリウス・スッラが軍を率いてローマに戻り、平民派の内戦が始まりました。

2年に渡った戦闘の末、圧勝したスッラは、平民派一掃のため4700名が記載された「処刑者リスト」をつくり、大虐殺を開始しました。このリストに載っていたのが当時18才のカエサル。
有力者の嘆願で一命を取り留めたカエサルですが、スッラの「キンナの娘と離縁せよ」との命令を拒否したために、ローマから逃げ出す羽目に。イタリア中を逃げ回り、ギリシャに渡り、現代のトルコまで来て、スッラの怒りから逃れられました。

現代のトルコの地で、カエサルは、ローマの軍団に志願します。何と、本名で。
ここで、カエサルは、スッラが死ぬまで過ごします。ローマに帰ったときには、既に3年が過ぎていました。

立像

20代には、弁護士を目指し、元老院派の人の不正を暴こうとしますが敗訴。有力者の怒りを買って、またまた、国外逃亡の日々。
30代には、元老院議員となり、重要な官職を務め始めますが、私財で街道の補修をしたり、兵士にボーナスを与えたりするための膨大な借金と、ひどく女性にもてることが、何より有名でした。

長くなったので、偉大なカエサルの紹介は、次の項で。

Villa Jovisへの細い道

説明文
Capri島の東端にあるVilla Jovisですが、あまり人気のある観光スポットではありません。
第二代ローマ皇帝ティベリウスが晩年を過ごした7000平方メートルもある壮大な別荘は、度重なる略奪によって、今やただの遺跡になり果ているからです。
まず、ブルボン家によって略奪され、17世紀から18世紀にかけて、現在の中央広場に面した聖ステファノ教会や、連絡船の船着き場であるマリーナ・グランデにある聖コンスタンツォ教会の装飾として使うために、大理石や床のモザイクタイルが持ち去られてしまいました。
ずいぶんひどい話です。
でも、遺跡は、よく管理されていて、こんな具合に「Villa Jovisとローマ皇帝ティベリウス」の看板も立っています。

細道
大体からして、Villa Jovisにどうやってたどり着いて良いのか、困ってしまうのも事実。
あまり行きたがる人は多くないのか、地図に道も書いてない。
実際問題としては、中央広場、現代で言うウンベルト一世広場の細道を一つ一つ見ていくと、「Villa Jovis」と書いた矢印のある小道が見つかります。
これが見つかれば、しめた物。後は、一本道を、所々にある「Villa Jovis」と書いた矢印を頼りに、ひたすら歩くだけ。

Villa Jovis(遠景)
途中の景色は、中世風の洒落たたずまいから、次第に緑の田園風になっていき、40~50分でティベリオ山頂にあるVilla Jovisに到着。
道はなだらかな坂道で、高級リゾート地の雰囲気から、一転して穏やかな田園風景が広がります。
道行く人たちも、地元の人たちが多く、黙々と荷物を運んでいる男性や、元気そうな子供達。のんびりした猫たちも、そこかしこにいます。

Villa Jovisの上空写真
海抜146メートルの中央広場から、海抜336メートルへ。美しいナポリ湾を見ながらの道のりは、素敵な散策コースのはずなのですが、季節はずれの秋に訪れたときには、人影もまばら。
帰り道に、日が暮れる前にVilla Jovisにたどり着こうと急いでる、ドイツ人らしい青年に「ティベリウス ?」と道を聞かれたのが印象に残る程度でした。

セレブなリゾート地、カプリ

駅前広場
ケーブルカーで上がるとすぐそこが、中央広場。
「世界の劇場」とか「カプリの大サロン」と言うニックネームが付いていますが、現代の正式な名前は「ウンベルト一世広場」。
紀元前5世紀にギリシャ人がアクロポリスを築いた事に始まる広場は、色とりどりのカフェの日傘の着いたテーブルが並んでいます。

Capriの地図
愛想のない地図ですが、上の地図がカプリの全体を掴みやすいと思います。
カプリは真ん中の括れたヒョッコリ・ヒョウタン島の様な形をしています。
右側というか東側がCapri, 西側がAnacapriと呼ばれる町になっていて、人口12,500人。

連絡船は、真ん中のくびれの北側にあるMarina Grandeにの寄港します。そして、ケーブルカーで、地図の上に青い字で「Capri」と書いてあるあたりまで登ると、中央広場が開け、そこから南側にヨーロッパ中の高級ブランド店や一流ホテルが集中しています。

景色は、北側の方が良いと思うのですが、カプリのハイシーズンである7~9月にやってくる現代の観光客のお目当ては、陽焼けですので、陽光を浴びるのに便利な南側にホテルが建ち並ぶ訳です。

古地図
こちらは、西側のAnacapriに立地するホテルの地図です。この方が、カプリにはふさわしい気がします。
断崖絶壁にかこまれた囲まれた感じも出ていますし。

リゾート地カプリ2
中央広場のすぐ近くにあるヴィットーリオ・エマヌエーレ通りと、アウグスト庭園に行くF・セレーナ通り、そして、カメレッレ通りには、高級ブランド店、一流ホテルがずらりと並んでいます。

リゾート地カプリ
カプリの本来の建物は、中世風の町並みなのですが、さっき説明した通りの近辺は、大都会の高級ブティック街そのものです。
現代の地中海屈指のリゾート地の面目は躍如たる物があります。

小道
でも、私は、こんな小道が大好きです。さっき言ったあたりを少し離れると、中世の町並みを忍ばせる家並みが見られますし、海岸に向かって、写真の様な小道を行くと、一気に花が咲き乱れていたり、美しい海が広がっていたりします。

ホテル
朝方時間があったので、海の見える方に歩いていくと、小洒落たホテルが建ち並んでいました。
年配の方がのんびりとロビーのソファーでくつろいでいるのが見えましたが・・・。
いつか、こんなホテルの滞在してみたいというのが今の夢です。

夕焼け
 カプリを「光の国」と呼ぶ人もいます。
輝く様に明るい陽光こそ、島の美しさの秘密だというのです。
確かに、夕暮れ時のカプリの美しさは、筆舌に尽くしがたい物があります。

私の感想を一言で言えば、「天国がカプリの様な所だと言われたら、信じるよ」です。

カプリに行こう !

カプリの位置
カプリは、南イタリアの中心都市都市ナポリの南30キロに位置する小さな島です。
ナポリから、水中翼船で30分くらいで着きます。
地中海の美しい景色を楽しみながら旅をしたい人のために連絡船もありますが、こちらを使えば1時間半くらい。

港と海
ティベリウスの時代では、ここまで簡単には移動できません。当時の船は、風の力と人が漕ぐ櫓の力で進むのですから、普通の時速は、2から3ノット(海里、1.852 km)、風に恵まれたとして5ノット。
人の歩く速さと同じか2倍程度の早さしか出ません。
ローマ時代には、ナポリの西側の出っ張った所にあるミセーノに軍港があり、ティベリウスはここを使ったはずですから、カプリまでの所要時間は、3時間程度でしょうか。

港
カプリ島は切り立った断崖絶壁に囲まれ、砂浜もありません。
船を付けられる場所は、ローマ時代も、今も島の北側にたった一カ所有るだけです。
ご覧の様に、今では、港に到着すると「リゾートにようこそ」言わんばかりの雰囲気になっています。

ケーブルカー
現代のカプリ島の中心は、海抜146メートルにある中央広場。
船着き場からは、ケーブルカーであっという間です。
ケーブルカーは、六甲山に登るときに使うケーブルカーに雰囲気がそっくりです。
ワクワク感も、ちょっと似ているかも。

登り口
ケーブルカーを降りると、いきなり迎えてくれるのが、地中海の美しい海と沢山の島の織りなす絶景です。
そして、前回紹介した時計台。
この時計台の建っているピァッツェッタ(中央広場)は、とても都会的で、小洒落た場所でもあります。

地中海屈指のリゾート地、セレブな(スノブな?)カプリの顔は、次で紹介します。

ナポリ湾の真珠、Capri

カプリ
南イタリアに出かけた理由は、カプリ島に行きたかったから。
いよいよ、カプリの話をするのですが、何から話して良いのか分からなくなる位、魅力一杯の島です。
この地の雰囲気を伝えるのに最適なのは、島の中央広場(ピァッツェッタ)にあるこの時計台でしょうか。

Capriのイメージ
ローマ時代から「地中海の真珠」と歌われ、現代でも地中海屈指のリゾートで有るカプリ島は、この上もなく美しく、魅力に満ちています。

今では、誰でも行けますが、ローマ時代はこの島は、島全体が皇帝の私有地でした。
シーザーの跡を継いだ初代ローマ皇帝アゥグストゥスが、当時この島を所有していたナポリと交渉して、4倍の広さのあるイスキア島と交換に手に入れたのです。
イスキア島には温泉もあり、ここもまた美しい島です。
ローマ帝国の最高権力者が、温泉のある4倍の広さの島と交換してまで欲しかったリゾート地、それがカプリです。

ティベリウス2
私が、この島に行きたかった買った第一の理由は、この人、第二代ローマ皇帝ティベリウスにあります。
ローマ屈指のの名門貴族の直系、軍事にも政治にも、それなりの実績を残したのに、生きている間も、死後も評判は散々な皇帝です。
在位紀元14年から紀元37年。イエス・キリストが布教活動を行っていたときの皇帝です。
「カエサルの物はカエサルに」とキリストが言った、「カエサル」とは、ティベリウスのことになります。

孤独の陰の漂うこの皇帝が最後の10年を過ごし、政治を行ったのが、この島、カプリ。
カプリの東北端にはティベリウスが晩年を過ごしたヴィラ・ヨヴィス(ゼウスの館)があります。
ティベリウスの話は、ヴィラ・ヨヴィスを紹介しながら、語るとして、まずは、カプリ島を案内したいと思います。

ポンペイの倉庫とナポリ国立博物館

ジオラマ
ポンペイは、今でも発掘中です。
こちらの写真は、発掘の状況を示すジオラマ。
まだ、空白になっている所が残っています。これから発掘の部分が結構ある訳です。

倉庫の遺体
この写真は、ポンペイを歩いていて、たまたま前を通りかかった倉庫の中。美術品、ワイン瓶の様な日常品が、所狭しと並べられています。
美術品だけでなく、遺体の姿を石膏に写した物も無造作に積んであります。
火山灰で、窒息死ですから、大半の物は横になった姿で息絶えているのですが、この人は壁際にでもいたのでしょうか、座ったまま、息絶えたようです。

魚
ポンペイで発掘された美術品は、価値の高い物はナポリ国立考古学博物館に保管されています。こちらの食材(?)のモザイク画は、博物館に展示されている物。
こう言うのが、床や壁に何気なく飾ってあるなんて、良いですよね。
適度にリアルで、何となく食欲をそそられる・・。

ライオン
こちらのライオンも、同じく博物館の所蔵品。
室内に飾るには、最高だねと思ってみてました。
芸術ですと声高に主張しないし、ただのインテリアという域は、はっきり超えてるし。
「良い趣味してますねぇ」と言う感じです。
ポンペイの人たちが羨ましい・・・・。

この博物館のあるナポリは、「ナポリを見てから死ね」とまで讃えられる街ですが、治安が悪く、「ナポリを見たら死ぬ」と言うジョークまであるとか。
ナポリ国立考古学博物館は、必見と思いますが、それ以外はパスして、次回は、カプリ島に出かけたいと思います。